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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第31話 本番前に三十分だけのはずなのに、どうして俺が作戦まで考えてるんだ?


 火曜日の朝、清涼学園へ向かう道には薄い雲が広がっていた。六月らしい湿気はあるものの、昨日までより風があり、歩いているだけで汗ばむほどではない。


 七瀬春樹は鞄を肩に掛け、住宅街から学校へ続く道をいつもより少し早い時間に歩いていた。以前なら登校しながら本を開きたくなるところだが、歩き読みを九条凛に注意されてからはやめており、その代わりに五分ほど早く家を出て、学校へ着いてから読む時間を確保するようにしている。


(今日の放課後は三十分サッカー。そのあと図書室に行けば、閉館までそれなりに読める。昼休みまで何かに巻き込まれなければ、朝と昼と放課後で十分確保できるな)


 読書時間を一日の予定表へ組み込むことについて、春樹本人は何の疑問も抱いていない。むしろ歩き読みをやめても読書量を落とさないための合理的な改善策だと思っており、昨日の夜も今日持っていく本を選ぶためだけに十分ほど悩んだ。


 今読んでいるのは、白石栞から以前薦められた短編集だった。


 一つの地方都市を舞台に、それぞれ異なる人物の日常が緩やかにつながっていく作品である。派手な事件が起きるわけではないが、別の物語では名前すら出なかった人物が次の物語で主人公になったり、何気なく置かれていた小物が別の人物にとって重要な意味を持っていたりする。


 春樹はそういう構造が好きだった。


(昨日は二編目の途中で止めたから、朝にそこだけ読み切りたいんだよな。昼は……まあ、誰か来たら無理かもしれないけど)


 最近は昼休みを完全な読書時間として計算しない方が安全だということも学習している。


 そう考えながら校門へ近づくと、前方を歩いていた女子生徒が振り返った。


「春樹、おはよ」


「おはよう、雫。今日は早いな」


「春樹に言われたくないんだけど。最近、前より早く来てるでしょ」


 西条雫は足を緩め、春樹が追いつくのを待った。二人が並ぶと、校門へ向かう生徒たちの流れの中で自然に歩調が揃う。


「歩きながら読めない分、学校で読む時間増やしてる」


「そこまでして読む?」


「読む。むしろ安全性と読書時間を両立した改善策として褒めてほしい」


「九条さんに聞かせたら、褒めるか呆れるか迷いそう」


「歩き読みしてないんだから褒める側だろ」


「春樹の場合、そのために登校時間まで変えてるところで呆れられると思う」


「目的が読書でも安全になったなら結果は同じだ」


 春樹が当然のように答えると、雫は肩を揺らして笑った。


 こういう会話は昔から変わらない。春樹が妙な理屈を真顔で語り、雫が呆れながら返す。その繰り返しを何年も続けてきたため、どちらからともなく会話を始めても妙な間が生まれることはなかった。


 ただ、今朝の雫は春樹の横顔を見ながら、土曜の夜に読んだ小説を思い出していた。


 長い付き合いだからこそ、分かっているつもりになる。


 相手の変化より、自分の見方が変わったことで同じ景色まで違って見える。


 読んでいる最中は主人公のことを散々もどかしいと思ったのに、読み終えたあとから、その言葉が妙に頭へ残っていた。


「雫?」


「ん?」


「さっきから俺の顔見てるけど、何かついてる?」


「……別に。今日も放課後、サッカーするんだよね?」


「ああ。蓮から本番前に三十分だけって言われた。今回はうちのクラスの出るやつも何人か来るから、前より本番に近い感じでやると思う」


「三十分で帰る?」


「帰るというか図書室に行く。そこは絶対」


「やっぱり本なんだ」


「当たり前だろ。サッカーも嫌いじゃないけど、今日一日サッカーするわけじゃないんだから」


 雫は小さく笑ったあと、少し迷うように視線を前へ戻した。


「じゃあ、今日も見てていい?」


「いいけど」


 春樹は特に考えることなく答え、それから雫の横顔を見る。


「でも前も見ただろ?」


「見たよ」


「なら、もう俺が普通に蹴れるの分かったじゃん」


「分かったけど、今日も見たいから」


「そういうもん?」


「そういうもん」


 雫はそれ以上説明しなかった。


 春樹も深く追及しない。スポーツを見るのが好きなのか、昔の自分を懐かしんでいるのか、その程度に考えているらしい。


(……こういうところなんだよなあ)


 雫は小さく息を吐いた。


 恋愛小説の登場人物なら、読者から何か言われているのではないか。そんなことを考えてしまった自分がおかしくなり、口元へ笑みが浮かぶ。


「何笑ってんの?」


「春樹って春樹だなって思って」


「昨日も似たようなこと言われた気がする」


「たぶんこれからも言うと思う」


「意味分かんないんだけど」


 校舎が近づくにつれ、生徒たちの声が増えていく。


 スポーツ交流会を数日後に控え、昇降口の掲示板には競技別の集合場所と注意事項が大きく貼り出されていた。立ち止まって確認する生徒も多く、普段より少しだけ朝の校内が騒がしい。


 春樹はその掲示へ一度目を向けてから、雫と一緒に二年三組へ向かった。


     ◇◇◇


「七瀬、今日来るよな?」


 一時間目が始まる前、春樹が予定通り文庫本を開いていると、机の前へ杉浦拓海がやってきた。


 同じ二年三組で、スポーツ交流会ではサッカーを第一希望にしている男子である。小学生の頃に遊びでサッカーをしていた程度だと聞いていたが、先日の短い練習ではボールを怖がらず、走ることにも抵抗がなかった。


「放課後のやつ?」


「そう。神谷から連絡来てるだろ?」


「来てる。三十分なら参加するって返した」


「三十分ってきっちり言うの、お前くらいだぞ」


「最初に決めとかないと延びるだろ。三十分が四十分になって、四十分が一時間になったら俺の読書時間が消える」


「そこまで厳密に守るのかよ」


「守るために言ってる」


 杉浦は呆れながらも笑い、春樹の机へ片手をついた。


「今日、ポジションとか決める?」


「固定まではしないと思う。本番で相手がどう来るか分からないし、交流会だから交代もある。ただ、誰がどこなら動きやすいかくらいは見たい」


「俺、前やっていい?」


「前がいいなら試してみればいい。ただ、ずっとボール待ってるだけだと触れないかもしれないから、相手が持ってるときにどこまで戻るかは一緒に確認しよう」


「お前、普通に作戦考えてない?」


「作戦ってほどじゃない。せっかく出るなら、何していいか分からない時間を減らしたいだけ」


 春樹は開いていた本へ栞を挟んだ。


 その横から悠斗が顔を出す。


「はい、出ました。連絡係を名乗る実質キャプテン」


「違うって何回言わせるんだよ」


「連絡係はポジション相談までしないだろ」


「聞かれたから答えてるだけだ。俺から全員集めて『お前は右、お前は左』とか始めたらキャプテン扱いしていい」


「そのうちやりそう」


「やらない。俺には本がある」


 春樹が真顔で返したところで、少し離れた席から山岸浩平も会話へ加わった。


「七瀬、俺も今日行った方がいい?」


 山岸はバスケットボールを第一希望にしており、サッカーは人数調整のための第二候補だった。最終的にはサッカーにも登録されているものの、本人はほとんど経験がない。


「バスケの練習と被ってない?」


「今日はない」


「じゃあ来られるなら来ればいいよ。ただ、強制じゃない。本番で出る可能性あるなら、一回ボール触っとくと楽だと思う」


「じゃあ行く。俺、本当に蹴れないけど」


「蹴れないなら、蹴れない前提でやればいい」


「そんな軽くていいの?」


「いきなり三人抜いてシュート決めろとか言わないから安心しろ」


「それは無理」


「俺も要求しない」


 周囲にいた男子たちが笑う。


 その空気を聞きながら、雫は少し離れた席から春樹を見ていた。


 本人は頑なに連絡係と言い張っているが、相談されれば一人ずつ話を聞き、それぞれができる範囲を考えている。誰かを無理に引っ張るわけではないのに、結果として人が集まってくるところも、最近よく見る春樹の姿だった。


 そして雫は、それが本を選ぶときの春樹と似ていることにも気づき始めていた。


 相手が何を好きなのか、何が苦手なのかを聞いてから、その人に合う入口を考える。


 サッカーでも同じだ。


(本人はたぶん、全部別のことだと思ってるんだろうけど)


 そこへ永山剛志が教室へ入ってきたため、集まっていた男子たちはそれぞれの席へ戻っていく。


「朝から七瀬のところだけ作戦会議か?」


「違います。質問に答えてただけです」


「そういうのを作戦会議って言うんだよ」


「先生まで悠斗と同じこと言わないでください」


「高坂と意見が合うとは珍しいな」


「俺は嬉しいですけどね」


「俺は嬉しくない」


「ひどくね?」


 教室に笑いが起きる中、永山は出席簿を教卓へ置いた。


「まあ、本番前に確認するのは悪くない。ただし怪我だけはするなよ。交流会の練習で交流会に出られなくなったら笑えん」


「分かってます」


「特に七瀬。昔できたからって、今も同じように動けると思うな」


「それ、この前実感しました」


「筋肉痛か?」


「はい」


「若いくせに情けねえな」


「一年以上まともにやってない人間へ急に運動させた神谷に言ってください」


「責任転嫁するな」


 永山の低い笑い声とともに、朝のホームルームが始まった。


     ◇◇◇


 昼休み、春樹は珍しく教室を出ていた。


 理由は本ではない。


 スポーツ交流会のサッカー参加者のうち、まだ今日の練習について確認できていない生徒が一人いたためである。わざわざ探し回るつもりはなかったものの、昼食を買いに購買へ向かう途中で本人を見つけたため、参加できるかだけ聞いておいた。


 確認自体は一分もかからなかった。


(よし。これで今日来るのは俺含めて五人。蓮のところから何人来るか知らないけど、ミニゲームくらいはできるな)


 そこまで考えたところで、春樹は自分の思考に気づいて眉を寄せる。


(……何で俺、人数から練習内容まで考えてるんだ?)


 別に考えなくても神谷がやるだろう。


 そう思い直し、購買でパンを買って教室へ戻ろうとしたところで、階段脇から声が飛んできた。


「七瀬君」


 振り返ると、一ノ瀬怜華が立っていた。


 生徒会の仕事なのか、腕には何枚かの書類を抱えている。いつもの整った笑顔を浮かべていたが、春樹はその目元にわずかな楽しさが混じっているのを見逃さなかった。


「一ノ瀬先輩。今日は何ですか?」


「その言い方、私が用事もないのに七瀬君を捕まえているみたいね」


「違うんですか?」


「失礼ね。半分くらいは用事があるわよ」


「残り半分」


「お話」


「やっぱりじゃないですか」


 怜華は楽しそうに笑った。


「今日、サッカーの練習をするそうね」


「何で知ってるんです?」


「スポーツ交流会の運営責任者が、代表者たちの動きを把握していて何か問題でも?」


「その言い方なら何も言えない」


「神谷君からも聞いたの。二組と三組で少し合わせるって」


「三十分だけです」


「そこ、大事なの?」


「ものすごく大事です。延長すると読書時間が減るので」


「七瀬君らしいわね」


 怜華は書類を抱え直しながら、少しだけ首を傾けた。


「見に行ってもいい?」


「生徒会の確認ですか?」


「半分は」


「また半分」


「残りは、七瀬君が本以外のことをしているところを見るため」


「この前も見たでしょう」


「私は少ししか見ていないもの」


「別に珍獣の観察じゃないんですけど」


「あら、自覚なかった?」


「何のですか」


「本を読んでいるときと、サッカーをしているときで、思っていたより印象が違うこと」


 春樹は一瞬考え、それから肩をすくめた。


「やってること違うんだから、そりゃ多少は違うでしょう」


「本人はそういう認識なのね」


「何か変ですか?」


「いいえ。面白いだけ」


「やっぱり観察対象じゃないですか」


 春樹が呆れると、怜華は声を立てずに笑った。


 それから、ほんの少しだけ表情を変える。


「そうそう。借りた本、まだ半分くらいよ」


「もうそこまで読んだんですか?」


「昨日の夜と、今朝少し」


 その瞬間、春樹の目が明らかに変わった。


「どうです? 最初の二人の話、先輩が言ってた好みとちょっと近くないですか? 完全に分かり合ってるわけじゃないけど、相手を理解できないこと自体を関係の失敗として扱わないというか――」


「待って」


 怜華が笑いながら片手を上げた。


「まだ感想は言わないわ」


「何でですか」


「最後まで読んでから話したいから。それに、今ここで話し始めたら七瀬君、お昼休み全部使うでしょう?」


「……否定はできません」


「でしょう?」


「でも途中の感想も面白いですよ。最後まで読んでからだと、序盤でどう思ってたか忘れることあるし」


「それは確かにあるわね」


「だから一言だけでも」


「本当に本のことになると押すのね」


 怜華は少し驚いたように春樹を見る。


 普段の彼は、人間関係へ踏み込みすぎることを避ける。誰かの恋愛相談でも相手の気持ちを勝手に決めつけず、選書でも本人の好みを聞いてから考える。


 ところが本そのものの話になると、好奇心が一歩前へ出る。


 その差が面白い。


(こういうところを見ると、私がからかうから反応するんじゃなくて、本当に本の話をしたいだけなのよね)


 怜華はまだ、そのことへ特別な意味を与えてはいない。


 ただ、七瀬春樹という人間を知る材料が増えること自体が楽しかった。


「じゃあ一つだけ。最初の話は好きだったわ」


「やっぱり」


「その顔、予想が当たって嬉しいの?」


「もちろん。先輩に選んだんだから、合ってた方がいいに決まってるでしょう」


「……そう」


 怜華の返事が一拍遅れたことに、春樹は気づかなかった。


「読み終わったらちゃんと感想くださいね。良かったところだけじゃなくて、合わなかったところも」


「分かったわ。七瀬君も今日の練習、ちゃんと三十分で終わるといいわね」


「そこは絶対守ります」


「その意志がサッカーより強そうなのがすごいわ」


「俺は本が読みたいので」


 迷いのない答えに、怜華はまた笑った。


     ◇◇◇


 放課後になる頃には、朝から広がっていた雲が少し薄くなり、グラウンドには柔らかな日差しが戻っていた。


 校舎から外へ出ると、湿った土と芝の匂いに混じって、運動部の掛け声が聞こえてくる。交流会が近いこともあり、普段は文化部へ向かう生徒やすぐ帰宅する生徒の中にも、校庭や体育館を覗いていく者が増えていた。


 春樹は体操服へ着替え、二年三組の参加者たちと一緒にグラウンドへ向かった。


 杉浦拓海、山岸浩平に加え、普段から運動している男子が二人いる。山岸だけはサッカー経験がほとんどなく、歩きながら何度も足元を確認していた。


「そんな緊張しなくていいって」


 春樹が声をかけると、山岸は困ったように笑った。


「いや、サッカー部いるんだろ?」


「いるけど、今日は部活じゃない。交流会の確認だから」


「でも下手だと邪魔にならない?」


「ならない。むしろ今日のうちに、どこならやりやすいか分かれば本番が楽になる」


「七瀬がそう言うならいいけど」


「俺だって一年以上まともに試合してないからな。全盛期基準で期待されても困る」


「神谷はめちゃくちゃ期待してるぞ」


「それが一番困るんだよ」


 話しているうちに、グラウンドの端で待っていた神谷蓮が手を上げた。


「おーい、読書第一代表!」


「その呼び方やめろ!」


 春樹の声がグラウンドへ響き、周囲にいたサッカー部員たちから笑いが起こる。


 神谷の横には三浦拓海もいた。以前の練習で一緒にボールを蹴ったサッカー部員であり、今日は交流会へ出る二年二組の生徒も何人か連れてきている。


「ちゃんと来たな」


「約束しただろ。ただし三十分」


「分かってるって。今日はマジで軽く合わせるだけ」


「お前の『軽く』は信用してない」


「ひどくね?」


「前回三十二分だった」


「二分じゃん」


「二分でも延長は延長だ」


「細けえ!」


 周囲から再び笑いが起きた。


 三浦が苦笑しながら春樹の肩を軽く叩く。


「まあ今日は俺も時間見るから。二組と三組で人数割って、最初ちょっとパスして、そのあとミニゲームでいいだろ?」


「それでいい。ただ、うちに初心者いるから最初から速く回しすぎないで」


「了解」


 春樹が振り返ると、山岸が少し驚いた顔をしていた。


「何?」


「いや、サッカー部相手でも普通に言うんだなって」


「何を?」


「初心者に合わせてって」


「今日の目的が交流会の確認なんだから当たり前だろ。部活の練習に混ぜてもらうなら俺たちが合わせるけど、今日は違う」


 神谷が横で笑う。


「こういうやつなんだよ、七瀬は。中学の頃から」


「余計な説明すんな」


「褒めてんだぞ?」


「ならもっと本を読め」


「何で褒めたら読書勧められるんだよ」


 そんなやり取りをしながら、準備が始まった。


 グラウンド脇には、すでに何人か見学する生徒が集まっていた。雫もその中におり、紗弥と並んでフェンス際に立っている。


「本当に来たんだな」


 春樹が気づいて声をかけると、雫は少し眉を上げた。


「朝に行くって言ったでしょ」


「いや、忘れてたわけじゃないけど」


「春樹なら本読んだら忘れそう」


「そこまでじゃない」


「どうだろ」


 紗弥が横から笑う。


「七瀬、雫が朝からちょっと楽しみにしてたよ」


「紗弥!」


「何?」


「余計なこと言わなくていいから」


 雫が少し慌てる。


 春樹は不思議そうに二人を見るものの、深く考えずに笑った。


「まあ、見てもそんな面白くないと思うけど。今日は練習だし」


「それは私が決める」


「はいはい」


 春樹がグラウンドへ戻っていく。


 雫はその背中を見送りながら、紗弥へ小さく肘を当てた。


「本当に余計なこと言わないでよ」


「別に嘘じゃないでしょ」


「そうだけど」


「最近、七瀬のこと見る時間増えたよね」


 紗弥の声はからかうというより、単純な観察を口にしたものだった。


 雫はすぐには返さない。


 以前なら「幼馴染なんだから普通」と答えていた気がする。


 今は、その言葉を使うことに少しだけ迷う。


「……最近、春樹がいろいろやってるから」


「ふうん」


「何、その顔」


「何も言ってないよ」


「言ってないから余計気になるんだけど」


 紗弥は笑いながら、グラウンドへ視線を戻した。


     ◇◇◇


 最初の十分ほどは、二人一組で簡単にボールを蹴ることになった。


 春樹は山岸と組み、最初から強いボールを出さず、相手が止めやすい速度で足元へ送っていく。山岸の返球が少し右へ逸れれば自分から動いて受け、ミスとして止めるのではなく、そのまま次のパスへつなげた。


「山岸、足の内側でいいよ。強く蹴ろうとしなくていい」


「こう?」


「そう。足振るより、ボールの真ん中を押す感じ。距離近いからそれで十分」


「お、さっきより真っすぐ行った」


「それなら本番でも使える。難しいこと覚えるより、その一本を安定させた方がいい」


 隣では神谷と杉浦が少し速いテンポでパスを交換していた。


 杉浦は経験が浅いものの運動神経は悪くなく、何度か続けるうちに神谷の速度にも慣れてきている。


「七瀬!」


 神谷が突然こちらへボールを蹴った。


 春樹は山岸へ説明している途中だったが、視界の端でボールを捉えると、身体を半歩ずらして右足の内側で勢いを殺した。足元へ収まったボールを一度だけ見て、すぐ神谷へ返す。


「急に出すなよ!」


「普通に止めてんじゃん!」


「山岸と話してただろ!」


「悪い悪い!」


「絶対悪いと思ってないだろ!」


 笑い声が広がる。


 山岸は春樹の足元と、神谷へ戻っていくボールを交互に見た。


「七瀬、それで一年以上やってないの?」


「止めて返すくらいならな。走り続ける方がきつい」


「いや、今の俺には十分すごいんだけど」


「比べなくていいって。俺は中学までやってたんだから、同じだったら逆に困る」


 春樹はそう言いながら、再び山岸へゆっくりボールを送った。


 少し離れた場所で見ていた三浦は、その様子に小さく息を漏らす。


「やっぱ七瀬、教えるの上手いな」


「だろ?」


 神谷がなぜか得意そうに答える。


「お前が自慢することじゃないけどな」


「中学から知ってるから」


「でも、もっと自分でやりたがるタイプかと思ってた。あれだけできるなら」


「逆。あいつ、必要なら自分で行くけど、基本は周り使う方が好きなんだよ」


「昔から?」


「昔から。自分で抜ける場面でも、もっと楽に行けるやついたら普通に出す」


 三浦は春樹を見る。


 山岸の蹴ったボールが少し浮いたが、春樹は胸元まで来たそれを無理に足で処理せず、身体で受けてから落とし、もう一度ゆっくり返している。


「何か、性格出るな」


「本選ぶときもあんな感じらしいぞ」


「何でお前それ知ってんの?」


「最近、七瀬の周りで本借りてるやつ多いから」


「サッカーよりそっちの方が有名になりそうだな」


「本人は絶対そっちがいいって言う」


 二人が笑う。


 その会話は春樹には届いていなかった。


     ◇◇◇


 残り十五分ほどになったところで、二組と三組を混ぜた小さなゲームが始まった。


 コートは通常よりかなり狭く、ゴールもコーンで作った簡易的なものだった。人数は五人対五人で、神谷と春樹は別々のチームに入る。


「七瀬、勝負な」


「今日は勝負より確認だろ」


「分かってるけど、やるなら勝ちたいじゃん」


「その辺は同意する」


「結局乗るんじゃん」


「負けたいわけじゃないからな」


 開始前、春樹は同じチームになった山岸と杉浦へ簡単に立ち位置を説明した。


「山岸は最初、後ろ寄りでいい。相手が来たら無理に抜こうとしないで、俺か杉浦が見えたら出して。誰もいなかったら外に蹴ってもいい」


「外に出していいの?」


「危ないところで奪われるよりいい。本番も同じ。杉浦は前やりたいって言ってたから、今日は前め。ずっと中央にいると相手に捕まるから、左右どっちか空いてたら動いて」


「了解」


「あと、俺に全部出さなくていいからな。近い人使って」


「でも七瀬に出した方が安全じゃね?」


「そればっかりやると、俺が塞がれた瞬間に何もできなくなる。今日のうちに他の形も試した方がいい」


 春樹はそこで説明を切り、全員の顔を確認する。


「まあ、練習だから失敗していいよ。失敗したら次どうするか考えればいい」


 少し離れたところで聞いていた神谷が口笛を吹った。


「キャプテン」


「違う」


「監督」


「もっと違う」


「読書第一代表」


「それは今すぐやめろ」


 緊張していた山岸まで笑い、肩から力が抜けた。


 ゲームが始まると、春樹は前回ほど自分でボールを持たなかった。


 最初の数分は周囲を見ることを優先し、誰がどの程度動けるのかを確認していく。杉浦は走力があり、ボールがなくても前へ出ることを怖がらない。一方、山岸は守備位置へ戻る意識はあるものの、相手が近づくと足元ばかり見てしまう。


 春樹は中央でパスを受けながら、山岸の方へ顔を向けた。


「山岸、もう一歩だけ外! そう、そこなら俺から見える!」


「ここ?」


「そこ!」


 神谷が春樹へ寄せてくる。


「余所見してていいのか?」


「してない!」


 春樹は神谷が足を伸ばすより先に身体を半身へ変え、右側から来たボールを左足で軽く前へ逃がした。神谷の重心がわずかにずれた瞬間、抜き切ろうとはせず、空いた斜め後ろへボールを流す。


 そこに山岸がいた。


「え、俺!?」


「そのまま杉浦!」


 驚きながらも、山岸は練習した通り足の内側でボールを押した。


 少し弱い。


 それでも杉浦が一歩戻って受け、そのまま前へ運ぶ。


「行ける!」


 春樹が声をかけると、杉浦は一度だけ顔を上げ、簡易ゴールへ向けて右足を振った。


 ボールはコーンの外側へ逸れた。


「ああっ!」


「惜しい!」


 山岸が声を上げ、杉浦が頭を抱える。


「今の決めたかった!」


「でも形は良かっただろ」


 春樹は息を整えながら戻ってくる。


「山岸のパスもちゃんと通ったし、杉浦も前で受けられた。本番でも今みたいなのでいい」


「俺、今のでいいの?」


「いいって。むしろ最初からそれ狙ってた」


「マジか」


 山岸の表情が少し明るくなる。


 フェンス際から見ていた雫は、その変化に気づいた。


 春樹自身はシュートを打っていない。


 派手なドリブルで抜いたわけでもない。


 けれど、ボールが春樹を経由すると、さっきまで不安そうだった山岸までゲームの中へ入っていく。


(昔もそうだった)


 小学生の頃、春樹はもっと自分で走っていた。


 中学に入ってからは、周囲を見ることが増えた。


 雫は試合の細かな戦術までは分からない。それでも春樹が誰かへ声をかけ、その相手が少し動きやすそうになる場面は何度も見てきた。


 高校に入ってサッカーをやめてから、もう見ることはないと思っていた。


 だから今、懐かしい。


 それだけではない。


 以前見ていた春樹と、今の春樹が重なりながらも少し違って見える。


(私が変わったのかな)


 土曜に読んだ本の一節が、また胸の奥へ浮かび上がる。


 同じ人でも、見る側が変われば違って見える。


 雫は無意識にフェンスへ添えていた指へ力を入れた。


「雫」


 隣の紗弥に呼ばれ、雫は顔を向ける。


「何?」


「楽しそう」


「春樹が?」


「雫が」


「……私?」


「うん」


 紗弥はそれ以上からかわず、グラウンドへ視線を戻した。


 雫も何か反論しようとしたが、結局言葉が出なかった。


 自分がどんな顔をしていたのか、確かめる方法がない。


 ただ、否定する気にもなれなかった。


     ◇◇◇


 ゲームが進むにつれ、少しずつ全員の動きが良くなっていった。


 神谷のチームが先に一点を取り、その直後には春樹のチームも杉浦の折り返しから別の男子が決めた。勝敗そのものより、経験の浅い生徒たちが最初よりボールへ触れる回数が増え、声も出るようになったことの方が春樹には重要だった。


 それでも、神谷が目の前に来れば話は別である。


「一本くらい自分で来いよ!」


「何でお前にサービスしないといけないんだよ!」


「昔はもっと仕掛けてただろ!」


「今は三十分限定なんだよ!」


「関係ある!?」


 神谷が笑いながら寄せる。


 春樹はボールを右足の前へ置き、身体を左へ傾けた。


 神谷の足がわずかにそちらへ動く。


 春樹はその瞬間に右へ切り返したが、神谷も完全には振られず、すぐ身体を寄せてくる。


「読んでる!」


「知ってる!」


 肩が触れ合う。


 春樹は無理に前へ進まず、一度ボールを足裏で引いた。神谷が次の動きを警戒して止まった瞬間、春樹は後ろから上がってきた山岸へ短く預け、そのまま神谷の横を走り抜ける。


「そっちかよ!」


「だから俺だけ見んなって!」


 山岸から返ってきたボールは少しずれたが、春樹は走りながら左足で収める。


 そのままゴール前へ運べる。


 だが、右側では杉浦が完全に空いていた。


 春樹は迷わずそちらへ出す。


「杉浦!」


「今度こそ!」


 杉浦の右足から放たれたボールが、二つのコーンの間を通った。


「よっしゃあ!」


 杉浦が両腕を上げ、山岸まで自分のことのように喜ぶ。


 春樹は笑いながら杉浦へ手を上げた。


「今の良かった!」


「七瀬、シュート行けたろ!」


「行けたけど、お前の方が空いてた」


「そこ譲る!?」


「譲ったんじゃなくて、そっちの方が確率高かっただけ」


 神谷が額の汗を腕で拭いながら、呆れたように笑う。


「ほんっと変わんねえな、お前」


「何が?」


「そういうとこ」


「意味分からん」


「分かんなくていいよ」


 神谷はそう言って、自陣へ戻っていった。


 春樹も首を傾げながら位置へ戻る。


 そのやり取りを見ていた三浦は、神谷へ近づいたときに小声で言った。


「七瀬、あれでサッカーより本なんだよな」


「そうだよ」


「もったいないって思うけど、本人が楽しそうだから何も言えないな」


「俺も何回か誘ったけどな。あいつ、サッカー嫌いで辞めたわけじゃないんだよ。本の方が好きだっただけ」


「極端だな」


「七瀬だから」


 三浦は笑い、春樹の方を見る。


 確かに楽しそうだった。


 ただ、その楽しさにしがみつくような雰囲気はない。


 昔やっていたものへ戻りたいというより、今ここでボールを蹴る時間を素直に楽しみ、それが終わればまた別の好きなものへ戻るつもりなのだろう。


 それが三浦には少し不思議で、同時に羨ましくも見えた。


     ◇◇◇


「三十分」


 ゲームが一度途切れたところで、春樹がグラウンド脇の時計を確認した。


 神谷が露骨に嫌そうな顔をする。


「あと五分」


「最初に三十分って言った」


「最後一本!」


「それやると絶対五分延びるだろ」


「三分!」


「何で交渉になってるんだよ」


 春樹は笑いながらも、ボールを拾って三浦へ渡した。


「俺は抜ける。みんな続けるなら続けていいけど、うちのクラスのやつも無理するなよ。本番前だから」


「七瀬、本当に帰るんだ」


 杉浦が驚く。


「帰らない。図書室」


「あ、そっち」


「今日まだ全然読めてないんだよ」


「朝読んでたじゃん」


「あれで十分なわけないだろ」


「基準が分からん」


 山岸が笑いながら近づいてきた。


「七瀬、ありがとな。ちょっとだけ本番怖くなくなった」


「ならよかった。今日できたことだけやればいいよ。無理に上手いやつの真似しなくていいから」


「分かった」


「あと本番、俺に出せないときは近いやつな」


「それも分かった」


 春樹は頷き、グラウンドの端へ向かった。


 フェンス際では雫と紗弥が待っており、少し離れた場所にはいつの間にか怜華の姿もある。怜華は生徒会の腕章をつけ、別競技の確認表らしい紙を持っていたため、本当に運営確認の途中で寄ったらしい。


「本当に三十分でやめたのね」


 怜華が感心したように言う。


「言ったでしょう」


「神谷君、まだ名残惜しそうよ」


「蓮に合わせたら日が暮れます」


「でも、楽しそうだった」


「サッカー自体は好きですから」


「それでも戻ろうとは思わない?」


 怜華の問いに、春樹はタオルで額の汗を拭きながら少しだけ考えた。


「部活に、って意味なら思わないですね」


「即答に近いわね」


「毎日練習して大会目指す生活が嫌なんじゃなくて、それを選ぶと本を読む時間がかなり減るから。俺はサッカーも好きですけど、本の方が好きなんです」


「両方欲しいとは思わない?」


「今日みたいにたまにやるくらいなら両方ありますよ。でも全部を同じだけやろうとしたら、結局どれも中途半端になるでしょう」


 怜華はわずかに目を細めた。


「意外と割り切るのね」


「先輩、俺を何だと思ってたんです?」


「好きなものに関しては、全部欲しがる人かと思ってた」


「本なら欲しいです」


「そこだけは即答なのね」


「置く場所さえあれば」


「現実的な問題が収納しかないの?」


「お金もあります」


「さらに現実的になったわね」


 怜華が笑う。


 春樹もつられて笑ったあと、少し離れた雫へ顔を向けた。


「雫、帰る?」


「春樹は図書室でしょ?」


「うん」


「じゃあ私も少し行こうかな」


「紗弥は?」


「私は部活の友達と約束あるから、ここで別れる」


 紗弥は雫へ意味ありげな視線を送ったものの、何も言わずに手を振った。


「じゃあまた明日」


「うん。またね」


 怜華も書類へ視線を落とす。


「私は体育館の確認が残ってるから行くわ。七瀬君、明日は筋肉痛にならないといいわね」


「今日は軽かったから大丈夫だと思います」


「その言葉、覚えておくわ」


「何でですか」


「明日の朝、聞くから」


「わざわざ確認しなくていいです」


「楽しみにしてる」


 怜華は満足そうに笑い、体育館の方へ歩いていった。


 春樹はその背中を見送りながら眉を寄せる。


「絶対面白がってるだけだろ、あの人」


「一ノ瀬先輩、春樹と話すとき楽しそうだよね」


「だから面白がられてるんだって」


「……そうかな」


「そうだろ」


 春樹は疑っていない。


 雫はそれ以上何も言わず、春樹と並んで校舎へ戻った。


     ◇◇◇


 図書室へ入る前、春樹は水道で顔を洗い、汗を拭いてから制服へ着替えた。


 冷房の効いた室内へ入ると、運動後の身体には少しだけ肌寒く感じられる。窓際の席には栞がおり、春樹と雫に気づくと本から顔を上げた。


「こんにちは」


「こんにちは、白石先輩」


「お疲れさまです。サッカーだったんですよね?」


「何で知ってるんです?」


「外から少し見えました」


「図書室から?」


「はい。ずっと見ていたわけではないですけど」


 栞は少し申し訳なさそうに付け加えた。


 春樹は気にする様子もなく、いつもの席へ鞄を置く。


「今日は三十分だけです。ちゃんと時間守りました」


「そこを報告するんですね」


「重要なので」


 雫が隣で笑う。


「白石先輩、春樹、本当に三十分ぴったりでやめたんですよ」


「神谷君に延長頼まれたけど断った」


「七瀬君らしいです」


「みんな同じ反応するなあ」


 春樹は椅子へ腰を下ろし、鞄から朝の短編集を取り出した。


 その表紙を見た栞が、少し嬉しそうに目を細める。


「続き、読んでるんですね」


「はい。朝二編目まで読みました。三編目に入ったところです」


「どうですか?」


「かなり好きです。二編目で一編目の喫茶店が出てきたところ、思ったより嬉しかった。別に大事件じゃないのに、同じ街でちゃんと生活が続いてる感じがして」


「分かります」


 栞の声が少し弾む。


「私も、あの店がもう一度出てきたとき好きでした。主人公が変わると、同じ場所なのに見え方が違っていて」


「そうなんですよ。あと、一編目の主人公が二編目だと完全に脇役なのもいい。本人にとっては人生の大事な日だったのに、他人から見たら喫茶店にいた客の一人でしかないっていう――」


「春樹」


 雫が笑いながら遮った。


「座って三十秒で本の話全開なんだけど」


「だって白石先輩が聞いたから」


「私も聞きました」


 栞が控えめに春樹を庇う。


「ほら」


「白石先輩まで春樹側になってる」


「すみません」


「謝らなくていいです! 嫌って意味じゃないので」


 雫が慌てると、栞も小さく笑った。


 春樹はそんな二人を見てから、本を開く。


「じゃあ俺、読むから。雫も何か探す?」


「うん。せっかく来たし」


「この前のが好きだったなら、似た系統で図書室に一冊あるぞ」


「また薦めるの?」


「別に読めとは言ってない。候補」


「……どこ?」


「結局聞くじゃん」


「春樹が言い出したんでしょ」


 春樹は笑いながら立ち上がり、書架へ向かう。


 雫もそのあとを追った。


 栞は二人の背中を見送り、自分の本へ視線を戻そうとして、ほんの少しだけ手を止めた。


 春樹と雫の会話には、説明のいらない部分が多い。


 片方が言葉を省いても、もう片方が何となく意図を拾う。ときには噛み合っていないのに、そのずれまで含めて会話が続いていく。


 長い時間を一緒に過ごしてきた二人にしかないものなのだろう。


 以前なら、それを見たときに自分には持てない時間だと感じるだけだった。


 今は少し違う。


(同じじゃなくていいのかもしれない)


 栞は自分の手元にある本へ指を添えた。


 自分と春樹には、静かな図書室で同じ時間に別々の本を読み、ときどき感想を交わす関係がある。雫と同じにはなれなくても、自分たちには自分たちの積み重ねができ始めている。


 そのことを思うと、胸の奥にあった小さな引っ掛かりが少しだけ軽くなった。


     ◇◇◇


「これ」


 書架の間で、春樹が一冊の本を抜き出した。


 雫は表紙を見る。


「また恋愛?」


「恋愛だけど、この前のとは結構違う。幼馴染じゃないし、主人公たちも最初は全然仲良くない」


「じゃあ何で私向け?」


「人間関係が急に変わらないところ。仲良くなるまで結構長いし、途中で相手を誤解するんだけど、理由がちゃんとある。雫、この前の本で『話せば済むのに何で言わないの』ってところより、言えない理由がある方を評価してただろ?」


 雫は驚いて春樹を見る。


「そこ覚えてたの?」


「感想聞いたんだから覚えてるよ」


「……そっか」


「ただ、今貸すとまた賭けみたいになるから、気になるなら自分で借りて」


「そこは貸してくれないんだ」


「貸してもいいけど、俺の家の本じゃなくて図書室にあるんだから、借りた方が早いだろ」


「そういう意味ね」


 雫は春樹から本を受け取る。


 背表紙を見て、最初の数ページを軽く確認する。


 春樹はもう別の棚へ目を向けていた。


 自分が何気なく言った感想を覚えていたことなど、大したことではないと思っているのだろう。


 それでも雫には、その事実が妙に嬉しかった。


(こういうのが積み重なってるんだよね)


 長い付き合い。


 幼馴染。


 それだけで全部説明できると思っていた。


 けれど実際には、その長い時間の中で、春樹が覚えている自分の言葉があり、自分が覚えている春樹の癖がある。


 ただ隣にいたからではない。


 何度も話して、喧嘩して、笑って、一緒に帰ってきたから残っているものだ。


「春樹」


「ん?」


「これ、借りる」


「お、じゃあ読んだら感想聞かせて」


「また?」


「嫌ならいいけど」


「嫌とは言ってない」


 雫は本を胸元へ抱え、少しだけ笑った。


「ちゃんと話すよ」


「じゃあ楽しみにしとく」


 春樹も笑う。


 それだけで会話は終わり、二人は席へ戻った。


 春樹はすぐ自分の本を開き、雫も借りることにした本の冒頭へ目を落とす。


 向かいでは栞が静かにページをめくっている。


 窓の外からは、まだ練習を続けている運動部の掛け声が遠く聞こえていた。そこへ図書室の時計が刻む小さな音と、紙をめくる柔らかな音が重なっていく。


 春樹は三十分だけサッカーをして、結局いつもの場所へ戻ってきた。


 サッカーは楽しかった。


 クラスメイトが少しずつ動けるようになったことも嬉しかったし、神谷と久しぶりに本気に近い駆け引きをした瞬間には、昔の感覚が身体へ戻ってくるような楽しさもあった。


 それでも、今こうして本を開いている時間も同じくらい自然だった。


(やっぱりこれでいいんだよな)


 好きなものを一つに決める必要はない。


 ただ、自分が一番大切にしたいものを自分で分かっていればいい。


 春樹はそう考えながらページをめくった。


 数分もすれば意識は物語へ沈み、グラウンドの熱気も、交流会の準備も、周囲から向けられていた視線も頭の外へ消えていく。


 けれど春樹の周囲では、本人が気づかないまま少しずつ関係が積み重なっていた。


 昔から隣にいた雫は、当たり前だった距離の意味を考え始めている。


 栞は雫との長さを羨むだけではなく、自分と春樹の間にできてきた時間へ目を向け始めた。


 怜華は借りた本を通して、自分が春樹からどう見られているのかを知ろうとしている。


 真実やひよりもまた、それぞれ違う形で春樹から受け取った本と言葉を覚えている。


 そのどれも、まだ恋と呼ぶには早い。


 少なくとも、春樹自身にとっては。


 彼にとって今いちばん切実なのは、交流会本番まで余計な仕事を増やされず、この短編集の続きをできるだけ早く読むことだった。


 そして数日後に迫ったスポーツ交流会が、そんな春樹の望み通り静かに終わる保証など、どこにもなかった。

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