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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第30話 感想を聞きたかっただけなのに、幼なじみの答えが妙に気になる


 土曜日の夜、七瀬春樹は自室のベッドへ背中を預け、文庫本を片手に読書を続けていた。


 時刻は午後十時を少し過ぎたところで、開けた窓から入ってくる風には昼間の湿気がまだわずかに残っている。机の上には読み終えた本が二冊、その横には次に読む予定の文庫本が積まれており、本来なら今夜も誰にも邪魔されず読書へ没頭できるはずだった。


 ところが、さっきから妙に集中できない。


 文章そのものは面白い。ちょうど主人公が、それまで敵対していた人物の言葉に小さな矛盾を見つけたところであり、普段ならページをめくる手が止まらなくなっている場面だった。


 それなのに一章読み終えるたび、春樹の視線は枕元に置いたスマートフォンへ向かってしまう。


(……いや、別に今日中に読み終わるとは言ってなかったよな)


 雫は午後の時点で三分の一ほどまで読んでいた。


 読む速度は春樹ほどではないが、決して遅くない。そのまま家へ帰って続きを読んでいるなら、そろそろ半分を越えていてもおかしくなかった。


 だからといって、こちらから「どこまで読んだ?」と聞くのは違う気がする。


 急かすつもりはない。


 朝にも、期限はないと言ったばかりだ。


(感想聞きたいからって催促したら、せっかく貸したのに落ち着いて読めないだろ。俺だって読んでる途中で『どう? 面白い?』って何回も聞かれたら嫌だし)


 そこまで考えて、春樹はスマートフォンから意識を引き剥がした。


 もう一度、手元の本へ戻る。


 数ページ進んだところで、主人公が矛盾の正体へ近づき始めた。文章へ集中し直した春樹の頭から、ようやく雫のことが薄れていく。


 そして、ちょうど物語が大きく動きそうになったところで、枕元のスマートフォンが震えた。


「……っ」


 反射的に顔を上げてしまった。


 春樹は数秒ほどスマートフォンを見つめたあと、自分でもその反応が妙に早かったことに気づく。


(いや、通知来たら見るだろ。普通だろ)


 誰に言い訳しているのか分からないまま画面を確認すると、表示されていた名前は予想通りだった。


『読み終わった』


「早っ」


 思わず声が出た。


 時計を見る。


 午後十時十三分。


 学校を出た時間を考えれば、帰宅してから夕食や風呂を挟んだとしても、かなりの勢いで読んだことになる。


 春樹はすぐ返信しようとして、指を止めた。


『どうだった?』


 そこまで入力してから、何となく消す。


 代わりに、


『今日中に読み終わるとは思わなかった』


 と送った。


 既読はすぐについた。


『続きが気になったから』


 その短い返事だけで、春樹の口元が緩む。


(よし)


 賭けの勝敗以前に、その言葉が嬉しかった。


『じゃあ気に入った?』


 今度はそのまま送る。


 少し間が空いた。


 数十秒ほどしてから、返事が届く。


『好きだったよ』


「おお」


 春樹はベッドの上で小さく拳を握った。


 三冊目も成功。


 これで賭けは自分の勝ちである。


 欲しい本を一冊買ってもらえる。


 そのはずなのだが、春樹が次に送ったのは本の値段や購入日の相談ではなかった。


『どこが一番好きだった?』


 送信してから、自分でも笑ってしまう。


(まあ、そっちだよな)


 賭けの賞品は逃げない。


 感想は今聞きたい。


 ところが、今度は一分ほど待っても返事が来なかった。


「長いな」


 雫が文章を考えているのだろうか。


 あるいは、もう寝る準備を始めたのかもしれない。


 そう思ったところで、スマートフォンが震えた。


『メッセージだと長くなる』


 続けてもう一件。


『電話していい?』


 春樹は一瞬だけ目を瞬かせた。


 それから迷わず通話ボタンを押した。


     ◇◇◇


『もしもし』


「おう。俺からかけた」


『見れば分かるよ』


「長くなるんだろ? だったら通話の方が楽じゃん」


『春樹、こういうときだけ行動早いよね』


「本の感想だぞ。早く聞きたいに決まってる」


『……そういうところ、本当に春樹だよね』


「何だよ、それ」


 電話越しに雫が小さく笑う。


 春樹はベッドへ座り直し、読みかけの本へ栞を挟んで閉じた。今まで読んでいた物語も気になるが、少なくとも今は雫の感想を先に聞きたい。


「で、一番好きだったの誰?」


『いきなりキャラから聞くの?』


「だって朝、脇役好きになるかもって言っただろ。答え合わせしたい」


『ああ、それね。春樹の予想、半分当たり』


「半分?」


『脇役の女の子もかなり好きだった。でも一番は主人公』


「マジで?」


 春樹は少し驚いた。


 朝の段階では、雫は主人公を「ちょっと面倒」と評していた。


「途中で変わった?」


『変わった。というか、最初に面倒だと思ってた理由が後半で分かったから』


「だよな。あれ、最初は何で言わないんだって思うけど、本人の中ではずっと言わなくても通じる関係だったんだよ」


『うん。それが当たり前だったから、変わり始めたときにどうすればいいか分からなかったんだよね』


「そうそう。相手が急に変わったんじゃなくて、自分が今まで気にしてなかったものを気にし始めたから、同じことされても受け取り方が変わってる」


『……春樹、そこ好きなんだ』


「かなり好き」


 春樹は自然と声が弾んでいた。


「特に中盤で、幼馴染の男が別の女子と話してるところあるだろ? 主人公は別に二人が付き合ってるなんて思ってないし、自分が嫉妬してるとも認めてない。でも、それまで気にならなかったことが急に気になるようになって、本人だけ理由分かってない」


『うん』


「あそこ、読者からしたらかなり分かりやすいんだけど、本人の中では本当に分かってないんだよな。俺、ああいうの好きなんだよ。本人より読者の方が先に気づくやつ」


『……うん』


「あと男側も面白い。あいつもあいつで、ずっと一緒にいるのが普通すぎて――」


 そこまで話して、春樹は電話の向こうが妙に静かなことに気づいた。


「雫?」


『聞いてるよ』


「ならいいけど。俺ばっか喋ってた」


『いつものことじゃん。本の話になると』


「悪い」


『別に嫌って言ってないでしょ』


 柔らかな声だった。


 春樹は安心し、ベッド脇の壁へ背中を預ける。


「じゃあ雫は?」


『何が?』


「一番好きだったところ。主人公が好きになったのは分かったけど、場面ならどこ?」


 また少し沈黙があった。


 今度は先ほどより長い。


 窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえてくる。夜の住宅街は静かで、電話越しの雫の呼吸まで普段より近く感じられた。


『……最後の方』


「どこ?」


『二人で帰るところ』


「ああ」


 春樹にもすぐ分かった。


 物語の終盤、主人公と幼馴染の少年が夕方の道を並んで帰る場面。


 劇的な告白はない。


 手をつなぐわけでもない。


 ただ、主人公が初めて「一緒に帰ることは当たり前ではなかったのかもしれない」と考える。


 毎日のように繰り返してきた時間を、失いたくないものとして初めて意識する場面だった。


「あそこいいよな」


『春樹も好き?』


「好き。何か起きるわけじゃないのに、それまでと同じ帰り道が違って見えるのがいい」


『……今日も一緒に帰ったね』


「帰ったな」


 春樹は何も考えず答えた。


 そのあとで、電話の向こうが再び静かになる。


「どうした?」


『なんでもない』


「今日それ多くない?」


『春樹が聞きすぎなの』


「感想聞いてんだから聞くだろ」


『じゃあ聞くけど』


「何?」


 雫の声が少しだけ慎重になった。


『春樹、あの本を私に選んだの、本当に私が好きそうだからってだけ?』


「うん?」


 春樹は眉を寄せる。


 朝にも似たようなことを聞かれた。


「基本はそうだけど」


『基本は?』


「いや、何冊か候補あったんだよ。その中で一番、今まで貸した二冊と違う方向で、でも雫が好きそうなのがそれだった」


『幼馴染が出てくるから選んだとかじゃなくて?』


「それだけなら他にもあるだろ」


『……そっか』


「ただ」


 春樹は少し考えた。


 選んでいたときのことを思い返す。


「雫なら、あの二人の距離感は分かりやすいかなとは思った」


『え?』


「長く一緒にいる相手って、いちいち説明しなくても分かることあるじゃん。逆に、分かってるつもりで全然分かってないこともあるし。雫ならそういうところ、実感として読めるかなって」


 電話の向こうから返事がない。


 春樹は続ける。


「ほら、俺たちもそうだろ。雫が朝機嫌悪かったら何となく分かるし、俺が本読みたいときも雫はだいたい分かる。でも全部分かるわけじゃない。この前だって、雫が何で変な感じなのか俺分かってなかったし」


『……それは今も分かってないと思う』


「え、まだ?」


『うん』


「マジかよ。俺なりに結構考えたぞ?」


『何て?』


「最近一緒に帰る時間減ったからとか、俺が他のやつと本の話するようになったからとか、その辺だと思ってた」


『……間違ってはいないよ』


「じゃあ合ってるじゃん」


『全部じゃないってこと』


「難しいな」


 春樹は本気で悩んだ。


 雫にはその様子が目に浮かぶようだった。


 きっと眉を寄せ、何か難しい問題でも解くような顔をしている。


(本の中なら分かるくせに)


 さっき春樹自身が楽しそうに話していた。


 本人が気づくより、読者の方が先に感情へ気づく物語が好きだと。


 ならば、もし自分たちが本の中の登場人物だったら。


 自分は今、読者からどんなふうに見えているのだろう。


 そこまで考えたところで、雫は枕へ顔を埋めたくなった。


(何考えてるの、私)


 まだ分からない。


 自分が春樹に何を求めているのか。


 幼馴染として隣にいたいだけなのか、それ以上の何かなのか。


 真実やひより、栞や凛、そして最近は怜華まで春樹の周囲にいる。それを見たときに感じるものも、以前ほど単純に「昔から知っているのは自分」という気持ちだけでは説明しづらくなっている。


 けれど、その感情へ名前をつけるのはまだ怖かった。


 名前をつけた瞬間、今まで当たり前だったものまで変わってしまいそうだから。


『ねえ、春樹』


「ん?」


『あの主人公さ、自分の気持ちに気づくの遅かったじゃん』


「遅かったな。読者には途中からほぼバレバレだったけど」


『春樹だったら、もっと早く気づける?』


「他人なら」


『……他人なら?』


「自分のことは分からん」


 即答だった。


 雫は思わず笑ってしまう。


『そこ自覚あるんだ』


「最近、悠斗とか桐谷先生とかに散々言われてるからな。俺もさすがに、自分のことになると判断力落ちる可能性は認めてる」


『本が絡むと三割落ちるんじゃなかった?』


「それは永山先生の勝手な評価だ」


『否定できる?』


「……二割くらい」


『ほぼ認めてるじゃん』


 二人で笑う。


 少し前まで胸の中にあった緊張が、その笑いでほどけていく。


 雫はほっとしていた。


 春樹は変わらない。


 少なくとも今は、まだいつもの春樹だ。


 そのことに安心する一方で、ほんの少しだけ物足りなく感じた自分にも気づいてしまう。


(ほんと、面倒だなあ)


 本の序盤で主人公へ抱いた感想が、そのまま自分へ返ってきた気がした。


     ◇◇◇


「で、賭けは俺の勝ちでいいんだよな?」


 しばらく本の話を続けたあと、春樹がようやく本題を思い出した。


『いいよ。三冊とも好きだったから』


「よっしゃ」


『すごい嬉しそう』


「そりゃ本一冊だぞ」


『何買うか決めてるの?』


「候補は三冊ある」


『もうあるんだ』


「一冊は今月出た新刊。もう一冊は前から気になってる短編集。あと一冊は上下巻の上だけなら予算内」


『上下巻なら両方買わないと意味なくない?』


「下巻は自分で買う」


『そこまでして候補に入れる?』


「実質半額だぞ?」


『そういう計算なんだ』


 雫の呆れた声が返ってくる。


「でも、まだ決めない。店行って見てからにする」


『じゃあまた本屋行く?』


「そうなるな」


『二人で?』


「賭けの賞品なんだから雫いないと買ってもらえないだろ」


『そうだけど』


「何?」


『……ううん。いつ行く?』


「来週はスポーツ交流会あるし、その準備もあるからなあ」


 春樹は机の横へ置いた予定表を見る。


 交流会本番まで、もう一週間を切っている。


 サッカーのクラス代表という面倒な役割まで引き受けてしまった以上、完全に無関係ではいられない。先日の代表者会議で決まった内容もクラスへ共有され、出場順や交代について確認する必要がある。


「交流会終わってからでいい?」


『うん。急がなくていいよ』


「じゃあそれで。前にまた本屋行こうって話もしてたし、まとめて行くか」


『……うん』


「中古も見る?」


『春樹が行きたいなら』


「行きたい」


『即答』


「本屋を一軒で終わらせる理由がない」


『前も同じようなこと言ってたよね』


「正論は何回言っても正論だろ」


『はいはい』


 雫の声は呆れているのに、少し楽しそうだった。


 その後も二人は本の話を続けた。


 主人公の友人について。


 中盤の家族との場面について。


 春樹が好きな脇役について。


 雫が途中で印象を変えた人物について。


 気づけば通話を始めてから四十分以上が経っていた。


「……結構喋ったな」


『春樹がね』


「雫も喋ってただろ」


『半分以上春樹だったと思う』


「感想から話広がったんだから仕方ない」


『楽しかったからいいけど』


 春樹が少しだけ黙る。


「俺も」


『え?』


「楽しかった」


 ただそれだけの言葉だった。


 特別な意味を込めたわけではない。


 春樹にとって、本について誰かと話す時間が楽しいという、最近ようやく自覚した事実をそのまま口にしただけだった。


 しかし雫は、すぐに返事ができなかった。


 電話だから表情を見られないことが、今だけはありがたい。


『……そっか』


「うん」


『じゃあ、そろそろ寝る?』


「俺はもうちょっと読む」


『やっぱり』


「雫は寝ろよ。今日一冊読んだんだろ」


『春樹より先に寝ます』


「何だよ、その宣言」


『おやすみ』


「おう。おやすみ」


 通話が切れた。


 春樹はスマートフォンを枕元へ置き、栞を挟んでいた本を開く。


 ところが、すぐには文章が頭へ入ってこなかった。


(雫、何であんなに選んだ理由気にしてたんだ?)


 幼馴染ものだったから。


 自分たちと似ていたから。


 そこに何か意味があると思ったのだろうか。


「……分からん」


 春樹は小さく呟いてから、今度こそ本へ戻った。


 数分後には物語へ集中し、雫の問いかけも頭の隅へ追いやられていく。


 そんな春樹とは対照的に、雫は通話が終わったあともしばらくスマートフォンを胸元へ置いたまま、ベッドの上で天井を見つめていた。


(楽しかった、か)


 たった一言。


 昔なら、きっと何も気にしなかった。


 今は違う。


 嬉しい。


 その嬉しさを自覚した瞬間、また胸の奥が落ち着かなくなる。


 雫は枕元に置いた、春樹から借りた本へ手を伸ばした。


 読み終えたばかりの物語。


 主人公は最後まで、自分の気持ちへ気づくのが遅かった。


「……人のこと言えないのかな」


 口に出してから、自分で驚いた。


 すぐに本を閉じ、枕へ顔を伏せる。


(今のはなし。考えない)


 けれど、一度浮かんだ言葉は簡単には消えてくれなかった。


     ◇◇◇


 日曜日を挟み、月曜日。


 朝から清涼学園の空気はいつもより騒がしかった。


 週後半に迫った校内スポーツ交流会へ向けて、廊下には競技別の確認表が掲示され、教室でも出場順や応援について話す生徒が増えている。グラウンドからは朝練をする運動部の声が聞こえ、体育館側でもボールの弾む音が断続的に響いていた。


 春樹が教室へ入ると、黒板の端には「スポーツ交流会・最終確認」と書かれた紙が貼られていた。


「嫌な文字がある」


 自分の席へ向かいながら呟くと、すでに登校していた悠斗が笑った。


「おはよう、代表」


「連絡係」


「まだ抵抗してんの?」


「俺はキャプテンじゃない。必要事項を確認して伝えるだけ」


「それ代表って言うんじゃね?」


「言葉の問題じゃない。責任範囲の問題だ」


「朝から細かいな」


「重要だぞ。曖昧にすると仕事が増える」


 春樹は鞄を置き、椅子へ座った。


 すると、すぐ横から雫がやってくる。


「おはよう」


「おはよ」


「これ」


 雫が差し出したのは、土曜日に貸した文庫本だった。


「もう持ってきたの?」


「読み終わったから」


「別に今日じゃなくてもよかったのに」


「借りっぱなしも嫌だし」


 春樹は本を受け取り、表紙や背を軽く確認した。


 当然ながら、傷みはない。


「綺麗」


「当たり前でしょ」


「さすが」


「何、その確認」


「本貸した側としては大事」


「昨日あれだけ感想聞いたのに、最後は本の状態なんだ」


「感想と本の状態は別問題だろ」


「はいはい」


 雫は笑って、自分の席へ向かった。


 春樹も本を鞄へしまおうとして、ふと止まる。


「雫」


「何?」


「三冊目も成功ってことで、ちゃんと記録しとくからな」


「何に記録するの?」


「俺の中の選書実績」


「そんなのあるの?」


「今作った」


「適当じゃん」


「でも三戦三勝は事実だろ」


「そうだね」


 雫は少し考えてから、柔らかく笑った。


「全部、ちゃんと好きだったよ」


 春樹の手が止まった。


 それから、素直に笑う。


「ならよかった」


 その表情を見た雫は、昨日の電話を思い出した。


 自分が本を好きだったことを、春樹はこんなにも喜ぶ。


 それはきっと、自分だけに向けられる表情ではない。


 真実が本を気に入ったときも、ひよりが感想を話したときも、栞が選んでもらった本を読み始めたときも、春樹は嬉しそうだった。


 だから特別ではない。


 そう分かっている。


 それでも、自分がその笑顔を引き出せたことを嬉しいと思ってしまう。


「……雫?」


「何でもない。ホームルーム始まるよ」


「まだ五分あるけど」


「じゃあ本読んでれば?」


「そうする」


「ほんとに読むんだ」


「勧められたら読むだろ」


 雫が呆れたように笑う。


 春樹は本当に文庫本を開いた。


     ◇◇◇


 朝のホームルームが始まると、永山剛志は出席確認を終えたあと、黒板の横に貼られていたスポーツ交流会の紙を剥がして教卓へ置いた。


「さて。お前らが楽しみにしてるか面倒くさがってるかは知らんが、今週は交流会だ」


 教室のあちこちから声が上がる。


 楽しそうな声もあれば、春樹と同じように面倒そうな声もあった。


「競技の最終調整はほぼ終わった。あとは当日の欠席や怪我がなければ、この名簿で行く。サッカーは七瀬、バレーは――」


「先生」


「何だ、七瀬」


「俺の名前だけ役職みたいに呼ばないでください」


「サッカーの連絡担当なんだから仕方ないだろ」


「せめて『サッカーは七瀬たち』にしてください」


「細けえな、お前は」


 教室から笑いが起こる。


 永山も口元を歪めた。


「安心しろ。お前に作戦会議を仕切れとも、円陣で熱いこと言えとも言わん」


「それならいいです」


「ただし、出場者の交代と集合だけは確認しろ」


「そこはやります」


「なら十分だ」


 春樹は素直に頷いた。


 面倒ではある。


 だが、一度引き受けた以上、最低限の仕事を放り出すつもりはない。


「それと、経験者だからって全部自分でやるなよ」


「分かってます」


「お前はその辺、言わなくても大丈夫そうだがな」


 永山の言葉に、クラスの何人かが春樹を見る。


 以前の練習を直接見た者は多くない。それでも、神谷やサッカー部の生徒から話を聞いたらしく、春樹が想像以上にサッカーをできるという話は少しずつ広まっていた。


「七瀬、マジで上手いらしいじゃん」


 後方の男子が声をかける。


「普通」


「神谷が普通じゃないって言ってたぞ」


「あいつの基準は信用するな。サッカー部だから」


「いや、お前中学でレギュラーだったんだろ?」


「昔な。今は一年以上まともにやってない」


「でもこの前普通に動けてたって」


「翌日筋肉痛だったぞ」


「そこ?」


 また笑いが起こる。


 春樹は肩をすくめた。


「とにかく、勝つことだけ考えて経験者がボール独占するのは禁止だ。交流会だからな。七瀬、その辺も頼む」


「了解です」


「返事だけは立派だな」


「仕事増やさないなら真面目にやります」


「お前、本が絡むと判断力三割落ちるくせに、こういう線引きだけは妙にしっかりしてんな」


「まだそれ言うんですか!?」


 教室が笑いに包まれる。


 雫はその中で春樹を見ていた。


 面倒だと言いながら、必要なことはやる。


 昔からそうだった。


 サッカーをしていた頃も、自分が点を取ることより周囲を見て動くことが多かった。


 本人は大したことだと思っていない。


 きっと交流会でも同じなのだろう。


(見たいな)


 先日練習を見たばかりなのに、またそう思う。


 それが単純に幼馴染として昔を懐かしんでいるだけなのか、今の春樹をもっと見たいのか、雫にはまだ分からなかった。


     ◇◇◇


 ホームルームが終わると、春樹の机へ数人の男子が集まってきた。


 サッカーへ出場するクラスメイトたちだった。


「七瀬、交代ってどうする?」


「まだ完全固定しない。試合の流れと疲れ方見ながらでいいと思う。ただ、全員一回はちゃんと入れる」


「俺、サッカーほぼやったことないんだけど大丈夫?」


「別に難しいことしなくていいよ。守るときはこの辺にいて、ボール来たら近い味方に出すだけでも十分。前に出たいならそれでもいいし」


「ミスったら?」


「交流会でミスして退学になるわけじゃないだろ」


「ならないけど」


「じゃあ大丈夫」


 春樹が笑うと、相手の男子も少し肩の力を抜いた。


「経験者だけで固めた方が勝てるかもしれないけど、それやったら出たくて名前書いたやつがつまらないだろ。勝ちたいなら全員がやれる範囲で勝とうぜ」


「七瀬、やっぱキャプテンじゃん」


「違う。俺は連絡係」


「今の台詞、完全にキャプテンだったぞ」


「やめろ。仕事増える言い方すんな」


 周囲から笑いが起きる。


 少し離れたところでその様子を見ていた悠斗が、雫へ顔を寄せた。


「七瀬、結局ちゃんとやるよな」


「昔からそうだよ」


「本人は面倒そうだけど」


「面倒なのは本当なんだと思う」


「じゃあ何であんなちゃんと説明するんだ?」


「放っておいて誰かが困る方が嫌なんじゃない?」


「なるほどな」


 悠斗は納得したように頷いた。


 雫はそのまま春樹を見る。


 困っている人間がいれば手を貸す。


 質問されれば答える。


 誰かへ本を選ぶなら、その人が何を好きなのか考える。


 サッカーをするなら、自分だけが楽しむのではなく、経験のない人間まで参加できるようにする。


 昔からあった部分だ。


 けれど最近、それをいろいろな人が知るようになった。


 以前は自分だけが知っていると思っていた春樹の一面が、少しずつ外へ広がっている。


 それが嫌なのではない。


 むしろ、春樹の良さを分かってもらえるのは嬉しい。


 なのに、少しだけ落ち着かない。


(……本の主人公と同じじゃん)


 雫は昨日読んだ物語を思い出し、机の下でそっと指を握った。


 知っていたはずの相手を、周囲の人間が知り始める。


 それによって初めて、自分が何を当たり前だと思っていたのかに気づく。


 小説を読んでいるときには、主人公へ「早く気づけばいいのに」と思えた。


 自分のことになると、途端に難しい。


     ◇◇◇


 昼休み。


 春樹は弁当を持って席を立ったところで、教室の入口から聞こえた声に振り返った。


「七瀬先輩」


 真実だった。


 その横にはひよりもいる。


「お、二人とも。どうした?」


「一緒に食べてもいいですか?」


「いいけど、今日はこっち?」


「はい。ひよりが――」


「私だけみたいに言わないでください! 真実だって来るって言ったじゃないですか」


「言ったけど、最初に行こうって言ったのはひよりでしょ」


「細かい!」


 春樹は二人のやり取りを見ながら笑った。


「とりあえず座れるところ探すか」


 そこへ雫と紗弥も加わり、悠斗まで当然のようについてくる。


「何か増えたな」


「春樹先輩が言います?」


 ひよりが即座に返す。


「俺、何もしてないぞ」


「本貸したり勧めたりした結果じゃないですか」


「またそれ言うの?」


「事実です」


 結局、机をいくつか寄せて昼食を取ることになった。


 話題は自然とスポーツ交流会へ移る。


「春樹先輩、サッカー出るんですよね?」


 ひよりが尋ねた。


「出るよ」


「代表もするんですよね?」


「連絡係」


「九条先輩が代表って言ってました」


「何で凛まで情報流してんだよ」


「この前会いました」


「狭いな、学校」


「同じ学校ですからね」


「正論で返すな」


 真実がくすくす笑う。


「私も見に行っていいですか?」


「何を?」


「サッカーです」


「別に俺に許可取る必要ないだろ。学校行事なんだから」


「じゃあ行きます」


「私も!」


 ひよりが続く。


 春樹は箸を止めた。


「何でそんな見たいの?」


「上手いって聞いたからです」


 真実が答える。


「誰から?」


「神谷先輩とか、同じクラスのサッカー部の人とか」


「また蓮か……」


「春樹先輩、諦めた方がいいですよ。もう結構知られてます」


 ひよりが楽しそうに言う。


「俺は静かに本読んでる人として生きていきたいんだけど」


「もう無理じゃない?」


 雫が横から言った。


「何で雫まで」


「だって、サッカーできるし、勉強教えるし、本選ぶし、生徒会長にも絡まれてるし」


「最後のは俺悪くないだろ」


「一ノ瀬先輩、春樹先輩のこと気に入ってますよね」


 ひよりが何気なく言った。


 春樹はすぐ首を横へ振った。


「面白がられてるだけ」


「違うんですか?」


「違うだろ。あの人、俺が反応すると楽しそうにするし」


「それを気に入られてるって言うんじゃ……」


 真実が小さく呟く。


「後輩として変なの見つけたくらいだろ」


「先輩から見た後輩なんですね」


「三年と二年だからな」


 春樹は本気でそう思っている。


 ひよりは何か言いたそうにしたが、隣の真実が小さく首を振ったため、それ以上は追及しなかった。


 雫も黙って弁当へ視線を落とす。


 怜華が春樹をどう見ているのかは分からない。


 春樹自身が言うように、ただ面白がっているだけかもしれない。


 それでも最近、春樹の周囲へ人が増えた。


 その中心には、いつも本がある。


 春樹本人は恋愛小説の主人公になる気など欠片もないのに、周囲から見れば十分すぎるほど賑やかだった。


「そういえば」


 真実が話題を変えるように春樹を見る。


「昨日言ってた本、選んでもらうの、交流会終わってからで大丈夫です」


「うん。俺もその方が助かる」


「私もです!」


 ひよりも手を上げる。


「お前はまず今の感想な」


「昨日読み終わりました」


「マジ?」


「はい!」


「じゃあ何で先に言わないんだよ」


「今言おうと思ってました!」


「なら聞く」


 春樹がすぐに身を乗り出したため、雫が笑う。


「ほんと、本の感想になると早いね」


「大事だろ」


「さっきまで交流会の話してたのに」


「交流会は今週だけど、本はいつでも面白い」


「比較がおかしいんだよ」


 悠斗が呆れる。


「で、小日向。どこ好きだった?」


「春樹、飯食わせてやれよ」


「食いながら話せるだろ」


「圧がすごいんだよ」


 ひよりはそんな二人を見て笑いながら、自分が読み終えた物語について話し始めた。


 誰か一人の感想から、別の誰かの感想へ。


 そこから別の本へ。


 また別の話題へ。


 春樹の昼休みは、もう以前のような静かな読書時間ではなくなっている。


 それでも春樹は途中で時計を確認しながら、嫌そうな顔を一度もしなかった。


     ◇◇◇


 放課後。


 図書室へ向かう途中で、春樹は二年二組の前を通りかかった。


「七瀬」


 声をかけてきたのは凛だった。


「何?」


「今から図書室?」


「その予定」


「交流会のサッカー、確認は終わったの?」


「朝やった。交代の希望も聞いた」


「そう」


 凛は少しだけ表情を緩める。


「ならいいわ。あなた、面倒だと言いながら引き受けたことは放置しないのね」


「放置したら後で余計面倒になるだろ」


「理由があなたらしいわね」


「褒めてる?」


「半分くらい」


「今日それ悠斗にも言われた」


「残り半分は呆れているのよ」


「そこまで同じなの?」


 凛がわずかに笑った。


 以前なら、廊下で会えば読書態度や校則について注意されることの方が多かった。


 今ではこうして普通に立ち話をしている。


「そういえば、神谷があなたを探していたわ」


「蓮が?」


「今日か明日、少しボールを蹴らないかって。直接連絡すると言っていたけど」


「またか」


「嫌なの?」


「嫌じゃない。ただ読書時間との交渉が必要」


「誰と交渉するのよ」


「俺と俺」


「好きにしなさい」


 凛は呆れたように息を吐いた。


 それでも立ち去る前に、少しだけ真面目な声になる。


「本番前だからといって無理はしないこと。久しぶりに動いているなら、怪我をしたら意味がないわ」


「分かってる。前回も翌日ちょっと筋肉痛だったし」


「なら余計に」


「はいはい」


「返事が軽い」


「でも内容は聞いてる」


「……それならいいわ」


 凛はそう言って教室へ戻った。


 春樹も図書室へ向かって歩き出す。


 階段を下りる途中、スマートフォンが震えた。


 蓮からだった。


『明日放課後、三十分だけどう? 本番前最後に軽く合わせたい』


 春樹は足を止めず、廊下の端へ寄ってから画面を見る。


(明日か)


 三十分。


 そのあと図書室へ行けば、読書時間もある程度確保できる。


 クラスのメンバーとも一度合わせておいた方が、本番で余計な説明をせずに済むだろう。


『三十分なら行く。ただし延長なし』


 送信する。


 数秒後。


『了解、読書第一代表』


「誰が読書第一代表だ」


 思わず声に出したところで、前方から歩いてきた桐谷美月が足を止めた。


「七瀬君、自分で新しい役職作ったの?」


「違います。神谷からです」


「読書第一代表?」


「先生、拾わなくていいです」


「似合ってるけど」


「嬉しくないです」


「でも第一なんでしょう?」


「本は第一です」


「そこは否定しないのね」


 桐谷は楽しそうに笑う。


「そういえば、私の本は?」


「まだ選んでません」


「忘れてない?」


「忘れてませんよ。先生の場合、下手なの選ぶと絶対細かいところまで突っ込むから慎重になってるんです」


「あら、ちゃんと私のこと考えてくれてるのね」


「本の好みをです」


「分かってるわよ」


 即座に線を引いた春樹へ、桐谷はますます楽しそうに笑った。


「交流会が終わってからでいいわ。今週は忙しいでしょうし」


「助かります」


「七瀬君がスポーツ行事で忙しいって、少し不思議ね」


「俺もです」


「でも、似合ってると思うわよ」


「何がです?」


「誰かに合わせて動く役」


 春樹が首を傾げる。


 桐谷はそれ以上説明しなかった。


「じゃあ、図書室でしょ。行ってらっしゃい」


「何で分かるんですか」


「あなたがその方向へ歩いているからよ」


「普通の推理だった」


「先生を何だと思ってるの」


「本の話になると授業時間忘れる人」


「否定しづらいわね」


 互いに笑い、春樹は図書室へ向かった。


     ◇◇◇


 図書室へ入ると、栞が窓際の机で本を読んでいた。


 カウンター当番ではないらしい。


 春樹に気づくと、栞は本から顔を上げる。


「七瀬君」


「こんにちは。昨日の続きですか?」


「はい」


「どこまで行きました?」


「三人目が終わったところです」


「じゃあ、ちょうど真ん中くらいですね」


「思っていたより、少し苦い話でした」


「そこが白石先輩に合うかなと思ったんです」


「どうしてですか?」


「白石先輩、ただ優しいだけの話より、言わなかったこととか、言えなかったことが残る話の方が好きそうだから」


 栞が静かに瞬きをした。


「……そう見えますか?」


「今まで話した本だと」


「そうかもしれません」


 栞は自分の本へ視線を落とす。


 昨日、春樹は相手によって本の選び方が違うと言っていた。


 今日、実際に理由を聞くと、それがよく分かる。


 春樹は本を通して相手を見ている。


 何が好きなのか。


 どこで立ち止まるのか。


 どんな言葉に惹かれるのか。


 本人には、きっとそれ以上の意味はない。


 それでも、自分が読んできた本の話を覚えていてもらえることは嬉しかった。


「七瀬君」


「はい?」


「読み終わったら、また話してもいいですか?」


「もちろん。むしろ聞かせてください」


「長くなっても?」


「本の話なら」


「……そう言うと思いました」


 栞が微笑む。


 春樹は向かいの席へ座り、自分の本を取り出した。


 窓の外では、運動部の声が響いている。


 交流会を数日後に控えた学校は、いつもより少し騒がしい。


 明日はまたサッカーをする。


 昼休みにはひよりの感想を聞き、真実から次の本を頼まれた。


 雫には賭けで負けた分の一冊を買ってもらう約束があり、もう一度本屋へ行く予定までできている。


 桐谷にも選書を頼まれたままだ。


 栞の感想もこれから聞く。


 そして、おそらく怜華も昨日渡した本を読んでいる。


(……予定、多いな)


 少し前なら、読書時間を奪われていると考えたかもしれない。


 今は、そこまで単純には思わない。


 本を読む時間は欲しい。


 一人で静かにページをめくる時間も絶対に減らしたくない。


 けれど、誰かへ本を選ぶことも、読んだ人の感想を聞くことも、その感想をきっかけに自分でも読み返すことも、すでに春樹の読書生活の一部になりつつある。


 それなら悪くない。


 ただし、限度はある。


(交流会終わったら、絶対一日くらい何も予定入れずに読む)


 春樹はそう決意して、本を開いた。


 数分後、向かいにいる栞も再び読書へ戻る。


 二人の間に会話はない。


 けれど、その沈黙は気まずくなかった。


 ページをめくる音が静かな図書室へ重なり、窓から差し込む午後の光が少しずつ傾いていく。


 春樹はまだ知らない。


 自分が「本を読む時間」と呼んで守ろうとしている場所の中へ、いつの間にか多くの人が入ってきていることを。


 そして、それを以前ほど邪魔だと思わなくなっていることを。


 ただ一つ確かなのは、今も春樹が本を好きだということだった。


 それだけは、何一つ変わっていない。


 変わったのは、その好きなものを誰かと共有する時間まで、少しずつ好きになり始めていることだった。

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