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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第29話 幼なじみに本を貸しただけなのに、感想を聞く前から落ち着かない



 土曜日の朝、七瀬春樹は玄関で靴を履き終えたところで、昨日から棚の上へ置いていた文庫本を鞄へ入れた。


 表紙の端には何度も読み返したせいでわずかな擦れがあり、新品のような綺麗さはない。それでもページが折れているわけでも、汚れているわけでもなく、春樹にとっては昔から本棚にある一冊というだけだった。


「よし。これなら忘れない」


 昨夜のうちに玄関まで持ってきた自分を褒めながら立ち上がったところで、制服のポケットに入れていたスマートフォンが震えた。


 画面には雫からのメッセージが表示されている。


『本、忘れてない?』


「……信用なさすぎだろ」


 思わず笑いながら、『持った』と返す。数秒もしないうちに『えらい』という返事が届いたため、春樹は『子供扱いすんな』と送り返してから家を出た。


 今日は土曜日だが、清涼学園は授業日だった。平日より少し静かな住宅街を駅へ向かって歩きながら、春樹は鞄の中に入れた本のことを考える。


 雫へ勧める三冊目。


 これを雫が気に入れば、以前交わした賭けでは春樹の勝ちになる。つまり、雫に一冊買ってもらえる。


(何にしようかな。新刊でもいいけど、ちょっと高いやつ頼むとさすがに悪いし……文庫一冊って決めてたっけ? いや、安いやつって話だった気がする)


 本を買ってもらえる。


 本来なら、それだけでかなり楽しみなはずだった。


 しかし今朝の春樹は、何を買ってもらうかよりも、雫があの一冊をどう読むかの方が気になっている。


 幼い頃から同じ町で育った男女と、その友人たちを描く群像劇。長く一緒にいるからこそ見落とすこと、近すぎるために言葉にしなくなること、変わらないと思っていた関係が少しずつ形を変えていくことが、派手な事件ではなく日々の生活の中で描かれている。


 雫なら、たぶん好きだと思う。


 けれど、どこを好きになるかまでは分からない。


(俺が好きだったところと全然違ったら、それはそれで面白いんだよな)


 最近は、それを知る楽しさを覚えてしまった。


 自分が好きな本を誰かも好きになってくれることは嬉しい。しかし、自分とは違う場所を好きだと言われるのも面白い。その感想を聞いて読み返すと、それまで気づかなかった作品の表情が見えてくることがある。


 以前の春樹なら、一冊の本を一人で読み、一人で楽しむだけでも十分だった。


 今もそれは変わらない。


 ただ、十分だった場所へ、別の楽しみ方が勝手に増えてきた。


「……悪くはないんだけどな」


 独り言を漏らしながら角を曲がると、少し先の交差点に見慣れた後ろ姿があった。


 西条雫だった。


 向こうも春樹に気づいたらしく、足を止めて振り返る。


「おはよう」


「おはよ。ちゃんと持ってきたぞ」


「会って最初にそれ?」


「朝から確認してきたの雫だろ」


「だって春樹、本以外のことだとたまに忘れるじゃん」


「本を渡す予定なんだから忘れないって」


「じゃあメッセージいらなかった?」


「いや、あった方が安心ではあった」


「ほら」


「何で勝ち誇ってんだよ」


 朝からいつも通りのやり取りを交わしながら、二人は並んで学校へ向かった。


 雫の視線が、ときどき春樹の鞄へ落ちる。


 それに気づいた春樹が笑った。


「気になる?」


「ちょっと」


「学校着いたら渡すよ」


「今でもいいじゃん」


「歩きながら出すの面倒」


「そこは徹底してるね」


「それに雨降ってないけど湿気あるし、外で本出したくない」


「はいはい。本が大事なのは知ってます」


「貸す相手も本雑に扱わないって分かってるから貸すんだからな」


 何気なく言われた言葉に、雫の歩調がほんの少しだけ変わった。


「……それ、信用されてるってことでいい?」


「そりゃそうだろ。雫が本のページ折ったり、開いたまま伏せたりするやつだったら絶対貸さない」


「信用の基準が本なんだ」


「かなり重要だぞ」


「春樹らしいけど」


 雫は呆れたように笑いながらも、どこか嬉しそうだった。


 春樹にとっては本当に、本を任せられるという意味しかない。それでも、自分が大切にしているものを安心して渡せる相手だと思われていることが、雫には少し特別に感じられた。


     ◇◇◇


 教室へ到着すると、春樹は自分の席へ鞄を置き、昨日約束した本を取り出した。


「ほら」


「ありがとう」


 雫は両手で受け取ると、まず表紙を眺めた。


 派手な装飾のない、夕暮れの住宅街を描いたイラスト。その中を制服姿の男女が少し距離を空けて歩いている。


「これが三冊目?」


「そう。前の二冊とは結構違う」


「恋愛もの?」


「入ってる。でも恋愛だけじゃない。友達の話も家族の話もあるし、何人か視点変わる群像劇」


 春樹は自分の席へ座りながら、雫の反応を確かめるように続けた。


「最初の方はかなりゆっくりだから、そこで合わないと思う可能性はある。でも雫、前に貸したやつでも派手な場面より、人物同士の距離が変わっていくところ好きだっただろ?」


「覚えてたんだ」


「そりゃ感想聞いたからな。勧めるなら覚えてないと意味ないだろ」


 あまりにも当然のように返され、雫は表紙へ視線を落とした。


「……そっか」


「あと脇役が結構いい。たぶん雫、主人公よりそっち好きになる可能性ある」


「そこまで予想してるの?」


「昨日考えてた」


「私がどのキャラ好きになるかまで?」


「本選ぶなら考えるだろ」


「普通はそこまで考えないと思う」


「そう?」


「少なくとも私は、友達に本貸すときそこまで分析しない」


「だから俺の方が選書上手いんだよ」


「急に得意げになるじゃん」


「ここ数か月で実績増えてるからな」


 春樹は胸を張った。


 真実へ選んだ本。


 ひよりへ選んだ本。


 授業の課題で組んだ男子へ選んだ本。


 昨日は栞と怜華にも選んだ。


 考えてみれば、本を読むだけだったはずなのに、最近は人へ本を選んでいる時間がかなり増えている。


「でもさ」


 雫が本の背表紙を指でなぞりながら、春樹を見る。


「春樹、この本何回読んだの?」


「三回くらいかな。最初は中学のとき」


「三回」


「たぶん。二回かもしれないけど、少なくとも一回じゃない」


「好きなんだ?」


「好きじゃなきゃ読み返さないだろ」


「じゃあ、春樹が好きな本なんだね」


「まあな」


 その答えを聞いた瞬間、雫の指先が表紙の上で止まった。


 春樹が自分に合いそうな本を選んでくれた。


 それだけでも嬉しかった。


 けれど、それが春樹自身も何度か読み返している一冊だと分かると、嬉しさの種類が少し変わる。


(春樹が好きだったものを、私にも読んでほしいってことなんだ)


 もちろん本人にそんな意図はないかもしれない。


 春樹なら「雫に合いそうだったから」で終わる。


 それでも構わなかった。


「大事に読むね」


「そこまで構えなくていいぞ。普通に読んで」


「分かってる」


「あと期限ないから。賭けだからって急いで読まなくていい」


「今日読み始める」


「早いな」


「気になるから」


「お、いい反応」


 春樹が嬉しそうに笑う。


 その笑顔を見た雫は、また胸の奥に柔らかなものが広がるのを感じた。


 最近、自分は春樹のこういう顔を前よりよく見る。


 本について話しているとき。


 誰かが勧めた本を気に入ったとき。


 自分の好きなものを相手も楽しんでくれたとき。


 昔から知っていたはずなのに、今になって改めて知っているような気がする。


「どうした?」


「まだ何も」


「まだ?」


「感想は読んでから」


「そっちか。楽しみにしとく」


 春樹は納得して、自分の本を取り出した。


 雫も借りたばかりの本を机へ置く。


 その二冊が並んでいるのを見て、少しだけ嬉しくなった。


     ◇◇◇


 土曜日の授業は午前中までだった。


 最後の授業が終わり、教室の空気が一気に緩む。午後から部活へ向かう生徒もいれば、そのまま帰る生徒もおり、いつもの平日とは違う解放感が教室を満たしていた。


「春樹、今日どうする?」


 悠斗が鞄を肩へ掛けながら尋ねてくる。


「図書室」


「即答だな」


「土曜の午後だぞ。時間あるんだから読むだろ」


「その発想がもう七瀬春樹なんだよ」


「褒めてる?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「呆れてる」


「じゃあ褒めてないじゃん」


 春樹が笑っていると、紗弥もこちらへやってきた。


「高坂、今日部活ないんでしょ?」


「ないけど」


「じゃあこの前話してた映画、今日から配信だよ」


「あ、マジ?」


 悠斗の声が一段上がる。


 春樹はその反応を横目で見た。


 紗弥が以前から好きだと言っていた作品の関連映画だったはずだ。悠斗も原作を読んだり、彼女から勧められた映画を観たりしている。


「見るなら原作先の方がいいと思うけど、高坂もう読んだ?」


「途中」


「まだ途中なんだ」


「昨日寝落ちしたんだよ」


「じゃあ先に読んだ方がいいかも。後半、映画とかなり違うから」


「分かった。今日読む」


「そんな素直に読めるなら俺が勧めた本も読めよ」


 春樹が口を挟むと、悠斗は嫌そうな顔をした。


「お前の勧め方と赤木の勧め方は違うんだよ」


「何が?」


「そこから説明しないと駄目?」


「本の面白さなら俺の方が詳しく説明できるぞ」


「そういう問題じゃない」


 紗弥が吹き出し、雫も隣で肩を揺らす。


「春樹、他人の恋愛なら分かるんじゃなかったの?」


「分かるよ。だから悠斗が赤木の勧めたもの優先してる理由も分かる」


「えっ」


 悠斗の顔が引きつる。


 紗弥は意味が分からないらしく、二人を見比べた。


「何の話?」


「こいつ、好きな人に勧められたものなら優先順位上がるって話」


「春樹!」


 悠斗が慌てて春樹の肩を掴む。


 春樹はそこで、自分の言い方が危険だったことに気づいた。


「いや、一般論! 今のは一般論だから!」


「紛らわしい言い方すんな!」


「悪かったって!」


 紗弥は怪訝そうにしていたが、やがて「七瀬って本当にそういう話好きだね」と笑った。


「読むのが好きだからな」


「自分のは?」


「何が?」


「恋愛」


「今のところ本で十分」


「即答なんだ」


「現実でやったら読書時間減りそうだし」


「相手と一緒に読めば?」


「それなら……いや、それ恋愛する必要ある?」


「そこからなの?」


 紗弥が呆れ、悠斗が額を押さえた。


「お前、他人のことは分かるくせに自分の話になると急に性能落ちるよな」


「何でだよ。合理的に考えてるだろ」


「その合理性が駄目なんだよ」


「恋愛に合理性求めないなら何求めるんだ?」


「それを俺に聞くな!」


 悠斗が妙に切実な声を出したため、春樹と雫が笑う。


 紗弥も事情を知らないまま笑っていた。


 そんな紗弥の横顔を一瞬だけ見てから、悠斗は小さく息を吐く。


 春樹だけが、その視線の意味を正確に理解していた。


 だからこそ、それ以上は何も言わない。


「まあ、原作読めよ」


「読むよ」


「感想聞かせて」


「何でお前に?」


「映画との差気になる」


「結局本じゃねえか」


「当たり前だろ」


 いつもの調子に戻ったところで、悠斗たちは教室を出ていった。


     ◇◇◇


 春樹と雫が図書室へ向かう途中、一年生の廊下へ続く階段付近で、聞き慣れた声が飛んできた。


「春樹せんぱーい!」


 春樹は声の方向を見た。


 小日向ひよりが、真実と一緒に階段を上がってくるところだった。


「廊下で叫ぶなよ」


「叫んでません。ちょっと大きめに呼んだだけです」


「それを叫ぶって言うんだよ」


「細かいです」


「風紀委員に見つかっても知らないぞ」


「九条先輩ですか?」


「何で知ってるの?」


「真実先輩から聞きました」


「先輩って呼ばないでって言ってるでしょ」


 真実が困ったようにひよりを見る。


「でも学校では先輩ですよ?」


「そうだけど、普段から真実でいいって言ってるじゃん」


「じゃあ真実先輩」


「変わってない!」


 春樹が笑い、雫もつられて笑った。


「二人は今から図書室?」


 真実が尋ねる。


「俺はそう。雫も?」


「うん。せっかくだから、借りた本少し読もうかなって」


 その言葉にひよりが素早く反応した。


「借りた本?」


「春樹から」


「春樹先輩から!?」


「何でそんな反応するんだよ」


「だって選書ですか?」


「三冊目のおすすめ」


 雫が答えると、ひよりの目が輝いた。


「例の賭けのですか!」


「何でひよりが知ってんの?」


「前に聞きました」


「俺が話した?」


「たぶん雫先輩です」


「私かも」


「情報管理どうなってんだよ」


 春樹は呆れながらも、本気で嫌がってはいない。


 ひよりは雫の持つ文庫本を見た。


「それ、どんな話なんですか?」


「まだ読んでないから分からない」


「春樹先輩、どうしてこれにしたんです?」


「雫が好きそうだから」


「それだけ?」


「細かく説明すると読む前に余計な先入観入るだろ」


「昨日、白石先輩にはめちゃくちゃ説明してたじゃないですか」


「何でそれ知ってるんだよ!」


「白石先輩からメッセージ来ました」


 春樹が固まる。


「白石先輩と連絡取ってるの?」


「この前みんなで本の話したときに交換しました」


「いつの間に」


「春樹先輩が本の話してる間です」


「俺だけ知らないところで人間関係広がってない?」


「春樹先輩が広げたんじゃないですか?」


 ひよりに即座に返され、春樹は言葉に詰まった。


 真実が横で笑っている。


「ひよりの言う通りかも。最初にみんな本でつながったの、七瀬先輩がきっかけだし」


「俺、そんな大層なことしてないぞ。本貸しただけだろ」


「それで十分なんじゃないですか?」


 真実の声は柔らかかった。


 春樹は何となく返事に困り、頭を掻く。


「……まあ、本読む人増えるのはいいけど」


「そこに着地するんですね」


「他にどこへ着地するんだよ」


 ひよりが笑う。


 そのまま五人で図書室へ向かうことになった。


 以前なら、春樹にとって図書室へ向かう道は一人か、せいぜい雫と二人で歩くものだった。


 今は一年生二人まで一緒にいる。


 しかも、その状況を以前ほど騒がしいとは思わなくなっている。


(慣れって怖いな)


 そう思いながらも、春樹の口元には小さな笑みが残っていた。


     ◇◇◇


 土曜日の図書室は平日より利用者が少なかった。


 午後の柔らかな光が大きな窓から差し込み、長机の上へ四角い明るさを作っている。昨夜まで降っていた雨のせいか外の空気は湿っているものの、窓から入る風は思ったより涼しく、紙と木製書架の匂いがいつもより濃く感じられた。


 カウンターには栞がいる。


 春樹たちが入ってくると、栞は少し驚いたあと、柔らかく笑った。


「今日は多いですね」


「途中で増えました」


「増えましたって人を荷物みたいに言わないでください」


 ひよりが抗議する。


「じゃあ合流した」


「最初からそれでいいじゃないですか」


「細かいな」


「春樹先輩に言われたくないです」


 ひよりが頬を膨らませる横で、真実が栞へ軽く頭を下げた。


「こんにちは」


「こんにちは、新海さん。小日向さんも」


「こんにちは!」


 雫も挨拶を済ませる。


 春樹はいつもの席へ向かおうとしたが、栞の手元に昨日貸した本が置かれていることに気づいた。


「白石先輩、もう読んでるんですか?」


「はい。昨日、家で少し」


「早いですね」


「七瀬君が選んでくれた理由を聞いたら、気になってしまって」


「どうでした?」


「まだ最初の一人だけですけど……好きです」


 栞の返事は静かだったが、迷いがなかった。


 春樹の表情がすぐに明るくなる。


「よかった。どこがよかったです?」


「春樹」


 雫が横から止める。


「何?」


「今聞き始めたら長くなるでしょ」


「……なるな」


「白石先輩、まだ途中だよ」


「そうだった」


 春樹は名残惜しそうに本を見る。


 栞が小さく笑った。


「読み終わったら、ちゃんと話します」


「約束ですよ」


「はい」


 そのやり取りを見ていた真実は、少しだけ目を細めた。


 七瀬春樹は、本の話をしていると本当に分かりやすい。


 普段から無愛想な人ではないし、友人とも普通に笑う。それでも本の感想を聞くときだけは、相手の返事を待つ顔が少し違う。


 自分が初めて勧めてもらった本を読んだあとも、こんな顔をしていた。


(あのとき、私も嬉しかったんだよね)


 自分の感想を待ってくれている。


 自分がどこを面白いと思ったのか、ちゃんと知りたがってくれる。


 それは、ただ本を勧めてもらうだけとは少し違う。


「真実?」


 ひよりに呼ばれ、真実は我に返った。


「何?」


「座らないんですか?」


「あ、うん」


 五人はいつもの長机周辺へ散らばった。


 春樹は自分の本を開き、雫は今朝借りたばかりの本を開く。ひよりも読みかけの文庫を取り出し、真実は図書室で借りた本を机へ置いた。


 しばらくすると、会話が途切れた。


 ページをめくる音だけが、ときどき重なる。


 春樹は本へ集中していた。


 隣では雫が、自分の貸した本を読んでいる。


 向かいには真実とひよりがいる。


 少し離れたカウンターでは栞がいる。


 誰も春樹へ話しかけない。


 それでも、一人ではない。


 以前なら「静かに読むなら一人でいい」と思っていたはずなのに、今はこの空気も悪くない。


 誰かが同じ本を読んでいるわけでもない。


 全員が別々の物語へ入っている。


 それなのに、ときどき誰かがページをめくる音がすると、そこに人がいることだけは分かる。


(こういうのも読書なんだよな)


 春樹はそんなことを考えながら、再び文字を追った。


     ◇◇◇


 三十分ほど経った頃だった。


 春樹が章の切れ目で顔を上げると、隣の雫が本を閉じていた。


「休憩?」


「うん。まだ最初の方だけど」


「どう?」


 春樹は反射的に尋ねてから、少し身を乗り出した。


「まだ判断早い?」


「ううん」


 雫は表紙へ手を置いたまま、少し考える。


「好きかも」


「早くない?」


「春樹が聞いたんじゃん」


「聞いたけど」


「雰囲気が好き。大きいこと何も起きてないのに、昔から一緒にいる人たちの会話だけで、関係が何となく分かる感じ」


「ああ、そこいいよな」


「あと主人公の女の子、ちょっと面倒」


「分かる」


「分かるんだ」


「俺も最初読んだとき思った。でも後半で印象変わる」


「それネタバレじゃない?」


「具体的なこと言ってないからセーフ」


「基準が甘い」


 雫は笑ったあと、少しだけ声を落とした。


「でも、何で春樹がこれ私に選んだか、ちょっと分かった気がする」


「本当?」


「たぶんね」


「何だと思う?」


「言わない」


「何でだよ」


「最後まで読んでから答え合わせする」


「それは気になるだろ」


「じゃあ待ってて」


「俺、待つ側なの?」


「たまにはいいじゃん」


 雫は楽しそうに本を開き直した。


 春樹は納得できない顔をしながらも、自分の本へ戻る。


 けれど数行読んだところで、視線が止まった。


(何で選んだかって、雫が好きそうだからだけど)


 それ以外に何かあるのだろうか。


 作品には幼馴染が登場する。


 確かに、自分と雫も幼馴染だ。


 だから選んだと思われたのかもしれない。


(いや、それだけで幼馴染もの選んだわけじゃないんだけどな)


 むしろ雫の好みを考えた結果、最終的に残ったのがこの本だった。


 それを説明しようかと思ったが、本人が最後まで読んでからと言ったのだから待つべきだろう。


 春樹は気持ちを切り替え、再び本へ集中した。


 その隣で、雫はページをめくりながら先ほどの会話を思い返していた。


 まだ序盤。


 主人公の少女と幼馴染の少年は、恋人でもなければ、互いを特別扱いしている自覚もない。


 帰り道が同じだから一緒に帰る。


 相手の好きな飲み物を知っている。


 機嫌が悪ければ何となく分かる。


 けれど、それを特別だとは考えていない。


(……似てる)


 だから春樹が選んだのだろうか。


 そう思った瞬間、胸が少しだけ速く鳴った。


 けれど、すぐに自分で否定する。


(違う違う。春樹だよ? 絶対そこまで考えてない)


 昨日も今日も、春樹はただ「雫が好きそうだから」と言っている。


 おそらく本当にそれだけだ。


 それでも、春樹が何度も読み返した本の中に、自分たちと少し似た関係がある。


 その事実だけで、ページの文字が先ほどまでとは少し違って見え始めていた。


     ◇◇◇


 さらに時間が過ぎ、ひよりが耐えきれなくなったように本から顔を上げた。


「休憩しません?」


「小日向、まだ二十分くらいしか読んでなくない?」


「春樹先輩たちが静かすぎるんです!」


「図書室だからな」


「そうですけど!」


 声を抑えながら抗議するひよりに、真実が苦笑する。


「ひより、そもそも静かに読むために図書室来たんじゃないの?」


「来るまではそう思ってました。でもみんな一緒にいるのに誰も喋らないと、なんかもったいなくないですか?」


「図書室で言う台詞じゃないだろ」


「じゃあちょっとだけ話しましょう」


「何を?」


「本の話!」


「それなら許す」


「基準!」


 ひよりが思わず少し大きな声を出し、すぐカウンターの栞を見る。


 栞は怒るどころか、口元を押さえて笑っていた。


「白石先輩まで笑ってます!」


「すみません。小日向さんらしくて」


「褒められてます?」


「たぶん」


 春樹が答える。


「春樹先輩に聞いてません!」


 また笑いが広がった。


 利用者の少ない土曜日だからこそ許される程度の、小さな賑やかさだった。


「じゃあさ」


 真実が本を閉じる。


「七瀬先輩、昨日も本選んでたんですよね?」


「うん」


「白石先輩と一ノ瀬先輩と、雫先輩?」


「そう」


「三人同時に?」


「たまたま重なっただけ」


「大変じゃないですか?」


「結構楽しかったぞ」


 春樹は迷わず答えた。


「相手違うと候補全然変わるから。自分が読みたい本探すのとは別の面白さある」


「私のときも?」


「もちろん」


 真実が少し驚く。


「新海は最初、厚い本だと読む前に警戒するかもしれないと思ったから、読みやすさもかなり重視したし」


「覚えてるんですね」


「覚えてるよ。新海の場合、最初は俺が勝手に選んだんじゃなくて相談されてたし」


「そうですけど……」


「ひよりはもっと会話多めで、重すぎない方がいい。白石先輩は静かでも平気だけど、人間関係の細かい変化がある方がいい。一ノ瀬先輩は人の言動の裏考えるタイプだから、そこが面白いやつ」


「雫先輩は?」


 ひよりが尋ねる。


 雫が本から顔を上げた。


 春樹は少し考える。


「雫は……」


「何?」


「一番難しい」


「えっ」


 ひよりが食いつく。


「どうしてです?」


「好み知ってるから」


「逆じゃないですか? 知ってたら選びやすいですよね?」


「最初の一冊ならな。でも雫は今回三冊目だし、前と同じ方向ばっかり渡しても面白くない。好きそうなのはある程度分かるから、その範囲から少しだけ外したいんだよ」


 春樹は机に置かれた文庫本を指した。


「絶対好きそうなものを渡すだけなら簡単。でも、本人が自分では選ばないかもしれないのに、読んだら好きになるかもしれないところ探す方が面白い」


 ひよりが目を瞬かせた。


「春樹先輩、雫先輩のことめちゃくちゃ考えて本選んでません?」


「賭けだからな」


「そこで賭けを出すんですか」


「勝ったら本一冊だぞ。真剣になるだろ」


「そういう問題かなあ」


 ひよりが首を傾げる。


 真実は何も言わなかった。


 雫もすぐには口を開かなかった。


 春樹だけが、自分の説明の何がおかしいのか分かっていない。


「でも」


 真実が少し考えてから言った。


「七瀬先輩って、相手を知ってるほど本選ぶの難しくなるんですね」


「場合によるけどな」


「私は逆だと思ってました。知ってるほど簡単になるのかと」


「外さないだけなら簡単。でも、それだと俺がつまらない」


「七瀬先輩が?」


「うん。せっかく勧めるなら、その人がまだ知らないけど好きかもしれない本見つけたいじゃん」


 真実はその言葉を聞きながら、以前春樹から本を受け取ったときのことを思い出していた。


 自分が何を読みやすいと思うか。


 何が苦手か。


 どんな話なら最後まで読めそうか。


 春樹は、それを少しずつ覚えている。


 それは恋愛とは違う。


 少なくとも今の真実には、そういう名前をつける必要はない。


 ただ、自分のことを知ったうえで次の一冊を考えてもらえることが、嬉しい。


「じゃあ私も」


「ん?」


「また今度、選んでもらっていいですか?」


「いいよ」


 春樹はあまりにも普通に答えた。


「前に読んだやつ踏まえて、次探せばいい?」


「はい」


「じゃあ今度好み聞く」


「お願いします」


 真実が笑う。


「私も!」


 当然のようにひよりが手を上げた。


「お前は今読んでるの終わらせてからな」


「終わったらいいんですね?」


「感想聞いてから」


「約束ですよ!」


「分かったって」


 春樹は笑いながら答えた。


 雫はその光景を見ていた。


 少し前なら、真実やひよりが春樹へ次の本を頼むたびに、胸の奥へ小さな引っかかりが生まれていたかもしれない。


 今も、まったく何も感じないわけではない。


 それでも以前より、その感覚を落ち着いて受け止められる。


 春樹は本が好きだ。


 好きな本を誰かへ渡し、その人が楽しんでくれることを喜んでいる。


 それをやめてほしいとは思わない。


 ただし――自分に選ぶときだけは、一番難しいと言った。


 その事実が、胸の中へ小さく残っている。


(……それで嬉しくなるの、ずるいな)


 雫は誰にも気づかれないよう、借りた本のページへ視線を戻した。


     ◇◇◇


 午後三時を過ぎた頃、春樹たちは図書室を出た。


 真実とひよりは途中で別れ、栞は図書委員の仕事が残っているため図書室に残っている。


 校門へ向かう道には春樹と雫だけが残った。


「結構読んだ?」


 春樹が尋ねる。


「まだ三分の一くらい」


「十分早いよ」


「続き気になる」


「お」


「何、その顔」


「いや、順調だなと思って」


「賭けに?」


「それもある」


「それも?」


 雫が横を見る。


 春樹は少し考えたあと、素直に答えた。


「普通に、雫がその本気に入ってくれたら嬉しい」


「……そっか」


「何だよ」


「何でもない」


「今日は教えてくれよ」


「嫌」


「何で!?」


 春樹の声が少し大きくなる。


 雫は笑いながら先を歩いた。


「読み終わったらね」


「本の感想と関係あるの?」


「あるかも」


「じゃあ余計気になるだろ」


「待ってて」


「昨日から待たされてばっかりなんだけど」


「小説だって途中で答え全部出たらつまらないでしょ?」


「俺は読者なら待てるんだよ。現実でやられると気になるの」


「じゃあ頑張って」


「何をだよ」


 雫は答えない。


 少し前を歩きながら、楽しそうに笑っている。


 春樹は納得できないまま、その隣へ追いついた。


 駅へ続く道には、昨日の雨でできた小さな水たまりが残っていた。雲の隙間から差し込んだ午後の日差しがその表面で揺れ、二人の影を細長く路面へ伸ばしている。


 春樹は歩きながら、ふと雫の鞄を見た。


 中には自分が何度も読んだ本が入っている。


 今夜、雫は続きを読むのだろう。


 どこで笑うのか。


 どこで立ち止まるのか。


 どの人物を好きになるのか。


 そして最後まで読んだあと、何と言うのか。


(……早く感想聞きたいな)


 自分の本を読む時間はもちろん欲しい。


 今日も帰ったら続きを読むつもりだ。


 それなのに今は、自分が読む物語の続きと同じくらい、雫が読む物語の続きが気になっている。


「雫」


「何?」


「読み終わったらちゃんと連絡して」


「そんなに感想聞きたいの?」


「聞きたい。今回かなり考えたから」


「分かった」


 雫は少しだけ歩調を緩めた。


「ちゃんと最初に春樹に言う」


「おう」


「でも夜遅かったら次の日ね」


「そこは普通に寝ろ」


「春樹に言われたくない。続き気になって夜更かしする人でしょ」


「読書の夜更かしは例外」


「例外じゃありません」


「母親みたいなこと言うなよ」


「誰のせいだと思ってるの」


 いつものように言い合いながら、二人は駅へ向かって歩いていく。


 その距離は昔からほとんど変わっていない。


 肩が触れるほど近くもなく、離れて歩くほど遠くもない。


 けれど雫には、同じはずの距離が以前とは少し違って感じられていた。


 鞄の中にある一冊のせいなのか。


 最近増えた春樹との会話のせいなのか。


 それとも、自分自身が何かを気にし始めたせいなのか。


 まだ答えは分からない。


 だから今は、春樹が選んだ物語の続きを読もうと思う。


 もしかすると、その本の中には、自分ではまだうまく言葉にできない何かを考えるための手がかりがあるかもしれない。


 そんなことを思ってしまった自分が少し恥ずかしくて、雫は隣を歩く春樹に気づかれないよう、ほんの少しだけ口元を緩めた。

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