第28話 本を選んでいるだけなのに、どうして相手の顔まで浮かぶんだ?
金曜日の朝、七瀬春樹はいつもより少し早く教室へ着いていた。
窓の外には梅雨らしい灰色の雲が広がっているものの、雨はまだ降っていない。湿気を含んだ風が開いた窓から入り込み、机に置いた文庫本のページをわずかに揺らしている。教室にはまだ十人ほどしかおらず、廊下から聞こえてくる足音や遠くの運動部の掛け声も、普段よりずっとはっきり聞こえていた。
そんな静かな時間に春樹が開いていたのは、小説ではなかった。
昨日の朝にも使っていた、小さなメモ帳である。
「……こっちは一ノ瀬先輩。これは白石先輩で、雫は……やっぱりこっちかな」
三人へ勧める本を考え始めてから、すでに何度候補を書き直したか分からない。怜華については本人から聞いた条件がかなり明確だったため、昨日の時点でほぼ一冊に絞れていたが、問題は栞と雫だった。
栞から頼まれているのは、自分では普段選ばないけれど、春樹が栞に合うと思う本。
この条件が思った以上に難しい。
栞の好みだけを考えるなら、静かなミステリーや短編集を選べば大きく外す可能性は低い。しかし、それでは彼女自身が普段選ぶ本とあまり変わらず、わざわざ春樹へ頼んだ意味が薄くなる。
(恋愛を強くしすぎると違う気がするんだよな。白石先輩、恋愛ものが嫌いなわけじゃないけど、そこだけを押されるより、人間関係の中に自然に入ってる方が好きそうだし)
春樹は候補の一冊に小さな丸をつけた。
地方の小さな喫茶店を舞台にした青春群像劇。主人公一人を追う物語ではなく、店を訪れる高校生や大学生、会社員たちの話が少しずつ重なり、最後には一つの出来事へつながっていく作品だった。
ミステリー要素は薄い。
恋愛もあるが中心ではない。
静かな会話が多く、読後感も柔らかい。
(白石先輩、自分じゃ選ばなそうだけど……たぶん好きだと思う)
そう考えたところで、春樹の頭には図書室のカウンターで静かに本を読む栞の姿が浮かんだ。
読み終えたあと、彼女ならどの話を一番好きだと言うだろう。
三番目の大学生の話か。
それとも最後の高校生二人の話か。
想像してみると、少し楽しい。
「……よし、白石先輩はこれにするか」
「何を白石先輩にするの?」
すぐ横から聞こえた声に、春樹は顔を上げた。
いつの間にか登校していた雫が、鞄を机へ置きながらこちらを見ている。
「本」
「やっぱり」
「他に何だと思ったんだよ」
「春樹だから本だとは思ったけど、一応聞いただけ」
雫は自分の椅子を引いて座ると、春樹の手元へ視線を落とした。
「決まった?」
「白石先輩は今決まった。一ノ瀬先輩もほぼ決まってる」
「私は?」
「それがなあ……」
「何で私が最後なの?」
雫の声に少しだけ不満が混じる。
春樹はメモ帳を見ながら眉を寄せた。
「最後っていうか、一番迷ってる」
「それ、喜んでいいやつ?」
「たぶん」
「たぶんなの?」
「だって三冊目だぞ。これで外したら本買ってもらえないじゃん」
「結局そこなんだ」
「重要だろ。一冊無料で手に入るんだぞ」
「無料じゃないよ。私が払うんだから」
「俺から見たら無料」
「最低」
そう言いながらも雫は笑っている。
春樹も笑いながら、メモ帳の二冊を指で交互に叩いた。
「でも本当に迷ってるんだよ。こっちは雫が好きそうな要素がかなり多い。たぶん外さない」
「じゃあそれでいいじゃん」
「でも安全すぎる」
「本を勧めるのに安全とかあるの?」
「ある。好きそうな本をそのまま渡すだけなら簡単なんだよ。でも三冊目だし、どうせなら今までとちょっと違うやつ読ませたい」
「……春樹って、本当にそういうところだけ妙にこだわるよね」
「そういうところだけって何だよ」
「本が絡むところ」
「否定できない」
雫は机へ頬杖をつきながら、春樹の横顔を眺めた。
自分へ勧める本を、こんなふうに何日も考えている。
賭けに勝ちたいから。
本を一冊買ってもらいたいから。
春樹本人に聞けば、きっとそう答える。
けれど、それだけなら最も外れにくい本を選べばいいはずだった。
それでも春樹は、雫が次に何を読めば楽しめるかを考えている。
(私が好きそうなもの、そんなに考えてくれてるんだ)
胸の奥が少しくすぐったい。
以前なら、幼馴染だから好みを知っているのは当然だと思っていたかもしれない。
今は、その「当然」が少し違って見える。
「何?」
視線に気づいた春樹が尋ねる。
「別に」
「またそれ?」
「本当に別に」
「最近みんな俺に隠し事多くない?」
「春樹が気づかないだけじゃない?」
「それが一番困るんだけど」
春樹は不満そうに言ったあと、もう一度メモ帳へ視線を戻した。
「まあ、今日決めるよ」
「急がなくてもいいけど」
「いや、決めたい。俺が気になる」
「じゃあ待ってる」
「おう」
雫はその返事だけで、少し機嫌がよくなった。
◇◇◇
一時間目のホームルームが始まると、永山剛志は出席確認を終えたあと、教卓の上へ一枚のプリントを置いた。
「スポーツ交流会について追加連絡だ。昨日までに各競技の希望人数を調整した結果、大枠は決まった。細かい交代順や競技代表については来週確定する」
教室のあちこちから反応が上がる。
春樹は嫌な単語を聞いた気がして、机に置いていた筆箱からゆっくり顔を上げた。
「先生」
「何だ七瀬」
「今、競技代表って言いました?」
「言ったな」
「聞き間違いじゃない?」
「残念だったな。お前の耳は正常だ」
「そうですか……」
「何でそんな絶望した顔してんだ」
教室に笑いが広がる。
永山は口元を上げながら、黒板へ「競技代表」と書いた。
「各クラス、競技ごとに一人。仕事は当日の集合確認、事前説明の共有、交代順の確認程度だ。別に選手宣誓をやれとか、全校生徒の前で演説しろとかじゃない」
「それなら俺じゃなくてもできますね」
「まだお前とは言ってないだろ」
「今のうちに予防線張ってるんです」
「本が絡むと判断力が三割くらい落ちるくせに、こういうところだけ先読みするよな、お前」
「読書時間に関係する危機察知能力は高いんです」
「威張るな」
また笑いが起こる。
悠斗が斜め前から振り返った。
「もう諦めろよ、春樹。昨日も仕切ってたんだろ?」
「仕切ってない」
「杉浦から聞いたぞ。配置まで考えてたって」
「情報回るの早すぎない?」
「同じクラスだからな」
「だったら杉浦でいいじゃん」
「経験者ならお前の方が長いだろ」
「でも杉浦の方がやる気ある」
「本人に押しつけんなよ」
当の杉浦が少し離れた席から笑いながら抗議した。
「七瀬、昨日ほとんど決めてただろ。俺が代表になっても絶対お前に聞くぞ」
「それなら杉浦が俺に聞いて、それを代表として伝えればいい」
「二度手間じゃん」
「俺の読書時間は守られる」
「クラス全体の効率を犠牲にすんな!」
杉浦のもっともな反論に、教室中から笑い声が上がった。
永山はしばらく好きに言わせたあと、手を叩いて静かにさせる。
「まだ正式決定じゃない。来週までに考える。ただし、経験者だからという理由だけで全部押しつけるつもりはないから安心しろ」
「本当ですか?」
「お前はまず人の話を最後まで聞け」
「はい」
「返事だけはいいんだよな」
春樹はとりあえず胸を撫で下ろした。
しかし永山がこちらを見たとき、妙に楽しそうだったことには気づいている。
(あれ、絶対何か考えてる顔だろ)
怜華も、教師から推薦される可能性があると言っていた。
嫌な条件が少しずつ揃っている。
(連絡係ならまだいい。でも代表って呼ばれると絶対仕事増えるんだよな……)
春樹が真剣に悩んでいる横で、雫は笑いを堪えていた。
昨日のグラウンドを見ていた彼女からすれば、なぜ春樹が候補になるのかはよく分かる。
初心者へ声をかけ、経験者との配置を考え、全員が触れるようにボールを回していた。
本人だけが、それを「当日困らないための準備」と言い張っている。
(そういうところなんだけどな)
雫は口には出さず、まだ少し不満そうな幼馴染の横顔を見ていた。
◇◇◇
昼休み。
今日はひよりも真実も来ていなかったため、春樹は久しぶりに悠斗、雫、紗弥だけで昼食を取っていた。
「なんか静かだな」
パンの袋を開けながら春樹が言うと、紗弥が呆れた顔をする。
「七瀬がそれ言うんだ」
「何で?」
「少し前まで、昼休み静かな方がよかったんじゃないの?」
「別に静かなのが嫌になったわけじゃないけど」
春樹はパンを一口食べ、教室を見回した。
普段通りの昼休みだ。
近くでは男子数人がスポーツ交流会について話しており、窓際では女子が机を囲んで弁当を食べている。廊下からは他クラスの生徒が行き交う声も聞こえる。
何もおかしくない。
なのに、ここ最近の昼休みと比べると少しだけ人数が足りないように感じた。
「小日向が騒がないからか」
「ひよりちゃん基準なんだ」
雫が笑う。
「新海はそこまで騒がないだろ」
「真実ちゃんはひよりちゃん止める側だもんね」
「最近は止めきれてないけどな」
「春樹が本の話振るからでしょ」
「俺のせい?」
「半分くらい」
「納得いかない」
春樹はそう言いながらも笑っていた。
悠斗がその様子を見て、少し意地の悪い顔をする。
「春樹さ」
「何?」
「前より昼休みに人来るの、普通になったよな」
「そうだな」
「嫌じゃないの?」
以前なら、春樹は「読書時間が減る」と即答していたかもしれない。
今は少し考えた。
「毎日ずっと話しかけられたら困るけど、昼飯食ってる時間なら別にいいかな」
「変わったねえ」
「何が?」
「最初は女子に囲まれてても本読もうとしてたじゃん」
「今も読みたいときは読むぞ」
「そこじゃないんだよな」
「じゃあどこだよ」
悠斗は答えず、紗弥と顔を見合わせた。
「なあ赤木」
「うん。本人だけ分かってないやつ」
「何だよ、その共有」
「教えても七瀬は『別に普通だろ』って言いそうだからいい」
「最近それ多くない? 俺だけ説明省かれてない?」
春樹が抗議している横で、雫は箸を止めていた。
以前より人が増えた。
それは自分も感じている。
真実が来る。
ひよりが来る。
図書室へ行けば栞がいる。
廊下では凛と話す。
怜華まで春樹へ声をかけるようになった。
以前の雫なら、その一つ一つに小さく落ち着かない気持ちを抱いていた。
今も完全になくなったわけではない。
けれど、春樹自身がそれを楽しんでいるなら、それを嫌だと思いたくない気持ちも育っている。
「春樹」
「ん?」
「人増えた方が楽しい?」
雫の問いに、春樹は少し考えた。
「場合による」
「場合?」
「本読みたいときに十人くらい一気に来たら逃げる」
「そこは変わらないんだ」
「でも、本の話なら何人かいても面白いし、昼飯のときに話すのも嫌じゃない。昨日のサッカーも一人で蹴るよりみんなでやった方が楽しかったし」
そこで一度言葉を切り、春樹は自分の答えを確認するように続けた。
「一人で本読む時間がいらなくなったわけじゃないんだよ。むしろそれは絶対いる。でも、それ以外の時間が全部邪魔ってわけでもないっていうか……最近はそんな感じ」
「へえ」
悠斗が笑う。
「何?」
「いや。ちゃんと青春してるなと思って」
「してない」
「今の話のどこに否定要素あった?」
「青春って言われると何か違う」
「何が違うんだよ」
「もっとこう、放課後にみんなで海行ったり、文化祭の準備で夜まで残ったり、好きな子と帰ったりするやつだろ」
「お前の青春観、恋愛小説とラノベに汚染されすぎてない?」
「俺が普段何読んでると思ってんだ」
「自覚あるのかよ」
悠斗のツッコミに、雫と紗弥が吹き出した。
春樹も笑いながらパンの残りを口へ運ぶ。
その会話の中で、雫は少しだけ安心していた。
春樹が一人の時間を大事にすることは変わらない。
けれど、その外側にいる人たちを「邪魔」とは思わなくなっている。
(私も、その中にいるんだよね)
ただし、自分がその「人たち」の一人で終わりたいのかと聞かれれば、なぜか素直に頷けない。
そこまで考えたところで、雫は箸を止めそうになった。
(……何で?)
答えは出ない。
出そうとも思わなかった。
今はまだ、そこへ名前をつけなくていい。
◇◇◇
午後の授業を終えた春樹は、帰りのホームルームが終わると真っ先に鞄からメモ帳を取り出した。
「まだ考えてたの?」
雫が隣から覗き込む。
「決めた」
「え?」
「三冊とも」
春樹は満足そうにメモ帳を閉じた。
「一ノ瀬先輩と白石先輩と、雫」
「私も?」
「おう」
「どんな本?」
「まだ言わない」
「何で?」
「実物渡した方がいいだろ」
「学校の図書室にあるの?」
「白石先輩のはある。一ノ瀬先輩のもあるはず。雫のは駅前の本屋か、俺が持ってる」
「春樹持ってるの?」
「うん。でも俺のやつ結構読み返してるから少し傷んでるんだよな。貸すなら別にいいけど、賭けの三冊目として渡すなら綺麗な方がいい気もする」
「別に春樹の本でいいよ」
「いいの?」
「うん」
雫は迷わなかった。
「むしろ春樹が読んだやつの方がいい」
「何で?」
春樹の問いに、雫が一瞬だけ詰まる。
理由は自分でも分かる。
春樹が実際に読んだ本。
何度か読み返して、ページをめくって、面白いと思った本。
その同じ一冊を借りて読みたい。
ただ、それをそのまま説明するのは少し恥ずかしい。
「……感想話しやすいから」
「なるほど」
春樹はあっさり納得した。
「じゃあ俺の貸すよ。明日持ってくる」
「うん」
「ただ、表紙ちょっと擦れてるぞ」
「それくらい気にしないよ」
「あと途中のページに栞挟んだ跡あるかも」
「春樹が本を雑に扱うとは思ってないから大丈夫」
「そこは信用されてるんだな」
「そこはって何?」
「朝、恋愛で悩んでたら何かあったと思うって言ってたじゃん」
「あれとこれは別」
「俺への評価複雑すぎない?」
「長い付き合いだからね」
雫は笑った。
春樹も笑いながら鞄を持つ。
「じゃあ図書室行くか」
「うん」
二人が教室を出ようとしたところで、廊下の向こうから見覚えのあるポニーテールが近づいてきた。
「七瀬」
「九条?」
凛は二人の前まで来ると足を止めた。
「ちょうどよかった。少し時間あるか?」
「内容と所要時間による」
「相変わらずだな、お前は」
「今日は図書室で本探したいから」
「五分もかからない。森下の件だ」
春樹はすぐに表情を変えた。
「何かあった?」
「悪い話ではない。本人がお前に礼を言いたいと言っていただろう」
「ああ」
「今日、部活前に少し時間があるらしい。今から来てもらってもいいか?」
「それならいいよ」
「助かる」
凛は頷いたあと、雫へ視線を向けた。
「西条も一緒だったか。すまない」
「私は大丈夫。図書室行くだけだから」
「五分で終わらせる」
「凛が謝ることじゃないよ」
雫が笑う。
春樹は鞄を持ち直した。
「森下どこ?」
「一階の昇降口前だ。部活へ行く前に待っている」
「じゃあ行くか」
三人で階段へ向かう。
その途中、凛が春樹の横へ並んだ。
「昨日のサッカーは問題なかったのか?」
「何で知ってるの?」
「神谷がクラスで話していた。お前が三組の参加者をまとめていたと」
「まとめてない」
「お前、最近そればかり言っていないか?」
「事実だから」
「神谷は『あいつ絶対代表向いてる』と言っていたぞ」
「九条、今すぐその記憶消せない?」
「無理だ」
「じゃあ神谷に忘れるよう言っといて」
「もっと無理だ」
凛の口元が少し緩む。
以前なら、春樹のこうした態度を不真面目だと感じていたかもしれない。
今は違う。
嫌がりながらも必要なことはする。
正しい注意なら聞く。
頼まれた相手が困っていれば、読書時間を惜しみながらも手を貸す。
(本当に面倒なやつだな)
そう思うのに、不思議と嫌ではない。
「何?」
春樹が視線に気づく。
「別に」
「九条まで!?」
「何がだ?」
「今日何回目だよ、その返事!」
「知らん」
凛が笑いを堪えるように前を向き、雫まで後ろで笑い始めた。
「何なんだよ、もう」
春樹の不満だけが階段へ響いた。
◇◇◇
昇降口の近くでは、森下が部活用の竹刀袋を持って待っていた。
春樹たちに気づくと、少し緊張したように背筋を伸ばす。
「七瀬先輩」
「久しぶり。九条から聞いたけど、テストよかったんだって?」
「はい」
森下の表情が明るくなる。
「前より二十点以上上がりました」
「それはすごいじゃん」
「七瀬先輩に教えてもらったところ、ちゃんとできました」
「でも解いたのは森下だからな。俺はちょっと考え方説明しただけ」
「九条先輩にもそう言われました。七瀬先輩ならたぶんそう言うって」
「俺の台詞予測されてない?」
春樹が凛を見る。
「当たっていただろう」
「当たってたけど」
森下は二人のやり取りに小さく笑ったあと、改めて春樹へ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「うん。よかったな」
「それと……もう一個だけ聞きたいところがあるんですけど」
「今?」
「すみません」
森下が申し訳なさそうに問題集を取り出しかけたため、春樹は時計を確認した。
図書室へ行く時間はまだ十分ある。
「どこ?」
「いいんですか?」
「五分くらいなら。問題見ないと分からないけど」
「ありがとうございます」
森下が問題集を開く。
凛はその様子を見ながら、やはりなと思った。
春樹は頼まれれば何でも引き受ける人間ではない。
無理なら無理と言う。
時間がなければ断る。
けれど、自分の中で許容できる範囲なら、相手が困っていることを放っておかない。
だから森下も、必要以上に遠慮せず質問できるようになったのだろう。
「ここです」
「これか。前のやつと似てるけど、途中で条件一個増えてるんだよ」
春樹は問題集を受け取り、森下がどこまで解いたのかを見る。
「答え見せても意味ないから、まずここまで自分で説明してみて」
「はい」
「前と同じ。合ってるかどうか気にしなくていいから、何でこの式にしたかだけ言って」
森下が少しずつ説明を始める。
春樹は途中で遮らず、詰まったところだけを指で示した。
雫は少し離れた場所で、その姿を見ていた。
昨日のグラウンドでは、初心者へサッカーを教えていた。
今日は数学。
どちらでも春樹は、自分で全部やって見せるのではなく、相手に考えさせる。
「そこまで合ってる。じゃあ次、この条件が増えたら何が変わる?」
「あ……こっちですか?」
「そう。だったら?」
「この数字を……ここに入れる?」
「やってみ」
森下が鉛筆を動かす。
しばらくして答えへ辿り着くと、その顔が明るくなった。
「できた」
「できたじゃん」
「本当だ……」
「だから前よりちゃんと分かってるよ。たぶん次から一人でもいける」
「はい!」
森下の返事には、以前より明らかに自信があった。
春樹は問題集を返す。
「じゃあ部活頑張って」
「ありがとうございます!」
森下はもう一度頭を下げ、凛とともに剣道場へ向かおうとした。
数歩進んだところで、凛だけが振り返る。
「七瀬」
「ん?」
「助かった」
「九条が礼言うことじゃないだろ」
「私が頼んだことでもあるからな」
「じゃあ今度、本屋で面白そうな本見つけたら教えて」
「礼の要求が本なのか?」
「買えとは言ってないだろ。情報だけ」
「……分かった。覚えていたらな」
「十分」
春樹が満足そうに笑う。
凛は一瞬だけ目を細め、それから森下を追って歩き出した。
その背中を見送りながら、雫が隣で口を開く。
「春樹」
「何?」
「凛とも結構仲良くなったよね」
「そう?」
「最初、ずっと注意されてたじゃん」
「今もされるぞ」
「でも前と違う」
「まあ……九条、正しいこと言ってるときは正しいし」
「そこ?」
「あと話しやすくはなったかな。最初より俺の扱い雑になったけど」
「それは春樹もでしょ」
「俺?」
「凛に普通に冗談言ってるじゃん」
「知り合って結構経ったし」
春樹にとっては、それだけのことらしい。
雫はそれ以上追及せず、図書室へ向かって歩き出した。
けれど胸の奥には、小さな感覚が残った。
春樹の周りにいる人が増えている。
それだけではない。
一人一人との関係が、それぞれ違う形で深くなっている。
真実とは本や勉強。
ひよりとは選書と賑やかな会話。
栞とは静かな読書と本の感想。
凛とは注意する側とされる側から始まった、少し不思議な信頼。
怜華とは、春樹自身も気づいていないところで続いている探り合いのような会話。
そして自分は――。
(私は、幼馴染)
それは誰にも取られない。
昔から隣にいた。
春樹の昔を知っている。
家へ帰る道も、好きな本の傾向も、サッカーをしていた頃の姿も知っている。
大切な言葉のはずなのに、最近はそれだけで自分を説明しようとすると、なぜか少しだけ足りない気がする。
「雫?」
春樹が振り返った。
「遅いぞ」
「あ、ごめん」
「何か考えてた?」
「ちょっとだけ」
「何?」
雫は数歩早足になって、春樹の隣へ戻った。
「内緒」
「また俺だけ知らないやつ?」
「そうかも」
「今日それ多すぎるだろ」
「そのうち分かるんじゃない?」
「俺、そういう曖昧な伏線みたいなの現実でやられるの嫌なんだけど」
「小説なら好きなくせに」
「読む側ならな。自分が回収する側になるのは違う」
「春樹らしい」
二人の笑い声が、放課後の廊下へ小さく広がった。
◇◇◇
図書室へ着くと、いつものように静かな空気が二人を迎えた。
窓の外は朝より暗くなっており、今にも雨が降り始めそうだった。室内には数人の生徒が散らばって座り、ページをめくる音と、遠くで本を棚へ戻す小さな音だけが聞こえている。
カウンターには栞がいた。
「こんにちは」
「こんにちは、白石先輩」
「西条さんも」
「こんにちは」
雫が挨拶する。
春樹はそのままいつもの席へ行かず、鞄を机へ置いてから一つの書架へ向かった。
栞はその行動に気づいたものの、声をかけずに見守っている。
春樹は昨日から目をつけていた棚の前でしゃがみ、一冊の本を抜き出した。
表紙を確認する。
間違いない。
「白石先輩」
「はい?」
春樹が本を持って戻ると、栞は少し驚いたように顔を上げた。
「決めました」
「……私のですか?」
「はい」
差し出したのは、朝に最終候補へ決めた喫茶店を舞台にした青春群像劇だった。
栞は両手で受け取る。
「これ……読んだことないです」
「よかった」
「タイトルは見たことありますけど、自分では選ばなかったと思います」
「それなら条件一個クリアですね」
春樹は嬉しそうに笑う。
「白石先輩、静かな話好きですけど、別に事件がないと読まないわけじゃないでしょ?」
「はい」
「これ、ミステリーってほどの謎はないです。でも登場人物ごとに見えてるものが違って、前の人の話では何でもなかった台詞が、別の人の話だと意味変わるんですよ」
春樹の声は自然と少し弾んでいた。
「あと恋愛も入ってるけど、それだけじゃなくて、友達とか家族とか、知らない人同士の距離が少しずつ近くなる感じが結構いいです。白石先輩なら、たぶん事件そのものより、そういう人同士のつながりを読むの好きなんじゃないかなと思って」
栞は本へ視線を落とした。
春樹が、自分のために選んだ一冊。
単に好きそうだからではなく、自分が普段何を読み、何を面白いと言ったのかを覚えたうえで、それでも自分では手に取らなそうなところまで考えている。
「……すごいですね」
「何がです?」
「ちゃんと、私が頼んだ通りです」
「まだ白石先輩が面白いと思うか分からないですよ」
「でも、七瀬君がどうしてこれを選んだのか聞いただけで、読みたくなりました」
「それならよかった」
春樹は心底安心したように笑った。
「読み終わったら感想聞かせてください。合わなかったら合わなかったでいいんで」
「はい。絶対言います」
「絶対じゃなくてもいいですけど」
「言いたいんです」
栞が少しだけ強く答えた。
春樹は一瞬目を丸くしたあと、「じゃあ待ってます」と笑う。
その会話を少し離れた席から見ていた雫は、不思議と以前ほど胸がざわつかなかった。
栞には栞と春樹の関係がある。
本を通じて、静かに積み重ねてきた時間がある。
それを自分と比べても意味がない。
そう思える。
ただ、春樹が相手のために真剣に本を選び、それを渡したときに見せる顔は、少しだけ特別に見えた。
(私のときも、あんな顔するのかな)
そんなことを考えてしまった自分に気づき、雫は開こうとしていた本へ視線を落とした。
◇◇◇
栞が借りる手続きを済ませたあと、春樹はようやく自分の席へ座った。
ところが本を開いて十分ほど経ったところで、図書室の扉が静かに開く。
入ってきた人物を見て、春樹は一度ページから顔を上げた。
一ノ瀬怜華だった。
怜華もすぐに春樹へ気づく。
目が合った瞬間、その整った微笑みがほんの少しだけ楽しそうなものへ変わった。
「こんにちは、七瀬君」
「こんにちは」
「今日はサッカーじゃないのね」
「毎日やってたら俺の読書時間なくなるじゃないですか」
「昨日は楽しそうだったけれど?」
「楽しかったですよ。でも楽しいものが一個しかないわけじゃないので」
「なるほど」
怜華はカウンターへ向かう前に、春樹の席の横で足を止めた。
「それで?」
「何がです?」
「昨日、私の好みをあれだけ細かく聞いたでしょう?」
「もう決めましたよ」
怜華の目がわずかに細くなる。
「早いわね」
「一ノ瀬先輩のは割と決めやすかったです」
「白石さんより?」
「何で白石先輩のこと知ってるんですか」
「今、カウンターに見慣れない本を持っていたから。七瀬君の方を何度も見ていたし」
「観察しすぎじゃないです?」
「生徒会長は周囲を見るものよ」
「絶対それだけじゃないでしょ」
春樹が半眼になる。
怜華は笑みを深くした。
「そういうところ、本当に面白いわね」
「またそれですか」
「褒めているのよ?」
「先輩の場合、半分くらい玩具見つけたときの感想に聞こえるんですよ」
「半分なの?」
「もっと多い?」
「どうかしら」
「ほら」
春樹は呆れながら立ち上がった。
「ちょうどいいから持ってきます」
「今?」
「図書室にあるんで」
春樹が書架へ向かう。
怜華はその後ろ姿を眺めながら、ほんの少し意外に思っていた。
昨日、自分の好みを聞かれた。
あのとき春樹は、確かにかなり細かく質問していた。
長編か短編か。
結末が明るい方がいいか。
謎解きは好きか。
恋愛要素はどの程度まで許容できるか。
主人公の性格は。
会話が多い作品と地の文が多い作品ならどちらがいいか。
質問の数だけなら、ちょっとした面接のようだった。
けれど怜華自身は、そこまで本気で選んでもらえるとは思っていなかった。
(もう決めたのね)
数分もしないうちに春樹が戻ってくる。
手には一冊の文庫本。
「これです」
「連作短編?」
「はい。全部同じ街で起きる話なんですけど、主人公が毎回違います。一話だけでも読めるけど、最後まで読むと最初の話の見え方がちょっと変わる」
怜華は表紙を見る。
知らない作品だった。
「どうして私に?」
「一ノ瀬先輩、昨日『犯人当てだけのミステリーは途中で飽きることがある』って言ってたじゃないですか」
「言ったわね」
「これ、謎そのものはそこまで難しくないです。たぶん先輩なら途中で大体分かる」
「随分な評価ね」
「でも重要なのは、何でその人がそうしたかの方なんですよ。先輩、人の行動の理由考えるの好きそうだから」
怜華の笑みが、ほんのわずかに止まった。
春樹は気づかず続ける。
「あと、登場人物が表で言ってることと本音が結構違う。読んでる側は途中から『この人、たぶんこう思ってるな』って分かるんですけど、それが最後に少しずつつながるんですよ」
「……私にぴったりだと思った?」
「少なくとも、普通の青春恋愛もの渡すよりは」
「私、そんなに人の本音を読むのが好きそうに見えるのかしら」
声は柔らかい。
けれど、いつものからかうような調子が少しだけ薄れていた。
春樹は怜華の顔を見た。
「好きじゃないんですか?」
「嫌いではないわ」
「じゃあ合ってると思います」
「本当にそれだけ?」
「それ以外に何が?」
春樹の顔には裏がない。
怜華を試したわけでも、性格を皮肉ったわけでもない。
昨日聞いた好みと、これまで話したときの印象を合わせて、単純に面白がりそうな本を選んだだけなのだ。
怜華は受け取った本の表紙を指先で撫でた。
(この子は、人を見ていないようで見ているのよね)
そして見ているくせに、そこへ余計な意味をつけない。
自分の笑顔の奥にある面白がっている部分には気づいた。
けれど、それを「自分に特別な興味がある」とは結びつけない。
昨日サッカーを見に行ったことも、仕事だと言えばそのまま納得した。
その鈍さが、怜華にはまだ面白い。
同時に、少しだけ不思議でもあった。
「ありがとう。借りてみるわ」
「読み終わったら感想ください」
「感想まで要求するの?」
「選んだ側として気になるんですよ。どこが合って、どこが外れたか分かれば次に使えるし」
「次も選ぶつもり?」
「面白かったらですけど」
「ふふ……そう」
怜華は本を胸元へ寄せた。
「じゃあ、ちゃんと読んでおくわ」
「無理して全部読まなくていいですよ。合わなかったら一話でやめても」
「七瀬君がここまで考えて選んだのに?」
「だからこそですよ。合わない本を義務で読むの、一番もったいないんで」
怜華はしばらく春樹を見た。
やがて、いつもの完璧な微笑みとは少し違う、自然な笑みを浮かべる。
「分かったわ」
「はい」
「でも、たぶん最後まで読むと思う」
「まだ一ページも読んでないのに?」
「七瀬君が私をどう見て選んだのか、少し気になったから」
「俺、理由ほとんど説明しましたよ?」
「そういうところよ」
「だから何なんですか、それ」
春樹が困った顔をする。
怜華は答えず、カウンターへ向かった。
その背中を見送りながら、春樹は首を傾げる。
「……変な先輩」
「聞こえてるわよ」
「地獄耳ですか!?」
図書室なので声を抑えた春樹の抗議に、怜華の肩が小さく揺れた。
栞もカウンターの内側で口元を押さえている。
雫まで笑っていた。
「何で全員笑うんだよ……」
春樹は納得できないまま席へ戻った。
◇◇◇
放課後の図書室を出る頃には、とうとう雨が降り始めていた。
窓を叩く雨粒はまだ小さいが、空はかなり暗い。
「傘持ってきた?」
昇降口へ向かいながら雫が聞く。
「持ってきた」
「珍しい」
「朝の天気予報見たから」
「成長したね」
「俺を何だと思ってんの?」
「前に普通に忘れてた人」
「あれは朝晴れてただろ」
「今日も降ってなかったよ」
「今日は予報八十パーセントだったから」
「ちゃんと見てるじゃん」
「最近歩きながら本読まなくなった分、朝ちょっと周り見るようになったんだよ」
自分で言ってから、春樹は少し笑った。
「九条に注意されたの、意外と影響でかいな」
「いいことじゃん」
「まあな。事故るよりいいし」
昇降口へ着き、それぞれ靴を履き替える。
春樹が鞄から折り畳み傘を取り出すと、雫も自分の傘を開いた。
二人で校門を出る。
雨脚は少しずつ強くなっていた。
「そういえば」
雫が傘越しに春樹を見る。
「白石先輩と怜華先輩、二人とも嬉しそうだったね」
「本?」
「うん」
「まだ読んでないのに?」
「選んでもらったことが嬉しいんじゃない?」
「そんなもん?」
「そんなもんだよ」
春樹にはいまいち分からない。
自分なら、誰かに本を選んでもらえば確かに嬉しい。
ただしそれは、未知の面白い本に出会える可能性があるからだ。
「雫も?」
「え?」
「俺が選んだら嬉しい?」
雨音の中で、雫は少しだけ返事に詰まった。
「……嬉しいよ」
「本が?」
「それもあるけど」
「他に何?」
春樹が純粋に尋ねる。
雫は傘の柄を握る指へ少し力を込めた。
「私のこと考えて選んでくれたんでしょ?」
「そりゃそうだろ。雫に勧めるんだから」
「だから」
「だから?」
「……そういうところ」
「一ノ瀬先輩と同じこと言い始めたぞ」
「春樹が分からないだけだよ」
「何で今日みんな俺に答え教えてくれないんだよ」
春樹が本気で不満そうにするため、雫は笑ってしまった。
「じゃあ明日、楽しみにしてる」
「おう。忘れないように玄関に置いとく」
「それなら忘れない?」
「たぶん」
「不安なんだけど」
「朝メッセージして」
「私が管理するの?」
「幼馴染特権」
「そういうときだけ使うな」
二人は笑いながら雨の道を歩いた。
◇◇◇
その夜。
春樹は風呂を済ませ、自室の本棚の前へ立っていた。
雫へ貸す一冊を探す。
「この辺だったはず……あった」
棚の奥から抜き出したのは、数年前に買った文庫本だった。
何度か読み返したため、表紙の端が少し擦れている。
内容は、地方の高校にある写真部を舞台にした青春小説――ではない。
それはすでに二冊目として雫へ勧め、成功している。
今回の三冊目は、もう少し違う。
幼い頃から同じ町で育った男女と、その周囲の友人たちを描いた群像劇だった。
恋愛はある。
けれど誰か一人の恋だけが中心ではない。
長く一緒にいるからこそ言葉にしなくなったこと、近すぎるから見えなくなった変化、離れて初めて気づくもの。そうした感情が、日常の中でゆっくり積み重なっていく話だった。
「……雫、これ好きだと思うんだよな」
春樹はぱらぱらとページをめくる。
自分がこの本を買ったのは中学生の頃だった。
当時は主人公たちの恋愛より、写真を撮る男子と料理好きの友人の友情の方が好きだった記憶がある。
今読み返せば、たぶん印象は変わる。
(そういえば、これも久しぶりに読みたいな)
貸す前に少しだけ読み返そうか。
そんな誘惑が生まれる。
しかし今から読み始めれば、そのまま夜更かしする可能性が高い。
「駄目だ。明日渡せなくなる」
春樹は自制して本を閉じた。
そのまま玄関へ持っていこうとして、ふと足を止める。
雫がどの場面を好きになるか考えた。
たぶん、序盤の祭りではない。
中盤の進路相談か。
それとも終盤、主人公が幼馴染に対して「知っているつもりだった」と気づく場面か。
「……いや、あいつなら脇役の姉ちゃん好きそうだな」
想像すると、自然に雫の顔が浮かんだ。
栞の本を選んだときもそうだった。
怜華の本を選んだときも。
相手がどこで笑うか。
どこを好きになるか。
どこで自分と違う感想を持つか。
最近、本を選ぶときに作品だけを見ていない。
読む相手の顔まで一緒に浮かぶ。
「……俺、本屋の店員向いてる?」
少し考え、首を振った。
「いや、仕事にしたら一日中読めないか」
結論はそこだった。
春樹は本を玄関近くの棚へ置き、自室へ戻る。
今度こそ自分のための本を開く。
誰かへ勧めるためではない。
感想を話す約束もない。
純粋に自分が読みたいから読む本だ。
それでも数ページ進んだところで、登場人物の一人が妙に怜華の好きそうな言い回しをした。
(あ、一ノ瀬先輩こういうキャラ好きそう)
さらに読み進めると、静かな会話の場面で栞が浮かぶ。
(白石先輩ならここ好きかな)
幼馴染同士がくだらないことで言い合う場面では、今度は雫が浮かんだ。
「……何なんだよ、これ」
春樹は本を閉じず、そのまま天井を見上げた。
以前は本を読んでいる間、現実の人間関係をほとんど持ち込まなかった。
物語は物語。
現実は現実。
その境目はもっとはっきりしていた気がする。
今は違う。
登場人物の台詞を読めば、誰かの反応を想像する。
面白い作品に出会えば、誰に勧めようか考える。
読み終われば、感想を話したい相手が浮かぶ。
(読書に集中できなくなった……とは違うんだよな)
むしろ本は以前と同じくらい楽しい。
そこへ別の楽しみ方が増えただけだ。
春樹はもう一度ページへ視線を戻した。
「まあ、いいか」
読む。
話す。
勧める。
相手の感想を聞く。
そのあと、自分では気づかなかった部分をもう一度読み返す。
全部、本を楽しむことには変わらない。
そう考えれば悪くない。
春樹は再び物語へ入り込んでいった。
玄関には、明日雫へ渡す一冊が置かれている。
図書室では、栞が春樹の選んだ本を借りた。
怜華もまた、春樹が自分をどう見て選んだのかという興味を抱きながら、一冊を持ち帰っている。
同じ夜、別々の場所で開かれる三冊の本。
そのうちの一冊だけは、まだ読まれるのを待っている。
そして春樹だけが、その三冊が少しずつ誰かとの距離を変え始めていることを、まるで分かっていなかった。




