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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第27話 三十分だけサッカーするはずなのに、なんで俺が作戦まで考えてるんだ?



 木曜日の朝、七瀬春樹は自分の机に頬杖をつきながら、開いた文庫本と小さなメモ帳を交互に見ていた。


 本来なら朝の五分間は純粋な読書時間として確保したはずなのだが、今日に限っては物語へ集中しきれない。理由は単純で、昨夜から考え続けている三人分の選書候補が、頭の中でまだ綺麗に整理できていなかったからである。


 一ノ瀬怜華については、本人から聞いた好みをもとに三冊まで絞った。


 白石栞については逆に候補が多すぎて、まだ五冊から減らせていない。普段なら自分から手に取らない作品という条件があるため、栞の好みに寄せすぎても面白くないが、離しすぎれば単なる博打になる。その加減が難しかった。


 そして雫への三冊目。


 こちらは例の賭けがかかっている。


 三冊目まで気に入れば、雫が春樹へ安価な本を一冊買う。


 金額そのものは大した問題ではないが、本を一冊選んでもらえるという報酬は春樹にとって十分すぎるほど魅力的だった。


(怜華先輩は連作ミステリーが第一候補。白石先輩は……普段選ばないって条件を考えるなら青春もの寄りかな。でも静かな話を残したい。雫は昨日考えたやつでいけそうだけど、もう一冊の方も捨てがたいんだよな)


 メモ帳には作品名の横へ簡単な特徴が書き込まれている。


 春樹自身の評価ではなく、それぞれの相手がどこに反応しそうかを整理したものだ。


「朝から受験勉強みたいな顔して何やってんの?」


 悠斗の声がして、春樹は顔を上げた。


「選書」


「その二文字で全部台無しだよ」


「何でだよ。かなり真剣だぞ」


「だからだよ。俺、今の春樹見て、模試の志望校でも考えてるのかと思ったもん」


 悠斗が隣からメモ帳を覗こうとしたため、春樹はさっと閉じる。


「見るなよ」


「何で?」


「まだ決めてないから」


「誰の本?」


「三人分」


 悠斗の眉が跳ね上がった。


「三人?」


「雫と白石先輩と一ノ瀬先輩」


「お前、いつからそんな売れっ子書店員みたいになったの?」


「俺が聞きたい」


 春樹はメモ帳を鞄へ戻した。


「一ノ瀬先輩には頼まれた。白石先輩にも昨日頼まれた。雫は前からの賭け」


「ふうん」


 悠斗が妙な笑い方をした。


「何だよ」


「いや、別に」


「その顔で別には無理あるだろ」


「三人の女子にそれぞれ本選んでるんだなと思って」


「そう言っただろ」


「うん。お前ならそう返すと思った」


「じゃあ何で聞いたんだよ」


 春樹が呆れていると、ちょうど登校してきた雫が二人の会話を聞きつけた。


「朝から何の話?」


「春樹が三人の女子のことを真剣に考えてる話」


「高坂、言い方!」


 春樹がすぐに抗議する。


 雫は一瞬だけ目を丸くしたものの、悠斗が机に手をついて笑っている様子を見て事情を察したらしい。


「本でしょ?」


「正解」


「つまんねえなあ、幼馴染。もうちょっと誤解してくれよ」


「春樹が朝から三人分の恋愛について考えてたら、たぶん学校来る途中で何かあったんだと思う」


「俺への信頼どうなってるの?」


「春樹が自分の恋愛でそんなに悩むところ、想像できないもん」


「俺もできない」


「本人まで認めるなよ」


 悠斗のツッコミに、周囲で話を聞いていた数人が笑った。


 春樹は少し不満そうに本を開き直したが、悠斗はまだ離れない。


「で、今日サッカーだろ?」


「放課後な」


「雫、また見に行くの?」


 悠斗が今度は雫へ話を振った。


「行くよ」


「即答」


「昨日もう春樹に言ってるから」


「なるほどねえ」


「その顔やめて」


「何も言ってないじゃん」


「顔が言ってる」


 雫が睨むと、悠斗は楽しそうに笑いながら自分の席へ戻っていった。


 春樹はその背中を見送ってから、隣に立つ雫を見る。


「何だったんだ、あいつ」


「朝から元気なんでしょ」


「俺の読書時間を巻き込まないでほしい」


「今日は放課後も読書時間減るね」


「だから三十分で終わらせる」


「本当に?」


「昨日、永山先生にも三十分でいいって確認した。三組の参加者の動き見て、誰がどこできそうか確認したら終わり」


「それで終わればいいね」


「何でそんな不吉なこと言うんだよ」


 雫は笑って自分の席へ向かった。


 春樹は嫌な予感を覚えたものの、今から考えても仕方がない。


 始業まで残り数分。


 今度こそ読もうと本へ視線を落とした。


     ◇◇◇


 昼休み。


 春樹が購買で買ったパンを持って教室へ戻ると、すでに悠斗と紗弥が近くの席を寄せていた。雫も弁当を広げている。


「七瀬先輩!」


 さらに後ろから明るい声が飛んできた。


 振り返るまでもない。


「小日向、廊下走ってないよな?」


「第一声それですか!?」


 教室の入り口にいたひよりが頬を膨らませる。


 その隣には真実もいた。


「今日は走ってませんよ」


 真実が保証する。


「ならいい」


「私、七瀬先輩の中でどんな扱いなんですか?」


「元気な後輩」


「絶対その前に何かついてますよね?」


「気のせいだ」


 ひよりが不満そうにしながらも教室へ入ってくる。


 真実はその後ろから静かについてきた。


「こんにちは」


「新海も。今日は二人なんだな」


「はい。ひよりちゃんが、昨日読み終わった別の本の話をずっとしていて」


「ちょっと真実ちゃん、それ言わなくていいから!」


「別の本?」


 春樹の反応が変わる。


 ひよりが「あっ」と口を押さえた。


「何読んだ?」


「食いつくところそこなんですね」


 真実が笑う。


「だって本の話だろ?」


「そうですけど」


 ひよりは諦めたように鞄から一冊の文庫本を取り出した。


「これです。前に自分で買ったやつなんですけど、途中で止まってたのを昨日最後まで読みました」


「へえ」


 春樹は表紙を見る。


 高校の演劇部を舞台にした青春小説だった。


「これ読んだことある。途中から結構人間関係重くなるやつだろ」


「そうなんですよ! 最初、もっと軽い話だと思ってたんですけど、途中で先輩と後輩が喧嘩して――」


「待て待て、俺は読んでるけど新海は?」


「私は読んでません」


「じゃあ内容言いすぎるな」


「あっ」


 ひよりがまた口を押さえた。


「小日向、最近それ多くない?」


「だって話したくなるんですよ!」


「分かるけど、相手が読んでるか確認してからにしろ」


「七瀬先輩だって本の話になると長いじゃないですか」


「俺はネタバレには気をつけてる」


「うっ……」


 反論できなくなったひよりが席へ座る。


 真実もその隣へ座った。


 昼食を始めながら、春樹はふと思い出す。


「そういえば新海」


「はい?」


「今日、放課後時間ある?」


 教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 正確には、春樹の周囲にいた数人の視線が集まった。


 悠斗がパンを持ったまま固まり、紗弥が眉を上げる。雫も箸を止めた。


 真実本人も驚いたように瞬きをした。


「えっと……委員会はないですけど」


「じゃあ――」


「春樹」


 雫が割り込んだ。


「何?」


「先に理由言った方がいいと思う」


「理由?」


「うん」


 春樹は周囲を見回した。


「何でみんなこっち見てるんだ?」


「お前が一年の女子にいきなり『放課後時間ある?』って聞くからだよ」


 悠斗が呆れたように答えた。


「……ああ」


 ようやく意味を理解した春樹は、真実へ向き直る。


「悪い。サッカー」


「サッカー?」


「今日、三組の参加者も混ぜて少しやるんだよ。前に見てみたいって言ってただろ?」


 真実の表情が明るくなった。


「覚えてたんですか?」


「言ってただろ」


「言いましたけど……」


「雫も見るって言ってるし、暇なら来る?」


「はい。行きたいです」


「じゃあ放課後、グラウンド」


「分かりました」


 真実は嬉しそうに頷いた。


 春樹はそれで話が終わったつもりでパンへ戻ったが、真実はしばらく春樹を見ていた。


 以前、サッカーが得意だと知ったとき、自分も一度見てみたいと言った。


 それは何日か前の何気ない会話だった。


 春樹にとっては、その程度のことまで記憶に残っているらしい。


(本の好みだけじゃないんだ)


 昨日、森下へ勉強を教える姿を見たときにも思った。


 春樹は相手の話を思った以上によく聞いている。


 本人はそれを特別なことだとは考えていない。


 だからこそ、覚えていてもらった側だけが少し驚く。


「七瀬先輩」


 ひよりが手を上げた。


「何?」


「私も見たいです」


「来れば?」


「いいんですか?」


「見学禁止じゃないし」


「やった」


「ただしボール飛んでくるかもしれないから、近づきすぎるなよ」


「分かってますよ。私を何歳だと思ってるんですか」


「元気な一年生」


「またそれ!」


 ひよりの抗議に笑いが起きる。


 雫も笑っていたが、真実の嬉しそうな表情を横目で見ていた。


 春樹が、真実の「見たい」を覚えていた。


 そのことに胸がざわつかないわけではない。


 けれど、昨日までとは少し違う。


(春樹は、そういう人なんだよね)


 自分のことだけを覚えていてほしいわけではない。


 そう思えるようになったこと自体が、雫にとっては小さな変化だった。


 ただし、何も感じなくなったわけではない。


 そこまで達観しているつもりもなかった。


「春樹」


「ん?」


「ちゃんと三十分で終わる?」


「そこ疑う?」


「だって、始まったら楽しそうにやるじゃん」


「楽しくても帰るよ。今日は読みたいところあるし」


「じゃあ時間見ててあげる」


「俺スマホあるけど」


「そういう意味じゃない」


「じゃあどういう意味?」


「もういい」


「何でだよ」


 雫が少し笑って弁当へ戻る。


 そのやり取りを見ていたひよりが真実へ小声で何か言おうとしたが、真実に「聞こえるよ」と止められていた。


     ◇◇◇


 放課後。


 グラウンドには、部活動へ向かう生徒たちの声と、運動靴が土を踏む乾いた音が広がっていた。


 空は薄く曇っているものの雨の気配はなく、直射日光が弱いぶん運動するにはちょうどいい。サッカー部が普段使っているグラウンド半面の端では、すでに神谷蓮がボールをいくつか準備していた。


「遅いぞ、春樹」


「ホームルーム終わってすぐ来たんだけど」


「俺は先にいた」


「部員と帰宅部を同じ基準で考えるな」


 春樹は鞄をベンチの脇へ置いた。


 今日は体育用の運動着へ着替えている。


「三組何人来る?」


「お前入れて六人」


「結構来るな」


「杉浦が声かけたらしい」


「俺より仕事してない?」


「代表交代するか?」


「する」


「即答すんな」


 蓮が笑う。


「でも今日はお前が見ろよ。三組のメンバーなんだから」


「分かってる」


 昨日永山にも言われている。


 春樹は軽くストレッチをしながら、集まってくる生徒たちを確認した。


 杉浦拓海。


 サッカー経験者で、動きにも慣れている。


 山岸浩平はバスケットボール優先だが、人数不足時にサッカーへ回る可能性があるため今日は顔を出していた。


 残り三人のうち、一人は小学生の頃に少し経験があり、二人はほぼ初心者だという。


「七瀬、本当に三十分?」


 初心者の男子が聞く。


「少なくとも俺は三十分」


「その言い方、他は残されそうで怖いんだけど」


「帰りたければ帰っていいって。練習会じゃなくて確認だから」


 春樹は全員を集めた。


「とりあえず今日は上手くなるためにやるわけじゃないから、無理しなくていい。誰がどの辺なら動きやすいか見たいだけ」


「七瀬が先生みたい」


 杉浦が笑う。


「じゃあ杉浦やる?」


「続けてください」


「お前さあ」


 周囲から笑いが起き、緊張していた初心者組の表情も少し緩んだ。


 春樹は蓮からボールを一つ受け取る。


「最初は軽くパス回し。止める、蹴るだけでいい。経験者も速い球いらないから」


「春樹、お前は?」


 蓮が聞く。


「俺も入るよ」


「手加減しろよ」


「お前に言われたくない」


 二人のやり取りに、杉浦が笑った。


 グラウンド脇では、雫、真実、ひよりが並んでいた。


「神谷先輩って、七瀬先輩と仲いいんですね」


 真実が尋ねる。


「中学から一緒だからね」


 雫が答える。


「サッカーも?」


「うん。蓮は高校でも続けてるけど、春樹はやめた」


「本を読みたいから」


「そう」


 真実がグラウンドを見る。


 春樹は初心者の男子へボールを返しながら、何か説明していた。


 普段の教室や図書室では、春樹の周囲には本がある。


 昨日は数学の問題集があった。


 今はボールがある。


 それだけで雰囲気が少し違って見えた。


「始まった!」


 ひよりが身を乗り出す。


「近づきすぎないでね」


「雫先輩まで七瀬先輩みたいなこと言う!」


「ボール当たったら痛いから」


「分かってますって」


 ひよりは口では反論しながら、素直に一歩下がった。


 雫はそれを見て小さく笑う。


     ◇◇◇


 最初の十分ほどは、本当に簡単なパス回しだけだった。


 春樹は経験者同士で速いボールを蹴ることを避け、初心者が混ざるたびに速度を落とした。


「足の内側でいいよ。強く蹴ろうとしなくていい」


「こう?」


「そう。あとボール来てから足出すより、先にどこへ返すか見とくと楽」


「難しくね?」


「最初は適当でいいって。俺か杉浦見とけば、どっちか空いてるから」


 初心者の男子が春樹へパスを出す。


 少し右へずれたボールを春樹は身体の向きを変えながら止め、そのまま杉浦へ返した。


「七瀬、やっぱ普通に上手いな」


「普通って便利な言葉だな」


「いや、今のトラップ簡単そうにやったけどさ」


「来る場所分かってれば取れるよ」


「それが分かんねえんだよ」


「慣れ」


 春樹は笑いながら答える。


 そこへ蓮が横からボールを奪いに来た。


「話してる暇あんの?」


「お前、初心者混じってるときに本気で来るな!」


 春樹は身体を入れてボールを守りながら、すぐ近くにいた山岸へ渡す。


「山岸!」


「え、俺!?」


「前空いてる!」


 突然ボールを受けた山岸は慌てながらも前へ蹴り出した。


 それを杉浦が拾う。


「ナイス!」


 春樹が声をかけると、山岸が驚いたように自分の足を見る。


「今のでいいの?」


「いいよ。無理に抜こうとしなくていい。空いてる人に出せれば十分」


 蓮が少し離れたところから春樹を見る。


 中学時代から変わっていない。


 春樹は、自分一人で何とかできる場面でも周囲を使う。


 技術がないわけではない。


 むしろ、個人で仕掛けても十分通用する。


 それでも味方が使えるなら使う。


 特に経験の浅い相手が混ざると、その傾向は強くなる。


「春樹」


「何?」


「次、ゲーム形式にするぞ」


「何人?」


「こっちから二人足して四対四くらい」


「初心者分けて」


「分かってる」


 蓮が部員二人を呼ぶ。


 その間に春樹は三組のメンバーへ水分を取るよう声をかけた。


 グラウンド脇では、ひよりが目を丸くしている。


「七瀬先輩、全然イメージ違うんですけど」


「どういうイメージだったの?」


 真実が笑う。


「もっと、本以外は全部面倒くさそうにする人かと」


「それはだいたい合ってるよ」


 雫が言う。


「合ってるんですか!?」


「でも、やるって決めたらちゃんとやるから」


 雫の声には、どこか昔を懐かしむような響きがあった。


「小学生の頃も、あんな感じだったんですか?」


 真実が尋ねる。


「うん。もっと走ってたけど」


「今も結構走ってますよ」


「前はもっとだよ。最後までずっと動いてた」


 雫はグラウンドへ視線を向けた。


 昔の春樹を知っている。


 けれど今の春樹が昔と同じではないことも知っている。


 本を読む時間を何より大事にするようになり、サッカーから離れ、それでもボールを蹴れば身体には昔の感覚が残っている。


(昔の春樹を知ってるのは私。でも、今の春樹を見てるのは私だけじゃない)


 以前なら、その事実が少し寂しかった。


 今は違う。


 真実もひよりも、目の前の春樹を見ている。


 それでも雫の中にある昔の記憶が消えるわけではない。


「雫先輩」


 ひよりが横から顔を覗き込んだ。


「何?」


「すごい嬉しそうです」


「……そう?」


「はい」


「前にも言われた気がする」


「じゃあ本当にそうなんですよ」


 雫は困ったように笑った。


「昔から見てたからね」


 それ以上は説明しなかった。


 今は、その言葉で十分だった。


     ◇◇◇


 四対四のミニゲームが始まると、春樹の役割はさらに分かりやすくなった。


 前へ出るより、少し後ろから全体を見る。


 初心者がボールを持てば近くへ寄り、逃げ道を作る。


 経験者の杉浦が前へ走れば、その動きに合わせて空いた場所へパスを出す。


「杉浦、右!」


 春樹の声とほぼ同時に、杉浦が右へ走る。


 そこへボールが通った。


「うわ、ぴったり!」


 ひよりが声を上げる。


 杉浦が折り返したボールを、初心者の男子が蹴る。


 シュートはゴールの横へ外れたが、春樹はすぐに手を叩いた。


「今のでいい! ちゃんと前入れてた!」


「外したけど!」


「本番までに枠入ればもっといい!」


「急に要求増えた!」


 笑いながら戻ってくる男子に、春樹も笑う。


 次のプレーでは蓮がボールを持った。


 春樹は正面から奪いに行かず、少し距離を取る。


「来ないの?」


「お前が抜きたそうな顔してるから行かない」


「顔で守備すんなよ」


「中学から何回それで抜かれたと思ってるんだ」


 蓮が一歩踏み込む。


 春樹は釣られない。


 蓮は仕方なく横へパスを出したが、その先へ杉浦が寄せてボールを奪った。


「ずる!」


「何が?」


「お前、俺の癖知ってるだろ!」


「知ってる相手に同じことする方が悪い」


「交流会本番で別クラスなの忘れんなよ」


「それはこっちの台詞だ」


 二人が笑いながら走る。


 その姿を見ていた真実は、少しだけ目を細めた。


 春樹が楽しそうだった。


 本について話しているときとは違う。


 図書室で好きな作品を語るときの春樹は、普段より言葉が増え、目が明るくなる。


 今はもっと身体全体で楽しんでいる。


 息を弾ませ、仲間へ声をかけ、時には大きく笑っている。


(七瀬先輩って、こんな顔もするんだ)


 春樹について知っていることが、また一つ増えた。


 それが妙に嬉しい。


 なぜ嬉しいのかまでは、真実は考えなかった。


 今はただ、来てよかったと思った。


     ◇◇◇


 二十五分ほど経ったところで、春樹は一度ゲームを止めた。


「ちょっと休憩」


「もう終わり?」


 杉浦が聞く。


「あと五分」


「本当に三十分で帰る気だ」


「最初から言ってるだろ」


 春樹はタオルで額の汗を拭きながら、三組のメンバーを見回した。


 実際に一緒に動いてみて、ある程度の特徴は分かった。


 杉浦は前でも後ろでも動ける。


 山岸はサッカー経験こそ少ないが、バスケットボールをしているだけあって周囲を見る癖があり、守備側なら十分動けそうだった。


 初心者二人は技術こそないものの、一人は運動量があり、もう一人は指示を聞いて動くのが早い。


「何か考えてる?」


 蓮が隣へ来る。


「本番」


「もう?」


「せっかく集まったからな。杉浦は前寄りでいいと思う。山岸は後ろの方が楽そう」


「俺もそう思う」


「初心者二人は同時に前へ出さない方がいいかな。片方ずつ経験者の近くに置けば、ボール来ても困らないだろ」


「……お前、本当に代表向いてるよな」


「連絡係」


「まだ言ってんの?」


「大事だから」


 春樹は即答する。


「代表って呼ばれると責任が増えそうだろ。俺は必要な連絡と調整だけして、当日は普通に試合出て終わりたい」


「今やってることがもう調整以上なんだけど」


「当日困らないための準備」


「それを世間ではまとめ役って言うんだよ」


「世間の定義がおかしい」


 蓮は声を上げて笑った。


 そこへグラウンド脇から声が飛んでくる。


「七瀬君」


 春樹は振り返った。


「え?」


 見学している三人から少し離れた場所に、一ノ瀬怜華が立っていた。


 手にはクリップボードを持っている。


「一ノ瀬先輩?」


「こんにちは」


「何でここに?」


「スポーツ交流会の参加状況を確認しに来たの。サッカーだけではなくて、このあと体育館にも行くわ」


「ああ、仕事か」


「少しは別の理由を期待してくれてもいいのよ?」


「昨日、本の好み聞いたばっかりなのに?」


「そこを結びつけないところが七瀬君よね」


「何の話ですか」


 春樹が本気で分かっていない顔をすると、怜華は楽しそうに笑った。


 雫たちの方から、ひよりの「本当にあんな感じなんですね」という小声が聞こえた。


「何が?」


 春樹が聞くと、ひよりは慌てて首を振る。


「何でもないです!」


「絶対何か言っただろ」


「言ってません!」


「言ったじゃん」


 真実が静かに指摘する。


「真実ちゃん!」


 また笑いが起きる。


 怜華はそんな一団を見てから、グラウンドへ視線を移した。


「三組の確認は順調?」


「だいたい分かりました。初心者もいるけど、経験者と組ませれば問題ないと思います」


「試合時間については、短めの前後半と交代枠を増やす方向でほぼ決まりそうよ」


「それなら初心者も出しやすいですね」


「ええ。七瀬君が前に言っていた意見も参考にしたわ」


「俺だけじゃないでしょ?」


「もちろん。他のクラスからも似た意見が出たもの」


「ならよかった」


 春樹は素直に頷いた。


 自分の意見が採用されたことを誇る様子はない。


 ただ、当日やりやすくなりそうだという点だけを喜んでいる。


 怜華はその反応を見ながら、昨日とは違う春樹の姿へ目を向けた。


 運動着姿で、髪は汗で少し額に張りついている。


 普段の図書室や教室で見る彼とは印象が違う。


「意外ね」


「何がです?」


「ちゃんと仕切っているから」


「仕切ってません」


「今、参加者の配置まで考えていたでしょう?」


「聞いてたんですか」


「少しだけ」


「これは当日困らないためで――」


「準備でしょう?」


「そうです」


「それをまとめ役と言うんじゃない?」


「神谷と同じこと言わないでください」


 春樹が本気で嫌そうな顔をしたため、怜華は声を立てて笑った。


「やっぱり面白いわね、七瀬君」


「最近それ言われるの慣れてきました」


「慣れない方がいいと思うわ」


「先輩が言うんですよ、それ」


 怜華はしばらく笑ったあと、時計を確認した。


「邪魔したわね。続けて」


「もう終わりますよ。あと三分」


「本当に三十分なのね」


「本読みたいので」


「サッカーをしていても?」


「楽しいですけど、本は別です」


「そう」


 怜華は軽く手を振り、体育館の方へ向かっていった。


 春樹もグラウンドへ戻ろうとしたところで、雫がこちらを見ていることに気づく。


「何?」


「別に」


「今日みんなそれ言うな」


「怜華先輩、春樹がサッカーしてるの初めて見たんだろうなって思って」


「たぶん」


「どうだったんだろうね」


「何が?」


「春樹見て」


「ちゃんと仕切ってるのが意外って言ってただろ」


「……うん、春樹はそう取るよね」


「他に何があるんだよ」


 雫は小さく笑った。


「何でもない。あと三分でしょ?」


「そうだった」


 春樹は慌てて戻った。


     ◇◇◇


 三十分を少しだけ過ぎたところで、春樹は本当に終了を宣言した。


「はい、終わり」


「二分オーバー」


 雫が時計を見ながら言う。


「誤差」


「この前は三十二分だったよね?」


「今日は三十二分じゃない。三十一分四十秒くらい」


「細かい」


「一分四十秒なら許容範囲だろ」


 春樹は息を整えながら水を飲んだ。


 杉浦たちはまだ少しボールを蹴っていくらしい。


 蓮も部活へ戻るため、春樹とはここで別れる。


「春樹」


「何?」


「本番、普通にやれそうだな」


「まだ組み合わせ分からないけどな」


「お前んとこ結構いいぞ」


「だから勝敗より全員動ける方が大事だって」


「そう言いながら負けそうになったら本気出すだろ」


「相手がお前なら考える」


「言ったな?」


「でも読書時間延長するほどはやらない」


「そこまでブレないの逆にすげえよ」


 蓮と拳を軽く合わせ、春樹はベンチへ戻った。


 雫、真実、ひよりも近づいてくる。


「お疲れ」


 雫がタオルを差し出した。


「ありがとう。俺のあるけど」


「知ってる。そっち落としたから」


 見ると、春樹がベンチに置いたはずのタオルは地面へ落ちていた。


「あ、本当だ」


「だからこれ使って」


「助かる」


 春樹は何の躊躇もなく受け取った。


 雫も、それを渡すことに迷いはない。


 長い付き合いの中では、ごく普通のやり取りだった。


 けれど真実は、二人の間にある自然さを静かに見ていた。


 ひよりも同じものを見たらしく、何か言いたそうに口を開いたが、真実が先に肘で軽く止める。


「何で止めるの?」


「今言うと絶対ややこしくなるから」


「まだ何も言ってないよ!?」


「顔に出てる」


 小声で言い合う一年生二人を、春樹が不思議そうに見る。


「何してんの?」


「何でもないです」


 真実が答える。


「またそれ?」


 春樹が眉を寄せると、雫が笑った。


「今日の春樹、知らないこと多いね」


「俺だけ情報共有されてなくない?」


「たぶん共有しても分からないから大丈夫」


「大丈夫じゃないだろ」


 春樹は納得できないままタオルで汗を拭いた。


「それより新海、どうだった?」


 突然話を振られ、真実が瞬きをする。


「え?」


「前に見たいって言ってただろ。サッカー」


「あ、はい」


 真実は一度グラウンドへ視線を向け、それから春樹を見る。


「思っていたより、ずっと上手でした」


「思ってたよりって、最初どれくらいだと思ってた?」


「普通に経験者くらいです」


「じゃあ褒められてる?」


「褒めてます」


 真実は笑った。


「でも、上手いことより、そっちの方が意外でした」


「どっち?」


「みんなに声をかけてたことです。自分でずっとボールを持つんじゃなくて、初心者の人にも渡してましたよね」


「せっかく参加するのに、一回も触らなかったらつまらないだろ」


「そういうところです」


「どういうところ?」


 春樹は分かっていない。


 真実は少し迷ったあと、言葉を選んだ。


「七瀬先輩って、自分ができることをあまり特別だと思ってないですよね」


「何の話?」


「昨日の数学もそうです」


「森下の?」


「はい。教えるの上手いのに、森下さんが頑張ったからだって言ってました。今日も、自分が上手いことより周りが動きやすい方を優先してたから」


「いや、それは競技違うし」


「そういう意味じゃないです」


「じゃあどういう意味?」


 真実は少し困ったように笑う。


 説明しようとすると、自分でもまだ上手く言葉にできない。


「……七瀬先輩って、思ってたよりちゃんと周り見てるんだなって」


「最初どんな人だと思われてたんだ、俺」


「本しか見えてない人」


 ひよりが即答した。


「小日向!」


「だって最初はそう思ってました!」


「新海まで?」


 春樹が真実を見る。


 真実は申し訳なさそうにしながらも、少し笑っている。


「少しだけ」


「ショックだ」


「今は違いますよ」


「本当?」


「はい」


 真実はまっすぐ頷いた。


「本が一番好きなのは変わらないと思いますけど、それだけじゃない人だって分かってます」


 春樹は返事をするまで、少しだけ時間がかかった。


「……まあ、それならいいか」


 頭を掻きながら答える。


「でも本が一番好きなのは合ってる」


「そこは否定しないんですね」


「否定する理由ないだろ」


 四人で笑った。


 真実も笑いながら、胸の中に残った感覚をそっと受け止めていた。


 最初に会ったとき。


 倉田との騒動の中で現れた春樹は、助けてくれたのにどこか変な先輩だった。


 それから本を選んでもらった。


 勉強を教える姿を見た。


 友達と話すところを見た。


 雫と並んで歩くところを見た。


 そして今日は、サッカーをするところを見た。


 知るたびに、最初の印象へ何かが足されていく。


(まだ、知らないこといっぱいあるんだろうな)


 そう思ったとき、もっと知りたいという気持ちが自然に続いた。


 真実はその感情に名前をつけなかった。


 ただ、次に春樹の知らない一面を見つける日を、少し楽しみに思った。


     ◇◇◇


「じゃあ俺、図書室行くけど」


 着替えを済ませた春樹が校舎へ戻ったところで言うと、ひよりが目を丸くした。


「今からですか?」


「まだ閉まってないだろ」


「サッカーしたあとですよ?」


「だから?」


「疲れてないんですか?」


「多少は。でも本読むのに脚使わないし」


「七瀬先輩、本当にぶれないですね……」


「褒め言葉として受け取っとく」


 ひよりは今日は用事があるらしく、昇降口で別れることになった。


「じゃあまたです、七瀬先輩。雫先輩、真実ちゃんも」


「またね」


 雫が手を振る。


 真実も「また明日」と返した。


 ひよりが帰ったあと、三人で廊下を歩く。


「新海は?」


 春樹が尋ねる。


「私も帰ろうと思ってます」


「そっか。今日は来てくれてありがとな」


「私が見たかっただけですよ」


「それでも」


 春樹は自然に答える。


「誰も見てないより、見てくれてた方がちょっと楽しかったし」


 真実の足が、ほんの一瞬だけ遅れた。


 春樹は気づかず前を歩いている。


 雫は気づいた。


 けれど何も言わなかった。


「じゃあ、また」


 階段のところで真実が立ち止まる。


「うん。また明日」


「お疲れさまでした」


 真実は軽く頭を下げてから階段を下りていった。


 踊り場まで進んだところで、胸元へ手を添える。


 心臓が少しだけ速い。


(見てた方が楽しかった、って……別に深い意味じゃないよね)


 春樹なら、本当にそのままの意味で言っているのだろう。


 それは分かっている。


 それでも、嬉しかった。


 真実は小さく息を吐き、自分の頬が少し熱くなっていることには気づかないふりをして階段を下りていった。


     ◇◇◇


 一方、春樹と雫は図書室へ向かっていた。


「春樹」


「何?」


「今日、楽しかった?」


「サッカー?」


「うん」


「楽しかったよ」


 春樹は素直に答えた。


「疲れたけどな。やっぱ前より体力落ちてる」


「またやりたい?」


「たまになら」


「部活は?」


「入らない」


「そこは即答なんだ」


「毎日やったら本読む時間なくなるだろ」


「知ってた」


 雫が笑う。


 春樹もつられて笑った。


「でも、昔みたいにサッカーする春樹見られてよかった」


「前も見たじゃん」


「今日は同じクラスの人もいたから、ちょっと違った」


「そう?」


「うん。春樹がちゃんと周り見ながらやるところ、昔と変わってなかった」


「俺、昔からそんなだった?」


「そうだよ」


「自分じゃ分からないな」


「本人ってそういうもんじゃない?」


「かもな」


 二人は図書室の前で足を止める。


 春樹が扉へ手をかけたところで、雫が呼び止めた。


「春樹」


「ん?」


「真実ちゃん、今日すごく楽しそうだったね」


「そうだな。見たいって言ってたし」


「うん」


「小日向も騒いでたな」


「そうだね」


「雫も楽しそうだった」


 思いがけない言葉に、雫が瞬きをする。


「私?」


「うん。前にも赤木に言われてたけど、今日も結構笑ってた」


「……見てたんだ」


「近くにいたら見るだろ」


「そっか」


 雫の口元がゆっくり緩む。


 最近、春樹は以前より人の顔を見るようになった。


 本人は自覚していないのだろう。


 けれど、本から顔を上げる時間が増えたぶん、今までなら見落としていたものまで少しずつ目に入っている。


「何笑ってんの?」


「嬉しかったから」


「サッカー見られたのが?」


「それもある」


「他にも?」


 雫は答えようとして、少しだけ迷った。


 以前なら誤魔化していたかもしれない。


「春樹が楽しそうだったから」


 今度は春樹が瞬きをした。


「俺が?」


「うん」


「それで雫が嬉しいの?」


「幼馴染が楽しそうだったら、嬉しいことくらいあるでしょ」


「まあ……そうか」


「そうだよ」


 雫は笑った。


 口にしてから、胸の奥が少しだけ落ち着かない。


 けれど後悔はなかった。


 春樹もそれ以上深く考えず、図書室の扉を開ける。


「じゃあ、今度は俺が本読んで楽しむ番」


「結局そこなんだ」


「今日はまだ三十分くらい読めるぞ」


「サッカーと合わせて一時間以上遊んでない?」


「サッカーは交流会の準備。読書は趣味」


「春樹の中ではそうなんだ」


「重要な区別だろ」


 二人は声を抑えながら図書室へ入った。


 カウンターには栞がいる。


 春樹に気づくと、少し驚いた顔をした。


「七瀬君。サッカーだったんじゃ?」


「終わりました」


「もう?」


「三十分だけなので」


「本当に来たんですね」


「来ますよ。昨日の続き読みたいし」


 春樹はいつもの席へ向かいかけてから、途中で栞を振り返った。


「白石先輩」


「はい?」


「昨日の本、まだ考えてますから」


 栞の表情が少し明るくなる。


「ありがとうございます」


「候補多くて困ってますけど」


「急がなくて大丈夫ですよ」


「そう言われると余計ちゃんと選びたくなるんですよね」


 春樹は困ったように笑う。


 そのまま席へ向かい、雫も隣に座った。


 栞は二人の後ろ姿を見送りながら、胸の奥に小さな温かさが広がるのを感じていた。


 昨日頼んだばかりなのに、春樹はもう考えている。


(どんな本になるんだろう)


 自分なら選ばない本。


 けれど春樹が、自分に合うと思って選ぶ本。


 その一冊を待つ時間まで、少し楽しい。


     ◇◇◇


 図書室の窓から見えるグラウンドでは、まだサッカー部の練習が続いていた。


 春樹はその景色へ一度だけ目を向けたあと、すぐに本へ戻った。


 身体には心地よい疲労が残っている。


 今日は三組の参加者について、ある程度把握できた。


 杉浦は前。


 山岸は後ろ。


 初心者二人は経験者と組ませる。


 細かい配置は本番の人数が確定してからでいい。


(これで当日は少し楽になるだろ)


 そこまで考えたところで、春樹は自分が普通に作戦を考えていることに気づいた。


(……俺、連絡係だよな?)


 確認したはずなのに、やっていることは少しずつ増えている。


 しかも嫌々やっているだけならまだしも、今日のミニゲームは普通に楽しかった。


 参加者が思ったより動けることが分かったときも、少し嬉しかった。


(まあ、当日ぐちゃぐちゃになるよりいいか)


 結局、いつもの結論へ戻る。


 春樹はページをめくった。


 少しすると、身体の疲れもグラウンドのことも意識から薄れ、物語の中へ沈んでいく。


 けれど以前とは違い、その日の出来事が完全に消えるわけではない。


 サッカーを見ながら笑っていた雫。


 思っていたより上手いと言った真実。


 騒いでいたひより。


 昔と変わらないと笑った蓮。


 意外そうに自分を見ていた怜華。


 そして、これから本を選ぶことになっている栞。


 本を開けば一人になれる。


 その時間が、春樹は今でも好きだった。


 ただ、本を閉じたあとに戻る場所には、以前より少し多くの人がいる。


 その変化を、春樹はまだ恋愛とも青春とも呼ばない。


 ただ最近は、それほど悪くないと思っていた。

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