第26話 本を一冊選ぶだけなのに、どうして先輩のことをこんなに聞く必要があるんだ?
水曜日の朝、七瀬春樹はいつもより五分ほど早く家を出た。
六月に入ってから朝の空気には少しずつ湿気が混じるようになり、住宅街の塀沿いに咲く紫陽花も、数日前より色が濃くなっている。以前なら本へ視線を落としたまま通り過ぎていた景色だが、歩き読みをやめてからは、こうした小さな変化が嫌でも目に入るようになった。
だからといって、読書への未練が消えたわけではない。
(五分早く着けば、その分だけ教室で読める。歩きながら読まないなら、読む場所に早く着けばいいんだよな)
安全と読書を両立させるために導き出した、春樹なりの合理的な結論だった。
「朝から満足そうな顔してるけど、何かいいことあった?」
隣から声をかけられ、春樹は横を見る。
雫が鞄を肩へ掛けながら、少し不思議そうな顔をしていた。
「俺、そんな顔してた?」
「してた。何かすごい発見したみたいな」
「発見というか、改善策」
「何の?」
「読書時間」
雫の目が細くなる。
「……一応聞くけど、また歩きながら読む方法とか考えてないよね?」
「違うって。五分早く家を出れば、五分早く学校に着く。その五分を教室で読む」
「普通だね」
「普通ってすごいな。安全で誰にも怒られないうえに、読書時間まで増える」
「春樹がそこにたどり着くまで何年かかったの?」
「今まで歩きながら読めてたから必要なかったんだよ」
「必要あったから凛に怒られたんでしょ」
「それを言われると弱い」
春樹は苦笑しながら歩道の端へ寄った。
駅へ向かう自転車が何台か後ろから近づいてきたためである。雫も自然にその横へ寄り、二人分の間隔を少し狭めた。
「そういえば明日、またサッカーやるんだよね?」
「蓮から連絡来たやつな。うちのクラスの参加者も何人か来るみたい」
「全員じゃないんだ」
「部活とか委員会とかあるし、強制じゃないからな。交流会のために毎日練習するようになったら、俺が最初に逃げる」
「読書時間がなくなるから?」
「当然」
「でも明日は行く」
「一回くらい一緒にやっとけば、誰が何できるか分かるから。当日になって『俺キーパー無理』『俺も無理』『じゃあ誰がやるんだ』ってなるよりいいだろ」
春樹は昨日確認した参加希望者の顔を思い浮かべながら答えた。
経験者ばかりなら細かく考える必要はないが、校内行事である以上、普段ほとんどサッカーをしない生徒も混ざる。勝ち負けを完全に無視するつもりはないものの、経験者だけがボールを触り続ける試合にしても面白くない。
「春樹って、そういうところ昔から変わらないよね」
「何が?」
「自分では面倒くさいって言うのに、始まる前からちゃんと考えるところ」
「当日面倒になる方が嫌なんだよ」
「はいはい」
「信じてないな?」
「信じてるよ。春樹がそう思ってることは」
微妙に含みのある返しだったが、春樹が問い返す前に校門が見えてきた。
雫は何となく笑っている。
(何なんだ?)
気にはなったものの、学校へ着けば待望の五分間読書が待っている。春樹は追及より本を選び、そのまま昇降口へ向かった。
◇◇◇
朝の教室には、まだ半分ほどしか生徒が来ていなかった。
春樹は鞄を机の横へ掛けると、昨日の放課後から読み進めている小説を取り出した。長年暮らした町を離れた主人公が、新天地で古い喫茶店の二階を借りるところまで進んでいる。
席へ座って栞を挟んだページを開いたところで、隣の通路から悠斗の声が飛んできた。
「おはよう、春樹。今日早くね?」
「五分の読書時間を確保するために生活を改善した」
「朝から言ってることが重いんだよ」
「何が重いんだ。早寝早起きに近い健全な改善だぞ」
「目的が全部読書じゃなきゃな」
悠斗は笑いながら自分の席へ鞄を置いた。
春樹も笑い返し、今度こそ本へ視線を落とす。
しかし、二ページほど進んだところで、昨日の生徒会室で交わした会話が頭をよぎった。
『今度、私にも一冊選んで』
春樹の視線が文字の上で止まる。
(……何選ぶんだ?)
怜華が本を読むこと自体は昨日聞いたが、「それなりに」という曖昧な答えしか得ていない。
それでは選びようがない。
例えば普段あまり読まないひよりなら、厚すぎないこと、会話が多いこと、重すぎないことなど、入り口としての条件が重要だった。真実なら物語の中で人が誰かを頼ったり、少しずつ関係を築いたりする部分への反応が強い。栞は静かな余韻や人物の感情が残る作品を好むし、雫については長い付き合いもあって、本人が言葉にする前からある程度は候補を絞れる。
だが、一ノ瀬怜華について知っていることといえば、成績がよく、生徒会長で、表向きは完璧に見えるほど人当たりがよく、その実かなり人をからかうのが好きらしい、という程度だった。
(これ、読書の好みにはほとんど関係ないな)
「珍しいね」
聞き慣れた声が近くからして、春樹は本から顔を上げた。
登校してきた雫が、自分の席へ鞄を置く前にこちらを見ている。
「何が?」
「本開いてるのに読んでない」
「考え事してた」
「サッカー?」
「いや、一ノ瀬先輩」
雫の手が、一瞬だけ鞄の持ち手を握ったまま止まった。
それは本当にわずかな変化だったため、春樹は気づかない。
「……怜華先輩?」
「昨日、本選んでくれって頼まれたんだよ」
「ああ、本」
「他に何があるんだ?」
「別に」
雫は自分でも気づかないほど小さく息を吐いてから、春樹の前の席を借りるように椅子を反転させた。
「何選ぶの?」
「それ考えてたんだけど、無理」
「無理なんだ」
「情報が足りなさすぎる。先輩が何読むか全然知らないし」
「春樹なら適当に何冊か選べそうだけど」
「選ぶだけならできるよ。でも合うか分からないだろ」
春樹は開いていた本を一度閉じた。
読書時間を増やすために早く来たはずなのに、自分から本を閉じていることには気づいていない。
「昨日も少し言ったけど、好きなジャンルだけじゃ足りないんだよ。例えば恋愛ものが好きって言われても、甘いのが好きなのか、じれじれが好きなのか、失恋ものでも平気なのかで全然違うし。ミステリーだって、本格系が好きな人に日常の謎を渡したら軽すぎるかもしれないだろ?」
「うん」
「長さも大事。忙しい人に上下巻合わせて千ページ超えるようなの渡したら、読む前から嫌になるかもしれないし。生徒会長なら時間もそんなにないだろうしな」
「……春樹」
「何?」
「楽しそうだね」
「選ぶの?」
「うん」
春樹は少し考えてから頷いた。
「まあ、楽しい。まだ何も分からないから難しいけど」
「そうなんだ」
雫は春樹の机の上にある本を見た。
ほんの少し前なら、一ノ瀬怜華という名前が出た時点で、胸の奥にもっと落ち着かないものが広がっていたかもしれない。
今も何も感じないわけではない。
春樹が、自分以外の女子に合う本を真剣に考えている。その事実を意識すると、胸の奥に細い糸を引かれるような感覚がある。
けれど同時に、これは春樹が誰かに本を選ぶとき、いつもやっていることだとも分かっていた。
(ひよりちゃんにも、真実ちゃんにも、栞先輩にもそうだった。私にだって、ずっとそうしてくれてる)
相手を知ろうとする。
何が好きで、何が苦手で、どんなところで笑って、どんなところに引っかかるのかを覚えていく。
春樹にとっては、その全部が「合う本を選ぶため」なのだろう。
だから雫は、以前のようにその行動そのものへ引っかかるのではなく、別のところが気になった。
「怜華先輩に、直接聞くの?」
「それしかないだろ」
「二人で?」
「本の好み聞くのに人数いる?」
「……いらないけど」
「だよな」
春樹は何の疑問も抱かず頷く。
雫は数秒黙ったあと、小さく笑った。
「春樹らしい」
「今日それ二回目じゃない?」
「そうだった?」
「朝も言ってた」
「長い付き合いだから、同じ感想になることもあるよ」
「便利だな、その言葉」
春樹は笑って再び本を開いた。
雫も自分の席へ戻ったが、胸の中に残った小さな引っかかりまでは消えなかった。
(嫌ってほどじゃない。でも、何とも思わないわけでもないんだ)
それが何なのか、今は無理に決めなくていい。
昨日、そう考えたばかりだった。
ただ、自分の中で以前とは違う何かが少しずつ形を持ち始めていることだけは、もう見ないふりが難しくなっていた。
◇◇◇
午前中の授業を終え、四時間目終了のチャイムが鳴った。
教科書を片づけながら春樹が昼食のことを考えていると、教室の前方が少しざわついた。廊下にいる一年生らしい女子生徒が、中を覗き込んでいる。
「七瀬」
窓際にいたクラスメイトが振り返った。
「また後輩来てるぞ」
「またって何だよ」
「最近多いじゃん」
「俺を何だと思ってるんだ」
「一年女子に妙に顔が広い読書狂い」
「最後の一言で全部台無しだよ!」
周囲から笑いが起こる。
春樹が廊下を見ると、そこにいたのはひよりではなく真実だった。
その少し後ろには、見覚えのある女子生徒が立っている。
「あ」
春樹は席を立った。
「森下?」
名前を呼ばれた女子生徒が、少し緊張したように頭を下げる。
「こんにちは、七瀬先輩」
「こんにちは。新海も」
「こんにちは」
真実は軽く頭を下げたあと、隣の森下へ視線を向けた。
「九条先輩が委員会の集まりで少し遅れるみたいで、森下さん一人だと緊張するって言うので、一緒に来ました」
「なるほど」
春樹は廊下へ出た。
森下は以前、凛に頼まれて数学を教えた一年生だ。あのときは空き教室で問題をいくつか一緒に解き、その後も一問だけ追加で質問があると凛から聞いていた。
「九条から聞いたよ。小テスト、前よりできたんだって?」
「はい」
森下の表情が少し明るくなる。
「この前、八十六点でした」
「おお、すごいじゃん」
「前は五十点台が多かったので……」
「それならかなり上がったな。でも俺が教えたからっていうより、森下がそのあと自分でやったからだろ」
「いえ、七瀬先輩に教えてもらったところが、そのまま出たんです」
「それは運がよかった」
「そういうことじゃなくて」
森下は少し困ったように笑った。
真実が隣で春樹を見る。
「七瀬先輩って、褒められると逃げますよね」
「逃げてないよ。事実を言ってるだけ」
「本を選んで喜ばれたときは、結構嬉しそうなのに」
「それは俺が選んだ本だから」
「数学だって七瀬先輩が教えたんじゃないですか」
「でも解いたのは森下だろ」
春樹は当然のように答えた。
森下はその言葉を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。
「それで……お礼を言いたくて」
「うん」
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げられ、春樹も少し姿勢を正す。
「どういたしまして。点上がったならよかった」
「あと、もう一つだけ聞きたいところがあるんですけど……」
「今持ってる?」
「はい」
森下が鞄から問題集を出そうとしたところで、階段の方から足音が近づいてきた。
「森下、すまない。遅くなった」
凛だった。
昼休み直前まで風紀委員の打ち合わせがあったらしく、いつもより少し急いできたのだろう。乱れているほどではないが、黒いポニーテールが歩調に合わせて揺れている。
「九条」
「七瀬。新海もいたのか」
「こんにちは、九条先輩」
「ああ」
凛は真実へ軽く会釈してから、森下を見る。
「礼は言えたか?」
「はい」
「ならよかった」
「九条、保護者みたいになってない?」
「誰が保護者だ!」
「いや、ちゃんとお礼言えたか確認する感じが」
「森下は後輩だ。気にかけるのは普通だろう」
「俺も同じようなこと言って、小日向にお母さんみたいって言われた」
「お前と一緒にするな」
「ひどくない?」
春樹が笑うと、森下も緊張が解けたのか小さく笑った。
凛は呆れたように息を吐いたが、その表情は以前ほど険しくない。
「それで、質問があるんだろう?」
「はい。でも昼休みなので、七瀬先輩がよければ……」
「一問ならここで見るよ」
「いいんですか?」
「昼飯食べる時間なくなるほどじゃないだろ」
春樹は廊下の窓際へ少し寄り、森下が開いた問題集を覗き込んだ。
二次関数の最大値と最小値を求める問題で、定義域によって場合分けが必要になる。森下は途中まで解けていたものの、軸が定義域の外へ出た場合の考え方で混乱しているらしい。
「ここまで合ってるよ」
「本当ですか?」
「うん。だから最初からやり直さなくていい。森下が分からなくなってるのは、この軸が範囲の中にある場合と外にある場合の違いだと思う」
春樹は問題集へ直接書き込まず、森下のノートの余白へ簡単な放物線を描いた。
「式だけ見てると分かりにくいから、まず図にしてみよう。例えば、この範囲だけ使える道路があると思って」
「道路?」
「そう。放物線全部を歩けるわけじゃなくて、この区間しか歩けない。で、一番低い場所を探したい。でも本当の一番低い場所が道路の外にあるなら、そこには行けないだろ?」
「あ……」
森下の視線がノートへ吸い寄せられる。
「だから使える範囲の端を見る?」
「そう。それが分かれば、場合分けの理由も暗記じゃなくなる」
「なるほど……」
森下は自分で式を書き始めた。
春樹は答えを先に言わず、途中で手が止まったときだけ「軸はどこ?」と促す。しばらくすると森下は最後まで計算を終え、問題集の解答と照らし合わせた。
「合ってます」
「じゃあ大丈夫」
「……本当に分かりやすいです」
「そう?」
「はい」
森下が嬉しそうに頷く。
その隣で見ていた真実も、春樹の説明とノートを見比べていた。
春樹は相手が分からないと言ったとき、すぐに答えを教えない。
どこまでは理解できていて、どこから分からなくなったのかを先に探す。
(本を選ぶときと同じなのかも)
真実はふとそう思った。
相手が何を好きなのかを聞く。
どこなら入りやすいのかを考える。
自分が好きなものをそのまま押しつけるのではなく、その人に合わせて入口を作る。
以前から春樹は親切な人だと思っていたが、その親切さがどういう形をしているのか、少しずつ見えてきた気がした。
「新海?」
春樹に呼ばれ、真実は我に返った。
「はい?」
「どうした?」
「いえ。七瀬先輩って、教えるの上手だなと思って」
「今日は褒められる日なの?」
「素直に受け取ってください」
「九条まで何か言ってくれ」
助けを求められた凛は、腕を組んだまま少し考える。
「教えるのは上手いと思うぞ」
「九条まで!?」
「なぜ驚く」
「味方してくれるかと」
「事実を曲げてまでお前の味方をする理由がない」
「正論が強い」
凛の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「それに、森下が理解できたなら、それでいい」
「まあ、それはそうだな」
春樹も笑った。
「森下、また分からないところ出たら、まず先生か友達に聞いて、それでも駄目なら九条経由で言ってくれれば見るよ」
「直接じゃ駄目なんですか?」
「駄目じゃないけど、一年の教室まで俺が突然行ったら目立つだろ」
「もう十分目立ってると思います」
真実が言う。
「何で?」
「一年生の間で、七瀬先輩のこと知ってる人、少し増えてますよ」
「待って。何で?」
「ひよりちゃんが話すから」
「小日向!」
本人がいないのに、春樹の声だけが廊下へ響いた。
教室の中から何人かがこちらを見て笑っている。
「声を抑えろ」
凛に注意され、春樹はすぐに口元を押さえた。
「……すみません」
「素直なのはいい」
「九条に褒められると、何か負けた気がする」
「ならもう一度注意するか?」
「それは嫌だ」
森下と真実が同時に笑った。
少し前まで、凛と春樹が顔を合わせれば注意と反論が先に出ていた。
今も言い合い自体は変わらない。
ただ、その間にある空気は明らかに柔らかくなっている。
凛自身もそれを自覚していた。
七瀬春樹は規則を軽く見ることがある。
本が絡めば周囲が見えなくなることもあるし、以前は歩きながら読むという危険なことまで平然としていた。
けれど正しいと納得した注意には従う。
頼まれたことを引き受ければ、面倒だと言いながら途中で投げない。
そして今、森下へ教えていたときのように、自分ができることを特別なことだと思わず差し出す。
(変な奴だという評価は、別に変わっていないんだが)
ただし、その一言だけでは足りなくなってきた。
凛はそう感じながらも、今はそれを口にしなかった。
◇◇◇
昼食を終えた春樹は、図書室へ向かう途中で一度足を止めた。
階段を上れば図書室。
反対側の渡り廊下を進めば、生徒会室がある。
(……今日聞くか?)
一ノ瀬怜華への選書。
別に期限は決められていない。
明日でも、来週でも構わないはずだ。
それなら今日は図書室へ行き、本を読めばいい。
「何してるの?」
後ろから雫の声がした。
振り返ると、昼食を終えたらしい雫と紗弥が並んで歩いてくる。
「人生の分岐点」
「大げさ」
雫が即座に返す。
「図書室行くか、生徒会室行くか」
「規模小さっ」
紗弥が笑った。
「でも春樹にとっては人生の分岐点かも」
「雫まで何言ってるんだ」
「生徒会室は怜華先輩?」
「うん。本の好み聞こうかと思ったんだけど、別に今日じゃなくてもいいんだよな」
「じゃあ図書室行けば?」
「それだと先延ばしになる」
「春樹って変なところ真面目だよね」
紗弥が言う。
「頼まれたの昨日だよ?」
「だから今日聞けば、候補を考える時間増えるだろ」
「急ぎじゃないんでしょ?」
「急ぎじゃないけど、選ぶならちゃんと選びたい」
紗弥は少し目を丸くしたあと、雫を見る。
「雫」
「何?」
「春樹って本当にこうなんだね」
「こうだよ」
「本人の前で通じる会話するなよ」
「だって、本のことになると急に細かくなるって聞いてたけど、思った以上だった」
「赤木まで俺を何だと思ってるんだ」
「本好き」
「それなら合ってる」
「そこは認めるんだ」
三人で笑ったあと、紗弥は雫へ「先行ってるね」と言い、図書室の方へ向かった。借りている本の返却期限を確認したいらしい。
春樹はまだ廊下の分岐点に立っている。
「雫は?」
「私は図書室」
「じゃあ先行ってて」
「生徒会室行くの?」
「うん。五分で終わらせる」
「五分?」
「好み聞くだけなら」
雫は何か言いかけてから、結局「分かった」と頷いた。
「栞先輩に席取られないようにしておく」
「図書室で席取りするなよ」
「言い方の問題」
「頼むから他の人が座りたそうなら空けてくれよ」
「分かってるって」
雫は笑いながら図書室へ向かう。
春樹はその背中を見送ったあと、反対側の渡り廊下へ足を向けた。
◇◇◇
生徒会室の扉をノックすると、中から聞き慣れ始めた声が返ってきた。
「どうぞ」
「失礼します」
春樹が入ると、室内には怜華のほかに二人の役員がいた。
窓際の机では二年生らしい男子生徒が書類を整理し、奥では女子生徒がノートパソコンを操作している。怜華は中央の机でスポーツ交流会の資料を確認していた。
「あら、七瀬君」
「昨日の件、今いいですか?」
「昨日の件?」
怜華がわざとらしく首を傾げる。
春樹は数秒見つめた。
「忘れたなら帰ります」
「待って」
「覚えてるじゃないですか」
「もう少し困るかと思ったのに」
「俺の読書時間使って来てるんですよ」
「それは大変ね」
「絶対思ってない」
近くにいた男子役員が、書類へ顔を伏せながら肩を震わせている。
春樹はそれに気づいたが、今さら気にしても仕方がないと怜華の机の前へ立った。
「本の好み聞きに来ました」
「本当に翌日に来るとは思わなかったわ」
「先延ばしにすると忘れそうなので」
「私の頼みを?」
「本を選ぶことを」
「そこは私を忘れないと言ってくれてもいいのに」
「何でですか」
「そういうところよね」
「何が?」
怜華は楽しそうに笑い、机の上の書類を横へ寄せた。
「いいわ。何を聞きたいの?」
「まず、普段どれくらい読みます?」
「月に二、三冊くらいかしら。忙しい時期は一冊も読まないけれど、休みがあればもう少し」
春樹の表情が少し変わる。
「思ったより読みますね」
「失礼ね」
「いや、生徒会忙しそうだから」
「移動中や寝る前に少しずつ読むことが多いわ」
「じゃあ長編でも大丈夫?」
「面白ければ。ただ、シリーズ十冊以上と言われると少し身構えるわね」
「なるほど」
春樹はポケットからスマートフォンを出しかけ、ここが学校だと思い直して鞄から小さなメモ帳を取り出した。
怜華が目を瞬く。
「メモするの?」
「忘れたら困るので」
「そこまで?」
「ちゃんと選べって言ったの先輩でしょ」
「そこまでは言っていないわ」
「じゃあ適当に人気作渡します?」
「それは嫌ね」
「でしょ?」
春樹は得意げにペンを構えた。
「好きなジャンルは?」
「ミステリーは好きよ。恋愛ものも読むし、歴史ものも嫌いではないわ」
「結構広いな……。苦手なのは?」
「救いが一切ない話は、あまり好んで読まないわね」
「グロいのは?」
「平気だけれど、それ自体が目的の作品はあまり」
「ホラー」
「ものによるわ」
「難しいな」
「選書を頼んだ相手がもう弱音?」
「違います。候補が広いって意味です」
春樹はメモを取りながら、次の質問を考えた。
「最近読んで面白かったのは?」
怜華が三冊ほど題名を挙げる。
一冊は密室を扱った本格ミステリー、一冊は女性二人の長い友情を描いた現代小説、もう一冊は地方都市を舞台にした連作短編集だった。
春樹は二冊目で少し意外そうな顔をした。
「何?」
怜華がすぐに気づく。
「いや、その本好きなんだと思って」
「意外?」
「ちょっと」
「どうして?」
春樹は答える前に、少し考えた。
相手の前で「こういう人だと思っていた」と決めつけるのは失礼かもしれない。
「先輩って、もっと展開が速くて、登場人物同士が頭使って駆け引きする話が好きそうだと思ってました」
「私の性格から?」
「今まで話した印象から」
「へえ」
怜華は頬杖をつく。
「七瀬君から見た私は、そんな感じなのね」
「今のところは」
「今のところ?」
「だってまだ全然知らないし」
春樹は悪びれず答えた。
「本一冊選ぶのに、こんなに聞かないと分からないくらいには」
怜華の笑みが、ほんのわずかに止まった。
春樹はそれに気づかず、メモへ視線を落としている。
「その友情もの、どこが好きでした?」
「……そうね」
怜華は一拍置いてから答えた。
「二人が、最後まで完全には分かり合わないところかしら」
「そこ?」
「ええ。長く一緒にいて、相手のことをよく知っている。でも何でも分かるわけではないし、言わなかったこともある。それでも関係が壊れないでしょう?」
「ああ」
春樹は顔を上げた。
「分かります。全部理解してるから大事なんじゃなくて、分からない部分が残ってても一緒にいられるってやつですよね」
「そう」
「それなら、完全無欠な相棒ものより、ちょっとズレが残る方が好き?」
「多分ね」
「恋愛ものも同じですか?」
「どういう意味?」
「最初から相性完璧で、何でも分かり合える二人より、少しズレたり誤解したりする方が好きとか」
怜華は春樹を見たまま、少し考えた。
「……そうかもしれないわね。ただし、延々と話せば済む誤解だけで引っ張るのは苦手」
「分かる!」
春樹の声が少し大きくなる。
奥にいた女子役員が顔を上げたため、春樹はすぐに声量を落とした。
「すみません。でも分かります。誤解自体はいいんですよ。本人の性格とか立場とか、言えない理由がちゃんとあるなら。でも五分話せば終わるのに、作者が話を伸ばすためだけに誰も話さないのは違う」
「随分熱くなるのね」
「大事ですよ、そこ」
「恋愛小説が好きなの?」
「好きですよ」
「意外ね」
「何でですか」
「七瀬君自身は恋愛に興味がなさそうだから」
「読むのと自分がやるのは別でしょ」
「そういうもの?」
「スポーツ観戦好きな人が全員選手になりたいわけじゃないのと同じです」
「なるほど」
怜華は納得したように頷いた。
「じゃあ七瀬君は、恋愛を外から見るのが好きなのね」
「言い方がちょっと嫌だな」
「でも間違っていないでしょう?」
「……否定しづらい」
怜華が楽しそうに笑う。
春樹はメモ帳へ視線を戻した。
「あと、主人公は男と女どっちが読みやすいとかあります?」
「特にはないわ」
「一人称と三人称は?」
「それも気にしない」
「学生ものは?」
「読むわよ」
「じゃあ結構何でもいけるな……」
春樹は眉を寄せた。
条件が増えれば絞れると思っていたのに、怜華は想像以上に守備範囲が広い。
「困ってる?」
「ちょっと。でも候補は何冊か浮かびました」
「もう?」
「一冊は、地方の古いホテルが舞台の連作ミステリー。謎自体はそこまで重くないけど、宿泊客と従業員の関係が少しずつ繋がっていくやつ。もう一冊は、大学時代から十年以上付き合いが続く男女四人の話で、恋愛もあるけど友情寄り。あと――」
「待って」
怜華が笑いながら止める。
「まだ選ばなくていいわ」
「何で?」
「今全部聞いたら、選んでもらう楽しみが減るでしょう?」
「そういうものですか?」
「そういうものよ」
春樹には完全には理解できなかったが、頼んだ本人がそう言うなら従うしかない。
「じゃあ少し考えます」
「ええ」
そこで春樹は時計を見た。
生徒会室へ入ってから、すでに十五分近く経っている。
「……五分の予定だったのに」
「七瀬君がたくさん聞くからでしょう?」
「選ぶのに必要だったんです!」
「でも楽しかった?」
怜華の問いに、春樹は一瞬だけ黙った。
「本の話は」
「そこに限定するのね」
「先輩と話すのも別に嫌じゃないですよ」
あまり考えずに付け足した言葉だった。
怜華の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「それは光栄ね」
「でもからかわれるのは面倒です」
「台無し」
「そこは別問題でしょ」
春樹はメモ帳を鞄へ戻した。
「じゃあ、候補決まったら言います」
「楽しみにしているわ」
「期待値上げすぎないでくださいよ」
「難しい注文ね」
「何で?」
「そこまで真剣に選んでくれているのを見たあとだもの」
春樹は少し困った顔をした。
「……合わなかったら普通に言ってくださいね」
「ええ」
「俺が好きな本を渡すんじゃなくて、先輩に合いそうな本を選ぶんで」
「分かっているわ」
怜華の返事は、今度はからかう調子ではなかった。
春樹が生徒会室を出たあとも、怜華はしばらく閉じた扉を眺めていた。
近くで書類整理をしていた男子役員が、我慢できなくなったように口を開く。
「会長、めちゃくちゃ質問されてましたね」
「そうね」
「面接みたいでした」
「私も途中からそう思ったわ」
「嫌じゃなかったんですか?」
怜華は机の上に置かれた資料へ視線を戻したが、すぐに作業へ戻る気にはならなかった。
(嫌ではなかった、か)
自分の好みを、あれほど細かく聞かれたことはあまりない。
好きなジャンルだけではなく、なぜ好きなのか、どこが苦手なのか、どんな関係性に惹かれるのかまで尋ねられた。
春樹に特別な意図がないことは分かっている。
本気で一冊の本を選びたいだけなのだ。
それなのに、自分がどういう物語を好む人間なのかを、一つずつ見つけられていくような感覚があった。
「面白かったわ」
怜華はそう答えた。
男子役員が「やっぱり」と笑ったので、怜華はいつもの整った笑顔を向ける。
「何が『やっぱり』なのかしら?」
「いえ、何でもありません」
「そう?」
声は柔らかい。
男子役員は即座に書類へ視線を戻した。
怜華もようやく資料へ手を伸ばしたが、頭の片隅には春樹の言葉が残っている。
『だってまだ全然知らないし』
普通なら、少し失礼にも聞こえる。
けれど春樹は、その「知らない」を埋めるために十五分も質問した。
(私を知りたい、ではなく、私に合う本を選びたい、なのよね)
そこを取り違えるつもりはない。
それでも、自分へどんな一冊が差し出されるのか。
昨日より少しだけ、楽しみになっていた。
◇◇◇
生徒会室を出た春樹は、そのまま図書室へ向かった。
昼休みは半分以上残っている。
(十五分か。思ったより使ったな)
しかし、不思議と損をした気はしなかった。
怜華の好みはかなり分かった。
少なくとも、昨日より候補は大幅に絞れる。
(連作ミステリーはかなり合いそうだけど、少し無難すぎるかな。あの友情ものが好きなら、人物関係がもう少し複雑な方でもいけそうだし……)
考えながら図書室の扉を開けると、いつもの席には雫がいた。
向かいには栞も座っている。
「遅かったですね」
栞が小声で言う。
「五分で戻るつもりだったんですけど」
「何分?」
雫が尋ねる。
「十五分くらい」
「三倍」
「聞くこと多かったんだよ」
春樹は雫の隣へ鞄を置いた。
そこが空いていたことに特別な意味があるとは思わない。いつもの場所だから座っただけだった。
「何聞いたの?」
「読むペース、好きなジャンル、苦手な話、最近好きだった本、長編いけるか、シリーズもの平気か、主人公の性別に好みあるか、一人称か三人称か――」
「待って」
雫が途中で止めた。
「何?」
「そんなに聞いたの?」
「必要だろ?」
「本一冊選ぶのに?」
「一冊だからだよ」
春樹は当然のように答えた。
「合わなかったら、読んでる時間丸ごと無駄にさせるかもしれないんだぞ。俺が勝手に貸すならともかく、選んでくれって頼まれたならちゃんと考えたいだろ」
「……そっか」
雫は春樹の横顔を見る。
朝、自分の胸に残っていた細い引っかかりが、また少し動いた。
怜華について十五分も質問した。
その事実だけを見れば、やはり少し気になる。
けれど今の春樹を見れば、理由はあまりにも明白だった。
恋愛でも、特別扱いでもない。
春樹はただ、相手に合う本を選ぶという行為を雑にしたくないのだ。
(……分かってるんだけどな)
分かることと、何も感じないことは同じではないらしい。
「候補決まった?」
「三冊くらい」
「早い」
「でもまだ決めない。家帰って本棚見たい」
「春樹」
「ん?」
「私の三冊目も忘れてない?」
春樹は一瞬止まり、それから眉を上げた。
「忘れてないよ」
「本当?」
「むしろ候補増えて困ってる」
「増えてるの?」
「連作短編集読んだあとの雫の感想聞いたから、前に考えてたやつより合いそうなのが一冊出てきた」
雫の表情が変わる。
「私の感想で?」
「うん。五編目好きだった理由」
「……覚えてる?」
「待つことを相手任せにせず、自分で選んでるところが好きって言ってただろ」
あまりにも自然に言われ、雫は返事が遅れた。
春樹は気づかず続ける。
「だったら受け身に見えて実は自分で選択してる主人公の話、結構合うかもしれない。恋愛だけじゃなくて進路の話も入るけど」
「そうなんだ」
「ただ、前に候補にしてた方も捨てがたいんだよな。そっちはもう少し会話多くて軽い」
「どっちでもいいよ」
「それ一番困るやつ」
「春樹が選んでよ」
「それは選ぶけど」
「私に合う方」
雫が笑う。
春樹は少し考えてから頷いた。
「分かった」
「うん」
それだけの会話だった。
けれど雫の胸に残っていた引っかかりは、先ほどより小さくなっていた。
怜華へ本を選ぶ春樹と、自分へ本を選ぶ春樹。
やっていることは似ている。
けれど自分については、好きなジャンルから聞き直す必要がない。
何年も積み重ねてきた時間があるから、春樹は自分の感想を覚えていて、それを次の一冊へ繋げてくれる。
(……こういうのでいいんだ)
他の誰かと比べて、自分だけが特別だと確認する必要はない。
自分たちには、自分たちなりの積み重ねがある。
それを思い出すと、胸の奥に静かな安心が広がった。
「雫?」
「何?」
「笑ってるけど」
「別に」
「最近それ多くない?」
「春樹も最近、人の顔見るようになったね」
「そう?」
「うん」
雫はそれ以上説明せず、借りていた本へ視線を戻した。
春樹も首を傾げながら、自分の小説を開く。
向かいで二人を見ていた栞は、ページをめくる手を少しだけ止めた。
春樹は怜華のために十五分かけて好みを聞いた。
雫には聞かなくても、以前の感想から次の本を考えられる。
どちらが上でも下でもない。
ただ、関係の形が違う。
栞はそれを、少し不思議な気持ちで見ていた。
(私なら、七瀬君は何を選ぶんだろう)
そんな考えが浮かび、栞は自分で少し驚いた。
これまで春樹とは互いに本を勧め合ってきた。
自分が彼へ薦めることもあれば、彼から教えてもらうこともある。
けれど「自分一人のために一冊選んでほしい」と頼んだことはない。
怜華の話を聞いたからだろうか。
ほんの少しだけ、それを試してみたいと思った。
ただ、今すぐ言う必要はない。
栞は再び本へ視線を戻した。
ページの文字を追い始めても、胸の片隅に生まれた小さな興味だけは、そのまま残っていた。
◇◇◇
放課後、春樹が帰り支度をしていると、教室の後方から男子数人の声が聞こえてきた。
「七瀬、明日何時?」
振り返ると、杉浦拓海が立っている。
その隣にはサッカー参加希望を出している男子が二人いた。
「蓮からは放課後すぐって聞いてる。三十分くらい」
「マジで三十分?」
「俺は三十分で帰る」
「七瀬基準じゃん」
「長くやりたいなら残ればいいだろ。俺は止めないよ」
春樹は鞄を肩へ掛けながら答えた。
「別に本番前だからって毎日練習する必要ないし、一回みんなで動けば十分だと思う。経験ある奴とない奴が分かれば、あとは当日の組み合わせ考えられるから」
「俺、ほぼ初心者」
男子の一人が手を上げた。
「大丈夫。交流会なんだから」
「でも経験者ばっかりにボール取られそうじゃね?」
「だったら経験者側が合わせればいい」
春樹は迷わず言った。
「経験ある奴が初心者から本気で奪い続けても、誰も楽しくないだろ。勝ちたいならなおさら、全員が最低限動けた方がいいし」
杉浦が感心したように眉を上げる。
「七瀬、思ったより真面目に考えてるな」
「当日ぐちゃぐちゃになる方が面倒だから」
「またそれ?」
「本音だよ」
「でも明日、仕切ってくれるんだろ?」
「蓮がいる」
「二組じゃん」
「じゃあお前が仕切れ」
「嫌だよ」
「俺も嫌なんだけど!」
周囲から笑いが起きる。
そのやり取りを少し離れた席で聞いていた永山が、採点途中らしいプリントから顔を上げた。
「七瀬」
「嫌な予感しかしないんですけど」
「明日、三組の連中だけはお前が見ろ」
「先生!」
「神谷に他クラスまで任せるな」
「正論なのが一番嫌だ!」
「安心しろ。三十分でいい」
「本当に?」
「ああ。三十分で必要なことだけ確認しろ。練習参加も強制するな」
春樹は数秒考えた。
そこまで条件が決まっているなら、拒否する理由も薄い。
「……分かりました」
「素直でよろしい」
「その代わり、三十分経ったら帰りますからね」
「好きにしろ」
「図書室行くので」
「知ってる」
永山は笑いながら採点へ戻った。
杉浦たちも「じゃあ明日な」と教室を出ていく。
春樹は小さく息を吐きながら、自分の鞄を持ち直した。
「何か本当に代表みたいになってきた……」
「だから代表なんじゃない?」
横から雫が言う。
「連絡係」
「もう諦めたら?」
「肩書きが重くなると仕事が増える」
「そこ?」
「重要だろ」
二人で教室を出る。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が広がり、開け放された窓からはグラウンドの笛の音が聞こえていた。六月の夕方はまだ明るく、校舎の床へ差し込む日差しも長い。
「今日は図書室?」
雫が尋ねる。
「行く。あと一時間くらい読みたい」
「私は今日は帰るよ。買い物頼まれてるから」
「そっか。じゃあまた明日」
「うん」
階段の踊り場で進む方向が分かれる。
雫は数段下りたところで振り返った。
「春樹」
「何?」
「怜華先輩の本、決まったら教えて」
「何で?」
「気になるから」
「いいけど」
「私の三冊目もね」
「そっちもちゃんと考えるって」
「約束」
「約束」
春樹が頷くと、雫は満足そうに笑って階段を下りていった。
春樹はその姿が見えなくなるまで何となく見送ったあと、図書室へ向かう。
今日は本を読む。
明日は三十分だけサッカーをする。
その前に、一ノ瀬怜華へ薦める本の候補も絞りたい。雫への三冊目も考えなければならないし、ひよりが次に何を読みたいと言い出すかも分からない。
(……また増えてないか?)
以前なら、予定が増えるたびに読書時間が奪われていると考えていた。
今も、無制限に増えてほしいとは思わない。
けれど本を選ぶことも、本について話すことも、その人がどんな物語を好きなのか知ることも、最近は自分の読書から完全に切り離せなくなっている。
(まあ、本が絡んでるならいいか)
そんな結論に落ち着きながら図書室へ入ると、カウンターにいた栞が春樹へ気づいて顔を上げた。
「七瀬君」
「白石先輩。さっきぶりです」
「はい」
栞は少し迷うように手元の返却本へ視線を落としたあと、もう一度春樹を見た。
「一つ、お願いしてもいいですか?」
「本探し?」
「少し違います」
「じゃあ何です?」
栞はすぐには答えなかった。
昼休みに浮かんだ考えを、本当に口にしていいのか迷っているようだった。
それでも、春樹が急かさず待っているのを見て、栞は小さく息を整えた。
「今度、私にも一冊選んでもらえませんか?」
春樹は目を瞬いた。
怜華に続いて二人目である。
「白石先輩に?」
「はい。私が自分で選びそうな本ではなくて、七瀬君が私に合うと思った本を」
その条件を聞いた瞬間、春樹の頭の中でいくつもの本が浮かび始めた。
栞が好む静かな余韻。
謎そのものより、その後に残る人物の感情。
大きな事件がなくても、待つ時間や言葉にならない関係を丁寧に描いた作品。
怜華のときとは違い、最初から材料がいくつもある。
「……面白そう」
春樹の口元が自然に緩んだ。
「いいですよ。白石先輩なら、候補かなりあります」
「そんなに?」
「あります。むしろ絞る方が大変かも」
栞はその返事を聞き、ほっとしたように微笑んだ。
「楽しみにしています」
「ただ、白石先輩が普段選ばなそうな本って条件なら、少し攻めてもいいですか?」
「攻める?」
「ジャンルをずらすとか。普段ミステリー多いから、そこから完全に外すか、ミステリー要素は残しつつ別ジャンル強めにするか」
「七瀬君に任せます」
「それ、一番責任重いやつですよ」
「一ノ瀬さんにも同じことを言われましたか?」
「先輩はむしろ途中で候補言うなって止めました」
栞がくすりと笑う。
「一ノ瀬さんらしいです」
「白石先輩と全然違いますね」
「そうですか?」
「違いますよ。でも」
春樹は少し考えてから続けた。
「だから選ぶ本も全然違うと思います」
栞は、その言葉を静かに受け取った。
誰かと違うことを、春樹は優劣として扱わない。
違うから、別の本を選ぶ。
ただそれだけなのだ。
「お願いします」
「任せてください」
春樹はそう答え、自分の席へ向かった。
鞄から読みかけの小説を取り出しながら、頭の片隅ではすでに二人分の候補が動き始めている。
一ノ瀬怜華には、まだ知らない部分を聞いたうえで選ぶ一冊。
白石栞には、これまで一緒に本を読んできた時間を使って選ぶ一冊。
そして西条雫には、長い付き合いと最近聞いた感想を重ねて選ぶ三冊目。
同じ「本を選ぶ」という行為なのに、必要になるものが少しずつ違う。
(これ、思ってたより面白いな)
春樹は本を開いた。
読むことが好きなのは、何も変わっていない。
ただ最近、その一冊を手に取る前にも、読み終えたあとにも、人の顔が浮かぶことが増えた。
それを面倒だと思わなくなっている自分について、春樹はまだ深く考えていない。
図書室の窓から差し込む午後の日差しの中で、春樹はようやく読みかけの物語へ戻っていった。その少し向こうでは、栞が返却本を棚へ戻しながら、いつか春樹から渡される一冊を想像して、誰にも気づかれないほど小さく笑っていた。




