第25話 一冊の本を貸しただけなのに、昼休みが読書会になっていました
火曜日の朝、七瀬春樹は教室へ入って自分の席へ向かう途中、黒板の横に貼られたスポーツ交流会の参加希望表を見て足を止めた。
昨日までなら、そのまま通り過ぎていただろう。
自分の名前がサッカー欄に書かれていることは知っているし、他の生徒が何を選んだかまで積極的に確認する理由もなかった。しかし今は事情が違う。
「……誰だっけ」
春樹は鞄から昨日の代表者連絡会でもらった資料を取り出した。
二年三組のサッカー希望者十一人。
そのうち二人が別競技との兼任候補になっており、どちらを優先するのか本人たちへ確認し、今日の昼までに生徒会側へ伝えることになっている。
「朝から仕事してる」
背後から声をかけられ、春樹は振り返った。
西条雫が立っている。
「おはよう」
「おはよう。珍しいね」
「俺だって必要なら仕事くらいするよ」
「本は?」
「鞄の中」
「読んでないんだ」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「教室入ったらまず本を出す人」
「……普段はそうだけど」
否定しきれず、春樹は資料へ視線を戻した。
「今日の昼までに二人へ確認しないといけないんだよ。放課後に回すと読書時間が減るから、朝のうちに終わらせる」
「結局理由は本なんだ」
「目的が何であれ、仕事が早く終わるならいいだろ?」
「それはそう」
雫は隣から参加希望表を覗き込んだ。
「誰?」
「山岸と杉浦。山岸がサッカーとバスケ、杉浦がサッカーとリレー候補」
「杉浦君ならもう来てたよ」
「本当?」
「さっき廊下で見た」
「助かる」
春樹は教室内を見回し、窓際で友人と話している男子生徒を見つけた。
「杉浦!」
「ん?」
杉浦拓海が振り返る。
陸上部ではないが足が速く、体育祭などではよくリレー候補へ名前が挙がる生徒だった。
「ちょっといい?」
「何?」
「スポーツ交流会。サッカー希望出してるけど、リレーも候補になってる。時間被った場合、どっち優先したい?」
「あー、それ」
拓海は少し考えた。
「俺、どっちでもいいんだよな」
「一番困る答え来た」
「だってサッカーもやりたいし、リレーも別に嫌じゃないし」
「じゃあ時間が被らなければ両方?」
「それならやる」
「被ったら?」
「七瀬が決めて」
「何で俺が決めるんだよ!」
朝の教室に笑いが起こる。
「代表だろ?」
「連絡係!」
「同じじゃね?」
「違う!」
近くにいた男子たちまで笑い始め、春樹は額を押さえた。
「本人の希望を聞けって言われてるんだよ。俺が勝手に決めたら確認の意味ないだろ」
「じゃあ……サッカーかな。リレーは他にも速い奴いるし」
「了解。サッカー優先な」
「おう」
春樹は資料へ丸をつける。
「あと、試合出るなら経験ある?」
「小学校でちょっとだけ。クラブとかじゃないけど」
「分かった」
「そこまで聞くの?」
「一応な。誰がどれくらいできるか分かってた方が、当日楽だろ」
「七瀬、もう普通にまとめ役じゃん」
「情報集めてるだけ!」
「それをまとめ役って言うんじゃね?」
「違う!」
また笑われる。
少し離れたところでその様子を見ていた雫は、口元を緩めた。
春樹は面倒だと言いながら、引き受けたことを適当にはやらない。
昨日の代表者連絡会についても帰り道で少し聞いたが、経験者と初心者をどう混ぜるかまで考えて話したらしい。
(昔から、そうなんだよね)
サッカーをしていた頃も、自分で点を取るより、味方が動きやすい場所へボールを出すことが多かった。
春樹自身はそれを特別なことだと思っていない。
だからこそ、周りから頼られる。
「雫?」
「何?」
「山岸まだ来てない?」
「見てないよ」
「そっか」
「私、来たら言おうか?」
「いや、俺が聞く。頼まれたの俺だし」
「そう?」
「そこまで雫にやらせたら、本当に俺が名前だけの代表になるだろ」
「連絡係じゃなかった?」
「……そうだった」
「自分で代表って言った」
「忘れろ!」
雫は楽しそうに笑った。
◇◇◇
山岸への確認は、一時間目が始まる前に終わった。
山岸浩平はバスケットボール部所属というわけではないものの、バスケの方を優先したいらしく、サッカーは人数が足りない場合のみ参加するという形で落ち着いた。
春樹はその内容を資料へ書き込み、休み時間に職員室へ行って永山へ報告した。
「早いな」
「放課後まで残したくないので」
「読書か」
「分かってるなら聞かないでください」
「七瀬」
「はい?」
「お前、仕事を早く終わらせる動機としては優秀だな」
「褒めてます?」
「褒めてる」
「なら受け取ります」
春樹は満足そうに頷いた。
「あと、杉浦はサッカー優先。山岸はバスケ優先で、サッカーは人数足りなければ参加可能です」
「分かった。生徒会には?」
「昼に伝えればいいですよね?」
「ああ。一ノ瀬に渡しておけ」
「先生からじゃ駄目なんですか?」
「代表者が確認した内容は代表者から報告することになってる」
「連絡係です」
「どっちでもいい」
「教師まで!」
永山は笑いながら職員室へ戻っていく。
春樹はその背中を見送り、小さく息を吐いた。
「……一ノ瀬先輩、どこにいるんだ?」
昨日は向こうから捕まえに来た。
今日は自分から探さなければならないらしい。
(昼休み削られるの嫌だな)
そう考えた瞬間、別の予定を思い出した。
「あ」
ひよりの感想会。
昨日、全員の都合が合えば昼か放課後に集まろうと話していた。
「……昼、忙しくない?」
自分で呟いてから、春樹は首を傾げる。
少し前まで昼休みといえば、弁当を食べて残り時間を読書へ使うだけだった。
今は本の感想会と、生徒会への報告が同じ時間帯に重なっている。
(何で俺の昼休み、こんな予定表みたいになってるんだ?)
原因の半分以上が自分にあることには、まだ深く考えないことにした。
◇◇◇
二時間目と三時間目の間の休み時間。
春樹が次の授業の教科書を出していると、高坂悠斗が椅子を引きずってきた。
「なあ、春樹」
「何?」
「ちょっと聞きたいんだけど」
「紗弥?」
「声!」
悠斗が慌てて周囲を見る。
幸い、赤木紗弥は友人と廊下へ出ていた。
「何で即分かるんだよ」
「お前がその顔で相談してくる内容、最近それしかないだろ」
「俺そんな顔してる?」
「してる」
「どんな?」
「自分では重大事件だと思ってるけど、他人から見れば高校生らしい悩みを抱えてる顔」
「分かりにくいわ!」
春樹は笑いながら椅子へ座り直した。
「で?」
「昨日、紗弥が例の小説読み始めたって」
「お前が推薦したやつ?」
「そう」
「よかったじゃん」
「でさ、『映画と結構違うね』ってメッセージ来た」
「うん」
「これ、会話続けていいよな?」
「何で駄目だと思うんだよ」
「しつこくない?」
「赤木からメッセージ来たんだろ?」
「そうだけど」
「じゃあ返せよ」
「何て?」
「自分で考えろ」
「そこ助けてくれよ!」
「俺が文章考えたら、お前と赤木じゃなくて俺と赤木が会話してるみたいになるだろ」
「そうだけどさぁ」
悠斗は机へ突っ伏した。
「じゃあ普通に『俺もそこ驚いた』とかでいい?」
「いいんじゃない? 本当にそう思ったなら」
「思った」
「ならそれでいい」
「そこから好きな場面聞くのは?」
「自然」
「読み終わったら感想聞きたいって言うのは?」
「普通」
「今度一緒に映画――」
「急に飛んだな」
「駄目?」
「駄目とは言ってない。でも今の会話から突然誘うより、本の話続けて、その流れで関連作品とか映画の話になったらでいいんじゃない?」
悠斗が真剣な顔で頷く。
「なるほど」
「あと俺の言う通りにするなよ。赤木との距離感知ってるのはお前なんだから」
「分かってる」
「ならよし」
悠斗はスマートフォンを取り出しかけ、すぐに教師が来る時間だと気づいてポケットへ戻した。
「昼に返すわ」
「そうしろ」
「……春樹」
「何?」
「お前、何でこれだけ分かるのに自分のことになると駄目なんだろうな」
「何が?」
「いや、何でもない」
「またそれかよ!」
悠斗は笑いながら自分の席へ戻っていった。
春樹は納得できないままその背中を見送ったが、深く考える前に授業開始のチャイムが鳴った。
◇◇◇
昼休み。
春樹は弁当を半分ほど食べたところで、教室の扉から勢いよく顔を覗かせたひよりを見つけた。
その隣には真実もいる。
「春樹先輩!」
「読み終わった?」
「何で挨拶より先に分かるんですか!」
「顔」
「顔!?」
「絶対話したくて仕方ない顔してる」
ひよりは驚いたように自分の頬へ触れた。
「そんなに出てます?」
「出てる」
「七瀬先輩、そういうところだけ妙に鋭いですよね」
真実が苦笑する。
「そういうところだけって何?」
「何でもありません」
「新海まで!」
真実は小さく笑いながら、ひよりと一緒に教室へ入ってきた。
雫も自分の弁当を持って春樹の机の近くへ移動する。
「栞先輩は?」
「今日は図書委員の当番なので、図書室にいます」
真実が答える。
「じゃあ食べ終わったら図書室行くか」
「私、もう食べました!」
ひよりが元気よく答える。
「早いな」
「急いできました」
「ちゃんと噛んだ?」
「お母さんみたいなこと言わないでください!」
「喉詰まらせたら危ないだろ」
「噛みました!」
「ならいい」
「春樹先輩、たまに変なところで心配性ですよね」
「普通だろ」
ひよりは真実と顔を見合わせた。
「普通だそうです」
「七瀬先輩基準では」
「何だよ、その言い方」
春樹が抗議すると、雫が横から笑う。
「春樹、自分の普通を他人に当てはめない方がいいよ」
「雫にまで言われた」
「昔からだよ」
「そこまで変かなぁ……」
春樹は首を傾げながら残りの弁当を食べ始めた。
ひよりは待ちきれないらしく、鞄から連作短編集を何度も出しかけては戻している。
「小日向」
「はい?」
「感想、今言うなよ」
「分かってます!」
「絶対言いたそうじゃん」
「言いたいです!」
「じゃあ我慢」
「うぅ……」
その様子を見て、雫と真実が笑った。
「ひよりちゃん、どの話が一番だった?」
「雫」
春樹がすぐに止める。
「あ、ごめん」
「西条先輩まで!」
「つい」
「図書室着くまで禁止な。全員揃ってからの方が面白い」
「春樹が一番楽しみにしてない?」
雫が尋ねる。
「してるよ」
あまりにも素直に返されたため、雫の方が一瞬言葉を失った。
「……そう」
「何?」
「いや。普通に言うんだと思って」
「何で隠すんだよ。四人で同じ本の感想話すの初めてだし、楽しみだろ」
春樹はそう言いながら、弁当箱の蓋を閉じた。
その表情には、これから一人で好きな本を読むときとは少し違う種類の期待が浮かんでいる。
雫はそれを見ながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
春樹にとって、自分と本の話をすることが楽しい。
それは以前から分かっていた。
今では真実も、栞も、ひよりもいる。
以前なら、その事実に少しだけ寂しさを感じたかもしれない。
けれど今は、別の見方もできる。
(私と話すのが楽しくなくなったわけじゃない)
人が増えただけ。
春樹自身が言っていたように、減ったのではなく増えたのだ。
そう思うと、不思議と素直に楽しめる気がした。
◇◇◇
図書室へ入ると、栞はカウンターで貸出処理をしていた。
昼休みということもあり、普段より利用者が多い。窓際の席にも何人か生徒がおり、いつもの場所を五人で占領するわけにはいかなかった。
「白石先輩」
春樹が声を抑えて呼ぶ。
「こんにちは」
「小日向、読み終わりました」
「本当ですか?」
栞の表情が少し明るくなる。
「はい!」
ひよりが声を上げかけ、慌てて自分の口を押さえた。
「……読み終わりました」
言い直す声が極端に小さくなり、春樹が笑いを堪える。
「振れ幅すごいな」
「春樹先輩が笑うから!」
「声」
「……もう!」
ひよりは頬を膨らませた。
栞がカウンターの向こうで小さく笑う。
「奥の閲覧スペースなら、少し話しても大丈夫ですよ。ほかの人の迷惑にならない声なら」
「いいんですか?」
「今日は委員がもう一人いるので、私も少しなら」
「じゃあ行きましょう!」
「小日向、遠足じゃないんだから」
「だって楽しみにしてたんです!」
五人は図書室の奥にある大きめの閲覧机へ移動した。
窓から少し離れているため外の運動部の声も弱く、棚に囲まれた場所なので、小声で話す程度なら周囲の邪魔になりにくい。
ひよりが中央へ本を置く。
春樹、雫、真実、栞。
四人の視線が自然とその一冊へ集まった。
「じゃあ」
春樹が口を開く。
「小日向、まず全体どうだった?」
「面白かったです」
「終わり?」
「違います!」
ひよりが慌てて続ける。
「最初は、短い話が六個入ってるだけだと思ってたんです。でも読んでいくと、前の話にいた人が次の話に出てきたり、最初は意味分からなかったことが後で分かったりして……最後まで読んだら、もう一回最初を見たくなりました」
春樹が嬉しそうに頷く。
「それ、新海もやった」
「はい。私も一編目だけ読み返しました」
「私も最後に喫茶店へ戻った」
雫が続ける。
栞も静かに頷いた。
「私は二編目を読み返しました」
「えっ、みんな違う!」
ひよりが驚く。
「だから面白いんだよ」
春樹が言った。
「で、小日向はどれが一番好きだった?」
「四編目です」
その答えに、春樹が少し目を見開いた。
「四?」
「意外ですか?」
「三か五だと思ってた」
「私も三だと思ってました」
真実が言う。
「私は五かなって」
雫も続けた。
ひよりは少し得意そうに胸を張る。
「全員外れました!」
「何で嬉しそうなんだよ」
「だって春樹先輩にも当てられなかった!」
「くっ……」
「そんな悔しいですか?」
「ちょっと」
「本気なんですね……」
栞が口元を押さえて笑う。
「何で四編目だったの?」
春樹が尋ねると、ひよりはすぐには答えず、本の表紙を指先で撫でた。
「最初、あの二人って仲悪いと思ったんです」
「主人公と幼馴染?」
「はい。ずっと喧嘩してるし、言い方もきついし。でも途中で、主人公が学校休んだ日に、幼馴染の子が何も言わずノート持ってくるじゃないですか」
「うん」
「そこで、あ、この子怒ってるんじゃなくて心配してるんだって分かって」
春樹の表情が変わった。
午前中、美月の授業で扱ったばかりの内容と似ている。
「それで好きになった?」
「そこからです。あと最後に主人公が『あいつは昔からこうだ』って言うところ」
雫の指先が、ほんのわずかに動いた。
ひよりは気づかず続ける。
「主人公は多分、幼馴染が何でそこまでしてくれるのか全然分かってないんですよ。でも読んでる側は、ちょっと分かるじゃないですか」
「分かる」
春樹は迷わず頷いた。
「そういうのいいよな。本人だけ分かってなくて、読者は『いや、それ普通じゃないだろ』ってなるやつ」
「そうです!」
「しかも四編目は、最後まで恋愛って明言しないんだよ。だから幼馴染側が本当に恋愛感情なのか、家族みたいに大事なのか、まだどっちにも読める」
「そこも好きです!」
「分かる!」
二人の声が同時に少し大きくなった。
栞が静かに人差し指を立てる。
「声」
「すみません」
「すみません……」
春樹とひよりが同時に謝る。
雫はその横で、四編目の内容を思い出していた。
もちろん、自分も読んだ。
けれど自分が一番好きだったのは五編目で、四編目についてそこまで深く考えてはいなかった。
『あいつは昔からこうだ』
作中の主人公は、幼馴染の行動をそう片づけていた。
昔から。
幼馴染だから。
(……似てる)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。
春樹は作品の中なら分かる。
本人が気づいていない感情も、読者側からなら簡単に見抜く。
それなのに現実では――。
(……何考えてるの、私)
雫は自分で思考を止めた。
そもそも自分が何を感じているのかさえ、まだ分からない。
春樹が鈍いと決めつける前に、自分の方が答えを持っていないのだ。
「西条さん?」
栞の声に、雫が顔を上げる。
「え?」
「大丈夫ですか?」
「うん。ちょっと四編目思い出してた」
「西条先輩は五編目が好きなんですよね?」
ひよりが尋ねる。
「うん」
「何でですか?」
今度は雫が答える番だった。
「待つことを自分で選んでるところかな」
「待つこと?」
「相手が来るか分からなくても、自分がそこにいることは自分で決められるでしょ。もちろん来てほしい気持ちはあると思うけど、相手次第だけじゃないのが好きだった」
ひよりは少し考える。
「……大人ですね」
「何で!?」
「私だったら電話します」
「それは昨日春樹から聞いた」
「言ったんですか!?」
「感想だからな」
「恥ずかしい!」
「何が恥ずかしいんだよ」
ひよりが顔を覆い、真実が笑う。
「小日向さんらしいと思うよ」
「真実先輩まで!」
「だから先輩じゃないって」
「そこですか!?」
小さな笑いが机を囲む。
「新海は三編目だったよな」
春樹が話を振る。
「はい」
「理由、前にも聞いたけど、小日向に話していい?」
「もちろんです」
真実は少し姿勢を整えた。
「私は三編目の、主人公が一人で何でもやろうとして失敗するところが好きでした」
「あ、それも好きです!」
「最後に友達へ頼るでしょう?」
「はい」
「私は、助けてもらったことより、自分から『手伝って』って言えたところがよかったです。頼られる側だけじゃなくて、頼る側にも勇気がいるんだなって」
「……分かります」
ひよりが素直に頷く。
「私、前に春樹先輩に借りた本でも、そういうところ好きでした」
「だから俺は三編目だと思ったんだよ」
春樹が悔しそうに言う。
「でも四でした!」
「分かったよ!」
「春樹先輩、外したの引きずってます?」
「人の好みを読む精度がまだ足りない」
「何を目指してるんですか」
「最適な推薦」
即答だった。
四人が一瞬黙り、そのあと同時に笑った。
「何で笑うんだよ!」
「七瀬君らしいです」
栞が穏やかに言う。
「白石先輩は五編目でしたよね?」
「はい」
「雫と同じだけど、理由違ったよな」
「少し」
栞は本へ視線を落とした。
「私は、待っている時間の書き方が好きでした。大きなことは何も起きていないのに、少しずつ空が暗くなったり、人が減ったり、飲み物が冷めたりして、時間だけが進んでいくでしょう?」
「ああ」
「その間ずっと、来るかもしれないし、来ないかもしれない。何も起きていない時間なのに、気持ちはずっと動いている感じがして」
「栞先輩っぽい」
春樹が自然に言った。
栞が少し目を瞬く。
「私っぽいですか?」
「静かな場面好きですよね。事件が起きるところより、起きたあとの余韻とか、何か起きる前の時間とか」
「……よく覚えていますね」
「何冊話したと思ってるんですか」
春樹は当然のように答えた。
「白石先輩、ミステリーでも謎解きそのものより、そのあと人物がどうなるかの話すること多いし」
「そうかもしれません」
「だから五編目好きって聞いたとき、納得しました」
栞は返事をするまで、ほんの少しだけ時間がかかった。
「……ありがとうございます」
「何でお礼?」
「何となくです」
「最近その返事も多いなぁ」
春樹は首を傾げる。
栞はそれ以上説明せず、小さく笑った。
自分が何を好きなのかを覚えてもらっている。
それだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなる。
春樹にとっては、本について話す相手の好みを覚えることなど当たり前なのだろう。
だからこそ、その自然さが栞には嬉しかった。
「で、七瀬先輩は六編目ですよね」
真実が尋ねる。
「うん」
「どうしてですか?」
「全部繋がるから」
春樹は少し前のめりになった。
「六編目単体なら、多分俺も五か三の方が好きなんだよ。でも六編目って、それまでの五つを全部読んだから成立するだろ? 一編目でただ背景にいた人とか、二編目で一言しか喋らなかった人とか、そういうのが全部別のところで繋がって、最後に最初の喫茶店へ戻る」
春樹は机の中央に置かれた本を指した。
「だから俺、六編目を読み終わった瞬間に、この一冊全部が一つの話だったって感じたんだよ。それが好き」
「……春樹、本当に楽しそう」
雫が呟く。
「だって楽しいから」
「知ってる」
「雫、その返し最近多くない?」
「長い付き合いだから」
「またそれ」
春樹が笑う。
雫も笑った。
今度は「幼馴染」という言葉を使わなかった。
理由は自分でも分からない。
ただ今日は、「長い付き合い」という表現の方がしっくりきた。
◇◇◇
感想会は、春樹が最初に想定していた三十分をあっさり超えた。
誰かが一つの場面を挙げれば、別の誰かが違う解釈を出す。そこから前の話へ戻り、人物同士の繋がりを確認し、また別の場面へ話が飛ぶ。
途中でひよりが、「一編目に出てきた店員さんと六編目の人って、同じ人ですよね?」と言い出したことで、全員が本を開いて該当箇所を探すことになった。
「あった!」
ひよりが小声で叫ぶ。
「本当だ」
真実もページを覗き込む。
「ここ、名前出てない」
「でも癖が同じなんだよ」
春樹が別のページを開く。
「ほら、六編目で『カップを置くとき取っ手を左へ向ける』ってあるだろ。一編目でも同じことしてる」
「こんなの気づかないです!」
「俺も二回目で気づいた」
「二回読んだんですか?」
「気になったところだけ」
「それを二回読むって言うんですよ」
「全部じゃないから」
「七瀬君、その理屈は少し苦しいです」
栞にまで言われ、春樹は不満そうに本を閉じた。
「でも、こういうの探すの楽しくないですか?」
「楽しいです」
栞は即答した。
「ですよね!」
「二人とも似てる」
雫が笑う。
「本に関しては?」
「そこ限定?」
「白石先輩は歩きながら読まないだろ」
「基準そこなの?」
また小さな笑いが起きる。
ふと春樹が時計を見る。
「……あ」
「どうしました?」
真実が尋ねる。
「四十分経ってる」
「えっ」
ひよりも時計を見る。
「本当だ!」
「昼休み終わるじゃん」
「春樹、三十分って言ってなかった?」
雫が笑いを堪えながら尋ねる。
「言った」
「十分快く超えたね」
「……まあ」
春樹は机の上に置かれた本を見た。
普段なら十分快も読書時間が減れば、少しくらい惜しいと思う。
けれど今日は、その感覚がなかった。
「面白かったからいい」
あまりにも自然に出た言葉に、今度は周囲が静かになった。
「何?」
春樹が首を傾げる。
「いや」
雫が最初に笑った。
「春樹がそう言うようになったんだなって」
「前から本の話は好きだぞ」
「うん。でも前なら、『面白かったけど十ページ読めた』くらい言ってた」
「……俺、そんなに?」
「言う」
「言いますね」
栞も頷く。
「言います」
真実も続く。
「絶対言います!」
ひよりまで手を上げる。
「四対一はずるいだろ!」
「多数決じゃなくて事実です」
「小日向、九条みたいなこと言うようになったな!」
「褒められた?」
「多分」
「やった!」
「そこ喜ぶんだ……」
笑いながら席を立ったところで、春樹はようやく別の用事を思い出した。
「……あ」
「今度は何?」
「生徒会への報告」
「忘れてたの?」
「感想会に集中してた」
「春樹先輩が本のことで仕事忘れた!」
「いつものことみたいに言うな!」
「でも昼までですよね?」
真実に言われ、春樹は時計を見る。
昼休み終了まで、あと十分少々。
「間に合う。行ってくる」
「走らないでくださいね」
栞が言う。
「分かってます!」
「九条先輩みたい」
ひよりが笑う。
「俺、最近いろんな人から同じ注意されてない?」
「それだけ心配されてるんじゃない?」
雫が何気なく言った。
春樹は一瞬だけ止まり、それから少し笑った。
「だったら、ありがたいけどな」
そう言って、今度は本当に走らず図書室を出ていった。
残された四人の間に、一瞬だけ静けさが落ちる。
「春樹先輩って」
ひよりが口を開いた。
「何か、思ってたよりちゃんと人の言うこと聞きますよね」
「最初どんな人だと思ってたの?」
雫が尋ねる。
「本しか見えてない変な先輩」
「間違ってない」
「西条先輩!?」
栞が口元を押さえて笑う。
真実も苦笑しながら頷いた。
「私も最初は、もう少し自分勝手な人だと思ってました」
「分かる」
雫が即答する。
「でも、ちゃんと聞くし、覚えてるんですよね」
真実は机の上の本へ視線を落とした。
「私がどこを好きだったかも、前に何を聞いたかも」
「私もです!」
ひよりが続く。
「前に借りた本で好きだったところ、覚えてました」
栞は静かに二人の話を聞いていた。
自分にも同じ経験がある。
好きな作家、好きな余韻、ページをめくる前に少し止まる癖まで、春樹は気づいていた。
雫は三人の表情を見ながら、胸の奥に小さな感情が生まれるのを感じた。
以前なら、きっと嫌だった。
自分だけが知っていると思っていた春樹の良さを、他の人たちも知り始めている。
それが怖かったのかもしれない。
けれど今は、少し違う。
「春樹って、昔からそうだよ」
雫が言った。
三人の視線が集まる。
「興味ないことには本当にびっくりするくらい雑なのに、一回ちゃんと大事だと思ったことは覚えてる。本人は普通だと思ってるけど」
「やっぱり西条先輩、詳しいですね」
ひよりの言葉に、雫は少しだけ目を瞬いた。
「まあ……長いから」
「幼馴染ですもんね」
「うん」
今度は素直に頷けた。
幼馴染だから知っていることがある。
他の人たちが今から知っていく春樹を、自分は昔から知っている。
けれど、それだけではない何かが自分の中に育っている可能性も、以前ほど強く否定できなくなっていた。
(まだ、分からないけど)
それでいい。
今すぐ名前をつけなくてもいい。
春樹自身が、物語の登場人物はすぐに気づかない方が面白いと言っていた。
(……これじゃ、私が登場人物みたい)
そこまで考えて、雫は一人で少し恥ずかしくなった。
「西条さん?」
「何でもない!」
栞に声をかけられ、雫は慌てて首を振った。
「最近それ多いですね」
「栞先輩まで!」
今度は四人で笑った。
◇◇◇
春樹が生徒会室へ到着したのは、昼休み終了八分前だった。
扉をノックすると、中から「どうぞ」と声が返ってくる。
「失礼します」
中へ入ると、数人の生徒会役員が昼食を終えて作業していた。
奥の机にいた怜華が顔を上げる。
「あら」
「何ですか、その反応」
「来ないかと思っていたから」
「行くって言ったでしょ」
「昼までに、とは言ったけれど」
「まだ昼休みです」
「あと八分ね」
「間に合ってます」
春樹は資料を差し出した。
「二年三組サッカー希望者の確認です。杉浦拓海はサッカー優先、リレーは時間が被らなければ参加可能。山岸浩平はバスケ優先で、サッカーは人数不足の場合なら参加できます」
怜華は資料を受け取り、内容を確認する。
「完璧ね」
「仕事増やされたくないので」
「それが動機なの?」
「あと放課後を空けたい」
「読書」
「正解」
怜華は小さく笑った。
「でも、もっと早く来ると思っていたわ」
「別の予定があったんです」
「へえ」
その一言の響きが、少しだけ変わった。
春樹は気づかず続ける。
「本の感想会」
「……本?」
「後輩に貸してた連作短編集を読み終わったから、読んだ人何人かで話してたんです」
「それで遅くなったの?」
「はい」
「随分楽しそうね」
「楽しかったですよ」
春樹は迷いなく答えた。
「同じ本でも全員好きな話違ったし。俺、小日向は三編目か五編目だと思ってたのに四編目選んだんですよ。完全に外した」
「小日向さん?」
「あ、一年の後輩です」
「なるほど」
怜華は春樹の表情を見ていた。
スポーツ交流会の話をしているときより、明らかに言葉が増えている。先ほどまで時間を気にしていたはずなのに、本の話になった途端、説明が長くなったことに本人は気づいていないらしい。
「七瀬君」
「はい?」
「本当に本が好きなのね」
「今さらですか?」
「知っていたけれど、思っていた以上だった」
「俺の何を聞いてたんですか」
「授業中にも読む」
「そこだけ広めたの誰だよ……」
「永山先生」
「やっぱり!」
怜華が笑う。
「でも少し印象が変わったわ」
「どういう?」
「一人で黙々と読んでいるのが好きなのだと思っていたから」
「それも好きですよ」
「でも感想会も好き?」
「最近は」
「最近?」
「前は、読んだら次の本って感じだったんです。でも今は、誰かと感想話すのも面白いなって」
春樹はそこまで言ってから、時計を見た。
「やば。あと五分」
「自分から話していたのに」
「先輩が聞いたんでしょ!」
「そうだったかしら」
「絶対わざとだ」
「ふふっ」
怜華は資料を机へ置いた。
「報告ありがとう。もう戻っていいわ」
「最初からそうしてくださいよ」
「七瀬君」
「何です?」
「今度、私にも一冊選んで」
春樹の動きが止まった。
「……何で?」
「あなた、人に合わせて本を選ぶのが好きなのでしょう?」
「誰から聞いたんですか」
「今の話から分かったわ」
「俺そんなこと言いました?」
「顔に書いてあった」
「俺、そんな分かりやすい?」
「とても」
春樹は納得できない顔をした。
「先輩、本読むんですか?」
「それなりには」
「それなりじゃ選べません」
「あら」
「好きなジャンル、最近面白かった本、苦手な話、長さ、読むペース。その辺分からないと」
怜華の目が少しだけ見開かれる。
「……本当に選ぶ気なのね」
「頼まれたからには。合わない本渡して『読書ってつまらない』と思われたら嫌ですし」
「私がそんなことで読書そのものを嫌いになるとは思わないけれど」
「それでもです」
春樹は時計を見て、扉へ向かう。
「今度時間あるとき聞きます。今日はもう戻らないと」
「ええ」
「失礼しました」
「七瀬君」
「はい?」
「楽しみにしているわ」
春樹は少しだけ考え、それから笑った。
「期待しすぎないでくださいね。先輩に合う本、まだ全然分かんないんで」
そう言い残し、生徒会室を出ていく。
扉が閉まったあと、怜華はしばらくそこを見ていた。
「会長」
近くにいた役員が声をかける。
「何?」
「本、選んでもらうんですか?」
「ええ」
「珍しいですね。会長、人に選んでもらうより自分で決める方じゃないですか」
「そうね」
「何で七瀬君に?」
怜華は少し考えた。
からかうため。
反応が面白いから。
それも嘘ではない。
けれど今は、もう一つ理由が増えている。
「……私をどう見るのか、少し興味があるの」
「本で?」
「本だから、かもしれないわね」
相手の好みを聞き、考え、その人に合う一冊を選ぶ。
七瀬春樹が自分へどんな本を差し出すのか。
それを見れば、彼が一ノ瀬怜華という人間をどう捉えたのか、ほんの少し分かる気がした。
(面白そう)
怜華はそう思った。
今のところ、それ以上の名前をつける必要はなかった。
◇◇◇
放課後。
春樹は久しぶりに、誰にも呼び止められず図書室へ向かうことができた。
「今日は平和だ……」
扉の前で思わず呟く。
「何がですか?」
「うわっ」
後ろから声がして振り返ると、栞が立っていた。
「白石先輩、いつから?」
「今来たところです」
「びっくりした」
「すみません」
「いや、俺が勝手に驚いただけなので」
二人で図書室へ入り、栞がカウンターへ向かう。
春樹はいつもの席へ鞄を置いた。
今日は雫も委員の用事があり、ひよりも「さすがに今日は家で別の本を読みます」と言っていた。
久しぶりに、最初から最後まで一人で読めそうだった。
(よし)
春樹は本を開く。
五分。
十分。
十五分。
誰も話しかけない。
ページが順調に進む。
物語の主人公が、長年暮らした町を離れる決断をする場面へ入り、春樹は完全に本の中へ沈んでいった。
静かだ。
望んでいた時間だった。
それなのに二十分ほど経ったところで、春樹は一度だけ本から顔を上げた。
向かいの席は空いている。
右隣も空いている。
カウンターには栞がいるが、返却本の整理をしているため会話はない。
(……静かだな)
当然だ。
図書室なのだから。
春樹は再び本へ視線を戻す。
数ページ読む。
面白い。
続きも気になる。
何も問題はない。
それでも昼休みの感想会が、ふと頭へ戻ってきた。
ひよりが四編目を選んだこと。
真実が三編目の「頼る側の勇気」を好きだと言ったこと。
栞が五編目の何も起きない時間を好んだこと。
雫が、待つことを自分で選ぶところが好きだと言ったこと。
(同じ本なのに、全然違ったな)
春樹は本を閉じなかった。
ただ、ページへ指を置いたまま少し考える。
以前なら、一冊の本を読み終えたあとに残るのは、自分の感想だけだった。
今は違う。
誰かの感想まで一緒に残っている。
そのせいで、以前読んだ本なのに見え方が変わる。
「……面白いな」
小さく呟く。
「本がですか?」
いつの間にか近くまで来ていた栞が尋ねた。
「それもですけど」
春樹は少し考えた。
「昼の話」
「感想会?」
「はい」
「楽しかったですね」
「白石先輩」
「何ですか?」
「俺、前より本読む時間減ってますよね?」
栞はすぐには答えなかった。
「多分」
「やっぱり」
「でも、読む本は増えていませんか?」
「……どういう意味です?」
「誰かに勧めるために読み返したり、話したあとにもう一度確認したりしていますよね」
「あ」
「それに、同じ本を何人分も楽しんでいるように見えます」
春樹は黙った。
栞の言葉を頭の中で何度か転がす。
「何人分も……」
「違いますか?」
「いや」
春樹は少し笑った。
「それ、すごく得してる気がする」
「そこですか?」
「だって一冊買って、俺の感想だけじゃなくて、雫と新海と白石先輩と小日向の感想まで楽しめたんですよ? 一冊で五人分ですよ」
「本当に本中心ですね」
「いいじゃないですか」
「いいと思います」
栞も笑った。
春樹はもう一度本を開く。
今度は先ほどより素直に物語へ戻れた。
静かな時間が好きだ。
一人で本を読むことが好きだ。
それは何も変わっていない。
けれど、その本を閉じたあとに話したい相手がいることも、今では悪くないと思える。
◇◇◇
図書室を出たあと、春樹は昇降口へ向かいながらスマートフォンを確認した。
メッセージが二件。
一件は蓮。
『木曜、また三十分だけ蹴らない? 今度は三組のサッカー組も何人か呼ぼうぜ』
「……来たか」
もう一件は雫だった。
『委員終わった。まだ学校?』
春樹は立ち止まらずに返信する。
『今図書室出た。昇降口向かってる』
数秒後。
『待ってて』
「了解」
短く返し、スマートフォンをしまう。
歩きながら操作はしない。
それももう、すっかり習慣になっていた。
昇降口へ着いて少し待つと、雫が廊下の向こうから歩いてきた。
「ごめん、待った?」
「三分」
「細かい」
「二ページくらい読めた」
「やっぱり換算するんじゃない」
「でも読んでないぞ」
「偉い偉い」
「子供扱いするな」
二人で靴を履き替え、校舎を出る。
「そういえば蓮から連絡来た」
「サッカー?」
「木曜またやるって。今度はうちのクラスの参加者も何人か呼ぶらしい」
「交流会の練習っぽくなってきたね」
「俺は練習会を主催した覚えないんだけど」
「行くの?」
「多分。クラスの奴が来るなら、誰がどれくらいできるか見といた方が当日楽だし」
雫が横目で春樹を見る。
「ちゃんと代表してる」
「連絡係」
「でも今の、代表っぽかった」
「違うって」
「じゃあ何?」
春樹は少し考えた。
「……当日、面倒なことにならないための事前準備?」
「結局ちゃんとやるんだ」
「やるなら楽しい方がいいだろ」
雫の表情が少し柔らかくなる。
「見に行っていい?」
「木曜?」
「うん」
「いいよ」
今回は春樹も「また?」とは聞かなかった。
「ただ三十分くらいだと思うぞ」
「分かってる」
「長引いたら俺が帰る」
「それも分かってる」
「そのあと本読むから」
「それも知ってる」
春樹は少し笑う。
「やっぱ雫、俺のことよく分かってるな」
雫の胸が、小さく跳ねた。
以前なら何でもなかったはずの言葉だった。
幼馴染なのだから当然。
そう返せばいい。
「……長い付き合いだからね」
けれど今日は、それだけを口にした。
「だな」
春樹は何も気づかず笑う。
二人は夕方の道を並んで歩いていく。
春樹の頭の中では、木曜日のサッカーで誰をどこへ置けば動きやすいかという考えと、今日読んでいた小説の続きと、一ノ瀬怜華へどんな本を選ぶべきかという新しい問題が、順番もなく浮かんでは消えていた。
(……一ノ瀬先輩、何読むんだろ)
好きなジャンルも知らない。
長編が好きなのか、短編が好きなのか。
恋愛ものを読むのか、ミステリーを読むのか。
明るい話が好きなのか、重い話でも平気なのか。
考えてみれば、自分は怜華のことをほとんど知らない。
(まず聞かないと無理だな)
本を一冊選ぶためには、相手を知る必要がある。
春樹にとって、それはどこまでも読書の話だった。
だからまだ気づかない。
人に合う本を選ぼうとして、その人の好きなものや嫌いなものを知ろうとすることが、少しずつ相手そのものを知ることにも繋がっているのだと。
春樹がそれに気づく日は、まだしばらく先になりそうだった。




