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乞う路傍の雪以下なら夢と仰せ  作者: 杜若表六


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笑劇論Ⅰ

この文章は、他所でポツポツと個々に書いていたものをまとめて一応の形にしたもの。

 文学とは何か?

 この問いは含蓄ある答えを期待できるかもしれないが、筆者としては少しつまらない。だからこのような借りて来た回答しかしない。

 文学の原語 literature とは、ラテン語の "littera" (文字)から出てきた語で、文章形式または言語形式によって、人間の精神を客観化したものをすべて含めてよいといわれる。

(ちなみに「文学」という漢語は本来、たとえば論語の「文学子游子夏」など、学芸を学ぶことを意味した。この学芸とは、詩・書・礼・楽のような経学を指していたという)

 ところで、「人間の精神」とは何たることか?……


 ではなぜいまさら「文学」にこだわる必要があるのか?

 この問いに関しては、さきほどよりは気を入れて答えたい。

 筆者の回答としてはこうだ。文学というものにこだわっているわけではない。たとえば命を賭け始めてからの夏目漱石のような態度はとらない。言えることは、ただ、筆者の興味はおおよそ文学というくくりで済ませられるからだ。文学はいいかげんで、排他的でないから、ということもできる。同時に文学のもつ厳密で排他的な部分もふくめて、そう(上記の通り)だから。ラブレーなどを読んでいると、これらが混然としている様がある。強いて文学というなら、そのようなものに興味があるのだろう。『名づけえぬもの』の「おれ」のように、われわれは世界に強制的に投与されている。その強制された制限の中で、一生懸命に絶えず騙り続けている。ただし『名づけえぬもの』のベケットは多分にその志向性が神学的で神秘主義的にむかっているように見えるが。だが、その点を差し引いても差し引かなくても、そのような「おれ」のありさまに筆者は無性に惹かれるのだ。


(余談:仏文学者の間でバタイユ、ブランショ、ベケットは「3B」といって難解な書き手の三峰とみなされていたそうだ。

 向き合い方によってはそうなるだろう。バタイユとベケットが並んで語られている場面に出くわしたことはないが、その志向性は同じものにみえる。ベケットの小説を読んだときに随分意外な感じがした。

 私見では『モロイ』『マロウンは死ぬ』の間に大きな変化を覚える。『名づけえぬもの』になると完全にバタイユの目指すところに近くなっていく感じを覚える。

 いちおう好きな作品というと『名づけ』ということにしているが、たとえば『ワット』を推すことも十分に頷ける話だろう。『ワット』はラブレーの目指すところ、つまり何も目指さぬかに見えるところに限りなく近い。

 至高性を目指す先は悲劇である。目指さぬ先は笑劇である。)


 ところでいささか唐突だが、筆者の中では、こういう問いに飽きて、そろそろ笑劇とは何か?ということを考える時期に来ている。

 お付き合いいただけるなら先を読んでいただきたい。不完全も不完全、けっこうな不勉強、若干の不真面目な部分もあるがご容赦を……。

 筆者の考えでは笑劇に完成者はない。ここで話題に上げるラブレーやセルバンテスも、けしてそうでなければならぬという名前ではない。

 だが彼らを抜きにした文学の話は、あまりにも寂しいものであろう。

 ラブレーやセルバンテスのころ、近代文学の黎明期といってみてもいいが、文学はあらゆるものを呑み込むごった煮の闇鍋だった。

 そして近現代における文学の「進歩」は、けっきょくのところ、その解体の過程である。一見包括的に見える試みも、それが知的なものしか含まないのなら一種の分解作用となる。

 かといって、「暴力」「身体感覚」はまだ文学の序の口である。けしてそれに尽きるというものではない。


 笑劇とは何かといえば、糞尿、それこそラブレーの好んで用いるモチーフとしての糞尿のようなもの入れていいだろう。否定も忌避も軽蔑もたやすく、黙って目の前を通り過ぎること、無視することもできる、仕様のないものだろう。

 ただ、その事実に味をしめて糞尿を表現としてそのまま出してもそれはフォニーだろう。

 何故ならそれは日常的に行なわれていることの芸のない再現だからだ。芸術は高尚なものでは絶対にないが、(それが企まざるものだろうと)そこに芸は絶対に必要だ。同じことで、そこに芸を見出す眼が必要だ。

 現代における下ネタの多くがラブレーのまがい物の域を出ないのは笑うべきことだ。

 そして倫理的なものを扱ったとされる武田泰淳や身体感覚を反映しているという石原慎太郎の小説のように(二者とも暴力の問題をモチーフにしたというが)、陽物で障子を突き破っても、なんのことはない、それはそれ以上なにも生み出さない。

 戦後作家はとにかく虚無を表現したがったが、その先を書かなければマンネリ化するだけだ。その先が書けなくても、人類の歴史を堂々巡りくらいはしてほしいと読者は思っている。

 かの三島由紀夫にしても、本来なら『豊饒の海』の先を書かねば何もはじまらないはずだ。文学にケリというものをつけるには、人類の生み出した「文学的なもの」はまだまだ若すぎる。

 ドストエフスキーも、『カラマーゾフの兄弟』のその先を書こうとしていたというではないか。


 三島の名前が出てきたが、一見したところ笑劇とは縁遠く見える彼の言葉は、笑劇を表そうとする試みにも読める。


 >小説は、生物の感じのする不気味な存在論的証明を、ないがしろにすることができない。どんなに古典的均整を保った作品でも、小説である以上、毛が生えていたり、体臭を放ってゐたりする必要があるのである。


 そして彼は、小説というものの真髄を水族館のミナミゾウアザラシに見る。


 >これこそ理想的な小説だ、といふ感じが私にはした。

 グロテスクだが健康で、断じてデカダンではない。そしてその主題は、怠惰で肥大した体躯の中におのづから具わってゐるものだった。


(なお、三島由紀夫はこのあと最近に読んで感心した小説を紹介しているが、それらはミナミゾウアザラシとは遠い方向性の小説であると自ら述べている。理想と好みは必ずしも一致しないのかもしれぬ)


 グロテスクという概念を分析した人物には、たとえばカイザーがいる。

 彼に『グロテスクなもの』という著作がある。

 カイザーのグロテスク観では、グロテスクなものは陰気で不気味であり、疎外されたもの、名づけようのない「エス」を表現しているとする。

 彼はケラーの諷刺的な短編にすらグロテスクを見出す。その手腕は見事なもので、だが笑劇とは遠い概念となっている。


 それに対し、バフチンのグロテスク観では、グロテスクなものは陽気であり、人類の根源的な力、さまざまな要素を混ぜこぜにし、また新たに生きる力を生み出す。その営みが「カーニバル」である。三島の指すグロテスクはこちらに近いと思われる。

 バフチンはラブレーの作品を母体として、「グロテスク・リアリズム」という美的概念を生み出した。

 グロテスク・リアリズムは、次のような特徴をもつ。


 1、物質的・肉体的な力の肯定


 2、高貴なものを格下げし(パロディ)、なおかつ再生させる


 3、生と死・新旧・始まりと終わりなど、両面的な価値をもつ



 ラブレー、セルバンテス、ロレンス・スターンなどは「グロテスク・リアリズム」的な作家である。

 スターンは主観的グロテスクを生み出し、ロマン主義に影響を与えた。そこからロマン主義のグロテスクが勃興した。

 近代の「形だけのパロディ」は否定的性格のもので、再生させるという両面的な価値を失っている。そのため以前有していたような巨大な意義を保持することができなくなった。

 十九世紀には、グロテスクな要素から笑いの原理を忘れ、一面的に理解し、純粋に諷刺的な笑いのみを重視した。これは本質的には生真面目で教訓的な、笑いなきレトリックの笑いだった。このような笑い以外に許容されたのは、無思索的で無害な、純粋に娯楽的な笑いである、そこにもはや価値転換はなかった。

 二十世紀の実存主義的な文学には、喜びにあふれたカーニバル世界の面影はすでにない。バフチンはこの種の作品のグロテスクを「モデルニズムのグロテスク」と呼ぶ。サルトルの『嘔吐』はモデルニズムのグロテスクの最も分かりやすい例である。


 ラブレーはダンテ、ボッカチオ、シェイクスピア、セルバンテスらのなかでも最も民衆的な文学を創出した、とバフチンは述べている。

 また、ラブレーとその同時代人らは「遊技する人間」である。その遊戯は悪意に満ちた偏見を喧伝するのではなく、反対に平衡と調和を保ちつつそれらと戦った、とマイケル・スクリーチは述べている。


 ところで、その作品は一般的な意味において民衆的で、調和的といえるのか。

 ラブレーは教養人なのにも関わらず、なぜかように通俗的な、下品なものを書いたか?

 セルバンテスは諸説あるものの、控えめに言っても、教養人というほどではないかもしれないが、常識人ではあったろう。ではなぜかように型破りな『ドン・キホーテ』をものせたか?


 これらの事実は驚くに値しない。ひとつには、「知」と「暴力」は慣習的にはパラレルなものであるが、かつ親近性・親和性があり、ひとたび混ざれば水と石鹸のように互いを相対化してしまう。これはホメロスの頃から変わらない。

 だからこそこれらは混同を避けるよう戒められてきた。これを守らないものは人呼んで「痴れ者」である。愚者とはつねに知と暴力をぐしゃぐしゃにする。あるいは知的なものと暴力的なものを捏ね合わせて痴的なものにする。痴的なものは良識から病的なものとみなされる。


 ラブレーは暴力を知的に相対化し、セルバンテスは知を暴力的に相対化した。あるいはその逆も然り。

 パニュルジュは痴的人間とみなされ、キハーノは病人とみなされる。

 はたして双方とも狂人である。パニュルジュのほうがより狂的だが、パンタグリュエルという巨人王の世界にある彼はそうとみなされない。キハーノが風車に突撃するのは作品世界を超えたパニュルジュへの憧憬と嫉妬である。キハーノの世界には巨人がいない。

 彼らの立場を替えてみるがいい、ラブレーの世界もセルバンテスの世界も異化されたものの饗宴であり、中心となる人物は知と暴力を相対化する。彼らはけして相対主義と相容れない。幻滅のとき、持論を曲げるときが彼らの世界からの退場を意味するからだ。


 ちなみにフェーヴルによれば、デカルト以前に生き、スコラ哲学・神学の空気を吸ったラブレーの時代の人びとの人間観とは、肉体と霊魂の結合を前提としたものに他ならず、二物が結合した状態を人間とみなしていた。これを肉体と霊魂の関係による人間観といってもよい。ラブレーやセルバンテスの知と暴力が結合した人間像はこれらからヒントを得たのかもしれぬ。


 彼らの後進には、愛と暴力が絡まり合う「生命の樹」を主題的モチーフとしたムージルを待たねばならない。

 なぜ『特性のない男』第三部は後世に遺されているような形になっているのか。筆者には、『ドン・キホーテ』と並べて検討することが有効であるように思われる。

 ウルリヒの「反転」は、キハーノの「狂気」とさほど違わない。言い換えれば、キハーノの狂気をウルリヒの反転で解説することもできる。

 ドン・キホーテは早すぎた特性のない男であり、特性のない男は遅れてやってきたドン・キホーテである。


 われわれは知、暴力、愛などの概念を何の気なしに用いて生きている。そしてそれはしばしば自明の理となり、習慣となり、かえって概念の方からわれわれに諸々の行動や思考を強制する事態が起こる。

 笑劇はそれらの概念と習慣をかき乱し、混沌とした始源に進む、あるいは新たに回帰する。その方法への呼称のひとつとして、たとえばグロテスク・リアリズムや、この項では触れなかったがメタフィクションなどがある。

 現状の文学は(そしていつの時代も文学の顔を気取っている覇道王道の流れは)まだ未発達であり、大掛かりな繰り返しの堂々巡りの観を呈している。

 笑劇は、そして笑劇を語ることは、坂口安吾の例をまたず、失敗し、挫折する宿命にあるが、実は常にわれわれの生き様に肉薄する文学の仕事である。


 補足:リアリズムについて。

 文学はアポリア(解決不能な難題)をとりあつかう作業だと平野啓一郎氏がスペースで述べていたが、とすればリアリズムかイ・リアリズムかという議論も、意味がなくなる。現実にせよ非・現実にせよ、そこにはアポリアがあるからだ(本来、リアリズムとは現実そのままを写す芸ではなかったことも記しておく)。

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