埴谷雄高Ⅰ(始原を否定することで現地点を否定し、革命を促す)
「書物はそれぞれの運命をもつてゐるが、この作品は帝王切開術によつてこの世に現はれた胎兒のごとき運命を負つてゐて、その出現と母體の葬送は宵闇と闇のひきつづくごとくに間然するところなく繼起した。」
『南総里見八犬伝』の伏姫ではないけれども、母なる大地は自ら開くことで生み出す。それを明確にはっきり拒否したのが埴谷雄高で、『死靈』は日本的な生み出しの型を否定する。
彼はアミーバに戻って精神の単性生殖から出発し、そこから始原をさかのぼって増殖原理そのものを弾劾してゆく。彼はフェミニストでもヒューマニストでもないが、徹底してエイシスト(無神論者)である。
神話は起源を語ることで「だからこうあるんだよ」「だからここにいていいんだよ」という現在地への帰属の根拠を示す。
『死靈』で試みられたのは、神を巡る言説や神話を叛逆的にコラージュし、最終的に存在が現在地に立脚する根拠を根絶やしにすることだった。「よってかくあるべきではない」「よってここにいるべきではない」という安住の慈悲なき否定こそ、『死靈』という殺生石がまき散らす毒素であり、我々をして存在を革命せしむる時限爆弾だ。
埴谷がそれを志向する原動力こそ、かの「仁義礼智信忠孝悌」は伏姫の腹から生れたというモラル創成のメカニズムへの反発であり、そこから発展して世界創成神話を否定的に超克しようとする埴谷雄高は、自分は大地の痛みから生み出されたものであり、なおかつ自分が自分であるかぎり他者の痛みは引き受けられず、人間精神のその痛みを想像しようともしない怠慢に、愚劣、ぐれーつと言い放ち、はっきりと不快を示したという意味で、徹底した挑戦的なモラリストである。




