埴谷雄高『死霊』は未完のように見えて実は完結しているという妄想
以下は『死霊』の一読者の妄想である。気づいたことがあったら加筆修正するかも。
埴谷雄高の『死霊』は「虚体(虚體)」を求める小説である。
虚体とは「嘗てなかったもの、また、決してあり得ぬもの(文庫版Ⅰ、p72)」「矛盾自体(同p73)」とも表現される観念である。
『死霊』のゴールは、これを創り出すことである。身も蓋もないことをいえば、これを表現することができれば完結である。
さて、『死霊』のラストシーンはこうなっている。
「もの」以前の存在、「青服」が自分のいるのは否定を重ねた大暗黒であり、そこは花火宇宙が「不思議な転変の動因」によって生まれては消えることを無限に繰り返しているのだと告白する。青服は「大暗黒」の中でじっとたたずみ、「転変の動因」によって無数の宇宙が花火のように生まれては消えていくのをみている。その様子を青服は「のっぺらぼうを見た人が通りがかりの人にその話をすると、通りがかりの人が「こうですか」と顔を掌で拭い、のっぺらぼうになる」という話で説明する。津田安寿子は青服に「全宇宙はじめての創出はどうなるのか。たちまちかき消されてしまうのか」と聞く。青服が「全宇宙はじめての創出とは何か」を問うと、安寿子は顔を赤らめながら「与志さんの虚体です」と鋭く叫ぶ。
ここで小説は終わっている。作者死去のため『死霊』は未完となったといわれている。
しかし勘の鋭い方ならお気づきかと思うが、この小説の目的はここで達成されている。
上述のっぺらぼうの話のキモは「話した相手が話した内容になる」というところである。つまりのっぺらぼう(A)を話したら相手は普通の通りがかりの人(B)だったのがのっぺらぼう(A)になる。
どんづまりはまさにこの構造になっている。
与志の虚体の話を聞いた安寿子(のっぺらぼうを見た人)が青服(通りがかりの人)に虚体の話をする。
つまり次のシーンで、青服は「虚体」について語らなくてはならない(のっぺらぼうになる)。青服は「無限大」とも表現され、この小説のラスボスみたいな存在である。だから青服の発言はほぼ神的な位置≒作者埴谷雄高みたいなところがある。
ところで虚体は「嘗てなく、決してあり得ぬもの」である。つまり虚体は全宇宙はじめての創出でしかありえない。
だから青服は肯定も否定もできないのである。どういうことか。
虚体を否定することはそのまま虚体を探し求める『死霊』の否定につながり、肯定することはそのまま『死霊』の完結を意味する。
『死霊』は成功か、失敗か。その全ては青服の一言にかかっている。
この究極の二択に青服はどう答えたか。
『死霊』未定稿ではこのようになっている。
――はい、大宇宙の夢の向うところは 何物も とうてい見られぬ夢を夢みる虚体にほかなりません。失礼ながらそういうことになりまする。
作者は、友人にすすめられ、この未定稿を撤回することによって、『死霊』という小説を永遠の謎にした。
しかしこれは嘆くべきことではない。われわれはこれからも虚体の在処を求めつづけることができるのである。これによって未来の読者に無限の読み方が、「精神のリレー」が渡された、ともいえるかもしれない。
(ちなみにきっと、読みようによっては虚体にとりつかれた男を自由にする女という構図は例えば津田安寿子(安寿)と与志(厨子王)であるみたいなことも言えるだろう。)




