マルスとピアノ
——やあ、マルス。
——やあ、ひさしぶり。
——そろそろ君の出番かい。
——ああ、もうすぐ僕も仕事をするときだ。そろそろ下界がきな臭い。
——そんなに急いでしなけりゃいけないのかい。
——なにぶん、これが僕の役目なんでね。人間たちも待っている。
——ひとつ、頼みがあるんだが。
——なんだい。ほかならぬ君の頼みというなら、聞こうじゃないか。
——ほら、あすこ……雲のむこう、あすこに小さな家が見えるだろ。
——ああ、見えるさ。ひどくかたむいた家だ。おまけに窓が割れているね。
——その窓から、部屋の中が見えて、そこに子供がおんぼろのピアノを弾いているね。
——おや、ほんとだ。だけどありゃあ、あるいは老人かもしれないぞ。
——とにかく、あすこでピアノを弾いてるねえ。
——うん、まったくいい音だ。
——頼みというのはそれなんだ。ここはひとつ、君の仕事はじめを、もうちょっとさきにのばしてはくれないか。あのすてきな演奏を、ここでもうすこし聴いていたいのさ。
——ははあ、そうか。しかたない。よし、わかった。小さな巨匠のために、しばらく大きな音を出すのはやめよう。時計の針を遅らせよう。いやなに、僕も気に入ったからね。
——ありがとう。さあ、そこに座って。あの調べを聴こうじゃないか。
——そうするとしよう。まったく、君がうらやましいよ。ああいうピアノを探して、少しでも僕の仕事を遅らせるのが仕事なんだから。
——だけど、最後は君がみんな燃しちまう。それがなんとも心苦しいよ。
——ところが、いくら僕の炎でも、あのピアノの調べは永遠に灰にはできないのさ。
——それはそうだ。でも人は、ピアノの調べが瞬間に消えると思いこんで、ひとたび演奏が終われば寂しい気持ちになるんだ。
——それでまた何度も調べを聴きたくなるんだろうね。感情と、音楽は、僕にはどうしようもない。僕の仕事で人は喜びもすれば、怒りもする。そして悲しみも。変だな。僕はなんだか鼻がつーんとなってきた。
——そうなんだ。まさにそこなんだ。君、軍神マルスの心を動かした、あの小さなピアノ弾きに、もてあますほどの花束をあげたいね。
——うむ、またまんまと君にやられたわけだ。この調子じゃ、雷を落とすのはもうちょっとさきのばしになりそうだな。
——願わくば、君の気まぐれがとこしえに続かんことを。




