ある古い話
旅の途中だという老絵師は、筆を持つ手以外はほとんど動かさず、じっと教会を描いている。
村人の話では、その教会は数年前に建てられたらしいが、どこか永い年月を経たもののように老絵師は感じた。それは建て方が拙いとか、立派だとかいうことではない。ただ、絵師の目には、そのこじんまりとした姿が、懐かしい昔の友人か恋人のように馴染んだ。心地よい春の日差しが、優しく庭を照らしていた。老人は神父から借りた小さな椅子に腰かけ、ゆっくりと、しかし熟達した筆致で教会を描いていた。村人が遠巻きに、物珍しそうにその様子を見ている。老絵師はそれを少しも気にしない様子で、淡々と、石造りの玄関や、煉瓦の壁や、とがった屋根や、その尖端の十字架などを、丁寧に観察し、心に残ったその痕跡を、紙の上に静かに置いてゆくのだった。
絵は朝方から描き始めて、夕方には出来上がった。人々は完成した品をみて思わずため息を漏らした。そこには現実にある教会のすべてが、むしろそれ以上の何かが、確かに描かれていた。神父は長い祈りをを神に捧げ、旅の無事を祈った。村中で募った旅費が、熟達の絵師に渡された。彼は礼を言った後、まだ何か言いたげにしていたので、神父は他に何かわれわれにできることはありませんか、と訊ねた。すると老人は顔を少し苦しそうに歪めて、どうか今晩だけ、ここに泊まらせていただけないだろうか。何分疲れてしまって、と答えた。神父は旅人の具合に気づかずにいたことを詫び、すぐに宿を用意します、と言った。絵師はいえ、実はこの教会に泊まりたいのです、いけないでしょうか、と返した。神父はあなたの信心深さには神もお許しになるでしょう、と言い、教会の一室を老人のために空けた。
その夜、老絵師は粗末なベッドで横になりながら、遠い昔のことを思い返していた。すると、一人の少年が寝室にそっと忍び込み、枕元まで近づいてきたので、私は何も持ってはいないよ、と呟いた。少年ははっとして、無断で寝室に忍び込んだ無礼を詫びた。そして、規則が厳しいので、と付け足した。
「君はこの教会に住んでいるのかね」
「はい、赤ん坊の僕が、街の片隅に捨てられていたのを、神父様に拾っていただいたのです。それから、神父様に育てられて、その後をついてあちこちをまわって、いまはこの教会で手伝いをしています」
「名前はなんというのかね」
「申し遅れました、僕はミルチャといいます」
「ミルチャ。私はエミールだ。よろしく」
「エミールさん。よろしくお願いします」
途端に、ミルチャの頬は心配そうな蒼ざめた色から、目の覚めるような薔薇色に染まった。夜中に勝手に忍び込んだりして、この老絵師に嫌われはしまいか、そうなったらどう言えば許してもらえるのか、だけど老人はみな頭が固くて、いちど機嫌を損ねるととにかく面倒だというし、などと大人び始めた頭であれこれ考えていたのだ。だいいち、せっかく神父に大目玉をくらう危険を承知でこんな賭けに出たのだから、とりあえずうまくいかなかった、では割に合わない。ミルチャは感極まって、ひとつ間違えれば涙さえ流しかねないほどだった。
「さて、まずはなにを話そうか。旅の話が聞きたいかね。いや、絵の話がいいか。それとも、昔、むかし、私の若い頃の話をしようか」
そう言ってエミールはころころと笑った。おそらく、この好奇心旺盛の少年は、どこからかやって来た旅の絵師に一方ならぬ興味をもったのだろう。わざわざ神父の目を盗んで、このように小さくて大きな冒険をしたのに違いない。ひとつ、この子の望む話をして、置き土産とするか。幸い、物語るような経験は気の遠くなるほど、たくさんしてきたことだ。とにかく、なにか話をしてやろう。そうでなければ、このかわいい泥棒に対して失礼だ。この老人はそのように考えていた。
「エミールさん。僕は、昔、あなたが旅の途中で描いた、一枚の絵の話をしてほしいのです」
そういうとミルチャは恥ずかしそうに下を向いた。まるでその話をすることを、前もってわかっていたかのように、老人がにっこりと微笑んだからだ。しかしエミールは少年の言葉を少し意外に思っていた。はて、このような孤児の少年に、はたして私の絵を見る機会があったのだろうか。そして、もうずいぶん前に絵に名前を記すことをやめ、特に問われなければ名乗ることもない私の、いったいどの絵について聴きたいというのだろう。
「はてさて、どの絵の話だろうか。私も拙い絵をたくさん描いてきたから、見当がつかなくてね」
少年は覚悟を決めたように頷くと、着古したズボンのポケットに手をつっこみ、そこから小さな額に入った一枚の絵を取り出した。そしてそれを両手で大事そうに持つと、じっと額の中をのぞき込み、それからエミールの顔と絵を交互に見返した。それから額をゆっくりと裏返し、老画家に問うた。
「この絵は、あなたが描いたものではありませんか」
老人はその絵をじっくりと見た。青白い顔をした、ミルチャと同じくらいの年頃の少年が、目を瞑ってベッドに横たわっている。快い眠りについているのか、その表情は安らかだった。あるいは、もう二度と覚めない眠りについているのかもしれず、その方が絵の中の少年の痛ましいほど美しい顔には相応しかった。
老絵師は大きくため息をついた後、手を伸ばし、指先でゆっくりと絵を撫でた。その死のような眠り、もしくは眠りのような死を確認するように、少年の輪郭を優しくなぞる。
「お帰り」
ミルチャはエミールがそう言ったような気がした。しかし彼はそれよりも、もしもこの絵が自分の予想に反して老人の絵ではなくて、まったくの赤の他人の絵、ひょっとしたらどこかの三文絵師の絵で、エミールの誇りを傷つけたり、その逆で、エミールの終生の好敵手の絵であって、昔を思いだした絵師が、とつぜん奮起して負けじと無理な創作生活に突入して、体でもこわしてしまった日には、いったい神の前でどういう償いをすればいいのか、ということばかり気になっていた。この世から一人の優れた熟達の絵師を消してしまったら、自分も消えてしまうよりほかないのではないか。今更ながら少年は後悔していた。
少年がこの絵を見つけたのは、この教会に来る前、とある街の宿屋でのことだった。金に困った宿屋の主人が、神父にがらくたを売りつけようとして、色々の物を床に風呂敷を敷いた上に並べ、むやみやたらとまくし立てているときに、脇でなんとなく品物を見ていたミルチャは、雑多ながらくたの中から、その絵を見つけた。ミルチャはなんとなく、青白い少年の寝顔に惹かれた。なぜ、自分と同い年くらいの少年がこれほど静謐な雰囲気を醸し出しているのか、という疑問が浮かび、頭から離れなかった。絵師の腕も、おそらく見事なものだった。それまで、とりたてて興味をもって絵を見たことはなかった。だから、絵師の腕など本来ならわかるはずはない。それでも目が離せないほど見入ってしまうのは、きっとただの絵ではないのだろう。自然と、絵の値段を宿の主人に訊ねていた。主人は不思議そうな顔をして、たわいのない金額を口にした。ミルチャは神父に日々のお勤めをより一層励みますから、と誓うと、神父は快くその絵を買ってくれた。結局、神父が買ったのは、その絵だけだった。




