偽典・サラ書
かのイエスは若きころあてもなくふらふらと放浪する癖があってよく周囲の者たちを困惑させた。しかし彼の人のもつあの真に有りがたき魅力によっていわゆる狂人とは厳格に区別された。それは神聖で生贄に供される動物のもつあのかぐわしくも切ない躯から立ちのぼる匂いのようなものでありあるいはそれこそが彼の人の常世のものではないものの徴かもしれなかった。
どこからどういった道をたどりどのくらい時間をかけてイエスがそのマサダの砦にたどり着いたのかは誰にも知れぬ。そのときかのヨセフもまたマリアでさえも彼の人がどこに行ったのかを知らなかった。
そのマサダはいわゆる熱心党の人びとでごったがえしていた――毎日毎日、絶えず皇帝へのローマへの憎悪に身を焦がし止むことのない迫害におびえおびただしい襲撃をもってその迫害に対して報復していた。
すえた汗臭い暗殺者の男たちは襤褸が風に吹かれてきたように静かにその場にあらわれた痩せ気味のそして射るような眼をもつ不可思議な少年の姿を認めやにわに困惑した。なんとなれば殺しを生業とする彼らにとってもその存在に疑念を抱かせるほどにその少年の存在の現実感はなかった。その場の誰もが思いまた口にしなかったが、すでに少年は彼らにとって水よりも身近だった。
「何をしに来た、小僧」とひとりの若い男がすごんで言った。「ここは小僧のいるべきところではない。とっとと失せたほうが身のためだ。もっとも俺の代わりに罪を被って死んでくれるというなら話は別だが。ちょうど三日前に憎いローマ人を殺してきたところだ」
「あなたの名を」と少年はぽつりと言った。
男はぎょっとなった。この小僧は白痴だろうか。殺人の披瀝に怯えもせず俺の名を聞いているのだ。だがこの射るような眼は間違いなく狂人ではない。
「バラバ。バラバ」と男は神妙に急いて答えた。
「バラバ。あなたの願いは聞き届けられるだろう。だがあなたはその時までいまの私を忘れている」
「だからいったい何の用なのだ。お前は」バラバはおびえつつ吐き捨てるように言った。
「ここに私のための言葉があるはずだ。私は今日それを見に来た」
何のことかバラバには理解できなかった。近くで見ていたひとりの老人が言った。彼はもう百人はローマ人を殺めている猛者だった。
「それはおそらくゲニーザのことじゃろう」
「ああそうか。あの本の墓場か。ところでお前はどこから来たんだ?」
「ベツレヘム」と少年はほほえみながら答えた。
「信じられないな。わざわざベツレヘムから書物の墓場を見にきたのか」
「連れて行ってやるがいい」と老人が言った。「その子がゲニーザへ行きたいのだから。その泉の面のような眼を見よ。その子はわしらを憐れんでいる。その眼はきっときっとわれわれの血を贖ってくださる」
バラバは本の墓場であるゲニーザまでイエスを神妙に案内した。それは大きな祠のような建物であり表の入り口は厳重に封印されていた。
「ここに来る奴らはひどい物好きだけだ」
そう言ってバラバはおもむろに屋根の上へ続く脇の階段を上った。イエスもそれに静かに従った。
屋根の上には天井とつながる扉がある。それを開けてそこから縄梯子をかけて降りるのである。このときバラバはすでに先客がいることに気づいていた。だから縄梯子は表の入り口の前に置きっぱなしにしていた。
「きっとあの女だろう。まったく物好きなことだ」
二人は注意深くすでに掛けられていた縄梯子をつたい降りて建物の中に入った。そこは埃臭い雑多に物がある部屋だった。捨てられたありとあらゆる書物はもちろんさまざまな反故や紙の切れ端や文字の刻まれた石板もあった。
すべての言葉には力がある。それを信じ知っていたかのユダヤ人たちはあらゆる文字と言葉をここに埋葬してその強大で深遠な力の加護を求めた。
「やはり不気味なところだ。今日はいちだんとな。なあそうじゃないか。サラ」
バラバは、部屋の隅で目を細めながら一冊の書物を熱心に解読している、痩せていて小柄な若い女に呼びかけた。
「静かにしてちょうだい。あんたのような男が、いったいここになんの用なの」サラはひどく冷淡に答えた。
「この子どもが来たいと言ったんだ。それもシモンの親父さんの命令でしかたなくだ」
イエスはすでに床に落ちている無数の紙切れの文字を渇きから水を飲むように飢えから貪るように読んでいた。その眼は星のように輝いている。サラはその後ろ姿を認めるとため息をつき本をいったん閉じて少年の前に立った。
「坊や。ここには面白いものはないよ」と言いかけたサラはそこでイエスがぶつぶつと何か呟いているのに気づいて「あなたは字が読めるの」と問うた。
「私は字が読める。父はすでに私に言葉を与えたもうた。あとはそれに正しき形象が与えられればよい」イエスは言った。「正しき娘よ。あなたは私に言葉を教えなければならない。さすればマサダを襲う苦難を生き延びられよう」
サラはいままさに彼女が読んでいた聖書……それは今日では旧約聖書と呼ばれている……の中で暗示されている新たなそしていままでとは決定的に何かが違う神の預言者がまさに降臨しイエスという名をもって目の前にいることを直感した。それは彼女が幾多の書物を読む中で得たいと思いながらついに得られずにいたひとつの純粋な想念だった。
「わかったわ。私の言葉を教えてあげる。その代わりどうかこのマサダを救ってちょうだい。きっといつかローマによってこの砦は滅ぼされるわ。それがあなたのいう苦難なんでしょう」
「そうだ。しかしお前はその運命を記憶し語り継がねばならない。それがお前の使命だ。暗殺者を父に持つ娘よ。それがお前の勤めだ」
バラバはすでに縄梯子を上りかけていた。そして背中でサラの興奮した息遣いを感じひそかに嫉妬した。こんな小娘に興味はない。だがこの小僧はもう人たらしの術を身につけている。はては詐欺師か妖術師か。それとも……。彼は己のおさまらぬ動悸をまぎらわすように、熱心に心の中で悪態をついた。それは心の表面をつつむごまかしの覆いであるとともに忘却のまどろみだった。
やがてイエスはサラから言葉と文字の関連を厳密に教わりマサダを去った。そしてサラはマサダ陥落の際ひとりのこらず自決したユダヤ人の伝説をひとり生き残り秘かに伝え広めた。バラバは罪を得て十字架にかけられようとしたところをイエスに助けられた。まさにその同じ十字架にイエスはかけられた。
そして以上のことはすべて偽典であらねばならない。なぜなら暗殺者の娘からイエスが文字を教わったということはあってはならない。バラバとイエスが一度でも口をきいたことなどあってはならない。第一イエスは一字も文字を残さなかったということがわれわれの信仰の暗黙の前提ではないだろうか。




