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乞う路傍の雪以下なら夢と仰せ  作者: 杜若表六


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古典的? ロマン主義的? 村上春樹

ボルヘスは独自の定義で文学の手法を「古典的・ロマン主義的」の二つにわけている。


ここで私は古典的、ロマン主義的という用語をこれまでの歴史的な文脈や意味合いから引き離し、それらを作家の二種類の典型(二つの手法、あるいは態度)として理解している。古典主義的な作家は言葉に対して不信感を抱いてはおらず、自分が用いる記号の一つひとつに十分な効力のあることを信じている。

(略)

彼ら〔古典主義的作家〕は、ロマン主義の発見である個性というものを、いまだ予感すらしていなかったのだ。現在のわれわれは、皆ひとしなみに、個性というものにひどく憑かれているので、それを否定したり、ないがしろにしたりすると、そのこと自体が《個性的である》ための数ある方策のひとつになってしまう。

(略)

古典主義の作家が提示する現実というのは、(略)それを信用するかどうかの問題である。これに対して、ロマン主義者が描き尽くそうとする現実には、いささか押しつけがましいところがある――彼らの通常の方法は強調であり部分的な虚偽である。

ボルヘス「現実の措定」


つまり、個性に囚われた現代人(またその源流としてのロマン主義者たち)は言葉(あるいは「個性」そのもの)に対する不信感を持ち、ときにそれを否定しさえするが、それもまたある種の「個性」の発露とならざるを得ない。

対して、まだ「個性」を発見しておらず、あるいは言葉に不信を持っていない古典主義的作家たちは、現実を記号的に提示する。

そして、吉本隆明は「文学の戦後と現在」という講演で以下のように語っている。


村上(春樹。引用者注)さんの場合、才能だっていうより仕方がないところがあります。つまり、強力な選択性で、先ほど言いました、対象に対する選択性が強力なものですから、強力な選択性の、こことここへ描けばいいっていう、それが決まると、そこへ思い切ってやってしまいますから、ふつうの人だったら、おっかなくて、このこととこのことがつながるのかねって思うから、たいていやっぱり、ちょっと緻密に描写しちゃったりするんですけど、それをやらないで、思い切ってやっちゃいますから、強力な選択性で、この対象とこの対象をくっつけられるっていうあれを獲得しちゃってますから、それは非常に利益になっていると思います。対象を強力に選択するっていうやりかたも含めて、非常に有利にそれをしているように思います。


ここで村上春樹の文章を例に挙げたい。どの部分でもいいのだが、たとえば、


私はまず電車で銀座に出て、〈ポール・スチュアート〉でシャツとネクタイとブレザーコートを買い、アメリカン・エクスプレスで勘定を払った。それだけを全部身につけて鏡の前に立ってみると、なかなか印象は悪くなかった。オリーヴ・グリーンのチノ・パンツの折りめが消えかけているのが多少気になるが、まあ何から何まで完全というわけにはいかない。ネイビー・ブルーのフラノのブレザー・コートにくすんだオレンジ色のシャツというとりあわせはどことなく広告会社の若手有望社員という雰囲気を私に与えていた。少なくともついさっきまで地底を這いまわっていて、あと二十一時間ほどでこの世界から消えていこうとする人間には見えない。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』


以上で明らかなように、村上春樹の文章から「言葉への不信」や、「個性への過剰な否定」といったものを見出すことは難しい。それは「少なくとも~」から続く文章においてもいえる。いや、この部分にこそ村上の言葉に対する信頼(つまり不信感の欠如)をみることができる。「思い切ってやってしま」うのは、まさに言葉に対する不信感の欠如、「自分が用いる記号の一つひとつに十分な効力のあることを信じている」からである。

そして村上春樹の作品は多くの読者に信用されるような「個性」を持っているのかもしれない。それは古典主義的なスタイルでロマン主義的な理想を成し遂げたという見方もできるかもしれない。

しかし一方で、吉本の指摘する「強力な選択性」こそまさに「強調であり部分的な虚偽」であるのではないだろうか。つまり、ついさっきまで地底を這いまわっていた男が〈ポール・スチュアート〉で一張羅を揃えた二十一時間後に世界から消えていくという物語(を主張する手法)は、言葉への(≒現実への)不信感が希薄な作者の趣味(≒「個性」)をこれ見よがしに提示していて、「いささか押しつけがましいところがある」ともいえる。


吉本隆明は強力な選択制といっているが、それは別に強引と言い換えてもいい。

意識的な強引なこじつけは読者にジョーク、ユーモア、諧謔と受け取られる表現を生み出すこともできる。一方で、真面目に読まれてしまった場合、それはプロットというよりもストーリーとなる傾向をもっている。


文脈内での因果関係を積み上げていくのがプロットである(「Aが~した。そしてBは…ので~した」)。

対して文脈内の因果関係の欠如はストーリーを生み出す(「Aが~した。それからBが~した」)。

プロットをさらに複雑に構築したものがミステリーである(Aが~した。それからなぜかBが~した。のちにそれは…であるからだとわかった)。


上記の引用で、主人公が「あと二十一時間ほどでこの世界から消えていこうとする人間」であるということは小説内で読者に説明されている。それゆえ「電車で銀座に出て、〈ポール・スチュアート〉でシャツとネクタイとブレザーコートを買い、アメリカン・エクスプレスで勘定を払った」こととの乖離が理解され、アイロニーを生み、ユーモアを生み出す。これは現実とフィクションの華麗な接合を成功させたという見方もできるかもしれない。


だが一方で忘れてはならないのは、これは一種の手品だということである。詐術といってもいい。つまり小説内で読者に納得させたものを現実の事物とこじつけ、レトリックやアイロニーやユーモアでその接合部分を覆い隠す。もっと悪いことに、フィクションとしてのストーリーに「リアリティ」なるものを付与することになるかもしれない。この場合のリアリティとは、因果関係の虚構、もしくはでっちあげである。


村上春樹に限らず、小説を書く人間はこうした詐術とごまかしを確信犯的に行うものだということを、吉本隆明はやんわりと述べている。ボルヘスの指摘するとおり、ロマン主義の洗礼あるいは凌辱を受けた我々は一様に個性的な、非古典的な人間である。現代において古典的な作家は生まれるはずもないし、古典を古典として読むことはできない。古典を創り出すということは、「それ」を古典として読むことである。古典を現実と接合して虚構の因果関係を構築し納得させることではない。

しかし私はもはや古典=現実であるということを声高に主張することができないことを知っている。それはなぜか。

実は我々から本当に除去されたのは、言葉への信頼や個性への信頼ではなく、現実への信頼だからだ。多くの人にとって、村上春樹の書く「現実めいた」ものの世界の方が、「現実に」生きている世界よりもしっくりくる。「強力な選択性」によって接合された因果関係の方がミステリアスで、心地いい、納得のいくものに決まっている。


本人も自覚していたかもしれないが、ボルヘスの古典的、ロマン主義的なる区別は不徹底である。どの作家にも古典的要素とロマン主義的要素は混濁して存在している。いうまでもなく、作家ごとに分類するということはすでに個性的なことである。つまりこの見方自体がロマン主義的傾向にあり、全てのそれぞれの作家が個性ある一人一人の人間であるという前提を(無自覚に?)ふまえている。

そして、ボルヘスを含め、現代の我々が「古典的」といっているものの実体はあくまでロマン主義的な現実不信の洗礼を受けた「現実めいた」ものにすぎない。少なくともボルヘスの指摘している古典的なるものは吉本の指摘する村上春樹的な側面をも持ち合わせている。

よくよく考えてみれば、いままでも(これからも)いったいどこに古典というものがあったのか、ありえるのか。

ボルヘスを模していうなら、全ての作家は他の作家の影であるといいたい。全ての作家は時間と空間に隔てられながら、同時にそれを越えてお互いを参照し・引用し・剽窃し合っていると。そしてそのとき、全ての書物は古典であると主張しよう。

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