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乞う路傍の雪以下なら夢と仰せ  作者: 杜若表六


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絶対者・マジックミラー有限者

 起床して顔を洗い、フト鏡を見ると……なんとそこには全宇宙が、存在する全世界が極大極小余すところなく映っている。それを見て「これが私だ」とニッコリ……そんな体験を夢ではなく、現実にしたことのある方は、なかなかいないのではないだろうか。なかなかどころではないかもしれない。


 手始めに、こんな話から。

 草花が可憐にしかしたくましく生えている。池の水面にアメンボが浮かぶ。その奥には愛すべき我が家がある。そんな風景を目にして「これは私の家だ」と思う人がいたとする。

 その人は目で草花を、池を、建物をとらえ(感性)、それを草花、池、建物であると分類し(悟性)、これは庭の風景であると思う(想像力)。

 庭が実在するということは、その人のものの見方によって認識されている。もしも他の人が違う見方をすれば、庭は存在しないかもしれない。

 ものの表層をなぞる力、それを分類する力、それをさらに構成する力。これらは我々を世界という存在そのものを認識する力といってよい。


 では、これらの諸力の根拠は何なのだろうか。言い換えれば根源とは何か。

 ものの存在を認識する力を成り立たしめているということは、ものの存在を成り立たしめているということである。つまりそれ自体はそれ自体で全てであり、それ自体が同一性をもって存在している存在、ということになる。

 これを絶対者と仮に呼んでみる。そして絶対者ではない我々、絶えず生生滅滅する存在を有限者と呼ぼう。

 まずもっての問題は、絶対者がどのようにして有限者に諸力を付与したのかということである。そのためには、まず絶対者の同一性について考えなければならない。

 絶対者は何をもって同一性をもつのか。絶対者はそれ自体が全てであるという点から推論すれば、恐らく絶対者自体がそれである。しかし同時に同一性に否定的なもの、つまり区分も絶対者である。ということは絶対者は絶対者において分類される。それは仮初の姿、つまり仮象としての絶対者である。仮象としての絶対者は絶対者によって分類された絶対者である。しかし同時に絶対者は同一性をもっている。ところで否定的な・反省的な絶対者もまた、仮象である。なぜなら絶対者は同一性をもつからだ。ここにおいて絶対者は仮象の仮象である絶対者であり、絶対的な同一性そのものである。つまり絶対者は同一性であり、否定である。

 ……なぜこんなわけのわからないことを述べるのかというと、この絶対者云々は私の頭で把握できたかぎりのヘーゲルの「絶対者」に対する考えだからだ(参考:『大論理学』)。あくまで、これは私なりの解釈に過ぎない。そしてそのうえで新たな解釈を加えさせていただくと、このようなことではないか。つまり絶対者は絶対者という鏡を見て、絶対者を認識すると。

 もっと簡単にいってしまえば、神は世界(宇宙)を創って自分をそこに見るのである。ここで重要なのは、宇宙は神の姿をではないということだ。神が見るのは、我々の認識する宇宙ではなく、神そのもの、もっといえば神の同一性である。


 私はカントの物自体に対する考え方は面白いと思う。そしてこれもごく我流の解釈で恐縮だが、カントの考えは優れて有限者の見方であると思う。

 我々は世界(宇宙)を見るとき、そこに同一性を感じない。よほど宗教的な修練や瞑想を重ねない限り、現実的な意味での自己同一性を宇宙に見ることはなく、見るのは「私」に対するもの、他者、否定性、そのようなものだろう。我々は、少なくとも正気では世界に神を見出すことはできないだろう。

 しかも、我々は感性・悟性・想像力といったガラスごしにしか世界に触れることはできない。そこには越えがたい絶対的な壁がある。そして、この壁は透明である。我々はこの壁越しに世界を認識するからである。

 またヘーゲルに戻るが、彼は有限者を「空っぽの形式」と呼んでいる。絶対者の仮象の仮象。有限者において絶対者はある。しかし有限者は絶えず生成消滅する。そしてその生成と消滅は絶対者のように同一性をもたないため起こるのである。

 もう私の考えはわかったのではないだろうか。つまり私のいいたいのは「有限者における感性・悟性・想像力などの諸力は、絶対者における否定性・反省、言い換えれば絶対者に対峙するものである。それもまた絶対者であるが、諸力の対峙する絶対者は絶対的な同一性をまだもたない(鏡を見ていない)絶対者であるから、それは鏡の側から認識した、いうなれば「寝起きの絶対者」であり、諸力では本当の顔とは思えない、つまり同一性を認識することができない」ということである。だからそれはまるで両面鏡、もしくはマジックミラーのような仕掛けをもっている。絶対者から見た世界は絶対者であり、有限者から見た世界は有限者としての世界、あるいは未だ同一性を否定された状態の絶対者である。

 ニーチェが神の死を宣告したのは、ただ人間に対してである。

 神は依然として我々の方を向いてはいるものの、彼の見ているのは鏡に映った自分の姿である。


 この辺の考えは当然ながら、これからも更新していくと思う。

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