土熊の墓
自らの精神の軌跡を記す為に、人間はあらゆる手段を講じる。あらゆる点から言ってそれを完璧に成すことは不可能に近いが、それでも人々は模索を続ける。その不可能性自身が何か大きな魅力であるかのように。徐々にその記す行為は手段から目的に変わってゆく。目的となった手段は本来の役割を忘却し、一個の精神の廃墟となる。私がこれから語るのはその一個の廃墟だ。
思考する存在には宿命がある。つまり思考する限り悩まずにはおれない、解答不可能な問題を探求し続ける宿命だ。根源的な問題を悩まずにおれないのは思考存在の本性であり、同時にその問題は思考能力の限界を超えている。本質的な問題の答えには決して到達できないことを認識し、確実で妥当な答えに至ることのできる問題のみに固執することは、人間という存在に関して言えば、極めて困難な態度だ。
数刻後には刑が執行される予定の、とある死刑囚が独房の中で、次のような思惟を広げたとしよう。
――世界は有限だ。時間は時系列によって把握する限り無限でありえず、空間は把握できるもの全体であり、無限ではない。
――世界は無限だ。時間の始まり以前は認識できないのだから時間は始まりを持たず、空間が限界を持つとすれば空虚がその外側にあることになり、空間は相対化されるが、それは無意味な思考である。
狭い独房の中心に黙然と胡坐をかいて瞑想する生活の中で、垢がこびりつき浅黒くなった皮膚と、毎日パンの一片という乏しい栄養状態にもかかわらず、いまだ頑丈な骨格を持つこの男は、とある罪を犯し仄暗い独房に押し込まれてよりこのかた、こうしていつ果てるともない思索を続けている。
死刑囚はあることに気がつく。これらの命題は相矛盾しているが、それぞれの命題自身は矛盾していない。
――四次元時空宇宙が無限であることを、背理法を用いずに証明するためには、どのようにするべきか。それは時空が内部に対しても膨張を続けていると考えればよい。外部に対して膨張を続けていれば、いつか宇宙は絶対零度にまで達し、氷りつくだろう。しかし内部に向かって膨張するという宇宙の様相が存在するなら、中心部の密度は高まり、温度は上昇し続ける。この寒冷化と温暖化の差が零となったとき、宇宙は一定の秩序によって安定し、無限であることが証明される。だが、この考えには救い難い矛盾がある。無限の様相を持つ宇宙に、どうして秩序のない時空と秩序のある時空が存在するのか。宇宙が単一であるなら、その様相もまた全体として単一であるに違いない。法則が異なれば、それは異なった宇宙ということだ。宇宙の秩序が変化するということは、ありえない。
彼はこの思考に魅了され、なおも思索を続ける。だが刑執行の時刻が訪れ、彼は絞首台に向かって歩き出す。十三階段を上りながら死刑囚は考えている、俺が死ぬまでの時間は有限だ。なぜなら俺が縄に首を掛けたあとには、俺が死ぬということしかないからだ。だが、同時にこうも考えられる。そもそもことの始まりなんてものは認識できないんだから、何事も始まりなんて持たない。つまり時間も無限だ。俺が階段を上りきる前に、俺は永遠に考え続けることができる。死んだあとには俺にとって時間は存在しないのだから、やはり時間は無限だ。時間は有限であり、無限である。俺は狂っているのだろうか。狂っているというより、何か罪を犯しているのかもしれない。かつて犯して死罪に問われることになった罪よりも、さらに重い罪に。だが、俺は考え続けなくてはならない。矛盾する二つの命題は、俺の中で一致している。俺は考え続けなくてはならない。考え続けなければ、生きることも死ぬこともできない。そう考えて、かれは次の命題にとりかかった。彼は間もなく死ぬことになるが、階段を上る彼において時間と空間は完全に永遠に停止した。
私はこの死刑囚の話を聞いても、笑って済ますができない。一説によると、この四次元時空宇宙は常に膨張し、冷え続けている。始原の大膨張以来の事象が全て我々の心の中での出来事だとしても、いつかあらゆる惑星間の距離は無限大に遠のき、その孤独と寂寥のあまり、究極には宇宙の何もかもが氷りつくだろう。銀河に点在する大暗黒の中心のごとく、時間と空間の計りがたい完全な終末が訪れるだろう。
その前に、私はあの一族のことを話しておこうと思う。土熊一族のことを。
土熊私誤には五人の息子がいる。長男・虚帰。次男・妄志。三男・絶久。四男・貞諦。五男・慄懼。私が深く関わることになった土熊家の、これが兄弟たちである。
それと、女についても話しておかなくてならない。土熊家と深く関わる前、私は土熊家の屋敷で一人の女を見たことがある。
私はその女がどのような顔をしていたのか覚えていない。ただ覚えているのは、黒い長い髪の美しい、痩せた女だったという印象だけである。いちど見たものをはっきりと覚えていられるほどの便利な頭脳を授からなかった私は、あの土熊の家で開かれた……大学卒業祝いのパーティーのとき、広いテラスで絶久はじめ学友たちと談笑しながら、給仕が銀の皿にのせて運んできた色とりどりのカクテルを傾けていたとき、ふと私たちの影を半透明に映す、屋敷の正面の大きな南窓へ目をやったあのとき、家の中から、窓を隔てて私たちの影に囲まれて、まるで青年たちにとっての謎多きマドンナとして、雑駁な会話の環に加わっているかのような佇まいで、こちらを見ている若い女を見て、何かそこにいるはずのないものを見てしまった気がして、しばらくその姿を凝視していた。やがて女は踵を返すと、奥の方へ消えてしまった。私はトイレを借りたいと絶久に言った。彼は雑談に忙しく、手を振って私の申し出を許した。
私が館の中に入ると、目の前に果てしなく続くような階段があり、女が上っていくところだった。私は靴音ひとつたてないその歩みをまたしてもじっと見つめていたが、その歩みが踊り場に差し掛かると、女がこちらを向いた気がした。私はその顔を確かめようとしたが、女はすぐに再び歩み始めて、何もわからなかった。左の方から、私を呼ぶ声がした。声の主は妄志だった。彼は私に近づき、言った。
――大黒くん、どうしたんだい。
――お手洗いを借りようとしたら、迷ってしまって。
と私は咄嗟に嘘をついた。しかし、トイレの場所がわからないのは本当のことだった。
――そうかい、トイレならあっちだよ。
と言って、絶久の兄はある一方向を指さした。
――すみません。
――迷ってもしかたがないさ、この家がこんなに広いのが悪い。
妄志は足先で床を二三度小突き、手を伸ばしてウィトルウィウス的人体図を思わせる態勢をとった。
――あの、お兄さん、……。
私は女のことを訊ねようとした。
――なんだい。
彼は奇妙な態勢を続けたまま、表情のない目でこちらを見た。
私はなんでもありません、失礼しました、と言って教えられたトイレの方へ走った。テラスへ戻ると、思ったより時間が経っていたことに気づいた。なんだ、帰ったのかと思ったぜ、と絶久に揶揄われたほどだった。私はつまらない洒落でお茶を濁し、何も気取られないように、なるべく自然に会話の海へ溶け込んでいった。その後も、パーティーの終わりまで、何度か窓の方を見つめた。私は南窓が荘厳な宗教的象徴の描かれた、巨大なステンドグラスであることに気がついた。そこには私の知らない様々な事物が描かれていて、一種の美しさがそこに認められはしたが、私の関心はそこにはなく、ただあてもなく彷徨う視線が、不意に一人の女性聖人の姿をとらえたとき、私は奇妙な既視感にとらわれた。絶久が私にからんだ。
――どうした、あの窓が気になるのかい。
――別に。
――あの女のことを見ていたようだが。
私はぎくりとして、絶久の顔を見た。だがその視線から、彼は窓に描かれた聖女のことを言ったのだとわかり、私は答えた。
――俺はよく知らないんだ、ああいうものは……。
――あの女はね、アビラの聖テレサっていうのさ。
――なにをした人?
――内なるサタンに克ち、カルメル会の改革をした。
――内なるサタン。
――善なる神に達するには、悪を克服せねばならない……。かつて、神の概念がなかった頃、複雑なまじないの末、宗教家は神を見出した。人々は奇跡によってしかそれを理解できなかった。いま、複雑な実験の末、科学者は神を虚像とした。人々は奇跡の不在によってしかそれを理解できなかった。その後、複雑な思惟によって様々な真実が明らかになった。むろん本当にその思惟を理解できるものはほとんどいなかった。だが彼らの多くは真実を理解しないまま真実として受け入れていた。これは一つの宗教であった。
――俺にはわからないな、そういうことは……。
――ははは、俺も興味がない。それより、もっとましなことについて話そうぜ。
絶久の言葉をきっかけに、私たちは再び賑やかな歓談へと戻っていった。ちょうどそのとき、余興として呼ばれた奇術師が、幾羽もの鳩を懐から取り出し、空に放った。
――あの鳩はな、よく飼いならされているから、戻ってくるんだぜ。
と誰かが言い、別の誰かがそれを聞いて呟いた。
――でも、すぐには戻ってこないが、そのあいだ何をしているんだろう。
独房の死刑囚はいったいどのようにして自らの内部の迷宮に入り込んでいったのか。今の私にはわかる気がする。あらゆる乱雑な集まりが、巨視的に見れば一種の構造体と認識できるように、我々の頭の中も、微小ながら一つの構造体なのだ。自分以外は決して入り込めない、そして抜け出ることも不可能な、エッシャーの城のような迷宮を思考存在は持っている。そして時に迷宮の中でミノタウロスに出くわすこともあるのだ。私の場合、それがあの女だった。今思えば、女の正体を知りたくて土熊の家に関係したのかもしれない。だが、私はあの家に近づいた理由をそのように考えたことは一度もなかったし、長いあいだ女の存在を忘れていた。
それでもあの漠然とした印象だけは心の奥底に残り続け、それがアビラの聖テレサと重なって、いつしか私は彼女によって内なるサタンのもとへ、それを克服するために誘われたという物語をつくりだしていた。その物語の結末は、女はひとり高みに消え、代わりに現れた妄志によって別の場所が指し示されるというものだった。そこは便所ではなく、死刑囚のための独房だった。そして私は考えるのだった、女もまた、完全に永遠に停止した大暗黒の中心に存在するのではないかと。私は何か存在するはずのないものを見てしまったのではないかと。それが罪だとしたら、私もまた十三階段を上りながら、相矛盾した命題を婚姻させるという、密やかで淫らな遊戯に耽るのだろう。
このような甘美な妄想を抱いていた私は、論理は前提とする根拠が異なればそれに対する判断も異なってしまうこと、またそれに気づかぬふりをしていなければ思惟はある地点から一歩も踏み出しえないことを不意に直覚し、この試みの不可能性に愕然とした。やがて私は思考存在の抱えるこの宿命的な病を癒す道に入った。解答不可能な問題を探求し続ける宿命を持つものたちを救済し、それにより、あの土熊家で見た女の持つ重力によって歪められ、どこまでも続くように感じられる十三階段を忘れようとしていた。
奇しくも私は土熊の父および息子たちと深い関わりをもち、アビラの聖テレサのように内なるサタンと向き合うことになる。正確に言えば、こうして話している私が内なるサタンである。内なるサタンが、土熊一族として目の前に変容してきたのだ。
病人ではなく、病だ。
狂人ではなく、狂気だ。
絶望者ではなく、絶望だ。
認識者ではなく、認識だ。
恐れているのではなく、恐怖だ。
そしてすべては、私の誤りだ。
私がこのような仏教的な見地に立っているのは、私が悟りの境地に達したからではなく、逆に、深い懊悩の迷宮へ足を踏み入れたからにほかならない。藁をもつかむ思いで私は語る。語らざるをえない断崖まで追い詰めてしまった。思考存在の中でも最も弱弱しい、人間とはいったい何なのだろうか。妄志が邸内で私に見せた、ウィトルウィウス的人体図のような振る舞いが、今も忘れられない。




