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乞う路傍の雪以下なら夢と仰せ  作者: 杜若表六


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『源氏物語』と『ドン・キホーテ』と翻訳



>原作ただひとりが、言っていることを「別の言葉で言う」ことができないのであって、原作の「言葉」が言うことは「事実なるもの」、不動のテクストなのである。その意味で、文学作品に「別の言葉で言えば」はあり得ない。対するに、文学作品の翻訳はつねに「別の言葉で言う」一つの試みであり、ここでジャコテはそのようなものとして、文学作品の翻訳を提示してみせているのである。文学作品において言語形式と内容が取り結ぶ複雑な関連を、自言語において新たに言語化するためには、ある独自の「言い回し」を、たとえそれが時を経ずして「時代遅れ」の「言い回し」として古びたものとなりかねぬとしても、見出さねばならない。(略)彼の翻訳は原作に連なり創造する行為ナッハシェプフンクを、一言で終わらせることはできないだろう。翻訳として、それは終わりなき「永遠の課題」なのであり、それは潜在的に「無限なるテクスト」を書き継いでゆく行為なのである。

>翻訳は、自らが言う通りのことを言っている。しかし、「言う」ことによって違った風に語ってもいる。口頭の語りのジェスチャーを打ち出すことによって、ここでジャコテは、自分の翻訳が、原作を同じ話法のまま別言語に置き換えるものにとどまらないことを知らしめているのである。一方で、翻訳は原作に従属するものであり、原作に依存し続ける――それは原作の「別」物でしかない。しかし同時に、それは訳すことにより、原作を越えた位置に立つ。なぜなら、翻訳は原文の意味を取り出し、再形式化しつつ解明、読解、解釈するからである。その限りにおいて、翻訳は原作に対する注釈であり、写しではない。ゆえに、翻訳は自らの声で語らねばならないのである。……

ペーター・ウッツ『別の言葉で言えば』 新本史斉訳


最近、アーサー・ウェイリーによる『源氏物語』の英訳『The Tale of Genji』が再び日本語に訳され直して『A・ウェイリー版 源氏物語』として話題になりましたが、これは『源氏物語』の影響圏の広さと複雑さを示すとともに世界文学(および言語文化)全体のもつそれを表していると思います。『カラマーゾフの兄弟』の亀山訳が(人の手によるかどうかはわかりませんが)ふたたびロシア語に訳され直してロシア語圏で読まれる未来など想像するのも楽しいことです。

思えば日本に『ドン・キホーテ』の全訳が現れたのは島村抱月と片上伸の手によってでした。


その経緯を片上は序文に書いています。

> 日本の文部省内に文芸委員会というものの設けられたのは、明治四十四年のことであるが、その会は、その年の八月、古典翻訳事業の計画を立て、ダンテの『神曲』(上田敏氏担当)、ゲーテの『ファウスト』(森鴎外氏担当)などとともに、セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』をも翻訳することになったのである。しかしてその『ドン・キホーテ』の翻訳を担当せられたのは、文芸委員の一人であった島村抱月先生であった。抱月先生がこの訳書の第一版(大正四年刊行)で言っておられるように、「本来なら、『ドン・キホーテ』の翻訳はスペイン語とスペイン文学に熟通した文学者の手に成らなくてはならない。ところが、現時の我が邦には、幾分のスペイン語学者はあっても、スペイン文学者は無い。ましてこの大古典を訳し得るまでに外国文学に通ずるとともに我が文学に堪能な人は絶無である。今一つは、スペイン語学者といえども、現代語を主とする限り、すでに古典語に入った部分の多いこの古文を自由に味読することは非常に困難であった。」

>  そこでやむを得ず他の外国語から重訳することになり、それが島村先生の担当となるとともに、先生は文芸委員会の同意を得て、その翻訳を主として私に委ねられた。私がこの古典を翻訳するに至ったのは、実はこういう次第からであった。そこでこの書を翻訳するについては、底本となるべきものを、イギリス、フランス、ドイツの各国の訳書にわたって文部省の手で蒐集し、結局オームズビーのイギリス訳を土台として、当時東京外国語学校の西日外国語学校の西日辞典編纂に従事していた故海老名毅介君を煩わして、原本との照校をも試みなどして、それが完了出版せられたのは、大正四年の秋であった。

> 『ドン・キホーテ』の全訳と称せられるものはいろいろあるが、今まで日本に出たものでは、私の訳本を別として、いずれも抄訳本である。外国でも、一般に読まれているのは、大抵多かれ少なかれ省略せられていて、ただ滑稽珍奇な出来事ばかりを並べ立てたようなものになっている。従ってこの書はただ滑稽な物語としてのみ知られているのであるが、全冊を通読すれば、何人も人生の真実にして貴重なるものに触れざるを得ないであろう。第一にはこの書に対するこういう解釈からも、またその原文に持ち前の風格からも、訳文には、強いて軽い調子を出そうとはしないで、ただ出来るだけ平明な飾りのない調子に従うことを心がけた。今回この書が新たに『世界文学全集』に加えられるについて、訳者は二回にわたって改訂を加えたのであるが、その改訂を試みる間にも、また数回にわたっての校正を読む間にも、これを初めて訳出した十数年前に比べては、この書の中に、一層深く噛みしめて味うべきものの更に多きことを感じたのである。

>

> 千九百二十七年四月十日 東京巣鴨にて

> 片上 伸


はじめて全貌を表した近代文学の嚆矢は、原本からではなく、「イギリス、フランス、ドイツの各国の訳書にわたって文部省の手で蒐集し、結局オームズビーのイギリス訳を土台として」はじめてかたちづくられたのです。

この事実には、様々なコンテクストと言語と作家、そして翻訳者たちの関わる、肯定的な怪物像を思わずにはいられません。

ペーター・ウッツの(それを翻訳した新本史斉の)「言い回し」を使えば、古典とは語り直され続けていることでその拡がりと複雑さをいっそう増強している一連のテクストなのだと思います。





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