俺を捨てた婚約者が「家が滅びそうだ」と助けを求めにきた
西から吹き付ける風は、今年も鋭い刃の冷たさを帯びていた。
しかし、かつて十二歳のコンラートが逃げ出してきたあの荒廃したグリュンベルク城は、今や見違えるほど見事な城塞都市へと変貌を遂げている。
石造りの頑丈な城壁は一切の隙間なく積み直され、行き交う兵士たちの防具は油で磨かれて鈍い光を放っていた。穀物庫は冬を越すに十分な麦で満たされ、厩舎からは血統の良い軍馬のいななきが響く。
グリュンベルク伯爵となったコンラートは、執務机の上で、一枚の書状を睨みつけていた。
それは、アルテンフェルトの北に位置する強大なファルケンハイン侯爵家――バルタザール侯から届けられた調略の書状であった。
『現アルテンフェルト公フロリアン殿下は、仁徳に篤き御方とは聞き及んでいる。
しかしながら、乱世に領国を保つ器にあらず。
北方の砦は崩れ、兵は減り、財は尽きつつある。このままではアルテンフェルトの民は、いずれ外敵の侵攻か内乱によって、より大きな災禍に晒されるであろう。
我らとて、先代より続く盟約を破ることは本意ではない。
されど、民を無為に滅びへ向かわせぬため、ファルケンハインがこれを保護するほかないと判断した。
グリュンベルク伯におかれては、我らのやむなき決断をご理解いただき、此度の争いには静観されたい。
なお、我らの志に助力いただけるのであれば、戦後のアルテンフェルト領の処遇について、貴家の功に報いる用意がある』
「ふん」
コンラートは鼻で笑い、羊皮紙を無造作に握りつぶした。
彼にとっては、怒りさえ湧かないほどにくだらない誘いだった。
「なるほど。バルタザールめ、俺まで買えると思っているらしい」
彼は椅子の背にもたれかかり、天井を見上げた。
アウグスト公から「来年も税を払える民を残すのが領主だ」と叩き込まれ、アリエノールとの約束を果たすために、この六年間を血を吐くような努力で駆け抜けてきたのだ。
アルテンフェルトがフロリアンという頼りない王子の下で防衛予算を削り、民に免税を重ね、中から静かに腐食していくのを、コンラートは他領から冷徹に見つめていた。
ファルケンハインのエーベルハルトが粛清されたという情報が届いた瞬間、コンラートは、即座に次の答えを導き出していた。
次は、アルテンフェルトだ、と。
だからコンラートは、動いていた。
フロリアンが「まだ攻められていない」「盟約は破られていない」と動員を拒んでいたその頃、コンラートはすでに、数ヶ月分の遠征用の兵糧を確保し。
馬を集め、蹄鉄を打ち直し。
兵たちをいつでも出陣できるよう、動員体制を整えていた。
未来のために、今日を耐える。
それが、コンラート・ド・グリュンベルクという男の、誠実さであり、為政者としての正論だった。
「いつでもいけるな」
コンラートが低く呟いた、その時だった。
執務室の重い扉が、音を立てて開き、側近の家臣が息を切らせて駆け込んできた。
「伯爵閣下! アルテンフェルトより、急使が参りました!」
「……!」
コンラートの瞳に、鋭い光が宿った。
ついに、ファルケンハインが動いたか。そして、アルテンフェルトから助けを求める使者が届いた。
すべては、コンラートが予測していた通りの盤面だった。
「ようやく来たか」
コンラートは席を立ち、マントを翻そうとした。
しかし、家臣は驚愕と当惑が入り混じった顔で、言葉を続けた。
「い、いえ……使者ではございません。お越しになったのは、アルテンフェルト公爵令嬢アリエノール様、ご本人にございます!」
コンラートの動きが、完全に止まった。
「……何だと?」
「雪を突いて、お一人で馬を走らせてこられたようで……。今、広間でお待ちですが、酷く冷え切っておいでです」
コンラートは、一瞬だけ、自分の耳を疑った。
アリエノールが、自ら。しかも馬車も使わずに一人で?
そして次の瞬間、彼の唇の端が、ごく自然に、にやりと吊り上がった。
(遅いぞ、アリエノール)
胸の奥から、抑えきれない歓喜と熱い血潮が噴き出してくるのを感じた。
何年待ったと思っているのだ。
アウグスト公が死に、彼女がアルテンフェルトに縛られ、手紙のやり取りだけが続いていた寂しい数年間。
だが、今や自分は、かつて彼女の足元にいた庇護される憐れな少年ではない。
グリュンベルクを再興した。
軍も、金も、備えもある。
ファルケンハインの虎を叩きのめし、彼女を救い出すだけの力を、この両手に確かに握りしめている。
約束を果たせる男に、俺はなったのだ。
コンラートは、抑えきれない喜びを胸に、大股で執務室を歩み出していった。
グリュンベルク城の広間は、暖炉の火が赤々と燃え、西側からの隙間風は、隙間のない壁によって完全に防がれていた。
床にはふかふかとした、アルテンフェルト特産の厚い羊毛の敷物が敷き詰められている。
その暖炉の前に、一人の女性が立っていた。
漆黒の外套を羽織り、旅の汚れと雪がその肩を白く染めている。
アリエノール。
数年ぶりに見るその姿は、かつて月光の庭園で見つめ合ったあの夜よりも、どこか細く、そして痛々しいほどに疲れ果てているように見えた。
「アリエノール!」
コンラートの声が、静かな広間に響いた。
アリエノールは、ゆっくりと振り返った。
その顔は、凍てつく風のせいで青ざめ、唇は微かに震えている。けれど、その瞳だけは、出会った十二歳のあの日と変わらず、凛として曇りがなかった。
「お久しぶりですね、グリュンベルク伯爵閣下。……見違えるほど、素晴らしい城になりましたわね。西風が、どこからも入ってこない」
彼女は掠れた声で、静かに言った。
「ああ。お前との約束通り、大工を総動員して、隙間風が入る隙間はすべて埋め尽くした。床の敷物も、お前が送ってくれた特産の毛織物だ」
コンラートは、一歩、また一歩と彼女に近づいた。
今すぐにでも、その凍えきった体を、その細い肩を、この腕に強く抱きしめたかった。
しかし、アリエノールは、彼との間にわずかな距離を置いたまま、深く頭を下げた。
「グリュンベルク伯爵閣下。……無礼を承知の上で、お願いに参りました。どうか、我がアルテンフェルトに、援軍を。バルタザール侯の軍勢五千が、国境を越えて侵入を始めました。今の我が家には、彼らを押し返すだけの軍も、金もございません。……どうか、力を貸してください」
それは、アリエノールにとって、何よりも屈辱的な懇願のはずだった。
自分の不手際で国を窮地に陥らせ、かつて婚約していた男の元へ這いつくばるようにして、助けを求めている。
だが、コンラートは、そんな彼女のプライドを傷つけるような言葉を言うつもりなど、毛頭なかった。
罵ることも、焦らすことも、過去の不義理を責め立てることもしない。
「もちろんだとも」
コンラートは、即答した。
「兵糧はすでに数ヶ月分を確保してある。馬も、兵も、いつでも動かせる状態だ。お前が頭を下げる必要などない、アリエノール」
コンラートの瞳には、打算のない、純粋な歓喜の光が灯っていた。
彼の中では、この援軍要請は、ただ国を救うための政治交渉ではなかった。
止まっていた二人の未来が。
あの月光の夜に交わした、二人でお揃いの外套を着て、古い屋敷を直し、庭に真っ赤な薔薇を植えるという、あの愛おしい約束が、ようやく再び動き出した瞬間だったのだ。
だから、彼は極めて自然に、ごく当然の未来として、言葉を続けた。
「この機会に、約束を果たそう、アリエノール」
「約束、ですか……?」
アリエノールが、小さく、喉を震わせた。
「ああ。バルタザール侯の軍勢など、我がグリュンベルクの精鋭をもってすれば、容易に叩き潰せる。ファルケンハインをアルテンフェルトから駆逐した後、現公爵であるフロリアン殿下には――そうだな、王族として相応の待遇を保証し、王都へお帰りいただくか、あるいは静かな場所で隠居していただくのが良いだろう」
コンラートは、一寸の疑いもなく、極めて合理的な正論を口にしていた。
フロリアンは、為政者として完璧に敗北した。民を救おうとするあまり、財政を破綻させ、軍備を怠り、国を滅亡の淵へと追いやった無能。それが事実だ。
それに対し、自分にはこのグリュンベルクを再興した実績がある。
軍事力もある。
アリエノールとは、元々アウグスト公から認められた正規の婚約者同士だ。
「俺とお前が婚姻し、グリュンベルクとアルテンフェルトを一つにする。俺がアルテンフェルトの領地を立て直し、お前を我が妻として、この館に迎える。ようやく、あの夜の約束が、すべて叶うのだから」
コンラートは微笑んでいた。
コンラートにとっては、何一つ歪みのない、最も美しく誠実な救いの手だった。
だが。
アリエノールは、その完璧な未来の提示の前に、ただ凍りついたように立ち尽くしていた。
沈黙が、広間を支配した。
暖炉の薪が、パチパチと乾いた音を立てて爆ぜる。
コンラートは、最初は彼女の沈黙の意味が分からなかった。
ただ、旅の疲れと、突然の提案に戸惑っているだけだと思い、優しく言葉をかけようとした。
「アリエノール……?」
ゆっくりと、アリエノールが顔を上げた。
その瞳は、暗く、冷え切った、しかし決定的な光を宿して、コンラートを射抜いた。
「…………それは、できません」
コンラートの顔から、すべての笑みが、音を立てて消え去った。
「……何だと?」
コンラートの声は、低く、地這うような響きを帯びていた。
今、この女は、何と言ったのだ。
「それはできない、と申し上げました。グリュンベルク伯爵」
アリエノールは、逃げなかった。
その華奢な体を震わせながらも、まっすぐに彼を見つめ返した。
「なぜだ。意味が分からん。お前はアルテンフェルトを救ってくれと、俺に言ったはずだ。俺はそれに応え、軍を出すと言っている。そして、婚姻の約束を果たす。お前がここに嫁ぎ、俺がアルテンフェルトを再建する。それができない、俺の知らない何かがアルテンフェルトで起こっているのか」
起こっている。
しかしそれはコンラートが想像するような政治的な要因ではなかった。
アリエノールは、自分の両手を、漆黒の外套の下でぎゅっと握りしめた。
「私は、あなたと婚姻することはできません。……なぜなら、私はもう、別の男性を愛しているからです」
ドクン、と。
コンラートの心臓が、耳障りな音を立てて跳ねた。
別の、男。
最初に言葉になったのは、なぜ、ではなかった。
「……誰だ」
吐き出された声は、すでに怒りに染まっている。
「アルテンフェルト公爵、フロリアン殿下です」
その名前が、コンラートの鼓膜を激しく引き裂いた。
フロリアン。
王都から送り込まれた、あの無能な第三王子。
民を甘やかし、税を免除し、砦を直さず、国を滅亡の淵へと叩き落とした、あのどうしようもない愚者。
「あいつだと……?」
コンラートは、一歩、アリエノールに詰め寄った。
彼の大きな体躯から噴き出す凄まじい怒気が、広間の空気を歪める。
「お前、正気か!? あいつが何をした! あいつがこの数年、アルテンフェルトで何をしてきたか、お前が一番よく知っているはずだ! あいつは無能だ! 国を滅ぼしかけている愚か者だぞ! なぜ、あのような男を……!」
「ええ、そうです! あの人は為政者としては致命的に無能で、大馬鹿者ですわ!」
アリエノールもまた、声を震わせ、しかし一歩も退かずに叫び返した。
「分かってる!! 私が一番分かってる!! それでも好きなんです、愛しているのです!!」
「アリエノール!!」
コンラートの血を吐くような咆哮が、広間の石壁に反響し、ガラス窓をガタガタと震わせた。
彼の胸の中を渦巻いていたのは、怒りなどという生温い感情ではなかった。
それは、魂そのものをズタズタに切り裂かれるような絶望だった。
「俺は……俺はな、アリエノール! この六年間、お前と愛し合っていると本気で信じていたんだ!」
「はい、愛し合っていました」
コンラートは、己の胸を強く叩いた。
「この焼け落ちた城を直したのも! 西風を遮る壁を、隙間なく積み直したのも! この敷物も、暖炉の火も! すべて、お前をいつかここに迎えるため、お前が寒がらないようにと、それを心の支えにして、領地を立て直してきたんだ! 婚約だって、形だけになっても、俺はずっと信じていた! それをお前は……今になって、他の男を好きになったから、俺のことはもう愛せないと、そう言うのか!?」
「はい」
アリエノールは、その罵倒を、彼の激しい怒りを、すべて真っ正面から受け止めながら、静かに、しかしはっきりと答えた。
「それで、俺に助けろと!? お前が愛しているその男を救うために、俺の軍を貸せと、お前はそう言うのか!?」
「はい」
「お前は……お前は、恥という言葉を知らんのか! どれほど厚顔無恥な要求をしているか、分かっているのか!」
「分かっております」
アリエノールは、静かに両膝を床についた。
そして、床につくほどに頭を下げる。
「私が、恥知らずな女であることは、百も承知しております。どのような言葉も、甘んじて受け入れます。……それでも、お願いします、グリュンベルク伯爵閣下」
コンラートの表情には絶望が浮かんでいる。
「俺を捨てておいて、そいつを救えと言うのか」
「はい」
「俺がお前を愛していると知っていて来たのか」
「……はい」
コンラートは、頭を下げたままの彼女の姿を、上から、ただ真っ青な顔で見下ろしていた。
「どうかしている、お前は本当にどうかしている」
「…………それでも、お願いします」
彼がずっと夢見ていた、完璧に直されたグリュンベルクの館。
西風はもう、どこからも入ってこない。
暖炉には赤々と火が燃えている。
アリエノールがいつかここへ来ても、寒くないように。
そう願って整えた暖かな部屋で。
今、そのアリエノールが、別の男を救うために、コンラートの足元へ額をつけていた。
広間を包むのは、恐ろしいほどの静寂だった。
コンラートは、拳を血が滲むほど強く握り締め、体中を突き上げる怒りと、胃の腑を焼かれるような絶望に震えていた。
今すぐにでも、この女をここから叩き出し、アルテンフェルトごとファルケンハインの軍靴に踏み潰させてやればいい、それが裏切られた男としての真っ当な復讐ではないか。
だが。
バルタザールの書状を思い出す。
どうして自分は、その書状が届くと同時に軍の準備をしてきたのか。
「……顔を上げろ」
コンラートの口から漏れたのは、低く、押し殺した、鉄の如き響きを持つ声だった。
アリエノールは、ゆっくりと顔を上げた。その端正な顔は蒼白で、やはり一滴の涙も浮かんでいなかった。ただ、冷徹なまでの覚悟がその瞳に宿っているだけだった。
「お前を許したわけではない、アリエノール。……絶対に、一生、許さん」
コンラートは、彼女を鋭く見下ろしたまま、冷酷に言い放った。
「そのフロリアン殿下とやらを救うためでもない。そして、お前のその恥知らずな懇願に免じてやるわけでもない」
「……」
「俺は、お前がここへ来て、その膝を折る前から、兵を集め、兵糧を整えていた。それは、お前のためにやったのではない。グリュンベルクの領主として、ファルケンハインの南下を防ぐための、当然の軍事判断だ」
コンラートは、冷たく鼻で鳴らした。
「アルテンフェルトは、俺が十二歳からの六年を過ごし、アウグスト公から領主としてのすべてを叩き込まれた恩ある土地だ。あそこをバルタザールのような強欲な虎に食わせるつもりなど、俺には最初から毛頭ない」
コンラートは、なお床に膝をつくアリエノールを見下ろした。
「お前がここへ来て、俺の誇りを切り裂こうとも、俺が立てた作戦を曲げる理由にはならん」
自分があの女に裏切られたからという、つまらない私憤のために、バルタザールにアルテンフェルトを蹂躙させるほど、コンラートは安い領主ではない。
それが、コンラート・ド・グリュンベルクという男の、これまでの人生で磨いてきた器だった。
「お前の懇願など、端から必要なかったのだ。……明朝、全軍を率いて、俺自身が先鋒として出陣する」
アリエノールは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥を鋭く突かれたような衝撃を覚えた。
彼がどれほど怒り狂い、自分を憎んでいるかを知っている。それでもなお、彼は領主として自分を貫き、アルテンフェルトを救うために軍を動かす。
やはりこの男は、父アウグストの見込んだ通りの、誰よりも気高く、強大な領主だった。
「……承知、いたしました」
アリエノールは、静かに立ち上がった。
援軍の約束は得られた。ならば、もはや一刻の猶予もない。彼女は漆黒の外套のフードを目深に被り、扉へと向かって歩き出そうとした。
「それでは、私は一刻も早くアルテンフェルトへ戻り、城を――」
「待て」
背後からの、冷徹な制止の声。
「どこへ行く」
「アルテンフェルトへ、戻ります。吹雪を突いて馬を走らせれば、今夜中には――」
「大馬鹿者が」
コンラートは、吐き捨てるように言った。
「お前一人が今夜戻ったところで、何が変わる。国境はすでに破られ、ファルケンハインの先鋒が迫っているのだ。お前が吹雪の中で行き倒れて死ねば、アルテンフェルトの指揮は完全に失われる。お前が乗ってきた馬も完全に潰れていて、お前自身の身体も冷え切っている。……非効率の極みだ。まともな判断もできない。やはりお前はどうかしている」
アリエノールは、足を止めた。
「ですが、一刻も早く殿下のもとへ――」
「黙れ。グリュンベルク伯爵としての命令だ」
コンラートは、冷酷な目で彼女の背中を睨みつけた。
「お前は今日はここで休め。明朝、俺の精鋭とともに、先鋒の馬車で戻る。それが、肉体的にも、軍事的にも、最も早くアルテンフェルトへ到達する最短のルートだ」
愛情のこもった言葉など、一言もなかった。
しかし。
アリエノールには痛いほどに分かってしまう。
どれほど裏切られ、どれほど無惨にその心を粉々に引き裂かれても。
この男は、アリエノールを、この凍てつく吹雪の中へ、一人で放り出して帰すことすらできないのだ。
どれほど腹が立ち、顔も見たくなくても、彼女の身を案じずにはいられない、捨てきれない、不器用で巨大すぎる愛が、その合理の仮面の下で、熱く、苦しく脈打っている。
フロリアンなら「嫌だ。君を一人で行かせたくない」と言うだろう。
コンラートは合理として、「非効率だ。軍と戻れ」と言う。
それがわかる。
形は全く違う。けれど、二人とも、アリエノールを一人で行かせないというその結末において、等しかった。
「……」
アリエノールは、ゆっくりと振り返り、深く頭を下げた。
かつてのようにコンラートと、親しげに彼の名前を呼ぶことは、もう二度とできない。
それは、自分が彼を裏切り、別の男を選んだことに対する、当然の結果だった。
「……承知いたしました。グリュンベルク伯爵閣下。ご配慮、感謝いたします」
そう言って、彼女は静かに広間を去っていった。
一人残された広間で、コンラートは、暖炉の火を見つめたまま立ち尽くしていた。
あいつは、俺がまだ自分を愛していると知っていて、ここへ来たのだ。
そしてその目論見通り、俺はあいつを吹雪の中へ放り出すことも、見捨てることもできなかった。
「……本当に、腹の立つ女だ」
コンラートは、血が滲むほどに唇を噛み締め、一人、静かに呟いた。
窓の外では、西風が、彼を嘲笑うかのように、ガタガタと激しく吠え続けていた。




