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10/12

もう遅い





 灰色の雪雲が、天を重く覆い尽くしていた。

 凍てつく寒風が吹き荒れる中、コンラート率いるグリュンベルクの精鋭二千は、急行軍の果てにアルテンフェルトの領都へと到達した。

 鎧の擦れ合う音、硬い蹄鉄が石畳を叩く響き。臨戦態勢のまま、誰もが最悪の激突を覚悟していた。

 だが、その眼前に現れたのは、悲鳴の響く戦場ではなかった。


「……門が、開いている」


 アリエノールが、掠れた声で呟いた。

 領都の門だった。

 国境の小さな砦でも、途中の村でもない。公爵家の膝元、アルテンフェルト最後の防衛拠点である領都の門が、閉ざされることすらなく開いている。

 それだけで、コンラートには十分だった。

 ここへ至るまでに敵を食い止める軍はいなかった。領都へ敗残兵が集結した形跡もない。そして最後の城門すら、籠城の意思を示していない。


 戦に負けたのではない。

 戦そのものが、起きなかったのだ。


 アリエノールが脅迫によって一時的に繋ぎ止めたリヒャルトたち親族は、敵軍の接近と同時に、内側から北砦と領都の鍵をそっくりそのまま敵へと手渡していた。地方の領主たちも、大勢が決したのを見るや一斉にファルケンハインへ恭順を示した。

 

「……援軍は、無駄だったな」


 馬を寄せたコンラートが、兜の隙間から冷徹な事実を口にした。

 救援すべき軍が、もう存在しない。

 ファルケンハイン五千に対し、グリュンベルクは二千。アルテンフェルト軍と合流して初めて成り立つ戦だった。


 アリエノールは馬車を降り、冷たい風の中に立ち尽くした。

 彼女の指先は、絶望ではなく、あまりにも静かな現実の前に凍りついていた。

 どれほど自分が辻褄を合わせようとも、世界の側は奇跡の帳尻など合わせてはくれない。国は本当に滅びたのだ。

 アリエノールは崩れそうになる膝を、自らの鉄の意志でまっすぐに支え、コンラートへ向けて姿勢を正した。


「……ご助力に、心より感謝申し上げます、グリュンベルク伯爵閣下。……すべては、私の無能ゆえ。せっかくの御厚意を、無駄にいたしましたわ」


 その声には、涙も、言い訳もなかった。

 ただ、自らの敗北と死の覚悟だけが、冷たく澄んだ瞳の奥で揺るぎなく固まっていた。


 城内へ足を進めると、そこには、主を失って静まり返った公爵城の広間があった。

 逃げ出す家臣たち、荷物をまとめる使用人たち。誰もが公爵家を見限っていた。

 だが、その荒涼とした光景の中で、コンラートはある奇妙な事実に気づき、眉をひそめた。


「誰も……アルテンフェルト公爵を殺さなかったのだな」


 ファルケンハインに恭順した者たちでさえ、あるいは逃げ出した家臣たちでさえ、フロリアンの首を刎ねてバルタザールへの手土産にしようとはしなかった。

 広間の隅で、一人の老家臣が、フロリアンの前に跪き、涙を流しながら最後の別れを告げていた。


「殿下……。申し訳ございませぬ。我らは、これ以上戦うことはできませぬ。ファルケンハインに降ります」


 フロリアンは彼を責めなかった。ただ、その汚れた手帳を抱きしめたまま、悲しげに、けれど優しく微笑んだ。


「いいんだ。分かっている。家族のもとへ帰りなさい。……今まで私を支えてくれて、ありがとう」


「殿下……! この剣を、殿下に向けることだけは、どうしてもできませぬ。どうか、ご無事で……!」


 家臣は剣をその場に置き、泣きながら去っていった。



 フロリアンは、その背中をただ静かに見送っていた。


 この人のために死ぬことはできない。

 けれど、この人を殺して売ることも、どうしてもできない。



 それが、フロリアンが守り続けたものに対する、最後の答えだった。





 静かに消えゆくアルテンフェルトの栄華。

 その城壁の影、冷たい北風が吹き抜ける狭間で、アリエノールは一人、静かに佇んでいた。

 コンラートは、彼女がここに残り、城と運命を共にするつもりであることを察していた。

 アリエノールはアウグストの娘であり、誰よりも誇り高い。

 家を失い、自らが裏切った男の情けを乞うて生き延びるなど、彼女の魂が許すはずがなかった。

 コンラートにはそれを止める言葉が見つからなかった。彼もまた領主であり、彼女の持つ誇りを、誰よりもよく理解していたからだ。


 その時、静寂を引き裂くように、慌ただしい足音が響いた。


「アリエノール!」


 駆け込んできたのは、泥と灰にまみれたフロリアンだった。

 その息は白く乱れ、上品な衣服は無惨に汚れ、手にはあのボロボロの手帳が握られている。


「殿下……なぜ、ここへ。早く逃れてください。ファルケンハインの先鋒がすぐにでもここへ到達しますわ」


 アリエノールは驚く風もなく、ただ淡々と、冷たく彼を突き放そうとした。

 だが、フロリアンは首を激しく横に振った。


「嫌だ! 君を残して、私だけが逃げることなどできるはずがない!」

「私はここに残ります。アルテンフェルト公爵家の娘として、父の遺したこの地と共に消えるのが、私の義務ですわ。殿下、あなたには生き延びる価値があります。ですが、私には――」

「死ぬつもりなのか」


 フロリアンが、彼女の言葉を鋭く遮った。

 アリエノールは答えない。ただ、風に長い髪をなびかせ、沈黙でそれを肯定した。


「嫌だ。アリエノール、死なないでくれ」


 フロリアンは、彼女の細い肩を両手で強く掴んだ。その白い指先は小刻みに震えていた。

 彼はこれまで、他人のために、民のために、傷つき、涙を流しながらも「嫌だ」と言い続けてきた男だった。

 その男が、すべてを失った最悪の破滅の淵でなお、自身のわがままを口にした。


「私のために、生きてくれないか」

「……!」

「私は無能だ。君がいなければ、これからどうすればいいのかも分からない。……だから、お願いだ、アリエノール。私のために、生きてくれ」


 それは、為政者としては何も生み出さない言葉だった。

 しかし、その言葉を聞いた瞬間、アリエノールの瞳から、死の覚悟が崩れ落ちていった。


「……本当に、あなたというお方は……大馬鹿者ですわね」


 アリエノールは、凍える手でフロリアンの泥に汚れた手を握りしめ、小さく、喉の奥で囁いた。

 その光景を、コンラートはただ無言で見つめていた。


 アリエノールから言葉で他の男性を愛していると拒絶された時でさえ、彼の胸にはまだ、どこかに逃げ道が残っていた。

 だが今。

 死を当然の義務として受け入れていた女が、あの男のたった一言で、生きる側へと戻っていく。

 コンラートには、もう何も言えなかった。




 迷いに瞳と声を揺らしながら、アリエノールがフロリアンに続ける。


「しかし、もはや家は無きに等しく、行くあてもありません。殿下は王都にお戻りください。私は————」


 その言葉を聞いた瞬間、コンラートの口は考えるより先に動いていた。


「……ならば、我が領へ来れば良い」


 フロリアンとアリエノール、二人の顔がコンラートに向く。


「我が領に、来れば良い。地位と仕事をくれてやる。俺の部下で良ければ、だが」

「グリュンベルク伯爵、閣下……?」


 フロリアンが、驚きの表情を作る。

 コンラートはアリエノールから視線を外し、腕を組んだまま、言葉を続ける。


「勘違いするな、政治的判断だ。旧アルテンフェルト公爵家の令嬢と、王家の血を引く第三王子を我が庇護下に置けば、将来、この豊かな領地へ介入するための最良の大義名分になる。王都の中央宮廷に対する強力な手札にもなる。……お前たちの身柄には、それだけの政治的価値があるということだ」


 そしてコンラートは、まっすぐにアリエノールを見つめた。


「どうする、アリエノール。お前は、俺の部下として生き延びるか?」


 彼は、彼女自身の口からの返答を、かつてのように「私はこうします」と凛とした声で決断する彼女の意思を、無意識のうちに待っていた。


 しかしアリエノールは、何も答えられなかった。

 彼女は、コンラートと目を合わせることすらしない。

 ただ、静かに、フロリアンの半歩後ろに立ち、その視線を地面へと落としたまま、沈黙を貫いていた。


 代わりに、フロリアンが一歩前に歩み出た。


「……グリュンベルク伯爵。申し出を、ありがたくお受けしたい」


 フロリアンは、コンラートの鋭い眼光にやや怯みながらも、まっすぐに彼を見つめ返した。


「ただし、一つだけ条件を……いや、お願いを許してほしい。最後まで私についてきてくれた臣下たち、そしてその家族。身の回りの世話をしてくれていた者たちの中で、故郷を捨てる覚悟のできた者を、共に連れていくことを許してくれないか。それほど大人数にはならないと思う。彼らを飢えさせないために、私の命はどう使ってもらっても構わない」


 最後まで、この男は自分たち二人だけが助かる道を語らない。


「好きにしろ」


 コンラートは、吐き捨てるように言った。


 彼が胸をかきむしられるほどの絶望を感じていたのは、フロリアンの無遠慮な要求に対してではない。

 隣にいるアリエノールが。

 これまで自分の意思で自分の人生を支配し、決定してきたあの女が。

 フロリアンが二人の行き先を決めたというのに、一言も抗議せず、訂正もせず、ただ無言でその半歩後ろに立っている。


(ああ……)


 コンラートは、ようやく理解した。

 アリエノールは「私は殿下についていきます」とは言わなかった。

 言う必要すら、なかったのだ。

 彼女はもう、自分一人の未来として、これからを選んではいない。



 コンラートは、きつく奥歯を噛み締めた。



 完璧な敗北だった。





「では、グリュンベルク伯爵。手続きをせねばなりません」


 アリエノールは、瞬時にいつもの為政者としての顔へと戻り、実務的な口調で言った。

 自分自身の行き先については沈黙を貫いた彼女が、領地と民の安全については主張する。


「ファルケンハイン侯バルタザールへ使者を。領都を無抵抗開城する代償として、領民の生命および財産の完全な保証を約束する、正式な降伏手続きを取り交わすべきです」

「いや。降伏はしない」


 フロリアンの静かな声が、アリエノールの言葉を拒んだ。


「……? 殿下、何をおっしゃるのです」


 アリエノールは眉をひそめた。


「すでに防衛力は壊滅し、勝機は万に一つもありません。降伏して民の安全を取引の条件とするのが、今取れる唯一の、妥当な選択ですわ。まだ何か、戦う手段があるとでもおっしゃるのですか?」

「戦わない。領民たちにも、決してバルタザール侯に抵抗してはならないと言い含める。城も、領地も、彼らに明け渡す」


 フロリアンは、アリエノールのまっすぐな視線を受け止めながら、静かに告げた。


「だが、正式な降伏手続きはしない。私たちは、ただ無言で、ここから逃げるのだ」

「理解できません!」


 アリエノールは声を荒げた。


「無抵抗で逃亡するなど、ただの敗者としての汚名を浴びるだけです! 正式に降伏しなければ、占領後の民の安全が保証されませんわ!」

「降伏すれば、条件を提示されるだろう」


 フロリアンは、アリエノールを見つめた。


「ファルケンハインには、リヒャルト殿がいる。……彼が私と君をどれほど憎んでいるか、君が一番よく知っているはずだ。バルタザール侯が領民の安全を保証する条件として、何を求めてくるか、私には分かる」


 アリエノールは、息を呑んだ。


 リヒャルトが要求するもの。

 自分たちを脅迫し、一門の誇りを踏みにじった、アリエノールの首。


 降伏の交渉テーブルにつけば、必ず、彼女の身柄の引き渡しが要求される。

 そして、アリエノール自身がこれまで唱えてきた統治論に従えば、その答えは極めて明白だった。


 一人の命と、数万人の領民の安全。

 天秤にかければ、一人を切り捨てるのが、為政者としての正しい判断である。


 アリエノールは、その正しい決断を下すために、口を開こうとした。


「それで、民が救われるのであれば、私の―」

「嫌だ」


 フロリアンは、遮るように、かつてのように不格好に、しかし決定的な強さを持って言い放った。


「嫌だ、アリエノール。私は、君の命を政治的な取引の道具にすることだけは、絶対に認めない」

「殿下……!」

「私は、目の前の一人を切り捨てて、大勢を救うような正しい領主にはなれなかった。だから、国を滅ぼしたのだ。今さら変えるつもりはないし、変えられない。君を差し出して得る安全など、私は絶対に認めない。……だから、私は何もかもを放り出して逃げるのだ。君だけを連れて行く」


 それは、為政者としては最後まで大馬鹿者で、何も変わらない、彼の欠陥そのものだった。

 その変わらぬ欠陥ゆえに国を滅ぼし、その変わらぬ欠陥ゆえに、アリエノールという一人の女を、今、救い出そうとしている。


 かつてあの上納金の夜に、「嫌だじゃありません!」と激怒し、怒鳴り散らしたアリエノール。

 だが今、彼女の喉は震え、彼を怒鳴ることなど、到底できはしなかった。


 この男が、どれほどの罵声と嘲笑に晒されながら、その「嫌だ」という言葉で、目の前の一人ひとりを守ろうとしてきたのか。

 そして今、その「一人」が、自分だった。


「……本当に、救いようのない、大馬鹿者ですわね、殿下は」


 アリエノールは、深く息を吐き出し、唇の端を震わせながら、ぎこちなく不格好な笑みを浮かべた。


「ああ。知っているよ、アリエノール」


 フロリアンもまた、不器用に、けれど心からの笑顔を彼女に返した。


 それを見つめるコンラートの、冷え切った横顔。


 コンラートは、領主として、アリエノールの一人の命で民を救えという判断の正しさを、誰よりも理解できてしまう男だった。

 対して無能な領主でしかなかったこの男は、ここにいるアリエノールを、絶対に手放さない。


 雪が強くなり、冷たい風が吹きつけてきた。

 コンラートは、ゆっくりと踵を返し、その頑丈な背中を二人へ向けた。


「……ファルケンハインが来る。急ぎ発つぞ。遅れるな」


 それだけを言い残し、若き伯爵は、吹雪の吠える冷たい闇の中へと、大股で歩み去っていった。




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