それでも、春は来る
アリエノールとフロリアンがグリュンベルクに逃亡してきてから最初の春を迎えていた。
西から吹き付ける風は、春になってもまだ冷たく乾いていたが、刃のような鋭さはなくなっていた。
「……アリエノール殿」
「はい」
薄暗い政務室で、グリュンベルクの古参の税財務官が、苦虫を噛み潰したような顔で、分厚い帳簿を卓上に差し出した。
「閣下より、今期の西部開拓地における小作人たちの滞納処理について、あなたに任せるようにとの命令が下りました。……こちらが、過去三年の徴税記録と、土地の耕作実態の帳簿にございます」
その声には、最低限の、しかしどこか冷淡な礼儀だけが張り付いていた。
当然だった。
このグリュンベルクの家臣たちにとって、アリエノールは、敬愛する若き伯爵を裏切った不実な女だった。
彼らは知っている。コンラートが西側の壁を塞ぎ、送られてきた羊毛の敷物を床に敷き詰めたのも、いつか彼女をこの城へ迎えるためだったことを。
(なぜ、あのような恥知らずな者たちを、閣下は養っておいでなのだ)
家臣たちの誰もが、胸の中でそう憤っていた。
コンラートは言った。
『俺は十二の時、すべてを失ってアルテンフェルトへ逃れた。アウグスト公は俺を庇護し、領主としてのすべてを教えてくださった。あの方の家が滅びた今、その娘を見捨てて、俺が何の顔で領主として人の道を説く。……それに、王家の血を引く第三王子と、旧アルテンフェルトの令嬢を我が庇護下に置くことは、将来あの豊かな土地へ介入するための絶対的な大義名分になる。政治的合理性としての判断だ』
人の道と政治的利点両面の正論を突きつけ、不承不承ながらも彼らを黙らせたが、家臣たちが彼女を好きになることとは、全く別の問題だった。
「……ありがとうございます。拝見いたしますわ」
アリエノールは、その冷ややかな視線を当然のものとして受け止め、一言の言い訳も、好かれようとするための愛想の微笑みも見せなかった。
彼女は、自分がどれほど身勝手で、コンラートを無惨に傷つけたかを十分に理解していた。
だから、彼らの冷遇は、自分が甘んじて背負うべき負債なのだと、静かに受け入れている。
彼女は、ただ、働いた。
日の出から、深夜のランプの火が消えかけるまで、机に向かい続けた。
グリュンベルクの役人たちは「旧公爵令嬢に何ができる」と高を括っていた。
それでもアリエノールは黙って働き続けた。負債も恩義も返しきれないほどあるコンラートに対して、僅かずつでも返済していかねばならないと考えたのだ。
前年の各村の収穫量、土壌の乾き具合、家畜の頭数。それらの一見乱雑な数字の羅列から、彼女は、最も効率的な予算編成を導き出した。
コンラートも、部下として使うと言った以上は遠慮はしない。
書類を投げ渡せば、翌朝には改善案が机の上に置かれていた。それも、コンラートの領主としての意図をしっかり理解した上での、無駄のない内容だった。
同じ師の教えを受け、あの広大で豊かだったアルテンフェルトの実務を担っていたのだ。仕事はできる。
「……人格については、何も言わん」
冬の真っただ中にグリュンベルク伯爵領に来て三か月も経つ頃には、文官たちが、喉の奥で唸りながら呟くようになっていた。
「だが……この書類は、良い。昨年、我らが頭を抱えていた問題がしっかり修正されている」
あの女は不誠実で大嘘つきの恥知らずな女ではあるが。
……仕事はできる女でもある。
認めざるをえなかった。
春が来る頃には、グリュンベルクの文官たちの方から彼女に意見を求めるといった光景が見られるようになった。
コンラートは報告を聞き、書類を見ながら思う。
アリエノールは弱くなった、変わったと思っていた。ある意味では正しい。
しかし彼女は決して、何も決められない依存的な女になったわけではなかった。
仕事においては、以前の、あの凛としたアリエノールのままであった。
出してくる書類の数字の端々から苛烈な性格が見え隠れする。
それはまるで、以前の彼女と話をしながら共に書類を作っていくような感覚をコンラートに与えた。
夕方になり、一日の執務がすべて終わる頃、政務室の扉が控えめにノックされ、泥のついた外套を纏ったフロリアンが、「アリエノール、今日はこれから、新しくできた孤児院の様子を見に行きたいのだが……一緒に行ってくれるかい?」と顔を出すと。
アリエノールは、あれほど鋭く数字を睨みつけていた瞳をふわりと和らげ、「……仕方のないお方ですわね。わかりましたわ」と、大人しく書類を閉じ、彼の後ろを当然のように、一歩下がってついて行くのだ。
仕事は自分で決める。政治判断も、コンラートに対して平気で意見する。
しかし、自分が「どこで、誰と生きるのか」という、人生の最も重大な選択だけは、もう絶対に一人では決めない。
崩壊していくアルテンフェルトでコンラートが見た、あの無言の沈黙と、王子の後ろに従うあの態度。
それが、一時の心の弱りなどではないこともまた、事実であった。
「フロリアン殿下。貴殿の仕事は、民の話を聞いてくることだ」
グリュンベルクに移住してきた最初の日に、コンラートは、冷酷な目でフロリアンにそう告げていた。
「ただし、権限は一切与えぬ。何も決めるな。何も約束するな。ただ、聞いて来るだけだ」
フロリアンは、少しだけ寂しそうに、しかし素直に、何度も深く頷いた。
「そして、聞いて来た内容をアリエノールに話せ。アリエノールには、彼女が必要だと判断したものだけを俺に伝えて良い、という権限を与えておく」
コンラートはこの無能の扱いに迷っていた。
政務は、させられない。重要な仕事などもってのほかだ。
何をやらせても有害になるとしか思えなかった。
では、何をやらせればせめて無害か。考えた末に、無理やり割り振った仕事だった。
それなのにフロリアンは、嬉しそうに新しい手帳を胸に抱きしめ、それから毎日、泥を恐れずにグリュンベルクの村々を歩き回るようになった。
コンラートの狙いは的中した。
なにせ、政務をやらせれば害にしかならない男なのだ。城に不在でもまったく困らない。
これで少なくとも余計な問題は起こすまいと、コンラートはひとまず満足していた。
ところが。
数か月もしないうちに様子が変わってきた。
王家の中の中央教育を受けた、腰の低い、誰にでも礼を言う不思議な元王子。
彼はあっという間に、グリュンベルクの使用人や、末端の農民たちの間で「不思議と憎めない、温かいお方」として広まっていった。
誰もが、徴税官や領主には「何の問題もありません」と言い張るような、小さな生活の悲鳴を、その王子にだけは、ぽつりぽつりと漏らすようになった。
「東の村のダストン。……ああ、いや、こちらのダストンのところではね、今年は羊の様子が少しおかしいと言っていた。まだ病気というほどではないが、毛の抜け方が異常なのだそうだ」
「南の川辺の木橋が、昨日の長雨で、少し地盤が緩んでいるように見えた。春の雪解け水の増水には、もたないかもしれない」
「徴税官には『皆、元気に働いています』と報告したそうだが、西の谷のヨハンの家では、長男が腰を痛めて寝込んでいる。この冬を越すための薪を、誰も運ぶことができないのだよ」
フロリアンは、毎日、その小さな個人の顔と声を、一文字ずつ丁寧なインクで手帳に書き留め、夕方、アリエノールの元へと持って帰ってきた。
彼は、何一つ、自分の独断で約束をすることはなかった。ただ、その声を、アリエノールに話すだけだ。
アリエノールはその中から、調べた方が良いと判断したものをコンラートに伝えた。
気づけば、なんだか良くわからないが問題が起きにくくなっている。
コンラートが思い出すのは、十七のときの失敗だ。
初めて任された仕事。張り切って税を徴収し、報告した。
そこでアウグストに完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
農民の蔵を見ていなかった。馬小屋を見ていなかった。
……では、今は?
見ていなかった。見られるはずがなかった。
領主が、村をひとつずつ回って見るなど、不可能だ。
だが、それはあのときのアウグストも同じだったはずだ。
今のグリュンベルクよりも大きく、豊かだった領地を、いくらなんでもアウグストが見て回っていたはずがない。
それなのにアウグストはコンラートが帳簿しか見ていないから失敗した、と言った。
その言葉は、今でもコンラートの中心に大切に保管してある。
アリエノールからの報告書をもう一度読んだ。
民の生活がここにあるではないか、とコンラートは思った。
グリュンベルクの空が、晩春の、柔らかな茜色の光に染まっていた。
すべての政務を終え、城内が静かな夕暮れの静寂に包まれる頃。
コンラートは、上質な、春用に仕立てられた薄めの毛織物の外套を羽織り、一人で、静まり返った館の庭園へと足を向けた。
グリュンベルクの西風はまだ冷たいが、コンラートの館の壁は隙間風を通してはいなかった。
彼が庭園の、大きな石碑の影に佇み、目の前の景色を見つめたとき。
乾いた西風が、彼の髪を静かに揺らした。
その庭には。
石ころだらけだったはずの、痩せて、冷え切ったその土の上には。
今は真っ赤な薔薇が、美しく、咲き誇っていた。
過酷な西風に抗うようにして、しっかりと根を張り、ただただ美しく、そこに真っ赤な大輪を咲かせていた。
かつて、十二歳のあの日から。十七歳の挫折の夜、十八歳の出陣の前夜。
アリエノールが、いつかここに嫁いできたら、寒がらないようにと、喜んでくれるようにと、彼女との約束を信じて、彼がこの庭に植えた、あの約束の薔薇。
目指したものは、確かにコンラートの手の中にあった。
古い館の壁は直された。西風を遮る高い壁は積み直された。ふかふかの羊毛の敷物も敷き詰められた。
そして、庭には、真っ赤な薔薇が咲いた。
アリエノールは、グリュンベルクへ来た。
自分とお揃いの、特産の厚い毛織物の外套を着て、この地で、暮らしている。
ただ、一つだけ。
約束した形では、来なかった。
彼女は、コンラートの隣にはいない。
彼女の帰る場所は、もう、自分以外の男の隣なのだ。
コンラートの隣には、誰もいなかった。
そこにあるのは、長い影と、冷たい風の音だけだった。
彼には、アリエノール以外の妻も、新しい幸せも、今はまだ存在していなかった。
コンラートは、敗北したのだ。
恋に完敗し、愛した女を、別の男のものとして見つめ続ける。
その喪失は、生涯、彼の胸の奥を静かに焼き続けるかもしれない。
それでも。
彼の人生は、誇り高く続いていた。
領地は見事に復興した。領主として、成功した。
アウグスト公の教えを、誰よりも体現し、民に豊かな春を届けた。
何より、自分を捨てた女と、その女が選んだ大馬鹿者を、己の領主としての誇りと矜持を貫くことで、守り抜いた。
彼は、自らの魂に誓った生き方を、歪めずに貫き通したのだ。
フロリアンは、国を失ったまま、生きる。
アリエノールは、家を失ったまま、生きる。
コンラートは、愛を失ったまま、生きる。
誰も、失ったものを取り戻さない。
それでも、三人とも、その喪失を抱えながら、働き、食べて、静かに生きていくのだ。
夢見た未来とは、ほんの少しずつ、ずれてしまったけれど。
彼らの人生の続きは、決して、失敗なんかではなかった。
「お忙しい折に、失礼いたします。伯爵閣下」
背後から、静かな足音とともに、年老いた庭師が歩み寄ってきた。
庭師は、誇らしげに、咲き誇る真っ赤な薔薇を見つめ、優しく微笑んだ。
「……今年も、見事によく咲きましたな。この冷たい大風の中でも、薔薇は、一歩も退かずに咲いておりますわ」
コンラートは、その真っ赤な花弁を見つめた。
脳裏に、かつて月光の庭園で、冷え切った小さな手を握り締めながら、『育ててみせます。私たちが、二人で育てるのですから』と微笑んだ、あの少女の、本物の愛に満ちた瞳が、一瞬だけ蘇った。
そして西風の中に、静かに溶けて消えていった。
コンラートは、ただ、静かに。
その真っ赤な薔薇を見つめながら、深く、一度だけ、頷いた。
「ああ。……よく、咲いたな」
乾いた西風が、彼らの羽織る毛織物の外套を揺らし、庭園の緑をざわめかせながら、グリュンベルクの豊かな大地へと向かって、静かに吹き抜けていった。
これにて、アリエノール・フロリアン・コンラートの物語は完結です。
お読み下さった方、ありがとうございます。
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