この大馬鹿者を
「――確証もないのに、処刑、だと……?」
凍りついた執務室の中で、フロリアンは目を見開いたまま、縋るような、しかし拒絶を込めた眼差しで後退した。
アリエノールの手の中には、先ほど密偵がもたらした、一門の筆頭リヒャルトの密書が握られている。
北の不穏な風を呼び込む、限りなく黒に近い、しかし客観的にはいくらでも言い逃れの立つ、不気味な灰色の密書。
「ええ、処刑、あるいは即刻の拘束を」
アリエノールの声は、乾いた平原に吹き抜ける冬の風のように冷徹だった。
「リヒャルト叔父上たちだけではありません。この文面に関わった疑いのある親族、代官、すべての者を今すぐ捕らえ、その私財をすべて公爵家の金庫へ没収するのです。まだ敵が国境を越える前、彼らが真の反乱を起こす前の今でなければ、捕らえることはできません。確証など、彼らが国を開け渡して牙を剥いた後では、何の役にも立たないのですわ」
「嫌だ」
フロリアンは、頑なに、しかし静かに首を振った。
それは、あの上納金の夜に、民を飢えさせたくないと駄々をこねた、あの子供じみたわがままと同じようにアリエノールには見えた。
「嫌だ、アリエノール。私は……犯していない罪のために、人を殺すことはできない。疑いだけで、未来の罪のために、今日を生きている人間を拘束することなど、私にはできない」
「殿下! これは疑いではありません、彼らは確実に我が家を売る準備を――」
「アリエノールも言ったではないか、それは言い逃れができるのだと」
フロリアンは、泥のついた革手帳を強く握りしめたまま、退かぬ瞳でアリエノールを見据えた。
「リヒャルト殿が、本当にファルケンハインの手を引き入れるかどうかは、まだ誰にも分からない。彼らはまだ、何も犯してはいないのだ。客観的な証拠もないまま、ただこちらの憶測だけで親族を粛清すれば、私はアウグスト公が遺したこのアルテンフェルトを、恐怖と血で支配する暴君の国にしてしまう」
「国が滅びれば、暴君になることさえ許されないのですよ!」
「それでもだ!」
フロリアンの叫びが、静まり返った室内を震わせた。彼の肩は小刻みに震えていた。
己の判断が、どれほど為政者として脆弱で、危険なものであるかは、アリエノールの教育を隣で受け続けてきた彼自身も痛いほどに理解していた。
それでも、彼は譲らなかった。それが、彼の魂の底にある、人間への希望だったからだ。
「ファルケンハインの動きについても同じだ」
フロリアンは、視線を落とし、掠れた声で続けた。
「エーベルハルト殿が殺された。国境に兵糧が集められている。軍馬も、兵も。……君の言う通り、彼らが我がアルテンフェルトを獲物として見つめ、今にも襲いかかろうとしている可能性は、極めて高いのだろう。……それでも、まだ彼らは我々を攻めてはいない。盟約は、まだ破られてはいないのだ」
「攻められてからでは遅いのです!!」
アリエノールは、人生で二度目となる、感情を剥き出しにした絶叫を響かせた。
彼女の指先は怒りと焦燥で白くなり、机の上の書類を強く握りつぶしていた。
「もはやファルケンハインの先代侯が交わした盟約など、バルタザール侯にとってはただの紙切れですわ! 今すぐ国境へ動員令を出し、北砦の決壊した石垣に兵を配備しなければ、一瞬で中路を突破されます! 畑に戻った民を再び兵役へ駆り出すことを躊躇っている場合ではありません!」
「相手が盟約を破る前に、こちらから疑って約束を裏切り、民を再び戦争の泥沼へ戻したくはないのだ」
フロリアンは、悲痛な微笑を浮かべた。
「ようやく、彼らは畑に戻り、日常を取り戻した。冬の農閑期に、家族と温かいスープを飲む平穏を手に入れたのだよ。確実な侵攻もないまま、ただの予兆だけでその時間を奪うことは、私にはできない。……私は、最後まで、彼らを信じたい」
それは、乱世を生きる為政者としては、死に直結する致命的な欠陥であり、間違いだった。
フロリアンという男が掲げる、あまりにも気高く美しく、そして愚かしい言葉だった。
アリエノールは、フロリアンを大馬鹿者と罵ることも、彼の非効率なわがままを現実に辻褄合わせするための、奇跡の種を蒔くこともできなかった。
あの上納金の夜、彼女は親族を脅し、交易ルートを捻じ曲げ、不完全な悪手をもって奇跡を現実にした。
だが、今回の天秤は、あまりにも重すぎた。
アリエノールは、執務室に何日も籠もり、不眠不休で書類を精査し、密偵を走らせ、防衛の財源を探し求めた。
だが空の財布をいくら逆さにしたところで出てくるものは何もなかった。
王都への二千枚相当の特別代納によって、公国の金庫は空。
度重なる免税と配給によって、備蓄用の穀物庫も空。
守備兵たちの俸給すら滞っている状況で、新たに動員する傭兵を雇う金など、どこを叩いても出てきはしなかった。
泣かなかった北砦の石垣は、未だ崩れたままである。直すための石工の賃金も、資材を運ぶ労働者への支払いも、すべて今日のケイトのスープとハンスの娘の赤いリボンのために使い果たされていたからだ。
そして――。
冷たい雪がアルテンフェルトの地に舞い始めた、ある朝。
悲鳴のような伝令の鐘が、公爵城の天守から鳴り響いた。
「国境を越えた……! ファルケンハイン軍、総勢五千、国境の警備線を無力化し、一気に領内へと侵入を始めました!」
その報せが届いた瞬間、アリエノールは、自らの手元にある灰色の密書を見つめ、静かに息を吐き出した。
敵は、本当に国境を越えた。
そして、内応を疑われていた親族、リヒャルト公たちは、不気味な隠語の挨拶通り、北の砦の薄くなった北方警備の鍵を、そっくりそのまま敵軍へ引き渡していた。
こうなると思っていた。そしてその通りになった。
フロリアンの人を信じたいという信念は、何一つ言い訳の立たない、完全な敗北を喫したのだ。
ケイトを救ったことは、尊かった。
ハンスの娘のリボンを守ったことも、正しかった。
親族を疑いだけで罰しなかった考えも、美しかった。
だが、バルタザール侯は攻めてきた。
石は本当に崩れ落ち、裏切る者は本当に裏切り、信じた相手は本当に国境を越えてアルテンフェルトを貪り食うために行軍している。
すべての負債が、わずかばかりの猶予もない現実となって、二人の首元に刃を突きつけていた。
しかし。
その破滅を前にして、アリエノールの中にあったのは、怒りでも、裏切られたことへの絶望でもなかった。
彼女は、城内に響き渡る兵士たちの足音と混乱の喧騒を聞きながら、机の向こうで青ざめて立ち尽くしているフロリアンを見つめた。彼の大きな瞳は、自らの信念が現実によって無残に噛み潰された痛みに、激しく揺れていた。
(ああ、私は――)
アリエノールは、自らの胸の奥に、かつてないほど強固に、そして絶対的な重さで存在している答えを、今、完全に自覚した。
この男は、為政者として致命的に間違っている。
この男に従えば、自分たちも、このアルテンフェルトも、確実に滅びる。
けれど、私は。
誰も信じず、ただ合理的であることだけが正しいとされるこの過酷な世界で、己の身を挺してでも最後まで人を信じることを諦めなかった、この気高き愚者を。
私にないものをすべて持ち、私が泥を被って支えてやらなければ一瞬で消えてしまう、この大馬鹿者を。
もう、自らの命と等しい質量で、愛してしまっている。
かつて引き出しの奥深く、探さなければ見つからなくなっていた、コンラートとの未来の芯。
今、自分の真ん中にいるのは、あの月光の約束を交わした不器用な少年ではない。
目の前で、すべてを失って立ち尽くしている、このどうしようもないほどに優しいフロリアンなのだと、彼女は悟ってしまったのだった。
「……アリエノール。……すまなかった」
フロリアンの掠れた声が、暖炉の火が消えかけた執務室に響いた。彼の手は、泥の手帳を固く握りしめたまま、震えている。
「いいえ、殿下。謝らないでください。あなたは何も間違えてはおりませんわ」
アリエノールは、静かに歩み寄り、彼の手から泥の手帳を優しく取り上げた。
そして、それを自分の執務机の上に置き、代わりに一枚の白い羊皮紙を広げた。
「あなたが救った民の命は本物です。……ですから、その美しさを現実に辻褄合わせするのは、やはり、私の仕事なのです。今こうなったのは、他の誰のせいでもありません。私が、その仕事を全うできなかったからなのです」
それでもアリエノールは考える。本当にないのか。
本当にもう万策尽き果てたのか。
目の前の破滅的な戦況を覆すための、あらゆる可能性を、考える。
王都にはもう各地の戦を止める力はない。今は諸侯が勝手に戦を起こし、領地を奪い合う。乱世だった。
王子であるフロリアンがいたとしても、アルテンフェルトに援軍を出す理由はない。むしろ、ファルケンハインに食い荒らされたあと残された富をどう回収するかしか考えていない。
本来であればもっとも頼りにできるはずの親族たち。これはアリエノール自らの手で敵に回してしまった。恐らくファルケンハインとは、アルテンフェルトを完全に排した後のことまで交渉してあるのだろう。
常備兵は予算の縮減により帰農したものが多い。金庫が空の状態で彼らを戦わせることなどできはしない。
そして残った兵士と領都の守備兵を併せても、ファルケンハイン軍五千には到底及ばない。
周辺諸侯からの援軍……。
交易のあった東の領地は公爵家の弱体化を見るや、一斉に領境を固めて静観を決め込んでいる。
彼らとてファルケンハインが強大になりすぎれば明日は我が身である。
一縷の望みはあるのだろうか。
だが、駄目だった。バルタザール侯がそれを考えないはずがない。
間違いなく調略が入っている。
此度の戦の目的はアルテンフェルトのみである。静観さえすれば、戦後の交易などについて便宜をはかると書状の一通でも送ればよい。
アリエノールですら考えつくのだ。あの戦の天才が思いつかないはずがなかった。
しかも、静観の態度。すでに調略が入っていると考えるべきだった。
やはり万策尽きていた。
手は、ない。
合理的に考えれば、ここで公爵家は滅び、二人はファルケンハインの軍靴に踏み潰されて終わる。
アリエノールは、動かなかった。
彼女の脳裏には、最初から、その選択肢たちに加えていなかった、加えてはいけないと自らに禁じていた、ただ一つの場所と名前が存在していた。
この絶望的な状況をひっくり返せるだけの軍事力を持ち。
ファルケンハインの戦術を知り、それに対抗できるだけの精鋭を率い。
アルテンフェルトの地理も、親族たちの性質も、すべてを理解しており。
なおかつ、自分が直接、その足元へ赴いて交渉できる相手。
世界に、一人しかいない。
グリュンベルク。
コンラート・ド・グリュンベルク。
アリエノールは、その名前を、どうしても口にすることができなかった。
指先が、氷のように冷たく震える。
かつて月光の庭園で、お揃いの厚い外套の温もりを分け合った、あの婚約者。
彼との約束を、自分が、現在のフロリアンを救うために、引き出しの奥へと仕舞い込み、自らの手で捨て去ったのだ。
その、自分が捨てた男の元へ行き。
今や見事に領地を再建し、強力な軍事力を誇る伯爵となった彼の足元へ跪き。
自分が今、心から愛している別の男を、そして滅びゆくアルテンフェルトを救うために、助けてくださいと、恥を捨てて頭を下げる。
それが、どれほど身勝手で、どれほど残酷なことか。
アリエノールの為政者と公爵令嬢としての誇りが、そして一人の女としての心が、その選択肢を激しく拒絶していた。
「……アリエノール」
フロリアンが、彼女の長い沈黙に耐えかねたように、消え入りそうな声で問いかけた。
「もう……手は、ないのだろうか。やはり、私の甘さが、すべてを破滅させてしまったのだろうか……」
アリエノールは、目を閉じた。
肺が引き裂かれるほどの深い呼吸ののち、ゆっくりと瞳を開いた。その瞳には、かつてないほど冷徹で、そして全てを投げ打つ覚悟を決めた、静かな光が宿っていた。
「…………ひとつだけ、ございます。使いたくはなかった手ではございますが、もうこれしかありません」
「え……?」
「私が、グリュンベルクへ参ります」
アリエノールは、凛とした声で告げた。
フロリアンは、その名前で、言葉を失った。
アウグスト公がかつて娘の婿にと望んだ男。そして、アリエノールがかつて心から愛した、若きグリュンベルク伯。
「彼ならば、このアルテンフェルトを、そして……殿下、あなたを救うことができますわ」
「だが、君も使いたくはなかった手だと……。嫌なことを無理にやらずともよいのではないか……」
フロリアンの言葉には力がない。
「嫌ではありません」
アリエノールは微笑んだ。
かつてフロリアンを叱りつけた言葉が、今は彼女自身に向けられている。
「嫌だからやりたくない、などと言っている場合ではないのです」
自分がどれほど蔑まれようとも、どれほど冷酷な言葉で罵られようとも、構わない。
この、目の前にいる、自分が選んでしまった愛おしい大馬鹿者を救うためならば、恥辱にも耐えられる。
「準備をいたしますわ、殿下。……どうか、私が戻るまで、この城を持ち堪えさせてくださいね」
アリエノールは、引き出しの奥底にしまわれていた、コンラートの手紙を取り出した。
それを自らの懐へとそっと忍ばせ、彼女は、吹き荒れる吹雪の中へと向かって、静かに執務室を歩み出していった。




