石は泣かなかった
秋の終わりは、アルテンフェルトに容赦のない冬の先触れをもたらした。
東の山脈を越えて吹き付ける冷たい風は、かつてコンラートが語った、刃のように冷たく乾いた強風を思わせた。アルテンフェルト特産の厚い毛織物の外套を着ていても、乾いた寒気は容赦なく衣服の隙間から肌を刺し、凍えさせていく。
アルテンフェルト北方の国境線。かつてアウグスト公爵が不落の盾と誇った北の砦は、今、鉛色の曇り空の下でひっそりと佇んでいた。
そこへ至る山道は舗装も荒れ、馬車が揺れるたびに、かつて美しく整えられていた山道が緩やかに崩壊しつつある現実を、アリエノールに伝えていた。
アリエノールは、凍える指先を外套の袖に潜めながら、馬車を降りた。
彼女の目の前に広がっていたのは、かつてのような威風堂々たる軍事拠点の姿ではなかった。
砦の外壁、その一角が、まるで巨大な獣に噛みちぎられたかのように大きく崩れ落ちている。足元には、崩落した灰色の石が、泥にまみれて散乱し、冷たい北風に吹き晒されていた。
かつてなら不備を見抜いた父アウグストが、即座に石工の腕利きを何十人も動員して数日のうちに修復させていたはずの、国防の要石だ。
「……やはり、直せていませんね」
アリエノールが静かに呟くと、同行していた守備隊の老騎士が、申し訳なさそうに、しかし諦めを含んだ暗い顔で頭を下げた。
「はっ……。昨夏の長雨の際、地盤が緩んで崩落した箇所にございます。一刻も早く石工を呼び、積み直す予定ではあったのですが……」
「予算が、届かなかったのでしょう」
「……御意にございます。昨年度の南部水害の復興、および飢えた諸村への配給、免税措置により……こちらへ回すはずの予算は、残っておりませなんだ。それどころか、守備兵たちへの俸給も削られており、数名の若者がこれでは食うていけぬと、静かに剣を置いて去っていきました。引き止める言葉もございません」
老騎士は、悔しげに声を詰まらせた。
予算が届くはずはなかった。
王都の特別監査官を追い払うために、親族を脅して一時しのぎの妥協を作り、特産の毛織物を王都へ代納した。だが、それはアルテンフェルトの財政を限界まで絞り尽くして得た、薄氷の上の妥協に過ぎなかった。
さらに、南部の洪水、飢えに喘ぐ村々への度重なる免税と食料供給。フロリアン王子が今日、彼らを救わねばならないと微笑み、温かい大麦のスープとパンを配り続けたその美徳の影で、軍備のための金庫は軽くなっていった。
アリエノールの脳裏に、かつて執務室で交わした、フロリアンのあの言葉が蘇る。
『五年後に崩れるかもしれない砦の石は、今、目の前で泣いたりはしない。来年必要になる軍馬は、私に名前を呼んで助けを求めたりはしない。でも、ケイトやハンスは、今、ここで寒さに震えているんだ。彼らを切り捨てて、まだ見ぬ未来の安全を買うことが、私にはどうしても正しいとは思えないのだよ』
石は、泣かなかった。
だから、フロリアンはケイトを救い、ハンスを救い、農民たちに笑顔を取り戻した。それは尊く、決して無価値な優しさなどではなかった。
しかし。
泣かなかった石垣は、今、本当に崩れ落ちている。
崩れた隙間からは、牙のように鋭い北風が、公国の心臓部へと向かって容赦なく吹き抜けていた。
アリエノールは、崩れた石垣の上にそっと手を置いた。冷たい石の感触が、手のひらを麻痺させていく。
この石は泣かなかった。だが、直されなかった。後回しにしたという事実は、本物の現実として、ここに存在しているのだ。
「アリエノール。これを見てほしい」
アルテンフェルト城の執務室に戻ったアリエノールを待っていたのは、沈痛な表情で一枚の羊皮紙を差し出すフロリアンだった。
彼の表情には、泥の手帳を抱えて微笑んでいた時のような穏やかさはなかった。その大きな瞳には、形のない巨大な影に怯えるような、深い焦燥が宿っている。
アリエノールは報告書を受け取り、目を通した。
一瞥しただけで、彼女の端正な顔が凍りついた。
「ファルケンハイン侯爵家……」
北の強大な隣国。かつて父アウグストが盟約を結び、長く北方の平穏を維持してきたファルケンハイン侯爵家。
その国内で、異変が起きていた。
「ファルケンハインの重臣であり、我がアルテンフェルトとの同盟推進派であったエーベルハルト殿が、謀叛の疑いで処刑……。ありえません、エーベルハルト殿は先代ファルケンハイン侯の頃からの忠臣。お人柄から言っても、謀反など企むような方ではありません。……間違いのない情報なのですか?」
「うん。……王都の商人たちから届いた確かな知らせだ。エーベルハルト殿だけでなく、彼の血族や主要な家臣たちも一息に粛清されたらしい。そして、彼に代わって軍権を握ったのは、かねてよりアルテンフェルトの豊かな土地の奪取を主張していた強硬派の将軍らしい……」
フロリアンの声が微かに震えていた。
エーベルハルト。アリエノールにとっては、幼い頃に父アウグストを訪ねて公爵城へやってきた、あの温和で高潔な、白い髭を蓄えた老武将の姿が記憶に残っている。
あの方が、謀叛。そんなはずはなかった。
ファルケンハインの主が、アルテンフェルトとの古い同盟を破棄し、この豊かな地を侵略するための邪魔者を排除したのだ。その目的は、あまりにも明白だった。
さらに、報告書は冷酷な事実を重ねていく。
国境付近における、異常な規模の兵糧の集積。
周辺諸村からの、軍馬の強制徴発。
領内の街道を行き交う、不自然な武装兵団の移動。
紛れもない、戦支度だった。
そしてその標的。
アルテンフェルトがファルケンハインと並び立っていた時代であれば、後方の安全を確保して他方に攻めることも考えられた。
しかしいま、アルテンフェルトはファルケンハインはおろか、著しい復興を遂げているグリュンベルクにすら劣るかもしれない。
そして、ファルケンハイン侯爵バルタザール。
彼は、アウグストと同盟を結んだ先代ファルケンハイン侯爵を実力で廃し、後を継ぐと見事に領内をまとめて貪欲に近隣の領地を食らっていた。
その目が、今どこを向いているのか。
明らかだった。
「……次は、我が家ですわ」
アリエノールは、絞り出すように言った。
「アリエノール……」
「エーベルハルト殿を殺した。兵糧を集めた。軍馬を徴発した。兵を国境へ寄せている。……そして、こちらは北の砦すら直せていない」
アリエノールは唇を噛んだ。
「これほど美味しい獲物を、バルタザール侯が見逃すと思いますか」
アリエノールは、執務机を両手で強く支えた。
砦の石垣は崩れ、守備兵は去り、傭兵を雇う資金もなく、常備兵の給与さえ滞っている。
目の前の者を救い続けた代償が、今、隣国の飢えた牙をアルテンフェルトの喉元へと招き寄せていた。
だが、アルテンフェルトを襲う刃の影は、外側からだけではなく、彼女自身が仕込んだ内側の闇からも、同時に動き出していた。
執務室の重い扉が、音もなく開いた。
入ってきたのは、かつてアウグスト公に仕え、今はアリエノールの手足となって動いている密偵だった。
密偵は膝を突き、懐から一枚の汚れた布切れに包まれた密書を差し出した。
「姫様。……かねてより不審な動きのあった、一門のリヒャルト様の屋敷より、ファルケンハインの密使が送り出されたのを確認いたしました。これは、その使者を密かに捕らえ、懐から奪取した書簡にございます」
アリエノールは、無言で密書を毟り取るようにして開き、目を走らせた。
書面の末尾。インクの滲むその場所に、不遜な笑みを浮かべる親族の筆頭――リヒャルトの花押が、はっきりと刻まれていた。
そこには、一見すれば不穏な一字などどこにもない、ただの季節の挨拶が並んでいた。
『冬の寒風厳しき折、北からの豊かな風を遮るあの高い壁を、いつまでも放置しておくつもりはありません。新しい風を迎え入れるための準備は、こちらでも静かに進めております。我が公国の北方の警備は、冬の間は薄くなるのが常でございますから、近々、ご挨拶にお越しくだされ。心置きなくおもてなしいたします』
アリエノールから見れば、敵国をアルテンフェルトへ引き入れるための内応を約束する、決定的な証拠だった。
だが同時に、これは法的な確証ではなかった。
もし問い詰めれば、リヒャルトたちはこう言い逃れるだろう。
「ただの冬の挨拶だ」
「北の風を遮る高い壁とは、修復の遅れている北砦の愚痴だ」
「警備が薄いから交易の往来がしやすいと言っただけだ」
客観的には、どこまでも言い訳が立つ、灰色の密書。
「……な、何ということだ」
フロリアンが、青ざめた顔でその密書を見つめ、絶句した。
「リヒャルト殿たちが……ファルケンハインと通じ、我が家を売ろうとしているというのか? 私たちは、あの上納金の危機の際、彼らの分け前を削らぬよう、親族全体の立場を守ったはずなのに……なぜ、このような裏切りを……」
ああ……。やはり何も理解していない。
フロリアンの言葉を、絶望的な気持ちで聞く。
彼はあの危機の折、王家からの圧力に対してアルテンフェルトが一枚岩になって対抗した、と本気で信じているのだ。
どう考えても、今の時代の領主としては無能な男だった。
フロリアンの震える声に対し、アリエノールは激昂もしなければ、涙を流すこともなかった。
ただ、ゆっくりと両の眼を閉じ、深い、深い沈黙ののちに、自嘲気味な低い声で呟いた。
「……やはり、こうなりましたか」
「アリエノール?」
「分かっていましたわ。最初から、こうなることは」
アリエノールは、冷え切った指先で自分の額を覆った。
あの上納金の夜。王都への支払いを辻褄合わせするため、彼女はアウグスト公が遺した秘密の帳簿を用いて、親族たちを力ずくで脅迫した。
そのときから分かっていた。
脅迫された親族たちは恨みを抱き、いつか牙を剥く。やるのならば、あの場で殺すべきだった。
それでも、彼女は殺さなかった。
フロリアンを傷つけたくなかったからだ。
その報いを、いま受けている。
(ああ、これはフロリアン殿下だけの失政ではない)
アリエノールは、胸の奥を鋭い刃で掻き回されるような痛みを覚えた。
彼が無能だから、それだけで国が傾いたのではない。
彼の愚かさを愛し、その愚かさが現実の世界で成立するようにと、彼女自身が合理を、自ら進んで歪めてしまった結果なのだ。
フロリアンだけの責任ではない。明らかに、二人の失政の結果という名の借金。
その支払いの期限が、内外から同時に、容赦なく訪れていた。
「……アリエノール。私は……どうすればよい?」
フロリアンが、震える手でアリエノールの肩に触れようとした。
アリエノールは、その温かい手を振り払うことなく、ただじっと見つめ返し、喉の奥で冷たい覚悟を決めた。
「備えなければ、なりません。国境の言い逃れを許さぬよう、こちらから動員令を出し、残された財産をすべて傭兵の雇い入れに回します。そして――」
彼女は密書を強く握りつぶした。
「リヒャルト叔父上たち、内応に関わった疑いのある親族を、今すぐ反逆罪で拘束、処刑し、その全財産を没収して軍費に充てます。……まだ疑いの段階ですが、確証が出るのを待っていては、我がアルテンフェルトは生き延びる道はありませんわ」
「確証もないのに、処刑、だと……?」
フロリアンは、目を見開いて後退した。




