目の前の一人
アルテンフェルトの財政は、緩やかに、しかし確実に歪み始めていた。
かつてアウグスト公爵が存命だった頃、この広大な公爵領には、蓄えられた備蓄、完璧に補修された砦、規律正しい兵団があった。
それらはすべて、民から吸い上げた税を効率的に再投資することで維持されていたのである。
しかし、フロリアン王子が下向してからその仕組みは、彼の底なしの優しさによって内側から形を変えつつあった。
「殿下。今年度の治水および砦の補修予算ですが、当初の計画から大幅に削られております。これはどういうことですか」
秋の終わり、冷え切った執務室で、アリエノールは分厚い帳簿の特定の箇所を指先で叩いた。
机の向こうで、フロリアンは申し訳なさそうに身を縮め、ボロボロになった例の革手帳をぎゅっと握りしめていた。
「すまない、アリエノール。……だが、南部の洪水で流された村々には、今すぐに家を直すための木材と、当面の食料が必要だったのだ。あそこの子供たちは、冷たい納屋で震えていた。彼らをそのままにして、北方の誰もいない砦の石垣を直すことなど、私には順番が違うとしか思えぬのだ」
「殿下」
アリエノールは深いため息を吐き出し、厳しい視線を向けた。
「北の砦は、隣国からの侵攻を阻むために必要な防衛線です。今、その石垣を直さなければ、五年後、あるいは十年後に敵が襲来した際、砦は一瞬で陥落しますわ。そうなれば、南部どころかアルテンフェルト全土の民が家を失うことになるのですよ。北のファルケンハイン侯爵家とはお父様が同盟を結ばれましたが、今後はどうなるか分かりません。備えなければいけないのです」
「分かっている。君の言う通りだ、アリエノール。……だが、五年後に崩れるかもしれない砦の石は、今、目の前で泣いたりはしない。来年必要になる軍馬は、私に名前を呼んで助けを求めたりはしない。でも、ケイトやハンスは、今、ここで寒さに震えているんだ。彼らを切り捨てて、まだ見ぬ未来の安全を買うことが、私にはどうしても正しいとは思えないのだよ」
フロリアンの言葉に、アリエノールは言葉を詰まらせた。
為政者として、彼の判断は致命的な欠陥だった。
彼は目の前にいる人間の痛みにあまりにも敏感で、自らの優しさを統治の数字へと変換する能力を持たない。
アリエノールがどこかで止めなければ、この領地はいずれ破綻する。
「……私の講義を、全く理解していませんのね。数字は数字です。今、目の前の数人に予算を割くために、未来の数万人を危険に晒すなど、愚行の極みですわ」
「本当に、面目ない。君が毎日、私の尻拭いをしてくれているおかげで、この領地が保たれている。それはわかっているんだ……。感謝しているよ、アリエノール」
フロリアンは、本当に心から済まなさそうに、けれど全幅の信頼をその瞳に宿して微笑んだ。
アリエノールは、その邪気のない微笑みに毒されるような感覚を覚え、乱暴に視線を帳簿へと戻した。
彼を立派な領主にして、早くコンラートのもとへ嫁ぎたい。
そのために始めた教育だった。だが、この男から目を離せば、アルテンフェルトは、父の遺したこの美しい世界は、彼の無制限な優しさによって自壊してしまう。
いつの間にか、アリエノールの一日は、彼が引き起こすトラブルの後始末と、崩れかける財政の防波堤となるための書類仕事で埋め尽くされていた。
その年の冬、アルテンフェルトに最大の政治的圧力が牙を剥いた。
アウグスト公という、実力で王家を黙らせることのできる傑物が消えた公爵領に対し、王都の中央宮廷が、ついに不条理な要求を突きつけてきたのだ。
王都からやってきた中央官僚――特別監査官は、暖炉の前に悠然と立ち、アリエノールとフロリアンを見下ろしながら、一枚の羊皮紙を突きつけた。
「……此度の周辺国との小競り合いに伴い、王家は多大なる軍資金を必要としております。アルテンフェルト公爵家に対し、特別軍事上納金の支払いを要求いたします。来春までに、金貨二千枚を王都へ送るように」
金貨二千枚。
それは、現在のアルテンフェルトの財政規模からすれば、決して払えない額ではなかった。
だが、その金を支払えば、アリエノールが苦心して算出し、フロリアンが民のために残した冬越し用の備蓄購入資金は完全に消える。
民からさらに重い税を毟り取るか、あるいは、領民から餓死者を出すことを受け入れるしかない。
特別監査官は、侮るような薄笑いを浮かべて言った。
「お断りになる、とはおっしゃいますまいな? 男児不在により一度断絶した公爵家を、王家の情けによって第三王子フロリアン殿下に再興していただいたのです。これしきの上納を拒めば、王都の貴族たちは、公爵家の再興そのものを疑問視し始めるでしょう。最悪の場合……不忠の徒として、王軍が動くこともあり得ますぞ」
それは、実力なき名門への、あからさまな脅迫だった。
監査官が去った後、執務室には凍りつくような沈黙が満ちていた。
アリエノールは、冷え切った指先でペンを握り、目の前の帳簿と支払いの書類を睨みつけていた。
「払います」
アリエノールの声は、氷のように冷たく、しかし硬かった。
「……アリエノール?」
驚いて顔を上げたフロリアンに、アリエノールは感情を排した声で言った。
「払うしかありません。これを拒絶すれば、王都は親族の反乱分子を扇動し、武力介入の大義名分を与えることになります。周辺国もこの混乱に乗じて攻め込んでくるでしょう。そうなれば、アルテンフェルトは崩壊します。……民に多大な負担が出ます。飢え、凍える者も数多く出るでしょう。ですが、国そのものが滅びるよりはマシです。これが、為政者としての、正しい、妥当、な判断ですわ」
それは統治者の正論だった。
アリエノールは、支払いの承諾書をフロリアンの前に差し出し、ペンを握らせようとした。
「さあ、殿下。署名を。これ以上、王都に難癖をつけられる隙を与えてはなりません」
しかし、フロリアンはペンを握ったまま、動かなかった。
彼の白い指先が、微かに震えている。
「殿下?」
アリエノールが促すと、フロリアンはゆっくりと頭を振った。
その口から漏れたのは、高潔な演説でも、王家への怒りの咆哮でもなかった。
ただ、子供がワガママを言うような、あまりにも不格好な一言だった。
「嫌だ」
アリエノールは一瞬、耳を疑った。
「……何とおっしゃいましたか」
「嫌だ、アリエノール。私は、この書類に署名はしない」
「嫌だじゃありません!!」
アリエノールは、人生で初めて、我を忘れて声を荒げた。彼女の端正な顔が激しい怒りに染まり、卓上のインク壺が小さく揺れた。
「子供ではないのです、フロリアン殿下! 拒絶すれば何が起こるか、先ほど説明したはずです! 王軍が動き、親族が離反し、この地は戦火に包まれるのですよ! 分かっているのですか!」
「分かっている!」
フロリアンもまた、消え入りそうな声で、しかし必死に叫び返した。彼の瞳には怯えの色が浮かんでいた。彼は戦うための力も、人々を従える威厳も持たない、ただの弱い男だった。
それでも、彼は署名の手を動かそうとはしなかった。
「君の言う通りだ、アリエノール。君の計算は真っ当で、君の判断がきっと正しい。……でも、私は、あの泥の手帳に書いた人々の名前を知っている。ケイトが腰を痛めながらも、私にお優しき王子様と笑ってくれた顔を知っている。ハンスの娘が、私に見せてくれたあの赤いリボンの色を、私は覚えているんだ」
フロリアンは、泥に汚れたあの安物の革手帳を、まるで自分の心臓を守るように強く胸に抱きしめた。
「彼らがこの上納金のために飢え、冬を越せずに死んでいくと知りながら、自分自身の公爵位を守るために、この書類に署名することだけは絶対に嫌だ」
「~~~~~~~~ッ!!」
アリエノールは、激しい目眩を覚えた。
その言葉は、為政者としてはこの上ない愚行だった。
目の前の大馬鹿者は、本当に、民のために自分を破滅させるつもりなのだ。
己の地位も名誉も、命さえも引き換えにして。ただ「ケイトのスープが温かかったから」「ハンスの娘のリボンを見たから」という、それだけの理由で。
その愚かさは、あまりにも致命的で、そして。
言葉にできないほど、美しかった。
「……本当に、この上ない大馬鹿者ですわ、殿下は」
アリエノールは、握りしめていた拳を震わせ、吐き出すように言った。
「ああ、分かっている。本当に、私はどうしようもない愚か者だ」
「ええ、そうです。ですから――」
アリエノールは、目の前にある支払いの書類を、音を立てて引き寄せた。
「あなたのその大馬鹿な我が儘を、現実に辻褄を合わせるのが、私の仕事なのでしょう」
フロリアンは、驚いたように大きな瞳を見開いて、彼女を見つめた。
「署名は拒否します。ただし、交渉の席は私が作ります。殿下、あなたは私の指示通りに動いていただきますわよ」
アリエノールは、休む間もなく動き始めた。
フロリアン一人が嫌だといったところで、ただ王都の官僚に脅しつけられ、公国が破滅するだけで終わる。
彼の非効率で無鉄砲な願いを、現実の効率的な世界に落とし込み、成立させるためには、相手が納得できる、あるいは納得しても良いと思わせるだけの材料が必要不可欠だった。
彼女はまず、公爵家を狙う不穏な親族たちの派閥へ自ら乗り込んだ。
「王都にこれ以上の富を吸い上げられれば、あなた方の分け前も完全に消えてなくなりますわ。王家への支払いを最低限に抑えるため、我がアルテンフェルトの団結を王都に示すべきです。さもなくば、お父様が残されたあなた方の過去の不正の証拠で家財全てを召し上げ、以って王都への支払いに充てます」
父アウグストが遺した秘密の帳簿を用いて親族たちを力ずくで脅迫し、一時的な団結を約束させた。
やるべきことではなかった。その場では従ったところで、不満をためる。後の反乱の芽にしかならない。
やるのならば、脅すのではなく殺すべきだった。証拠を突き付け一族全てを殺し尽くし、財産を奪えばよい。
だがそのやり方をフロリアンが承知するはずがなかった。無理やり押し通したところで、彼に癒せない傷をつけてしまう。
それでは、椅子に縛り付け無理やり書類に署名させることとなんら変わらない。
間違っていると知っていても、アリエノールの取れる手段は限られていた。
さらに、アルテンフェルト特産の厚い毛織物の交易ルートを急遽拡張。隣国の大商人たちと直接交渉し、王家への上納金を金貨ではなく、王都の冬越しに不可欠な物資として代納する道筋を構築した。
そして、アリエノールは王都の監査官の前に立ち、代替案を叩きつけた。
「金貨二千枚の代わりに、我が公爵領特産の最高級毛織物、および食料物資を同価値分、王都へ直接納入いたします。王都の今冬の寒さは厳しく、物資の直接納入こそが国王陛下にとっても最も実利あるはず。……これ以上の現金徴収を強行されるのであれば、アルテンフェルトは交易路を完全に封鎖し、王都への毛織物の供給を一切遮断いたします。王都の冬を凍えさせる覚悟が、ございますか?」
アルテンフェルトが見せかけだとしても親族を含めて一歩も退かぬ構えであり、さらに実利的な物資代納を提示された監査官は、苦虫を噛み潰したような顔で、アリエノールが用意した妥協案に署名せざるを得なかった。
結果として、王家への支払いは最小限の物資に抑えられ、民の冬越し用の備蓄も、公爵家の面目も、辛うじて守り抜かれた。
それは決してフロリアン一人では成し遂げられなかった。
そしてアリエノール一人であったなら、最初から選ばなかった道でもあった。
二人が揃ったからこそ生まれた、薄氷の上の結果だった。
激動の交渉を終え、王都の監査官が去った夜。
嵐のような日々の緊張から解放された執務室には、ただ静かな暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いていた。
アリエノールは、机の上に突っ伏すようにして、深く、深い息を吐き出した。全身の力が抜け、指一本動かすのも億劫なほどの疲労が押し寄せていた。
そこへ、静かな足音とともに、フロリアンが歩み寄ってきた。
彼の両手には、温かい大麦のスープが注がれた木製の器が握られていた。
「疲れただろう、アリエノール。これ、以前ケイトのところから分けてもらったものなんだ。……少し塩辛いけれど、とても温かいよ」
フロリアンは、泥のついた不器用な手で、アリエノールの前に器を置いた。
そして、彼女の隣に静かに腰掛け、涙ぐみそうな、しかし心からの全幅の信頼を込めて彼女を見つめた。
「ありがとう、アリエノール。君が隣にいてくれなければ、私は今頃、すべてを失って破滅していただろう。私の大馬鹿なわがままを、君がその素晴らしい知恵で、現実に変えてくれた。……君は、本当に、私の、かけがえのない天使だ」
アリエノールは、大麦のスープから立ち上る湯気を見つめ、それからフロリアンの不器用な横顔を見た。
彼の言葉に、嘘は寸分も存在しなかった。
この男は、本当に自分の無能さを恥じ、アリエノールに心からの感謝を捧げている。その瞳には、彼女を弱者として見下す色も、己の保身のための打算もなかった。
ただ、自分を支えてくれた唯一無二の存在を、慕い、敬う、本物の温かさだけがあった。
アリエノールは、その温かいスープを口に含んだ。
かつてコンラートが「甘いお菓子ばかり口にしてきたお前の口には合わん」と言っていた、あの粗末な、塩辛い、けれど、体の芯までじわりと温める、生きた人間の料理の味がした。
アリエノールは、喉の奥が震えるのを感じた。
(私は、この男を、もう放っておけない)
この男の、為政者としては致命的な愚かさを、自分はもう、ただの愚かさだとは思えなくなっていた。
この男の無茶を、自分のすべての知恵を使って現実に辻褄合わせすることに、不思議な、満ち足りた満足感を覚えている。
この不器用な男が、自分の隣で、安堵したように嬉しそうに笑うのを見るだけで、胸の奥が、温かく静まり返っていくのを感じる。
それは、これまでの張り詰めた人生の中で、彼女が一度も感じたことのない、安らぎに満ちた温もりだった。
夜更け、フロリアンが部屋を去った後。
アリエノールは一人、静まり返った執務机の前に戻った。
彼女はふと、動きを止め、自分の胸の奥に視線を投げかけるようにして、静かに自問した。
(……私は、何のために、ここまで不眠不休で働いていたのだったかしら)
かつての彼女であれば、その問いに対し、呼吸をするのと同じくらい当然のように、即座に、確信を持って答えることができたはずだった。
コンラートとの未来のため。
彼と古い屋敷の壁を直し、お揃いの毛織物の外套を着て、痩せた土地に真っ赤な薔薇を植える、あの約束のため。
いつもアリエノールの中心にあった、その思い。
当たり前のように自分の真ん中にあった。芯だった。
けれど、今。
アリエノールは、自分の胸の奥に、一瞬だけ、答えを探してしまう自分に気づいてしまった。
冷たい汗が、彼女の背中を伝った。
アリエノールは、震える指先で執務机の引き出しを開けた。
その最も深い場所に、大切にしまわれている、一通の手紙。
コンラートから届いた、あの無骨で、けれど彼の確固たる未来が書き込まれた羊皮紙。
アリエノールは、その手紙を見つめた。
嫌いになったわけではない。彼を誇りに思う気持ちも、あの夜の約束が本物であったという事実も、何一つ変わっていない。
それでも。
あの思いは、いつもそこにあった。
探す必要などなかった。
自分の中心に、いつだって、当たり前のように存在していたはずだった。
それなのに。
……いまは、探さないと、見つからない。
アリエノールは、静かに引き出しを閉めた。
暗い木製の隙間に吸い込まれていく白い手紙を見つめながら、彼女は、自分がもう、あの約束の夜には二度と戻れない場所へと滑り出しつつあることを、静かな恐怖とともに、しかしはっきりと、自覚し始めていた。




