人には名前がある
フロリアン王子がアルテンフェルトに下向して、半年が経とうとしていた。
アリエノールが朝から公爵城の執務室で行う統治講義は、日に日に苛烈さを増していた。
卓上には、領内の歳入、軍備の配備状況、主要家臣団の経歴書、そして周辺諸侯との複雑な血縁関係を示す相関図が、隙間なく並べ立てられている。
「父アウグストであれば、これほどの書類は一日で把握し、次の指示を出しておりました。殿下、すでに半年です。いつまで同じ帳簿の項目で立ち止まっておられるのですか」
アリエノールの凛とした声には、一分の容赦もなかった。
彼女の厳しすぎるほどの指導の根底にあるのは、コンラートとの未来へ辿り着くための希望そのものだった。
(この殿下に、一刻も早く、一人前のアルテンフェルト公になってもらう。そうすれば……)
そう、そうすれば自らの信じる未来へ向かって歩いて行けるはずだ。
その思いは、アリエノールの中心だった。
だからこそ、アリエノールは一刻の猶予も惜しかった。
しかし、肝心の生徒であるフロリアン王子は、乱世の統治者としてはおよそ頼りない姿を晒し続けていた。
「すまない、アリエノール。私なりに文字を追っているのだが……王都の講義とは違って、この紙の上に並ぶ無数の数字が、どうしても頭の中でうまく繋がらないのだ」
フロリアンは、美しく整った顔を青くさせて頭を抱えていた。
三万人の領民を飢えさせずに冬を越させるための、配給計算や、近隣諸国を牽制するための軍事的な辻褄合わせは、彼の繊細な頭脳にはあまりにも過酷な代物だった。
「難しいことはありません。数字は、ただの数字です。感情を交えず、不足している箇所に予算を割り振れば良いだけのこと。殿下の不慣れは承知しておりますが、これでは引き継ぎがいつ終わるか分かりませんわ」
「本当に、面目ない……」
申し訳なさそうに微笑むフロリアンを前に、アリエノールは胸の奥で、静かな焦燥を感じずにはいられなかった。
グリュンベルクから届くコンラートの手紙には、凄まじい速度で領地を再建していく若き伯爵の、逞しい手腕が満ちている。
それに引き換え、目の前の頼りない王子はどうだろう。
講義の合間、フロリアンは時折、所在なげに姿を消した。アリエノールはそれを、過酷な政務から逃げ出すための、王族らしい無責任な逃避だと思い込んでいた。
かつて彼が到着した直後、昨冬に亡くなった「二百三十七人」の命を巡って『彼らの名前は、何というのだ?』と問いかけてきたあの言葉さえも。
アリエノールは、乱世の現実を知らない甘い王族の見当違いな感傷として、とっくに切り捨てていたのだ。名前を調べたところで、冬の寒さは和らぎもしないのだから。
秋が深まり、西風がいよいよ冷たさを増した、ある深夜のことだった。
アリエノールは、親族たちの陰湿な財政調停の辻褄を合わせるため、一人で静まり返った公爵邸の廊下を歩いていた。
父アウグストを失ったアルテンフェルトは、外敵だけでなく、内側の親族たちからも常にその豊かな富を狙われ、揺さぶられ続けている。アリエノールはその防波堤となるため、連日、深夜まで書類と格闘していた。
ふと見ると、執務室の扉の隙間から、微かな光が漏れている。
(誰か、忍び込んでいるの……?)
警戒しながら扉を静かに押し開けたアリエノールは、その光景に小さく息を呑んだ。
そこには、暖炉の残り火の薄暗い光を浴びながら、執務机に突っ伏して深く眠り込んでいるフロリアンの姿があった。
彼が纏う上質な外套の肩は、なぜか薄汚れた泥にまみれている。その白い指先にも、庭仕事でもしたかのような黒い土の汚れが残っていた。
「殿下……?」
呼びかけたが、返事はない。
耳を澄ませば、微かな、しかし酷く疲弊した寝息だけが静かな部屋に響いていた。
アリエノールは呆れ、風邪を引きかねないその肩に毛布でもかけてやろうと歩み寄った。
そのとき、彼の枕元に、インクが乾きかけた一冊の小さな冊子が置かれているのが目に入った。
それは、公爵家が用意した豪華な羊皮紙の帳簿などではなかった。
どこか街の安物市で買ったと思われる、角の擦り切れた、泥と雨水でヨレヨレに波打った、粗末な革手帳だった。
アリエノールは不審に思った。
政務からの逃避を繰り返す頼りない王子が、なぜこのような薄汚れた手帳を、深夜まで握りしめていたのか。
無作法を承知の上で、彼女はそっと手帳を取り上げ、残り火の光に照らしながら、そのページをめくった。
手帳を開いた瞬間、アリエノールの瞳が大きく見開かれた。
そこに並んでいたのは、精緻な統治論文でも、王都への言い訳がましい生存報告でもなかった。
震える手で、歪に、しかしこれ以上ないほど丁寧なインクの文字で書き殴られていたのは、アルテンフェルトに生きる民の、生きた記録だった。
『東の村のハンス。昨冬、母親を風邪で亡くした。耕作馬の脚が弱っており、今年の秋の収穫に強い不安を抱えている。来春、奉公に出る予定の幼い娘は、お気に入りの赤いリボンを大切にしている。ハンスは頑固で無口だが、お茶を差し出すとよく喋ってくれる』
『南部の川辺に住む未亡人、ケイト。夫を昨冬、寒さによる肺の病で亡くした。腰を痛めており、冬を越すための薪を自分で運ぶことができない。近隣の若者たちを集め、薪割りを手伝わせる仕組みを作らねば、今年の冬は越せないだろう。彼女の作る大麦のスープは、少し塩辛いが、とても温かかった』
『西の谷の老人、ヨハン。耳が非常に遠い。こちらの言葉が届かないため、いつも怒っているように見える。だが、ただ聞こえていないだけだった。ヨハンと話すときは、耳元で、大きな声で、けれど絶対に優しく話すこと』
ページをめくるたびに、そんな生活の息遣いが、びっしりと書き込まれていた。
そして手帳の後半部分。
そこには、かつてアリエノールが局所的な感傷と切り捨てた、あの昨冬亡くなった二百三十七人の、すべての名前が記されていた。
それだけではない。
彼らの残された家族が、今どのような状況にあり、今年の冬をどうやって迎えようとしているのか、一人ひとりの事情が、細かく記録されていたのだ。
「これ、は……」
アリエノールは、めくる指が震えるのを止められなかった。
手帳の紙は、雨水に濡れてインクが滲み、土埃で茶色く汚れている。
アリエノールが逃避だと思い込んでいた、彼の見えざる不在の時間。
フロリアンは、詩を書いて遊んでいたわけでも、王都を懐かしんで眠っていたわけでもなかった。
彼は日々の講義の合間を縫って、領内の村々を自らの足で、一軒ずつ、誰にも告げずに訪ね歩いていたのだ。
「……本当に、お調べになったのですか。二百三十七人、全員を?」
掠れた呟きが、深夜の静寂にこぼれ落ちた。
その声に驚いたのか、机に突っ伏していたフロリアンが、ビクッと肩を揺らして身を起こした。
「あ、ああ、アリエノール……!」
フロリアンは眠気眼をこすりながら、自分のボロボロの手帳と、それを見つめる彼女の姿を交互に見比べ、ハッと慌てたように頭を掻いた。
「す、すまない! 勝手なことをして……。君には叱られていたから、怒られると思って、隠れてやっていたんだ。本当に申し訳ない」
「謝らないでください」
アリエノールは手帳を握りしめたまま、まっすぐに王子を見つめた。
「なぜ、このようなことをしたのです。予算編成や、行政システムの見直しには、このような細かすぎる個人的な事情など、何一つ反映されません。統治者としては、全くの無駄、非効率な行為ですわ」
「うん、分かっている。君の言う通りだ」
フロリアンは不器用に、しかし隠すことなく微笑んだ。
「私には、君のように数字を操ることも、アウグスト公のように一瞥で領地の未来を見抜くこともできない。君に叱られて、自分の無能さが本当によく分かったんだ。……でも、だからこそ、私にはこれしかできることがなくてね」
「これしか、とは?」
「二百三十七という数字は、ただの数字じゃないと思ったんだ……。一人ひとりに家族がいて、家があった。生きた人間たちなんだ。その名前を、私はどうしても知っておきたかった。彼らの家族が、今、何を恐れて生きているのかを、この耳で聞いておきたかったんだ。そうしなければ……私は、このアルテンフェルトの領主として、椅子に座ることすら恐ろしくなってしまうから」
フロリアンは、暖炉の残り火に照らされながら、本当に生真面目に、そして申し訳なさそうに語った。
アリエノールは、その泥に汚れた王子の手を見つめたまま、言葉を失っていた。
それは、乱世を生き抜く為政者としては、致命的なまでの欠陥であり、甘さだった。
だが。
それは同時に、アリエノールがこれまでの人生で一度も出会ったことのない、そしてコンラートならば決して選ばない、あまりにも非効率で、あまりにも愚直な優しさだった。
「……本当に、大馬鹿者ですわ、殿下は」
アリエノールは、手帳を机の上にそっと置いた。
その声には、冷たいトゲなど微塵もなかった。
ただ、自らの中心の、最も硬く張り詰めていた場所に、温かい雫がポツリと落ちて、音を立てて波紋を広げていくような、目眩を伴う衝撃だけが彼女の胸を支配していた。
「はは、手厳しいな。本当に、私はどうしようもない大馬鹿者だよ」
フロリアンは頭を掻いて笑い、それからふと、優しく目を細めた。
「でもね、アリエノール。今日、ハンスの娘がね、私にお気に入りの赤いリボンを見せてくれたんだ。ハンスも、私に『今年の冬は、凍えずに済みそうだ』と、不器用に笑ってくれた。……私はそのとき、このアルテンフェルトに来て、本当に良かったと思ったんだよ。君が私を、厳しく導いてくれたおかげだ。ありがとう」
アリエノールは、彼のその不器用で、誰よりも高貴な横顔から、目を離すことができなかった。
心の引き出しの、最も深い場所にしまわれた、コンラートへの書きかけの手紙。
その白い羊皮紙が、風もないのに、ほんの少しだけ揺れたような。
そんな気がした。




