ただ、それだけだった
その瞬間、世界は確かに輝いていた。
鉄錆の匂いと泥にまみれた戦場を、先鋒グリュンベルク軍の突撃が真っ二つに引き裂いた。
十八歳になったコンラートが愛馬の腹を蹴り、長剣を振り下ろすたびに、敵の陣列は瓦解していった。
彼がこの六年間、一日も欠かさず心身に叩き込んできたアルテンフェルト流の精緻な戦技と、グリュンベルク旧臣たちの飢えた狼のような執念が、見事に噛み合った結果だった。
「城門が破られたぞ! 先鋒、突入せよ!」
怒号と歓声が重なり合い、鼓膜を激しく震わせる。
コンラートは落日の逆光を浴びながら、焼け焦げたかつての故郷、グリュンベルク城の坂道を駆け上がった。十二歳のあの日、父に連れられて逃げ出したあの城だ。
城壁に重々しく、しかし誇らしげに、一枚の旗が掲げられた。
グリュンベルク伯爵家の紋章が、風を孕んで大きくはためく。
「おお……グリュンベルクの旗だ! 戻ってきた、我が主が戻られたぞ!」
煤で顔を汚した旧臣たちが、泥に膝を突いて涙を流していた。
かつて他国に奪われ、奴隷同然に虐げられていた領民たちが、遠巻きにグリュンベルクの城を見上げ、祈るように両手を合わせている。
「グリュンベルク伯爵様! コンラート様、万歳!」
その地鳴りのような叫び声の中心で、コンラートは血と泥に汚れた長剣を鞘に収め、深く息を吸い込んだ。
肺に満ちたのは、冷え切った、しかし懐かしい故郷の空気だった。
(取り戻した)
全身の血液が熱く沸騰するような感覚。六年間、片時も忘れることのなかった誓いが、今、己の両足の下で確固たる大地となって結実した。
そして、その歓喜の絶頂で、コンラートの脳裏に真っ先に浮かんだのは、ただ一人の少女の姿だった。
昨夜の、あの月光の庭園。
冷え切った小さな手を分け合い、静かに微笑んだアリエノール。
『行ってらっしゃい、コンラート。グリュンベルクを……私たちの家を取り戻しに』
彼女の声が、耳の奥で鮮烈に蘇る。
(取り戻したぞ、アリエノール)
コンラートは心の中で、彼女の名を叫んだ。
これで、すべてが揃う。お前の言う通り、古い屋敷の壁を塗り直し、お揃いの厚い毛織物の外套を着て、二人で庭を耕して真っ赤な薔薇を植えるのだ。
お前をこの地に、我が妻として迎え入れる。その未来を阻むものは、もう世界に何一つ存在しないはずだった。
しかし。
その幸福の絶頂に、無慈悲な泥水が叩き込まれた。
「伝令――! 伝令――!」
悲鳴に似た叫び声を上げ、一騎の騎馬が本丸の広場へと滑り込んできた。馬は口から白い泡を吹き、乗り手である兵士の鎧は、血と泥で原型を留めないほどに汚れている。
コンラートは、その兵士の胸に刻まれた紋章を見て、心臓が冷たく収縮するのを感じた。アルテンフェルト公爵家の紋章。
「何事だ」
コンラートは歩み寄り、低い声で問うた。
「西方の、追撃戦を担当しておられた……アウグスト公爵閣下の本陣が、敵の隠し砦より出現した伏兵の奇襲を受けました! 公爵閣下は、敵の包囲を破るべく自ら剣を取って奮戦なされましたが、乱戦の最中……矢を受け、討ち死になさいました!」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
周囲の旧臣たちの泣き声や勝鬨の声が、不意に遠くの雑音のように霞んでいく。
「何と言った。アウグスト閣下が、死んだ……?」
「はっ……! 敵の増援を完全に遮断し、グリュンベルク包囲網を決壊させるため、公爵閣下は自ら主力を率いて西の防衛線を塞いでおられました。作戦は完全に成功し、敵の残兵は敗走を始めていたのですが……敵の放った最後の一矢が、偶然にも、公爵閣下の喉元を貫いたと……」
耳の奥で、激しい耳鳴りがした。
世界が歪み、視界が黒に染まっていく。
作戦は、成功していた。
コンラートを先鋒として旧臣たちの士気を高め、アウグスト自身が主力を率いて敵の増援を遮断する。その差配に誤りはなく、現にグリュンベルク城は落ち、敵軍は敗走している。
ただ、死んだのだ。
馬がぬかるみに足を取られた。護衛との間に、ほんの一瞬だけ隙間が生まれた。そこへ、敗走する敵兵の放った一本の矢が飛び込んだ。
それだけだった。
偉大な将であろうと、正しい判断を重ねていようと、戦場では死ぬ。
だが、コンラートには、どうしてもそうとは思えなかった。
(俺の……俺の家を取り戻す戦だったからだ)
どれほど周囲の将兵が合理的だと言い、軍事の理屈を並べ立てようとも、コンラートの頑固な頭の中では、それらはすべて一本の歪んだ因果関係で結ばれていた。
俺が先鋒を志願したから。俺が城を取り戻すまで、閣下が背後を守っていてくれたから。
昨夜、城を取り戻して娘を迎えに来いと言ってくれた。
なら、俺のために、あの方は無理をして死んだのではないか。
『死ぬなよ、コンラート』
出陣の夜、静かに酒杯を置いたあの偉大な背中が、最後の言葉が、コンラートの喉を、胸を、焼き尽くすような痛みを伴って蘇る。
「若……いや、伯爵閣下。どうか、お気を確かに……」
老旧臣が、涙を堪えながら、コンラートの肩を掴んだ。
若、ではない。
コンラートは今この瞬間、ずっと欲しかったものを手に入れた。
グリュンベルク伯爵。
城がある。領地がある。臣下がいる。
アウグスト公から課された「伯爵としての格を取り戻せ」という条件を、すべて達成したのだ。
だから家臣は、彼の称号を正しく言い改めた。伯爵閣下、と。
なのに、コンラートはその称号を、喜ぶことができなかった。
この伯爵位は、アウグスト公の死を代償に買い取ったものだ。そうとしか思えなかった。この重すぎる冠は、恩父の血で濡れている。
(この領地を、何が何でも再建しなければならない。民を一人も飢えさせてはならない。二度と他国に、この地を踏ませてはならない。そうでなければ……あの方の死が無駄になってしまう)
勝利の泥にまみれたコンラートの瞳に、つい先ほどまであった若者らしい歓喜は、もうなかった。
代わりにそこへ刻まれたのは、自らを義務という名の鎖で縛りつける、領主としての鋭い光だった。
◇
アルテンフェルト公爵城は、かつての華やかさが嘘のように、重苦しい沈黙と漆黒の喪服に包まれていた。
かつて甘く香っていた花の香りの代わりに、葬儀の厳かな香煙が立ち込め、美しかった庭園の木々も、秋の終わりの冷気に枯れ果てている。
アウグスト公爵の葬儀の翌日。
コンラートは、アルテンフェルト公爵邸の片隅にある小さな控室で、一人アリエノールを待っていた。
扉が静かに開き、漆黒の喪服を身にまとったアリエノールが入ってきた。
その美しさは、黒い布地によっていっそう痛々しく、それゆえに侵しがたい気高さを帯びていた。
アウグストを失い、親族たちの権力闘争や領地経営の重圧がすべてその細い肩にのしかかっているはずなのに、彼女の背筋は、あの出会いの日から変わらず、凛とまっすぐに伸びていた。
「アリエノール」
コンラートの声は、掠れていた。彼はその場に膝を突こうとしたが、アリエノールがその前に、涼やかな声でそれを制した。
「頭を下げないでください、コンラート」
「……しかし、俺は」
コンラートは奥歯を噛み締め、苦痛を押し殺すように彼女を見上げた。
「俺の戦のせいで、閣下を死なせてしまった。俺が、お前から父親を奪ったのだ。この罪は、どのように謝罪しても――」
「言ったはずです、謝らないでと」
アリエノールの瞳は、冷たいほどに澄んでいた。そこには、コンラートを責める色も、また運命を嘆く涙の色もなかった。
「父は、アルテンフェルト公爵として、己の誇りと決意に従って戦場へ赴きました。あなたに城を取り戻させると、そう決めたのは父自身です。戦場での死は、誰のせいでもありません。あなたが謝罪することは、お父様の尊厳を汚し、あの夜の決意を侮辱することと同じです」
彼女は、絶対に彼を責めなかった。
しかし、その優しさこそが、コンラートにとっては何よりも重い刃だった。
彼は深く息を吸い、立ち上がった。
「分かった。二度と謝らない。……だが、俺は生涯をかけてお前を幸せにすると誓う。この命を、グリュンベルクのすべてを賭けて、お前を迎え入れる」
「ええ」
アリエノールは微かに、本当に微かに微笑んだ。
「お待ちしておりますわ。ですが、今は――」
「ああ、分かっている」
コンラートは小さく首を振った。
抱きしめ合うことも、その小さな手を握りしめることもしなかった。二人とも、自分が今、何を優先しなければならないかを痛いほど理解していたからだ。
奪還したばかりのグリュンベルク領は、六年にわたる敵の搾取と戦火によって、見る影もなく荒廃していた。
冬を前に民は飢え、行政の組織は機能しておらず、旧臣たちの不満や敵方に加担していた者たちの処遇を巡って、一歩間違えれば反乱が起きかねない状況だった。
コンラートが今すべきことは、アリエノールの手を引いてグリュンベルクへ連れていくことではない。
アウグスト公に恥じない本物の領主として、故郷を再建することだった。
一方のアリエノールもまた、大黒柱を失ったアルテンフェルト公爵家を支えねばならなかった。
偉大なるアウグストの死により、周辺諸国や親族たちは、この豊かな領地を貪り食おうと一斉に牙を剥き始めている。
アリエノールが公爵家を離れれば、その瞬間にアルテンフェルトは空中分解する。
「すぐには、お前を迎えに来られそうにない。グリュンベルクは、お前を住まわせるには、あまりにも荒れ果てている」
「何を謝るのです。今グリュンベルクを離れてどうするのです。旧臣たちをまとめ、民にパンを分け与えなさい。私はここにおります。あなたは、あなたの領地を立て直してください」
「……ああ。落ち着いたら、必ず迎えに行く」
「はい。お待ちしております」
二人の間に、悲劇的な別れの言葉はなかった。
彼らは何も諦めていなかった。
ただ、ほんの少しの間、義務を果たすために約束を延期するだけだと、互いに誠実な明日を信じていた。
◇
最初の手紙は、冬が訪れる直前に届いた。
コンラートからの手紙は、羊皮紙を何枚も費やした、無骨で長いものだった。
『……グリュンベルク城の、焼け残った屋敷の修繕をようやく始めた。お前に言った通り、西側の壁には酷い隙間風が入る。大工に見せたところ、冬が本格化する前には何とか隙間を塞げるそうだ。床に敷くための厚い敷物の手配も進めている。早く、お前をこの屋敷に招きたい』
それに対するアリエノールからの返書も、端正な筆致で、細やかに綴られていた。
『屋敷の修繕が進んでいるとのこと、何よりでございます。こちらの、アルテンフェルト特産の厚くて軽い毛織物も、十巻ほど商人に預けてグリュンベルクへ送るよう手配いたしました。冬の寒風が吹き荒れる前に、お揃いの外套をかけられることを願っております。
薔薇について、こちらの庭師に尋ねました。寒さに極めて強い品種があるそうです。春になったら、その苗をいくつか持ってまいりますね』
愛しい人からの手紙。愛しい人への手紙。胸が温かくなる気持ちだった。二人とも、ごく近い将来に結婚するのだと、その約束を信じていた。
アウグストという、王家の介入を実力で退けられる傑物を失った以上、王都が黙っているはずはなかった。
アルテンフェルト公爵位は、王家の血を引く男子にしか継承を許されていない。娘であるアリエノールに継承権はなく、アウグストの死をもって公爵家は法の上では一度断絶している。
このまま空白を放置すれば、豊かなアルテンフェルトを狙う親族や周辺諸侯が勝手に領地を食い始める。弱りきった王家にとっても、それだけは看過できなかった。
葬儀からわずか数ヶ月後、翌春の訪れとともに、王都からの使者が到着する。
公爵家の家名再興、新たなるアルテンフェルト公爵として送り込まれたのは、第三王子フロリアンであった。
アリエノールにとって、彼の到着は絶望ではなく、むしろ救いですらあった。
アウグストが生きていれば、王家の介入を力ずくで退けた上で、自らの後継体制を強引にでも整えたかもしれない。
しかし、アウグストの死によってその未来は消えてなくなった。
それでも、フロリアン王子がアルテンフェルト公爵を継ぎ、アリエノールはグリュンベルク伯爵家に嫁ぐ。
今となってはそれが最も自然なようにアリエノールには思えた。
「ようこそおいでくださいました、フロリアン殿下」
アリエノールは、弾むような心と、いつになく温かい表情で、頼りなげな王子を出迎えた。すべては、コンラートとの未来へ辿り着くための、前向きな義務の始まりのはずだった。
だからこそ、アリエノールの「教育」は、苛烈を極めるスパルタ教師そのものとなった。
「まず、何をすればよいのだ?」
困惑するフロリアンに対し、アリエノールは卓上にどさりと重い革綴じの書類の束を並べ立てた。
「こちらが領内の歳入、こちらが軍備、こちらが主要家臣団の経歴、そしてこちらが周辺諸侯との関係図です。三日でお目通しください」
「み、三日……?」
フロリアンは、美しく整った顔を青くさせて絶句した。アリエノールは眉一つ動かさず、当然のことのように言い放つ。
「父なら、一日でした」
「…………」
王子は、ただ圧倒されるように、書類の山と目の前の凛とした令嬢を見比べるしかなかった。
実際、フロリアンの第一印象は、およそ頼りないものだった。
彼は第三王子であり、王位継承の教育を本格的に受けて育ったわけではない。宮廷の洗練された教養はあり、詩を愛し、音楽に通じ、歴史の知識も深く、誰に対しても礼儀正しく、優しい。
しかし、アルテンフェルトという巨大な公爵領を治める行政機構の前に、彼はただただ圧倒されていた。
ある時、アリエノールが三万人の領民の冬越しをどうするかという具体的な問いを投げかけた際、フロリアンは返答に窮してしまった。
具体的な数字も、物資の配備計画も、彼の手には余る代物だったのだ。
大丈夫なのだろうか、この王子は。
アリエノールの中に、微かな不安と焦りが生じ始める。だが、その授業の最中、一つの、小さな、けれど決定的なズレが生じた。
アリエノールが、昨年の冷害に伴う領内の被害状況を、淡々と数字だけを追って説明していた時のことだ。
「……以上の通り、昨冬、寒さを凌ぎきれずに命を落とした領民は、二百三十七人。これは、一昨年の水害時に比べれば――」
「待ってくれ、アリエノール」
フロリアンが、初めて彼女の言葉を遮った。
「……何でしょうか、殿下」
アリエノールは怪訝そうに眉をひそめた。フロリアンは、帳簿のその一行を、悲痛な、深く傷ついたような瞳で見つめていた。
「この『二百三十七』という数字だが。……彼らの名前は、何というのだ?」
「名前、ですか?」
アリエノールは意味が分からず、ただ小首を傾げた。
「そうだ。二百三十七人の、それぞれの名前だ」
「殿下。今はそのような局所的な感傷に浸る時ではありません。二百三十七人が死んだ原因を明らかにし、今年の冬、同じ規模の死者を出さないための防寒物資の予算編成を議論しているのです。名前を調べて、一体何になるのですか」
アリエノールにとっては、ごく妥当な、統治者としての正論だった。
だがフロリアンは、弱々しく、しかしどうしても譲れないというように、首を振った。
「いや……二百三十七という数字だけで、彼らの人生を終わらせていいはずがない。彼らは、一人ひとりに名前があり、家族があり、ここで暮らしていたはずの、生きた人間なのだから。私は、それを知っておきたいのだ」
アリエノールはただ、溜息を噛み潰した。
「……名前など、代官たちに調べさせればよろしいでしょう。それよりも殿下、予算案のこちらをご覧ください」
「ああ、すまない……」
アリエノールは、この時のフロリアンの言葉を、ただの無能な王族の見当違いな感傷だと切り捨てた。
そこからの数年間、運命は二つの領地を、全く異なる軌道へと走らせた。
グリュンベルクにおいて、コンラートはアウグスト公から叩き込まれたあの教えを、愚直に実践していた。
「来年も税を払える民を残すのが、領主の仕事だ」
一年目。彼は自らの取り分を極限まで削り、民を一人も飢えさせないことに腐心した。
二年目。大規模な灌漑水路の敷設を開始。自ら泥にまみれて現場を回り、畑の土の湿り気を、農民たちの蔵の備蓄を、その両の眼で確かめ続けた。
三年目。水路が完成し、グリュンベルク全土が未曾有の豊作に沸いた。
四年目。戦火で崩れていた砦を修復。防衛力を盤石なものとする。
五年目。商業が復興し、かつて痩せ細っていた領地は見違えるほどに立ち直っていた。
コンラートは、復興に成功していた。アウグスト公の教えを、その生きた人間を見る眼を、己の血肉とした領主として。
一方、アルテンフェルトは、その逆の道を歩んでいた。
フロリアン王子は、年を追うごとに、領民たちから絶大な慕われ方をするようになっていった。
彼は今日困っている農民がいれば、王家からどれだけ叱責されようとも、今年の税は免除しよう。心配しなくていいと言って、優しい微笑みを向ける。
罪を犯した家臣がいても、彼にも守るべき家族がいる。今回は執行を猶予しようと許してしまう。
最初のうち、アルテンフェルトはアウグストが遺した莫大な富と備蓄があったため、何の破綻も見せなかった。
民は口々に「王子様は、お優しい慈悲の光だ」と彼を神のように讃えた。
だが。
フロリアンは、コンラートとは違って、来年のために、今日目の前で苦しむ民を切り捨てることができなかった。
免税を重ねたことで、有事の防衛を担うべき兵への支払いが滞り、水路や砦の維持管理の予算も削られていく。
アウグストが築き上げた、何十年先をも見据えた巨大な安全保障の仕組みが、フロリアンの今日の優しさによって、内側からじわじわと、決定的に腐食し、崩壊を始めていた。
アリエノールは、アウグストの娘であり、本来はコンラートと同じように未来のために今日を切ることのできる為政者の能力を持っていた。
だからこそ、彼女は絶望的な事実に気づいてしまう。
(この方にアルテンフェルトを任せれば、私はグリュンベルクに行ける……)
そう、思いたかった。だが、とても思えなかった。
フロリアンにアルテンフェルトを任せてしまえば、父の遺したものがすべて無くなってしまう。遠くない未来、財政が破綻するか、近隣諸侯に食い荒らされるか。
アルテンフェルトを守れるのは、自分しかいない。
最初は、コンラートの元へ行くために彼を教育し、早く一人前にしようとしていたアリエノール。
だが、フロリアンが起こす優しすぎるトラブルの数々の後始末と補佐のために、彼女はアルテンフェルトという泥沼に、深く、深く縛り付けられていくことになった。
王子が来たから、これでコンラートのところへ嫁げるはずだった。
それなのに、王子が来てしまったせいで、彼女はコンラートのもとへ行けなくなったのだ。
二人の間で交わされる手紙は、時が経つにつれて、その色彩を決定的に変えていった。
最初の冬、フロリアンが到着したばかりの頃。
アリエノールからの手紙には、まだ希望が満ちていた。
『王家よりフロリアン殿下がお越しになりました。これでアルテンフェルトもようやく安定へ向かうでしょう。殿下への引き継ぎが済みましたら、すぐにでもあなたの屋敷へ……』
それを読んだコンラートは、「そうか。なら、もうすぐだな」と安堵し、いっそう復興に励んだ。
だが、二年目の手紙。
『殿下はまだ領内の複雑な事情に疎く、しばらく私が密に補佐する必要がありそうです。早く仕事を覚えていただけるよう、日々厳しい指導をしております。薔薇の苗は、こちらの庭師が大切に育ててくれております』
コンラートは、「仕方ない。アウグスト公が死んだばかりだ、当然の混乱だ」と自分に言い聞かせた。
三年目。
『フロリアン殿下がまた税の減免を独断で決めてしまい、親族や大商人たちとの折衝に追われております。殿下は「泣いている民を放っておけない」とおっしゃるのです。おかげで私の一日は、彼が引き起こす騒動の事後処理で埋め尽くされております……』
コンラートは、眉をひそめた。
「……あの王子、大丈夫なのか? アリエノールにそこまで負担をかけるとは」
まだ嫉妬ではない。しかし、彼女の手紙の大半が、いつの間にか「フロリアン」という存在に、彼の起こすトラブルに、彼の引き起こす現在に、浸食され始めている。
四年目。
『今年は、フロリアン殿下と共に北部へ巡察に赴きました。殿下は、農民たちの粗末な食事を美味しそうに召し上がり、彼らの頑固な不満を丸一日かけて聞き届けておられました。為政者としては甘すぎますが、不思議と、民の目は穏やかになっていくのです……。かつてお父様のいた頃のような、張り詰めた恐怖ではなく、温かい光が、あの地を包んでいるように見えました』
「…………」
コンラートは、手紙を見つめたまま、沈黙した。
アリエノール自身にも、一ミリの恋愛感情の自覚もない。すべては仕事の話、統治の話だ。
だが、かつてアウグスト公の冷徹な背中を見上げて育ったはずの彼女の文字に、フロリアンの甘さを否定しきれない、静かな戸惑いと、微かな憧憬のような温度が滲み始めていた。
一方、コンラートが送る手紙は、年を追うごとに眩しいほどの成功報告に満ちていた。
『水路が完成した。今年は去年の倍の麦が採れる』
『城壁の修復がすべて終わった。他国も容易には手を出せまい』
『市場が戻り、かつての活気がグリュンベルクに蘇りつつある』
アリエノールは、その手紙を読むたびに、心の底から嬉しく、誇らしかった。
(やはり、父の見込んだ男だ。彼は荒野に、見事な国を作り上げつつある)
そう思う。
だが、その手紙を読み終えた瞬間。
「アリエノール! すまない、また困ったことが起きて……君の知恵を貸してほしい!」
申し訳なさそうに、しかし全幅の信頼を瞳に宿したフロリアンが、パタパタと彼女の執務室に飛び込んでくる。
アリエノールはため息をつきながら、けれどその口元には、かすかな、しかし確かな生きた微笑が浮かぶのだ。
コンラートは、遥か彼方の迎えに行く未来のために、今を必死に削り、その未来の中に留まり続けていた。
フロリアンは、毎日の泥臭いトラブルを一緒に分かち合い、アリエノールと同じ今日という現在を生き続けていた。
二人の距離は縮まらない。コンラート自身の手による延期だった。
三年目、四年目。グリュンベルクは十分に立ち直り、本来なら、彼はアリエノールを迎えに行くことができた。
だが、完璧を求める領主となった彼は、もっと完璧な状態でアウグスト公に、彼女に、決して恥じない最高の伯爵として迎えに行きたかった。
その頑固さゆえに、自ら一歩を踏み出すのを遅らせた。
四年目の春、コンラートは白紙の羊皮紙に向かい、書きかけた。
『春には、一度そちらへ赴き、お前を――』
しかし、彼は羽ペンを止め、インクでその一文を黒く、乱暴に塗り潰した。
春になれば、新しい灌漑工事の総仕上げがある。自分が現場を離れるわけにはいかない。
「……多忙ゆえ、こちらのことは気にするな。春の工事が落ち着いたら、必ず行く」
そう書き直した。
コンラートが自分で消した、春に会いに行く時間。
それを、知らないところで、別の男がアリエノールと共に、菜の花の咲くアルテンフェルトの道を歩きながら過ごしている。
誰も裏切っていない。誰も、あの夜の約束を破ろうなどとしていないのに。
グリュンベルクの冬は、今年も例年通り、肌を刺すような冷たい強風が吹き荒れていた。
しかし、かつて戦火で崩れ落ちていたグリュンベルク城の屋敷は、今や見事に修復され、西側の壁からの隙間風は完全に塞がれていた。
暖炉には赤々と火が燃え、床には約束通り、厚い羊毛の敷物が敷き詰められている。
コンラートは、見事に領地を再建していた。
「伯爵閣下。本日の領内巡察の報告、および冬期の備蓄に関する書類でございます」
側近が、山のような書類を執務机の上においた。
「分かった。そこに置いておけ」
コンラートは短く答え、ペンを取った。
夜も更け、城内が静まり返る頃、コンラートはようやく最後の未決裁の書類に判を押し終えた。
肩の凝りをほぐすように首を回し、ふと、机の片隅に視線をやった。
そこには、一通の手紙が置かれていた。
アルテンフェルト公爵家の蝋印。アリエノールからの手紙だった。
届いたのは、三日前。
かつてのコンラートであれば。
彼女からの手紙が届けば、たとえ戦の最中であろうとも、何よりも先に蝋印を削り、貪るようにその文面に目を走らせていたはずだった。
今でも、彼女からの手紙を見るのは嬉しい。胸の奥が、温かく脈打つのを感じる。
だが。
コンラートは、アリエノールの手紙を見つめたまま、ペンを持った手を止めた。
彼の眼の前に、もう一枚、まだ判を押していない南の砦の補修予算に関する書類が残っている。これを今片付けておかなければ、明朝の軍事会議に差し障る。
「……先に、こっちを片付けるか」
コンラートは静かに呟いた。
そして、アリエノールからの手紙に手を伸ばすのを止め、未決裁の書類を一枚、自分の手元へと引き寄せた。
嫌いになったわけではない。
忘れたわけでもない。
愛していないなどと、口が裂けても言うつもりはなかった。
届いた恋文を開くことよりも、目の前の書類を処理することを、ごく自然に、優先してしまった。
ただ、それだけだった。
◇
同じ頃。アルテンフェルト公爵城。
アリエノールは、冷え切った執務室で、深夜まで書類と格闘していた。
彼女の細い指先はインクで汚れ、その顔には、隠しようのない疲労が張り付いている。
彼女の机の脇には、書きかけの、コンラートへの返書が置かれていた。
『グリュンベルクの復興、心より頼ましく思っております。こちらの冬も厳しく、親族たちの――』
そこで文字は途切れている。
アリエノールは、その書きかけの手紙を脇へと追いやり、再び公爵家の財政に関する、頭の痛くなるような数字の羅列が書かれた書類を開いた。
そのとき、コンコンと控えめな、しかしどこか親しげなノックの音が響き、扉が静かに開いた。
「アリエノール。すまない、こんな夜更けに」
入ってきたのは、フロリアンだった。彼の腕には、またしても何かの古い帳簿が抱えられている。彼の顔には、申し訳なさと、同時に彼女の姿を見たことによる心からの安堵が浮かんでいた。
「どうしても、北部の治水対策の予算で、君の意見を聞きたくて……。ああ、疲れているなら明日にしよう。すまない、また君に頼ってばかりだね」
アリエノールは、その書きかけの、コンラートへの手紙をそっと引き出しの中に滑り込ませた。
そして、ふっと柔らかい息を吐き出し、フロリアンに向き直った。その表情は、先ほどまで書類を睨みつけていた厳しいものが、どこか自然に、ふわりとほどけたような温かさを帯びていた。
「いいえ、殿下。お気になさらず。……ちょうど、私も一息つこうと思っていたところです。温かいお茶でも淹れさせましょう。その帳簿を見せていただけますか?」
「本当に? ありがとう、アリエノール。君がいてくれて、本当によかった」
フロリアンは嬉しそうに微笑み、彼女の隣の椅子を引いて座った。
アリエノールもまた、コンラートへの恋文を綴ることよりも、目の前のフロリアンの今日を助けることを、ごく自然に、何一つ疑うことなく最優先していた。
お互いに、最も深い場所で、あの夜の約束を、愛を、信じたままで。
けれど、二人の時間と人生は、もう二度と交わることのない別々の方向へと、静かに、しかし決定的に、滑り出していたのである。




