約束
アルテンフェルト公爵の執務室を辞したとき、外はすっかり夜の闇に包まれていた。
城内は、明朝の出陣を控えて独特の張り詰めた空気に満ちている。鎧の擦れ合う金属音、兵士たちの低い談笑、軍馬のいななき。これから始まる大戦への熱を帯びた気配が、冷えた夜気に紛れて城中に漂っていた。
コンラートは騒がしい兵舎を避け、静まり返った公爵邸の庭園へと一人で足を向けた。
秋の乾いた風が、暗闇の中で木の葉をざわつかせている。
コンラートは、あの夕暮れ時にアリエノールに言葉をかけられた大きな石碑の前に佇み、冷たい石肌を見つめていた。
アウグスト公から告げられた言葉が、いまだに脳裏で熱く脈打っている。
『自分の城も持たぬ男に、わしの娘はやらん。戻る場所を取り戻してから、改めて娘を迎えに来い』
それは、名門アルテンフェルトの当主としての冷徹な命令であり、同時に、一人の若者を一人前の男として送り出すための、これ以上ない発破だった。
(グリュンベルクを取り戻すこと。そして、アリエノールを妻に迎えること)
二つの未来は、今や一本の強固な鎖で繋がれた。これから始まる過酷な戦場にあっても、それが自分の魂を現世に繋ぎ止め、勝利へ向かわせる。
そう確信しながら、コンラートが夜空の月を見上げた時、背後から静かな衣擦れの音が聞こえた。
振り返ると、そこに彼女がいた。
月光をその身に浴びたアリエノールは、まるで夜の闇から浮かび上がった精霊のようにまばゆかった。かつて出会った日の少女の面影を確かに残しながらも、その佇まいは凛としており、公爵令嬢としての揺るぎない品格が漂っている。
彼女の涼やかな瞳が、まっすぐにコンラートを見つめていた。
「やはり、ここにおられましたね」
アリエノールは静かに歩み寄り、コンラートの隣で足を止めた。
「お父様との話は、終わりましたか?」
「ああ」
コンラートは小さく頷いた。
「……閣下から、きつい言葉をいただいた。自分の城も持たぬ男に娘はやらんと。グリュンベルクを取り戻し、伯爵としての格を証明しなければ、お前を我が妻として迎えることは許さないそうだ」
アリエノールは、月明かりの下で微かに唇の端を上げた。それは、いたずらを見つけた子供のような、彼女にしては珍しく柔らかい微笑みだった。
「お父様らしいですね。ですが、お父様も随分と不器用です」
「不器用?」
「ええ」
アリエノールは庭園の奥に広がる闇に視線を向けた。
「本当にあなたに娘をやる気がないのでしたら、あのような大軍の先鋒を任せたりはいたしません。お父様は、あなたが必ず勝ち、グリュンベルクの城を取り戻すと信じているのです。だからこそ、そのような条件を課すのですよ」
コンラートは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……お前も、そう信じているのか」
「当然でしょう」
アリエノールは、ためらいなく答えた。その瞳には、かつて庭園で「次は同じ失敗をしなければよいだけではありませんか」と言った時と同じ、容赦のない、しかし絶対的な信頼が宿っていた。
「五年間、あなたを見てきたと申し上げたはずです。今は、六年間になりました。あなたが、一度失った城をそのままにしておくような男ではないことくらい、誰よりも私が知っています」
コンラートは息を吸い、夜の冷気を胸に満たした。彼女の揺るぎない言葉が、明日の戦場に向かう彼にとって、最も頑丈な鎧になる。
「……グリュンベルクは、どのような場所なのです?」
アリエノールがふと、コンラートを見上げて問いかけた。
「私は、アルテンフェルトの領地から外へ出たことがありません。あなたが生まれ育ち、そしてこれから取り戻そうとしている故郷は、どのような国なのですか?」
その問いに、コンラートは少しだけ視線を彷徨わせた。
グリュンベルク。彼にとっては血であり、肉であり、取り戻さねばならない魂のありか。しかし、このまばゆく華やかなアルテンフェルトの光の中で育ったアリエノールにとって、そこは想像を絶するほど無骨で、荒涼とした土地に違いない。
「……公爵領のように、華やかな場所ではないぞ」
コンラートは、少し自嘲気味に口を開いた。
「年中温かく、黄金の麦畑が広がるこことは違う。冬には西から、刃のように冷たく乾いた強風が吹き荒れる。土壌は痩せていて、贅沢な果物や色鮮やかな花など、何一つ育ちやしない。ただ、厳しく冷えた荒野が広がっているだけだ」
「まあ」
アリエノールは驚く風もなく、ただ静かに耳を傾けている。
「それだけではないぞ」
コンラートは言葉を重ねた。これから彼女を連れていこうとする場所の厳しさを、あらかじめすべて提示しておかねばならないという、妙に生真面目な義務感が彼を突き動かしていた。
「屋敷も古い。戦火で半分は焼け落ち、壁は煤け、まともな修復も進んでいない。冬になれば、隙間風が館中を走り抜ける。お前のような令嬢が住めば、一晩で風邪を引いて寝込むだろう」
「直せばよろしいでしょう」
アリエノールは、平然と言ってのけた。
「私はアルテンフェルト公爵家の娘ですわ。こちらの腕の良い大工や石工を何人か連れてまいります。煤けた壁は綺麗に塗り直し、床には厚い敷物を敷き詰めましょう。隙間風が入り込む場所など、すべて塞いでみせます。……ふふ、私の好みの屋敷に作り変えてしまいますけれど、文句はおっしゃらないでくださいね?」
「……お前がそこまでするのか」
「当たり前でしょう。そこは私の家にもなるのですから」
アリエノールは、当然の事実を口にするように、ごく自然に言った。
「それに、冬が寒いのでしたら、お父様に頼んで、アルテンフェルト特産のあの厚くて軽い毛織物を幾巻か持たせていただきますわ。あなたにも、私とお揃いの温かい外套を縫って差し上げます。それさえあれば、隙間風など恐るるに足りません」
コンラートは、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
彼女は、公爵令嬢としてのきらびやかな生活に未練を抱くどころか、その地位や人脈をすべて「コンラートと共に泥にまみれて暮らす未来」のために使うことを、一瞬の迷いもなく決めている。
二人お揃いの、厚い毛織物の外套。
その些細で、具体的で、あまりにも愛おしい約束の温もりが、コンラートの胸を締め付けた。
「……庭も荒れ放題だ」
コンラートは、涸れかかった声を絞り出すようにして続けた。
「ここの美しい庭園のように、手入れされた花など一輪も咲いていない。石ころと雑草だらけだ」
「では、不格好な石でも二人で拾って、少しずつ並べましょう」
アリエノールは、月光に照らされた庭園の木々を見つめながら囁いた。
「私は、あの痩せた土地に、真っ赤な薔薇を植えたいのです。寒さに強い種類があるはずですわ。ここの優秀な庭師に、前もって育て方を聞いておきます。お揃いの外套を着て、二人で庭を耕し、薔薇を植える。……楽しそうだと思いませんか?」
「薔薇か。あの大風の中で、まともに育つかどうか……」
「育ててみせます。私たちが、二人で育てるのですから」
アリエノールはまっすぐにコンラートを見つめ返した。その瞳には、夢見がちな少女の幻想ではなく、揺るぎない覚悟が宿っていた。
コンラートは言葉を失った。
彼は気づいた。
アリエノールは、自分とお姫様と騎士のような、甘い夢物語を紡ごうとしているのではない。
もっと泥臭く、実体のある、つまらないけれど最高に愛おしい日常。
朝起きて、古い屋敷を少しずつ直し、痩せた土地に薔薇を植え、冬の寒風に身を寄せ合って耐える。そんな、本当に実現すると信じている者同士にしか語れない、生々しいほどに具体的な生活の話をしているのだ。
本当に、二人はその人生を、その未来を生きるつもりだった。
「……グリュンベルクの名物は、塩辛い麦味噌と、硬い干し肉くらいだぞ」
コンラートは、少し照れくささを隠すように、ぶっきらぼうに言った。
「お前のような、甘いお菓子や上品な肉料理ばかり口にしてきた姫の口には、到底合わんだろう」
「まあ。お味噌ですか」
アリエノールは楽しそうに、小さく片手を頬に当てた。
「好きになれる、と思いますわ。麦味噌を使ったスープなど良いかもしれませんわね。……いずれ子供たちにも、そのお味噌の味を教えなければなりませんから」
コンラートの心臓が、大きく脈打った。
「……子供?」
「ええ」
アリエノールの頬が、月光のせいで少しだけ朱に染まっているように見えた。
「男の子と、女の子、一人ずつがよろしいですね。男の子は……あなたに似て、不器用で、頑固で、けれど絶対に諦めない強い子にしましょう。女の子には、このアルテンフェルトの美味しいお菓子や、華やかなお祭りの話、おじい様がどれほど偉大で恐ろしい方だったか、たくさん話して聞かせるのです」
「……俺は不器用か?」
コンラートは眉をひそめた。
「ええ、とても。そうでなければ、こんな旅立ちの夜に、私に領地の脅し文句ばかり並べ立てて、私を怯えさせようとはいたしませんわ」
くすくすと笑うアリエノールの姿は、息が止まるほど愛らしかった。
コンラートは、胸の奥から湧き上がる狂おしいほどの愛おしさに耐えかね、一歩、彼女との距離を縮めた。
彼の手がゆっくりと持ち上がり、アリエノールの冷え切った小さな手をそっと包み込んだ。
アリエノールは拒まなかった。ただ、そのかすかな体温を分け合うように、コンラートの手をきゅっと握り返した。
二人の手の温度が混ざり合う。
絶対に勝つ。
故郷のグリュンベルクを取り戻す。古い城壁を立て直し、古い屋敷の壁を塗り直し、床には厚い敷物を敷き、隙間風が入る場所を埋めよう。アルテンフェルト特産の厚い毛織物の外套を二人の肩にかけ、痩せた土地に真っ赤な薔薇を植える。そして毎日、塩辛い麦味噌の温かい汁物を共に飲むのだ。
そのつまらなくて、静かな未来を、コンラートは全身全霊で信じていた。
そしてアリエノールもまた、同じ未来を、ごく当然の明日として信じていた。
「行ってらっしゃい、コンラート。グリュンベルクを……私たちの家を取り戻しに」
アリエノールは、その澄み切った瞳でまっすぐに彼を見つめ、静かに告げた。
「ああ」
コンラートは、彼女の手を力強く握り締めた。
「待っていてくれ、アリエノール。必ず、お前を迎えに来る」
二人の間に、大仰な愛の誓いはもう必要なかった。
ただ、月光の下で、二人の心は完全に一つになっていた。
この夜の約束は、嘘偽りのない本物であった。




