あなたなら出来る
コンラートがアルテンフェルト公爵家にやってきて、二年の歳月が流れていた。十四歳になった彼は、一門の端くれとして学問と武芸を叩き込まれる日々を送っていたが、その最中に、故郷からの知らせが届いた。
グリュンベルク伯爵――コンラートの実父が、死んだ。
父は、奪われた故郷を諦めてはいなかった。アルテンフェルト公爵から与えられたわずかな資金と、未だ忠誠を誓う旧臣たちをかき集め、グリュンベルク領の境界付近で絶えず揺さぶりをかけ続けていたのだ。しかし、その結末はあまりにも惨めなものだった。
父が最も信用し、幼いコンラートの守り役も務めた重臣が、敵方に寝返ったのだ。その裏切り者によって父は退路を断たれ、背後から突き殺され、その首は隣国の敵将へと差し出された。旧領奪還の夢は、内側からの裏切りによって一瞬で瓦解した。
アルテンフェルトの美しい中庭でその訃報を聞いたとき、コンラートは涙を流さなかった。
ただ、奥歯が軋むほど強く噛み締め、真っ青な顔で天を見上げた。
悲しみよりも先に、理解が彼の脳を支配していた。
(これが、今の時代なのだ)
父は優しかった。家臣を信じ、言葉を信じ、絆を信じた。だから背中を刺されて死んだのだ。
家臣すら、心から信じてはならない。父の死は、その単純で、しかし絶対的な乱世のルールを教えてくれた。
(俺は、絶対に父のようにはならない。裏切られるような隙を、一寸たりとも作らない。信じるのではない。俺の力で、彼らの生殺与奪を支配するのだ)
十四歳の少年は、父への悲しみさえ踏み越えるようにして、その魂をいっそう頑丈で冷酷な鋼へと鍛え上げていった。
◇
それからさらに三年が経ち、コンラートは十七歳になっていた。
背は大きく伸び、肩幅も広くなり、その眼光には若者らしい鋭さと、容易に他者を寄せ付けない威厳が宿り始めていた。
そんなコンラートに、アルテンフェルト公爵アウグストは、初めて実務を任せた。公爵領の西端にある一地区の、今期の年貢徴収の監査と、現場の監督である。
コンラートにとっては、己の力を示す絶好の機会だった。彼は生真面目なまでに、前年の収穫量、耕作面積、各村の戸数、規定の税率、そして過去の滞納額のすべてを調べ上げた。
監査を進めるうちに、ある村が明らかに予定額の年貢を納めておらず、滞納していることが発覚した。現地の役人は申し訳なさそうに、コンラートに具申した。
「コンラート様。今年はこの村の納付を少々、待ってやってはいかがでしょう」
コンラートは帳簿を睨みつけたまま、冷たく返した。
「なぜだ」
「はあ……この辺りでは、昔からそのように対応しておりまして……」
「理由を聞いている」
現地の役人は視線を泳がせ、明確な理由を答えられなかった。
コンラートの脳裏に、十四歳の時の記憶がよみがえる。
(人を信じるな。甘い言葉に騙されるな)
「昔からそうしている」「村人も苦しい」「来年には必ず払う」
そんな曖昧で実体のない言葉を信じるのは、背中を刺されて死んだ父と同じだ。
「規定通りに徴収しろ。滞納分も含めて、一分の猶予も残さずにな」
コンラートの命令は絶対だった。彼はこれまで未納だった税を余さず全額回収した。規則に対する違反もなければ、数字の計算ミスもない。完璧な徴税任務だった。
コンラートは誇らしげに、アウグスト公爵の執務室へと足を運び、胸を張って報告書を差し出した。
「予定額を全額徴収いたしました。滞納分も含めれば、昨年の税収を大幅に上回ります」
しかし、アウグスト公爵は報告書に目を通すと、ただ低く呟いた。
「そうか」
その顔に、称賛の笑みはなかった。公爵は報告書を机に放り投げ、コンラートをまっすぐに見据えた。
「それで、来年はいくら取れる?」
「……今年と同程度、あるいはそれ以上かと」
「取れんぞ」
アウグストの声は、冷徹な刃のようにコンラートの耳を打った。
「……? どういうことにございますか。私は規定通りに――」
「その村は、前年に洪水と冷害が重なり、備蓄すらまともにない状態だった。お前が命じた税を払うには、村人たちは来年植えるための種籾を売り、耕作のための馬を売り、自らの土地を手放すしかなかった。お前は今年の税収を確保するために、来年以降の税を生み続ける生産力を完全に破壊しようとした」
コンラートは息を呑んだ。全身の血が引いていくのを感じた。
「……ですが、税は全額納められたと」
「ああ。帳簿の上ではな」
コンラートは眉を寄せた。
「種籾と農耕馬は売らせておらん。土地もだ。お前の命令を知った時点で、わしが止めた」
「…………」
「勘違いするな。お前が村を守ったのではない。わしが、お前から村を守ったのだ」
「ですが……税を取るのが、徴税官の仕事ではないのですか」
「違う」
アウグストは一蹴した。
「来年も税を払える民を残すのが、領主の仕事だ」
「……ですが、規則は規則です。彼らだけを免じれば、他の村に示しがつきません」
食い下がるコンラートに、アウグストは冷ややかに問いかけた。
「だから、お前は帳簿をよく読んだのだな」
「はい」
「畑を見たか?」
コンラートは、言葉に詰まった。
「……いえ」
「農民の蔵は?」
「……」
「馬小屋は?」
「……」
「では、お前はいったい何を見て税を決めた?」
「……帳簿を」
「そうだ。だから失敗した……これを見ろ」
公爵から渡された報告書を見る。
「…………これは」
「お前の成果にかかった費用だ」
そこには、公爵家からその村へ緊急供与された種籾、農耕馬、資金のすべてが記されていた。
「大したものだな、百を取り立てるために、わしに百五十を使わせた」
コンラートは一言も返せなかった。
完璧だと思っていた己の仕事が、領地を治める者としては最悪の破壊行為であったという事実。そして、自分は領主としての本質を何一つ理解していなかったという自覚。
その痛烈な敗北感は、これまでの人生で味わったことのないほど彼を叩きのめした。
夕闇が迫る公爵邸の庭園。
人目を避けるようにして、コンラートは大きな石碑の影に佇み、拳を血がにじむほど握りしめていた。
胸の中を渦巻くのは、やり場のない恥辱と挫折感だ。自分はただ、完璧にやろうとした。父のようになりたくなくて、誰も信じず、数字だけを見て、正しくやろうとした。なのに、そのすべてが、ただの浅はかな暴挙に過ぎなかったというのか。
冷たい風が少年の長い髪を揺らしたとき、背後から静かな足音が近づいてきた。
振り返らなくとも、その主が誰かは分かっていた。
「お父様から聞きました」
アリエノールが、いつもの凛とした涼しい顔で、そこに立っていた。
なぐさめる風など微塵もない。その眼差しはどこまでも平坦で、だからこそコンラートの傷口に、初手から鋭い打撃を叩き込んできた。
「……そうか」
「失敗なさったそうですね」
「……わざわざ、それを言いに来たのか」
コンラートは顔を背け、奥歯を噛み締めて低い声で唸った。
「いいえ。随分落ち込んでいると聞きましたので」
「なら放っておけ」
「嫌です」
きっぱりとした拒絶だった。十二歳の宴の夜から続く、誰も彼女の正論に抗えない、純粋で強靭なまでの芯がそこにあった。
「お父様のおっしゃったことは正しいと思います。……あなたは、領主として失敗しました」
「……分かっている!」
コンラートはついに感情を抑えきれず、アリエノールを鋭く睨みつけた。彼女の言葉は、彼の自尊心をこれ以上ないほど容赦なく切り裂いていた。
だが、アリエノールは眉ひとつ動かさず、静かに問いかけた。
「では、何をそんなに落ち込んでいるのです?」
「何……?」
「失敗したのでしょう。ならば、次は同じ失敗をしなければよいだけではありませんか」
「簡単に言うな!」
「簡単だとは申しておりません」
アリエノールはまっすぐにコンラートの瞳を見つめた。
「私は、あなたなら出来ると思っています」
「……お前が俺の何を知っている」
「十二歳のあなたは、領地を失ってここへ来ました」
アリエノールの声は、どこか遠い記憶を手繰るように優しく、けれど絶対に揺るがない強さを持っていた。
「十四歳で、お父様も亡くされました。……それでも、あなたは今ここにいるではありませんか」
「…………」
「ならば今回も、立てばよいのでしょう?」
コンラートは言葉を失った。
彼女は、優しい言葉で甘やかしに来たのではない。惨めな自分を可哀想がって、なだめに来たのでもない。
立たせに来ているのだ。あなたなら、これしきのことで折れるはずがないと、乱世の冷酷な地平に、彼を力強く引きずり上げて、ただ立たせようとしている。
「お父様は、あなたにもう仕事を任せないとおっしゃいましたか?」
アリエノールはさらに言葉を重ねた。
「……いや。来年は畑を見ろ、と言われた」
「では、なぜです? あなたに出来ないと思っているなら、お父様がわざわざ叱る必要などないでしょう。お父様は、あなたが領主になれると思っているから教えたのです」
「……」
「そして私も、そう思っています」
心臓が、跳ねるように脈打つのをコンラートは感じた。
夕闇の薄光に照らされた彼女の美しい横顔が、ただただ眩しかった。
「……お前は、俺を買いかぶりすぎだ」
掠れた声で、コンラートは精一杯の自己防衛のように呟いた。
すると、アリエノールは微かに唇の端を上げ、少しだけ不思議そうな、けれど絶対の確信に満ちた目を彼に向けた。
「そうでしょうか。五年も見ておりますので、それなりに正確だと思いますけれど」
――五年も、見ておりますので。
その一言が、コンラートの胸に、言葉にならない衝撃となって突き刺さった。
彼は愕然とした。
自分だけが、あの日からずっと彼女を目で追っていたのだと思っていた。自分だけが、彼女というまばゆい光に囚われ、狂おしいほどの執着を抱いているのだと。
だが、違うのか。
彼女もまた、この五年間、自分を一人の男として、一人の領主として、じっと見つめ続けていたのだろうか。
アリエノール本人は、特別なことを言ったつもりなど毛頭ないのだろう。ただ事実として、五年間彼を観察した結果の、自然な能力評価を告げたに過ぎない。そんな涼しい顔をしている。
だが、コンラートの魂は、この瞬間、完全に引き返せない場所へと射抜かれていた。
胸を締め付けるほどの愛おしさと、彼女をいつか自分の妻にするのだという情熱が、全身を駆け巡った。
アウグスト公は帳簿と現実の差で彼を殴りつけ、アリエノールは事実と信頼をもって彼を立たせる。
このアルテンフェルトの親子は、なんと強大で、なんと愛おしいのだろう。
「……次は」
コンラートは、固く握りしめた拳をゆっくりと開き、自分の両の手のひらを見つめた。
「次は、帳簿ではない。畑を、蔵を、馬小屋を、この両の眼で直に見る。二度と、あのような愚は犯さない」
「ええ。お待ちしております」
アリエノールは満足そうに小さく頷き、静かに背を向けて去っていった。
その背中を見送りながら、コンラートは、生涯をかけて彼女を娶り、彼女の誇りを守り抜くことを、誰にも言わずに魂に誓った。
◇
そして、コンラートが十八歳を迎えた年。
待ち望んでいた瞬間が訪れた。
西の国境情勢が大きく動き、隣国の新興勢力に対するグリュンベルク領奪還戦が決定したのだ。
アルテンフェルト公爵アウグストは、名門の威信をかけて、コンラートを先鋒に据えた大軍の派遣を決定した。
出陣を控えた前夜。
コンラートは再びアウグストに呼び出された。
公爵は、戦兜を傍らに置き、静かに酒杯を傾けていた。
「コンラート。わしの娘が、お前をどう見ているかは百も承知だ。お前も、同じであろう」
コンラートは、背筋を伸ばし、迷いのない瞳で主君を見つめた。
「はい。我が命に代えても、アリエノール姫をお守りいたします」
「ならば、戻る場所を取り戻してから、改めて娘を迎えに来い」
アウグストは、酒杯をテーブルに置き、低く、力強い声で告げた。
「自分の城も持たぬ男に、わしの娘はやらん。グリュンベルクの城を再びお前のものとし、伯爵としての格を取り戻したとき、初めてお前を我が婿として認めよう。……死ぬなよ、コンラート」
「――はっ。必ずや、故郷を取り戻し、姫を迎えに参ります」
コンラートは、深く、深く頭を下げた。
この瞬間、彼の心の中で、グリュンベルクを取り戻すことと、アリエノールを妻に迎えることは、一本の道の先にある未来となった。
この約束がある限り、自分は負けない。どんな泥を啜ろうとも、必ず勝ち、彼女を迎えに来る。
コンラートはそう信じて疑わなかった。




