第三話 朝の足音
目を覚ますと、私は自分の布団の中にいた。
カーテンの隙間から朝日が差している。
スマートフォンの時計は、いつもより少し早い時間を示していた。
部屋は静かで、城も霧も塔もない。
右足を見る。
五本指ソックスは、やはり破れていた。
親指の先が裂けて、肌が出ている。
でも布団の中に破片はなかった。
私はしばらくその足を眺めていた。
夢だったのかもしれない。
寝ぼけて見た幻かもしれない。
けれど、親指の先には小さな赤い跡があった。
何かを抜いたような、細い傷。
私は起き上がり、破れたソックスを脱いだ。
いつもなら、まだ履けると思って洗濯機に入れただろう。
親指だけなら、靴を履けば見えない。
誰にも気づかれない。
まだ使える。まだ大丈夫。
でもその朝、私はそれをゴミ箱に入れた。
それから、スマートフォンを開き、新しい五本指ソックスを注文した。
迷わず、三足セットではなく、少し高い丈夫そうなものを一足だけ選んだ。
次に、連絡先を開いた。
昔、手を離した相手の名前がまだ残っていた。
送る言葉を考えた。
謝罪なのか、近況なのか、何かを取り戻したいのか、自分でも分からなかった。
結局、送らなかった。
けれど削除もしなかった。
私はただ、その名前を見て、胸の奥が痛むのを許した。
痛みがあることと、戻ることは同じではない。
忘れないことと、縛られることも同じではない。
私はその朝、初めてそんなふうに思えた。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
そこには、少し疲れた顔の私がいた。
昨日までと同じ顔だ。劇的に変わったわけではない。
強くなったわけでも、正しくなったわけでもない。
ただ、私は自分の顔を最後まで見た。
目をそらさなかった。
会社へ行く支度をしている途中、ふと靴箱の奥が気になった。
しゃがんで覗くと、履かなくなった靴がいくつも押し込まれていた。
少しきつい靴。
歩くと痛い靴。
高かったから捨てられない靴。
誰かに褒められたけれど、自分では好きではない靴。
私はそれらを一足ずつ出した。
玄関に並べると、小さな城壁のようだった。
私は笑った。
城は、まだ完全には消えていないらしい。
でも今度は、壊せる。
一つずつ選んで、残すものと手放すものを決めればいい。
誰かに命じられなくても、自分で門を開ければいい。
その日、私は少し早く家を出た。
右足の親指は裸のままだったので、別の靴下を履いた。
五本指ではない普通の靴下だった。
指同士がくっついて、少し落ち着かなかった。
けれどそれも悪くなかった。
駅へ向かう道で、私は空を見上げた。
灰色ではない。
薄い青が広がっている。
高いビルの向こうに、朝の光が当たっている。
私はその形を見て、ふと城を思い出した。
五つの塔。閉ざされた門。
割れた鏡。冷たい破片。
あれは夢だったのだろう。
きっと、夢だった。
けれど夢の中で拾ったものは、現実にも少し残ることがある。
捨てられた靴下。
送らなかったメッセージ。
鏡から目をそらさなかった数秒。
自分の足が冷たいと気づくこと。
駅の階段を上るとき、右足の親指が靴の中で少し動いた。
私はその小さな動きを感じながら、改札を抜けた。
もう城には戻らない、と思った。
いや、違う。
戻る日もあるだろう。
人は何度でも、自分の中に城を建てる。
傷を守るために壁を作り、痛みを隠すために塔を伸ばし、誰も入れないように門を閉ざす。
私ももまた、きっと同じことをする。
でも次に城を見つけたら、私は知っている。
破片は敵ではない。
壊れた証でも、恥でもない。
それは、どこが欠けているのかを教えてくれる地図だ。
私は歩きながら、足の指を一本ずつ動かした。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
五本とも、ちゃんとそこにあった。
それだけで、朝の世界は少しだけ広くなった。




