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第7話:『隠された悪意と、無音の大人包囲網』


ガチャン。


クラスの誰かが、シンクの横に置かれたプラスチック製のゴミ箱に、不要になったプリントを丸めて放り込んだ。その何気ない生活の音が響いた瞬間、忠敬の胸ポケットが微かにガタガタと震え、次いで左手首から「忠敬」と短く緊張した声を上げた。


平和な家庭科室の、目に見えないすぐ裏側で。新しい悪意が、すでに冷たく牙を剥き始めていた。


(……なんだ?)


忠敬が胸ポケットを覗き込むと、あの物置の事件で保護した壊れかけた鍵の小人が、涙目で必死に上を見上げて叫んでいた。他の誰にも聞こえない、忠敬だけに届く悲鳴だ。


『お兄ちゃん! 仲間からのSOSだ! いま、ゴミ箱のフタの裏にいるシールの奴が、怯えて泣いてるんだ!』


忠敬がシンクの横にあるゴミ箱へと目を凝らす。すると、フタの裏側で、隠しカメラを固定している強力両面テープの小人が、ベソをかきながら必死に手を振っていた。その足元には、真っ黒で不気味な単眼を持つ、機械の服を着た冷酷な表情をした小人が静かに鎮座している。


『助けて! この黒い丸、自分にくっついてる細い線をアンテナにして、すぐ近くの部屋にいる男に向かって、みんなの様子をベラベラと生配信してるんだ! ずっとこっちを睨んでて怖いよぉ!』


(隠しカメラ……! 誰がこんなところに……!)


その声に忠敬はプリントに書き込んでいた手を止め、湧き上がる戦慄を平然とした表情の裏に抑え込んだ。


左手首のクロノが文字盤の上で、内蔵の電波センサーを見つめながらボソリと告げる。

「主、僕のBluetoothやWi-Fiの簡易スキャン画面にも、この家庭科室の至近距離から発信されている強い電波のログが出ているよ」


忠敬は自身のスマートフォンを取り出し、通常のWi-Fi設定画面を開いた。そこには、学校の機材を装った平凡な名前――『Link-Network-G3』という不審な電波が、ゴミ箱のすぐ近くで電波強度マックスの状態で表示されていた。



忠敬は手元にある調理実習の感想プリントをさりげなく裏返し、ペンで素早く『声に出さずにこれを見て』とだけ書き込んだ。それを隣の白雪さんに見えるようにスッと机の上に差し出す。


白雪さんはすぐに気づき、プリントの文字に目を落とした。彼女が(これってなにを?と)訝しげな声を出すのを喉元で踏みとどまったのを確かめてから、忠敬は自分のスマートフォンの画面を彼女に見せた。


『偶然気づいたんだが、Wi-Fi一覧にあるこの機材名、市販のワイヤレス隠しカメラの初期設定名だ。発信源はあのゴミ箱のフチ。今も誰かに音声と映像が生配信されてる。すぐ近くに犯人がいる。』


画面を凝視した白雪さんの表情が、一瞬凍りつく。だが、さすがはあのストーカー事件を潜り抜けた学級委員長だ。ここで大声を上げれば相手に気づかれると瞬時に理解し、小さく、しかし強く頷いて見せた。


白雪さんは自身のスマートフォンを取り出すと、パスワードすら設定されていないその『Link-Network-G3』をタップして接続した。専用のプレビュー画面を開くと――画面の中に、今まさに背中を向けて感想文を書いているクラスメイトたちと、教卓に立つ家庭科の先生、そして自分たちの姿がリアルタイムで鮮明に映し出された。


一瞬息を止めた白雪さんは、自分たちが映るその生々しい映像を開いたままスッと立ち上がる。片付けの指示を受けるフリをして、自分のプリントの裏に『声も聴かれています』と書き込むとすぐに丸め、教卓にいる家庭科の先生のもとへと歩み寄った。そして、自分のスマートフォンの画面とプリントを先生に差し出した。


画面に表示された映像と『声も聴かれています』という文字を見た家庭科の先生が、息を呑んで顔を強張らせた。目の前に確かな証拠と警告を突きつけられたのだ。大人として事態の異常性を察知するには、それだけで十分すぎるほどだった。


しかしすぐに、ここで自分が慌てて大声を上げたりすれば、映像を見ている犯人に気づかれて逃げられると瞬時に察したのだろう。すぐにいつも通りの表情に戻し、自身のスマホには一切手を触れず、映像に映る自分の顔の角度すら変えないまま、クラスの生徒たちに向けていつも通りにこやかな声を響かせた。

そこには、大人として子供を守るという決意があった。


「みんな、ごめんなさい。次の片付けに使うチェック表を、職員室の机に忘れてきちゃったわ。白雪さん、量があるから一緒に来てくれるかしら。みんなは次の指示があるまで、席に座ったまま感想を書き進めておいてね」

「はい、わかりました」

白雪さんが手際よく応じる。


調理実習中に先生がプリントを取りに席を外すなど、実によくある光景だ。これなら、カメラ越しに家庭科室を覗き見ている犯人も、ただのうっかりミスだとしか思わないだろう。先生は白雪さんを伴い、何食わぬ顔で家庭科室の扉を開けて外の廊下へと出ていった。


扉がパタンと閉まった瞬間、忠敬は自分の席で感想文を書くフリをしながら、左手首の時計に目を落とした。文字盤の上では、目を閉じたクロノが腕組みをしながら、淡々と状況を実況している。


「警備員室のシステムに緊急フラグが立ったよ。どうやら先生が職員室に駆け込んで、すぐに手配を回したようだね。スタッフ2名が今、こちらのフロアへ向けて移動を開始した。到着まであと45秒。……犯人はまだ、室内の映像に夢中で隣の空き教室から動いていないよ」


忠敬は後ろの席の佐藤やその他大勢の生徒に紛れながら、その時が来るのをじっと待ち構えた。





「――そこまでだ。大人しくスマートフォンを置きなさい」


数十秒後、家庭科室の外の廊下から勢いよくドアを開ける音と、学校の警備員の、硬く低い声が響いた。直後、「な、なんだお前らは! 離せ!」という若い男の怒鳴り声と、激しい足縺れの音が聞こえる。クラスメイトたちが「え? 何事?」と一斉に扉の方を振り返る中、忠敬は静かにペンを置き、立ち上がった。


野次馬の生徒に紛れ廊下に出ると、そこにはパーカーを羽織った若い男が、2名の警備員に両腕を完全に抑え込まれ、壁に押し付けられていた。男のスマートフォンは白雪さんが素早く拾い上げ、すでに画面は駆けつけた教頭先生の手へと渡っている。


「君、見かけない顔だが……なぜ我が校の家庭科室を盗撮し、ネットに生配信しているんだ。一体何の目的だ」


教頭先生が問い詰めると、男は髪を振り乱していたが、観念したようにククッ、と低く笑った。


「目的? そんな大層なもん、あるわけないだろ。……俺はただ、ゲームのディーラー(胴元)をやってただけだよ。数年前にここを卒業してから、ずっと暇でさ」


男は、画面に映る暗号化された海外の賭博サイトを指さし、歪んだ目で大人たちを見つめた。


「ネットの裏側じゃ、いま数千人の大人が大金を賭けて、この実習を凝視してたんだ。『今日の調理実習で、誰が最初に包丁で指を切るか』『誰がコンロの火を袖に引火させるか』ってな。母校だから忍び込むのは簡単だったし、ここの生徒はみんな真面目で退屈だけど、中には必ず、あの色黒(佐藤)みたいに調子に乗って強火で暴走する雑な奴が混ざる。人間ってのは、ちょっとした空気の緩みさえあれば、外から手を下さなくても勝手に大事故を起こすんだよ。そのマヌケな自滅の瞬間に、莫大な金が動く。最高にエキサイティングだろ?」


男の言葉にある、平穏な日常をただの「ギャンブルのコンテンツ」として消費する、現代的で底冷えするような悪意。大人たちが言葉を失って静まり返る中、遠くからパトカーのサイレンが微かに響き始めた。



手首のクロノが、冷徹なトーンで時報を告げる。

「マスター端末の配信アプリの強制切断を確認。バックアップのデータも、すべて白雪のストレージへ吸い上げたよ。警察への決定的な証拠提出は完了だ。……主人の心拍数、正常。完全な勝利だね」


忠敬は静かに息を吐き、男のポケットから零れ落ちていたスマートフォンの小人へ目をやった。その小人は、狂気に満ちた主人のログを一番近くで学習し続けてきただけあって、怯えるどころか、液晶画面のフチにふてぶてしく腰掛け、つまらなそうに煙草のようなものを吐き出す仕草をしていた。


『あーあ。オッズも最高潮だったのに、ご主人のヘマでゲームオーバーかよ。ま、ハッカー気取りのニワカに付き合うのも飽きてたし、警察に没収された方が、次の面白いデータが拾えて楽しそうだけどな』


鼻で笑う不敵なスマートフォンの小人を冷ややかな目で見つめ、忠敬は小さく息を吐いた。





放課後。

警察の事情聴取や学校側の対応もすべて終わり、家庭科室には夕暮れの赤い光が長く差し込んでいた。クラスメイトたちはすでに下校し、残されたのは片付けの最終確認をする白雪さんと、それに付き合った忠敬の二人だけだった。


「……本当に、今日は助かったわ。潜木くん」


白雪さんが長い黒髪を耳にかけながら、窓の外の夕焼けを見つめる。いつも教室で見せる冷徹なほどの完璧さはそこになく、徒歩での帰り道や、こうして二人きりの時にだけ見せるようになった、少し肩の力が抜けた素直な表情だった。


「あの電波の名前を見た時、またあの事件みたいにゾッとした。でも、潜木くんが冷静にプリントで指示をくれたから、私も焦らずに動けた」

「いや、俺はただ電波を見つけただけだよ。一番動いたのは白雪さんと先生だ」


忠敬は淡々と答えた。その言葉に嘘はなかったが、白雪さんは小さく吹き出すと、どこか楽しそうに忠敬をまっすぐに見つめた。


「ふふ、またそうやって他人事みたいに言うのね」

彼女は教卓の縁に軽く手を置き、いつもの学級委員長としての壁を取り払った柔らかいトーンで言葉を続ける。


「でも、今回の件で本当によく分かったわ。潜木くんがいてくれるだけで、私の班の安全マージンは完璧になるみたい」

「……買い被りだよ。それに、次からはもう勘弁してくれ。俺は普通に、静かに生活したいだけだからな」


忠敬が少し呆れたように苦笑いすると、白雪さんも満足そうに「ふふ」と柔らかい笑い声を漏らした。この不思議な『勘』のことは、余計な詮索をせず、ここだけの秘密にしておくのが一番スマートなのだと分かっているようだった。


左手首のクロノは気を利かせて何も喋らなかったが、一度だけ、滑らかにトントンと軽い振動を返してきた。それは「全てうまくいってよかった」とでも言うような、お節介な相棒からのちょっとした労いのように感じて、忠敬はふと笑った。


夕暮れの家庭科室に、下校する徒歩の2人の静かな足音と、片付けを終え、綺麗になった調理器具たちが満足げに鳴らした小さな金属音が、心地よい余韻となって響き渡っていた。



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