第8話:『100点の答案と、スルーできない赤点警報』
よく晴れた平日の放課後。
窓から差し込む西日がオレンジ色に教室内を染める中、パラパラと紙がめくられる音と、一喜一憂するクラスメイトたちの声が響いていた。
「よし、これで歴史の小テストの返却は終わりね」
歴史の担当教師が教卓のプリントをまとめ、教室を出ていく。その直後、教室のあちこちから天国と地獄が同時に来たような歓声と悲鳴が一斉に湧き上がった。
それは生徒と、それぞれの机の上に広げられた文房具の小人達の声だ。
特に、隣の席の白雪さんが机の端に置いた歴史ノートの小人は、いつになく興奮した様子で、その小さな胸を張って跳ね回っていた。
『見たか! 潜木くんに見てもらったあのページ、まるまる大問3番に出たんだぞ! 俺の努力が報われたんだ!おい、隣の筆箱、お前ももっと俺とご主人様を称えろ!』
ノートの小人にドヤ顔で詰め寄られた筆箱の小人が、ジッパーの口をがたがたと動かして『分かったから落ち着けよ、お前が揺れると上のシャーペンが落ちるだろ』と呆れたように返している。
忠敬がさりげなく白雪さんの手元へ視線をやると、机の上には綺麗にまとめられたノートと、その上に重ねられた「100点」と赤文字で大きく書かれた答案用紙が置かれていた。
「潜木くん、本当にありがとう」
白雪さんは答案を丁寧に歴史のノートへと挟み込みながら、忠敬にだけ聞こえるような、少し低めの柔らかいトーンで話しかけてきた。
「潜木くんのあの時の『勘』のおかげで、迷わずに直前の復習ができたわ。本当に助かった」
「いや、俺はただ怪しいと思ったページを言っただけだよ。白雪さんが毎日居残りで一生懸命勉強していたからこその100点だろ」
忠敬は淡々と答えた。
余計な詮索をせず、ただ事実だけを口にする彼のスタンスに、白雪さんは「ふふ、そうね。そういうことにしておくわ」と笑った。
二人の間だけで完結している、あの一連の事件を経て出来上がった不思議な秘密の共有。これくらいの距離感が、忠敬にとっても一番心地よかった。
だが、そんなやりきった余韻を、正面から派手にぶち壊す男がすり寄ってきた。
「忠敬ぇ……なぁ、忠敬……」
自分の答案用紙を頭の上に乗せ、今にも魂が口から抜け出しそうな顔をした佐藤が、色黒の顔をこれ以上ないほど歪めて忠敬の机に突っ伏した。
「なんで俺にはその神がかった『勘』を分けてくれなかったんだよぉ……! 歴史、歴史が死んだ……!」
佐藤が頭から剥ぎ取った答案には、真っ赤なインクで「24点」と、見るも無残な数字が殴り書きされていた。その筆跡には、先生の落胆と呆れがにじみ出ていた。
「お前はまず、授業中にシャーペンを回すのをやめて教科書を読め。自業自得だ」
「冷てえ! 今回の忠敬、白雪さんには優しかったのに俺には冷徹すぎるだろ!」
「当たり前だ、勉強量が違いすぎる」
忠敬がジト目で佐藤を突き放した、その瞬間だった。
佐藤のズボンのポケットから、クシャクシャに折れ曲がった前回の世界史のプリントの小人が、半泣きでひょっこりと顔を出した。他の誰の耳にも届かない、忠敬にだけ聞こえるお節介なリーク情報だ。
『ねえ聞いてよぉ、後ろの席の潜木くん! この色黒のご主人、歴史だけじゃなくて、明日の理科の小テストの範囲が書かれたプリントも、部室の部活用バッグの底にクシャクシャに丸めて放置してるんだよ! このままだと明日も確実に赤点だよぉ!』
(……なんだって?)
忠敬が心の中で眉をひそめた瞬間、間髪入れずに左手首のクロノが文字盤の上でピピッと短く振動を返した。クロノは、文字盤の上で何かのデータを見ながら、淡々とトドメを告げる。
「主、彼の言う通りだ。週末の練習試合について、“明日の理科で赤点なら出場停止”という部活の連絡網を感知したよ。……友達思いな主は、今回もスルーできなさそうだね」
クロノはハキハキとした声で、しかしどこか楽しげに、忠敬に現実を突きつけてきた。
どうやら、今日もスルーは難しそうだ。
「……はぁ」
忠敬は小さくため息を漏らすと、突っ伏している佐藤の襟元を掴んで強引に引き起こした。
「おい佐藤、お前ちょっと今から部室行くぞ」
「ええっ!? なんでだよ急に! 俺は今、24点の傷を癒すためにマッグに行きたい気分なんだよ!」
「いいから行くんだよ。急にピンときたんだよ。プリントあるだろ、お前の部活バッグの中に。探すの面倒だから中身、全部その場にひっくり返せ」
「ひ、ひええ……!? なんでバッグの中にクシャクシャになったプリントがあること知ってんだよお前! 怖えよ!」
佐藤が悲鳴を上げる中、忠敬は彼を半ば引きずるようにして席を立った。その様子を見ていた白雪さんは、相変わらずの二人のやり取りに「ふふ」と楽しそうに笑いながらノートをカバンへしまった。
ガラガラ、と前扉を開けて廊下へ出ると、佐藤はまだ「マッグ……俺の、ジューシーチキン赤マッグ……」とうわ言のように呟いていた。
(明日の理科で赤点取ったら出場停止だってのに、食欲だけは一人前かよ)
忠敬が心の中で毒づきながら、佐藤と部活棟の階段を下りていく。夕暮れの部室前は、すでに着替えを始めようとする運動部員たちの声でそれなりに賑わっていた。
佐藤の所属する部活の部室のドアを開けると、(ボールから顔をのぞかせた小人が『佐藤のバッグあれ!かわいそうだから洗えって言ってやってよ!』と忠敬をアシストした)すぐに隅に置かれた泥汚れのひどいスポーツバッグを忠敬が指さす。
「ほんと汚えな。ほら、開けろ。底の方だ」
「マジでなんなんだよぉ……。霊能力者かよ……」
佐藤が怯えながらバッグのジッパーを開け、中身の着替えやタオルを雑に引っ張り出す。その最奥、プロテインのシェイカーの影に、完全にボール状に丸められた紙クズが転がっていた。
忠敬がそれを拾い上げると、手のひらの上で、クシャクシャになった理科のプリントの小人が、涙目で声を枯らして訴えかけてきた。
『うう、お兄ちゃん、助けてくれてありがとう! この色黒のご主人、僕をプロテインの粉まみれにした挙句、一番大事な【明日の試験範囲:酸と塩基の反応】のページを一度も開いてくれなかったんだ! 敵はp.58のイオン反応式のグラフだぞ! そこが100%出るって、職員室の印刷機の小人がインクまみれで言ってたんだから!』
(印刷機の小人のリーク情報、生々しすぎるだろ……。てか、酸と塩基の反応か。佐藤が一番苦手な計算問題の山じゃないか)
あまりの絶望的な範囲に忠敬が内心で白目を剥いていると、廊下から「あ、佐藤くん、潜木くん。お疲れ様」と、おっとりとした声がした。振り返ると、大きな部活バッグを肩にかけた高橋くんが立っていた。前回の調理実習で、肉じゃがのピンチを救っていたクラスメイトだ。
「高橋! お前、理科のノート持ってるか!?」
佐藤が、まるで地獄で蜘蛛の糸を見つけた罪人のような形相で、高橋くんの両肩をガシッと掴んだ。
「えっ!? あ、うん、持ってるけど……。これから部活だし、カバンの中に――」
「頼む高橋! 明日の理科、俺が赤点を回避するために、お前のその綺麗なノートを俺に捧げてくれ!忠敬は怖いし! プリント失くしてマジで範囲が分かんねえんだよ!」
「え、ええっ……!? プリント失くしちゃったの? それは大変だけど、でもこれから部活の練習が……」
高橋くんが困惑して断ろうとした、その瞬間。忠敬が佐藤の肩を後ろから冷たく叩いた。
「おい佐藤。高橋に無理言うな。優しい俺が怖いんだろう?お前はもう大人しく、週末の練習試合の『出場停止処分』を受け入れてマッグへ行け」
「……は? 出場停止ってなんだよ。俺そんなの聞いてねえぞ」
「明日の理科で赤点を取ったら出場停止だって、今さっき顧問の連絡網で決まったらしいぞ。お前、完全に狙い撃ちされてる」
「ギャーーッ!! マジかよジジイ(顧問)!! 殺す気か!!」
自分の背後に迫っていた本当の絶望(出場停止)を忠敬に突きつけられ、佐藤の色黒の顔が一瞬で真っ白に変色した。
「高橋ぃぃーーッ!! 頼む、本当に頼む!! 試合に出られないと俺の高校生活が終わる!!」
「ひ、ひええ……!? 練習試合に出られないのはかわいそうだけど、僕の腕を引っ張らないでぇ……!」
佐藤のあまりの気迫(と、出場停止というガチの危機)に気圧され、高橋くんは涙目でカバンを漁り始めた。
その時、高橋くんのバッグの隙間から、実面目そうな理科ノートの小人が顔を出し、忠敬に向かってビシッと敬礼した。
『お兄ちゃん! うちのご主人のノートは、先生の板書だけじゃなく、口頭で言ってた「実験の注意点」まで完璧に網羅された特級品だぜ! 合計3つの重要ポイントが、p.58の裏に綺麗に付箋で貼ってある!』
高橋くんの几帳面で丁寧なノートの使い方をそのまま学習してきた小人だからこそ、その内容の美しさには絶対の自信があった。
(高橋、お前はなんて優秀な奴なんだ……。佐藤の雑なノートとは細胞レベルで格が違うな)
忠敬は高橋くんのノートの有能さに心の中で深く感謝しつつ、佐藤の襟首を再び掴んだ。
「よし高橋、部活の顧問には俺から『佐藤が急激な知能低下による体調不良を起こした』って伝えてやる。今すぐそのノートを持って、図書室へ行くぞ」
「急激な知能低下ってなんだよ! 悪口のキレが良すぎるだろ忠敬!」
「えっ、えっ? 僕も行くの!? でも今日の部活の練習が――」
高橋くんが困惑して叫ぶが、すでに週末の試合がかかっている佐藤は正気ではなかった。
「高橋、お前は前回の調理実習で、俺たちの肉じゃがを食っただろう!? あの恩を今ここで返すんだ! 漢の義務だ!」
「そんな、肉じゃがの恩をここで……!?」
「いいから来い! 3人でマッグに行って、死ぬ気でテスト勉強するぞ!」
佐藤は高橋くんの腕をがっちりとホールドし、半ば拉致に近い形で廊下を引きずり始めた。高橋くんのカバンの中の筆箱の小人が、主人の高橋くんそっくりの気弱で丁寧な口調のまま、半泣きで必死に叫んでいた。
『うわあ! またこの色黒のご主人様が暴走されています! 待ってください、引っ張らないでぇ……! いや〜!! 体が(ノートが)破れてしまいますー!』
忠敬は、引きずられていく高橋くんのバッグから顔を出している理科ノートの小人に、視線で「すまん」と謝りながら、二人の後ろを歩き出した。
「おい佐藤、ちなみに明日の範囲は、お前が一番嫌いな『酸と塩基の反応』、p.58のイオン反応式だぞ。覚悟しとけ」
「ギェーッ!! イオン反応式ィ!? 終わった、俺の脳細胞が死滅するーー!!」
「え、えっと……そこ結構大事なところだよ?」
廊下に佐藤の絶望の絶叫が響き渡る。
巻き込まれている高橋くんが一番かわいそうだが、これで明日の赤点だけはどうにか回避できそうだった。
(佐藤、お前はその世話焼きなプリントと高橋くんにちゃんと感謝しろよ…)
忠敬は小さくため息を漏らすと、絶望の叫びを上げながら高橋くんを引きずり、マッグへ突き進む佐藤の背中を追いかけた。




