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第19話:『職員室のホワイトボードと、教頭先生の眠れない夜』


「潜木、すまないが教卓の出席簿を職員室まで持ってきてくれ」


放課後の終わりのチャイムが鳴る直前、担任の先生にそう頼まれ、忠敬は渋々カバンを肩にかけ直した。ただでさえ早く帰って冷房に当たりたい夏の日差しの中、わざわざ学校の心臓部へ足を運ぶのは気が進まない。


ガラガラ、と重い鉄製の引き戸を開けて足を踏み入れた職員室は、冷房が効いていた。


そしていつも教室に満ちている生徒たちの喧騒とは全く違う、独特の張り詰めた空気が漂っていた。せわしなく叩かれるパソコンのキーボードの音。山積みの資料に埋もれて溜め息をつく先生たちの背中。





忠敬が担任のデスクへ向かおうとした、その時だった。


職員室の壁際、先生たちの全スケジュールを網羅する大型ホワイトボードの周辺から、コソコソと、しかし妙に緊迫した声が聞こえてきた。



『おい、全班員に告ぐ! 枠線の内側、来週の月曜日の欄に注目しろ!』


声の主は、ホワイトボードのフチにキチッと直立不動で立つ、眼鏡をかけた管理職風の小さな小人だった。その周囲には、マグネットの小人たちや、ペン立てに刺さった黒マーカーの小人たちが、まるで軍の作戦会議のように身を乗り出している。


『ついに書かれたぞ……【外部有識者による特別視察・午前10時到着】の文字列だ!』

『何だって!? ついにあの”偉い人”がこの学校へ来るのか!』

『ああ。昨日から教頭の様子がおかしいと思っていたが、やはりこれのせいだ!』


忠敬が何気なくホワイトボードの方へ視線をやると、ちょうどその前で、教頭先生がハンカチで額を何度も拭いながら、震える手でマーカーを握りしめていた。

いつもは厳格で生徒に口うるさい教頭の背中が、心なしか小さく縮こまって見える。


すると、ホワイトボードのフチの小人が、胸ポケットのメモ帳を開きながら、生々しいリーク情報を告発し始めた。


『教頭、頭の汗がさっきから尋常じゃないぞ!』

『可哀想に、汗を吸いすぎた教頭のハンカチは無事死亡が確認された!』

『 教頭のネクタイ小人からは、いつもの三倍のペーパータオルを消費していると聞いたぞ!』


『それだけじゃないわ』

隣のコーヒーメーカーの小人が、湯気をふんわりとまとって会話に入ってきた。


『昨日、教頭がうちのブラックコーヒーを淹れに来た時、目が完全に血走ってたもの。 「視察の書類に不備があったらどうしよう」ってブツブツ呟いてて、気になって夜2時間しか寝てないってマグカップの奴が言ってたわ』

『2時間だと!? 完全に胃に穴が空くカウントダウンに入っているな……!』


(2時間睡眠って……教頭先生、中間管理職のプレッシャーと戦うただの公務員なんだな……)



大人の生々しすぎる裏事情を聞かされ、忠敬は無表情のまま内心で深く溜め息を吐いた。知らなくていい他人の心労まで筒抜けになるこの世界が、本当に時々嫌になる。


先生のデスクに出席簿を置き、用事を済ませて「失礼します」と職員室のドアへと向かう。その瞬間、忠敬の左手首がすっと微かに熱を帯びた。画面が明滅する。


『――主。念のためにスピーカーの集音マイクをプライベートモードに切り替えた。ホワイトボードの小人たちの口コミ通り、来週の月曜日は全校を挙げた大掃除や、授業中の私語や立ち歩きを絶対に発生させないための【厳戒態勢】が大人たちの間で義務付けられるようだね。主を巻き込むような実害はないが……一応、防諜ログとして記録しておくよ』


「ああ」

(……視察か。佐藤のやつが来週なにかやらかさないといいんだがな)


『佐藤がいつも通りの雑な歩行ログで廊下を暴走する確率70%。視察の人間とぶつかる可能性は否めないね。教頭の残り少ない胃壁が完全に消滅してしまうだろうね』

クロノが文字盤の上でやれやれと肩を竦めた。


忠敬はそれ以上は口を開かず、表情も変えないまま、静かに職員室の重い引き戸を開けて外の廊下に出た。手首のクロノの明滅が収まり、液晶の画面はただの時刻表示に戻る。

外の世界において、クロノは完璧に”ただの高性能なスマートウォッチ”のフリに徹していた。



(……教頭があそこまでテンパってるなら、マジで佐藤を大人しくさせとかないと俺の静かな日常まで連座で巻き込まれるな)

廊下を歩きながら心の中でそう呟いた、まさにその時だった。


「よお、忠敬! 先生に呼び出されて、また怒られてたのか?」

廊下の向こうから、部活用のエナメルバッグを雑に肩にかけた佐藤が、色黒の顔をニカッと輝かせながら歩いてきた。そのズボンのベルト穴からは、今日もキーホルダーの小人が『歩き方が雑!』と悲鳴を上げている。


忠敬は佐藤の雑すぎる佇まいを見つめ、職員室のホワイトボード前で見た教頭先生の尋常じゃない冷や汗を思い出し、本日何度目か分からないため息を吐いた。


「佐藤、お前、来週の月曜日だけは絶対に廊下を走るなよ。第一ボタンもちゃんと閉めとけ」

「はあ? なんだよ急に。俺がいつ廊下走ったよ!」

「いつも走ってんだろ。……俺の『勘』だと、来週の月曜日にやらかしたら、教頭先生にガチのトドメを刺すことになる。下手したらお前、部活の推薦まで消し飛ぶぞ」

「ガ、ガチのトドメ……!? 推薦が消し飛ぶ……!?」


あまりに解像度の高すぎる忠敬の脅しに、佐藤の色黒の顔が恐怖でサッと引きつった。


「わ、分かったよ! 来週の月曜日だな!? 俺、その日は仏の佐藤として静寂に生きるわ!」

「……そうしてくれ」


怯えながら「高橋ィ! 来週の月曜日、俺のストッパーになってくれ!」と今まさに廊下を走っていく友人の背中を見送りながら、忠敬は手首の時計に目を落とした。


子供の知らない学校の裏事情。

強制的に知ってしまう忠敬は教頭先生の胃壁を思い、ため息をついて家路についた。



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