第4章:強行軍と裏切りの代償
1. 狂騒の余韻と、冷徹な夜明け
黒鉄期一七三六年。ブリタニア大陸の玄関口、ドルベス港湾都市の東端に位置する練兵場跡地。
日の出前、大地を這う深い霧が、松明の炎をぼんやりとにじませていた。
そこには、出発を控えた「緋色の傭兵団」百五十名が集結していた。だが、その光景は軍隊のそれとは程遠い。
「……おい、酒臭いぞ、ヤミル」
シンが眉をひそめると、大剣を肩に担いだヤミルが「あぁ? 景気づけだよ、副団長」と、毒気を抜かれたような笑みを浮かべる。隣ではアインスが青白い顔で胃のあたりを押さえ、色男を自認するクリスからは、昨夜の歓楽街の残り香か、安物の香水の匂いがぷんぷんと漂っていた。イエーガーをはじめとする古参の面々も、足取りこそ確かだが、その眼光にはまだ昨夜の酒精が居座っている。
「楽しかったなー! ブリタニアの酒も、なかなか馬鹿にできないじゃねえか!」
対照的に、団長のガーブだけは朝日を浴びる猛獣のように意気揚々としていた。
一方、彼らを見送る側は悲惨の一言だった。
案内役のヴェイン海軍少佐は、二日酔いの極致にあるのか、軍服を乱し今にも地面に突っ伏しそうなほど顔色が土色だ。さらに同行する「ドルベス開門騎士団」の面々に至っては、二、三人が欠けているだけでなく、テレンス小隊長を筆頭に数名が顔に鮮やかな青あざを作っていた。
(……なるほど。昨夜、ガーブに挑みかかって返り討ちにあったのは、彼らか)
シンは溜息を吐き、思考を切り替えた。
「――準備はいいな。出発するぞ!」
シンの合図とともに、緋色の旗が翻る。
その直後、見送りのヴェイン少佐が耐えきれずにその場にひっくり返るのが見えたが、シンは振り返らなかった。
ここドルベスから王都ロンデニールまでは約百三十キロメートル。
通常の行軍ならば、宿場町を繋いで五日はかける行程だ。騎士団の連中も、当然そのつもりで軽装なのだろう。野営の準備すら見当たらない。
「甘いな。……全員、速歩!」
シンの鋭い声が響く。支援隊を乗せた荷馬車が軋みを上げ、歩兵隊の歩調が一段速まる。狩人隊を偵察に放ち、それ以外はすべて徒歩。だが、この速度こそが「緋色」の日常だ。
「し、シン殿! 正気か!? この速度でロンデニールまで保つはずがない!」
馬に跨ったテレンス小隊長が慌てて並走し、声を荒らげる。
「え? 何か問題でも? むしろ遅いと感じていたのですが……」
シンは無表情に答え、さらに声を張り上げた。
「全員、駈歩!」
一段と速度が増す。大地を叩く百数十人の足音が、規則正しい鼓動となって街道に響き渡る。一時間走り続け、常歩に戻して水分を補給し、また走る。立ち止まることは許されない。
昼前、最初の宿場町カンタベルを通過する際、テレンスが「おい! ここが今日の宿予定だぞ!」と叫んだが、シンは一瞥もくれず無視した。
背後では、馬に乗っているはずの騎士団員たちが、激しい揺れと異常な行軍速度に根を上げ、鞍の上で無様に揺れている。
(軟弱だな。この程度の機動力がなくて、どうして大陸の戦場を生き残れる?)
シンの唇の端に、冷ややかな嘲笑が浮かんだ。
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2. 野営の宴と、忍び寄る殺意
日は傾き、一行はフレシャム、チャンタムの町をも一気に抜き去った。
走行と歩行を絶妙に織り交ぜ、たまに襲歩を織り交ぜる強行軍。走行距離はすでに百キロメートルに達しようとしていた。
日が暮れ始め、騎士団の連中がいよいよパニックに陥りかけた頃、特務隊のハンスが音もなくシンの横に並んだ。
「……水の匂いがします。街道沿いの湖畔へ誘導しましょう」
「よし、今日はここまでだ! 全員、野営の準備!」
シンの号令が飛ぶやいなや、騎士団の面々は、まるで糸の切れた人形のように馬から転げ落ち、地面に這いつくばった。テレンス小隊長も「ゼイ、ゼイ」と肺を引き裂くような呼吸を繰り返し、立ち上がることすらできない。
だが、「緋色」の動きはここからが本番だった。
狩人隊は即座に周囲の森へ霧散し、獲物を狩りに出る。歩兵の一部は湖へ走り、釣り糸を垂らす。支援隊は手際よく竈を築き、焚き火を起こした。
一時間もしないうちに、森からは野鳥や野兎、鹿、さらには立派な猪を担いだ連中が戻り、湖からは跳ねる魚が持ち込まれた。
「おお、こいつはいい。脂が乗ってるぞ!」
エマ直伝の調理法で、肉が焼ける香ばしい匂いと、魚のスープの香りが立ち込める。
一方の騎士団はといえば、宿場泊まりを前提にしていたため、食料すら持っていなかった。彼らは焚き火の傍らで、空腹に耐えながら恨めしそうに傭兵団の食事風景を眺めている。
「……ハンス。小隊長以外には罪はない。余った分を分けてやれ。あ、馬にはたっぷり食わせろよ。彼らは優秀な脚だからな」
シンは皮肉を込めて指示を出し、テレンスの方を向いた。
「テレンス殿。明日の昼過ぎにはロンデニールに着く。悪いが、先触れを頼めるか?」
テレンスは、シンを人間ではない「化け物」を見るような目で凝視していた。
「わ、分かった……承知した!」
彼は震える声で部下を呼び、明朝一番で王都へ早駆けするよう指示を出した。その横で、オットーが静かに苦笑を漏らしていた。
その夜。
交代で見張りを立て、シンが浅い眠りに落ちていた時、冷たい感触が意識を浮上させた。ハンスだ。
「……シン。二十人ほどの集団が接近。騎士団の連中と接触しました」
「数は?」
「騎士団と合わせて三十人程度。こちらを襲う算段を立てているようです」
「……理解に苦しむな。その人数で、俺たち百五十人を襲うと?」
「どうやら、狙いは団長だけのようです。寝込みを襲い、辱めて殺す……と、そのような相談が聞こえます」
シンは暗闇の中で、静かに目を閉じた。
「……そうか。分かった。寝よう」
「いいのですか?」
「ああ。ガーブだぞ? 相手が三十人だろうが五十人だろうが、怪我一つせん。死ぬのは向こうだ。……放っておけ」
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3. 暁の処刑
翌朝。
シンのテントの幕が荒々しく開いた。
「シン! 朝からうるさい蝿が沸いてたから、まとめてぶっ飛ばしておいたぞ。後始末、頼んだ」
眠そうに目をこすりながら、ガーブが出ていく。
外へ出ると、冷え冷えとした空気の中に、奇妙な光景が広がっていた。
ガーブのテントの周囲に、四十人近い男たちが、まるで芋虫のように芋洗いにされ、縄でぐるぐる巻きにされて転がされていた。
ハンスら特務隊が、彼女が叩き伏せた「ゴミ」を手際よく処理したのだろう。
シンは、その中に見慣れた軍服の背中を見つけ、歩み寄った。
一番手前で、後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされて血走った目を剥いているのは、テレンス小隊長その人だった。
シンは彼の前にしゃがみ込み、感情の欠落した瞳でじっと見つめた。
「うー! うー!」
「……うるさいな。外してやるから、静かにしろ」
猿轡をずらすと、テレンスは猛烈な勢いで叫び始めた。
「ぶはぁっ! はぁ、はぁ……シン殿! 貴様、何の真似だ! この拘束を解け! 我々はエンガードの騎士だぞ!」
「解いてもいいが、その前に一つだけ教えてくれ。……なぜ、ガーブを襲った?」
問いかけるシンの声は、凍てつくように冷たかった。
テレンスは一瞬で言葉を失い、視線を泳がせた。
「言いたくないか。なら俺が当ててやろう。一昨日、ドルベスでガーブに喧嘩を売り、返り討ちにあった。その復讐のために、本来は道中の警備のために雇っていた『賊』を引き入れ、俺たちの寝込みを襲おうとした。……違うか?」
「…………」
「先触れを出せと言ったのも、王都ではなく賊への合図だったわけだ。……舐めた真似をしてくれたな、テレンス」
シンは、テレンスの胸ぐらを片手で掴み、地面から持ち上げた。
男一人の体重を片手で支えるシンの腕は、微動だにしない。
「なっ……離せ! 貴様、これほどまでの力を……!」
驚愕に目を見開くテレンスに対し、シンは顔を近づけ、囁くように告げた。
「お前たちは運がいい。俺はあらかじめ、団長に『殺すな』と厳命しておいた。……そうでなければ、今頃お前たちはバラバラの肉塊になって、湖の魚の餌になっていたところだ」
シンは無造作に手を放す。テレンスは無様に地面へ転がった。
「言え。黒幕は誰だ? お前一人の独断とは思えん。軍部か? それとも武器商人か?」
テレンスの頬がピクリと跳ねた。その一瞬の反応だけで十分だった。
「……軍部か。なるほどな」
シンは腰からナイフを抜き放った。朝日に反射する銀色の閃光。
「待て、シン殿! 話せば――」
その言葉が完結することはなかった。
無駄のない一閃が、テレンスの頸動脈を正確に切り裂いた。
噴き出す鮮血が、露に濡れた草地を赤く染める。
「……ハンス。やれ。一人も残すな」
シンの命令に対し、背後のハンスと特務隊が音もなく動いた。
「切れ」
短い号令。刃鳴りの音。そして、猿轡に遮られた、くぐもった断末魔の呻きが霧の中に溶けていく。
シンは、テレンスが完全に動かなくなるまでその瞳を見つめ続け、それから後ろを振り返り、作業のように処刑を終えた団員たちに深く頭を下げた。
「皆、不快な役目をさせてすまない。……女の寝込みを襲うような輩を、俺の団では生かしてはおかない。それが俺の方針だ。重ねて詫びる」
ハンスが血を拭いながら、静かに答えた。
「……気にするな、シン。あんたが女子供をいたぶる奴には、昔から一切容赦しなかったのは知っている。たとえその対象が、あの『化け物』みたいなガーブであってもな」
「恩に着る。……後始末を頼む。『ドルベス開門騎士団は、突如現れた大規模な賊の襲撃に立ち向かい、これを殲滅させたが、相打ちとなって全滅した』……それで報告を上げろ」
「了解した」
シンは現場を離れ、朝食を掻き込んでいるガーブの元へ向かった。
「なあ、シン」
ガーブが口の周りにソースをつけたまま、不満げに話しかけてくる。
「ブリタニアの奴ら、弱すぎる。ちっとも面白くねえぞ」
「……あいつらが特別に弱かっただけだ。まだブリタニアに入って二日目だぞ。もっと強い奴は、必ずいる」
「そうか? ならいいけどよ。……もう行くんだろ?」
「ああ。出発だ」
軍部の腐れ外道どもめ。
「緋色の傭兵団」に喧嘩を売ったことを、地獄の底で後悔させてやる。
シンの中に燃えているのは、熱い怒りではない。それは、計算に基づいた冷徹な「報復」の意志だった。
自分たちを駒として使い捨てようとする者の意図を、根底から粉砕する。そのためなら、王都が火の海になろうと知ったことではない。
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4. 王都の洗礼
残された行程三十キロメートルを、傭兵団は単独で踏破した。
そして昼過ぎ。
ついに彼らの眼前に、壮麗な石造りの城壁が姿を現した。ブリタニア連合王権国の心臓部、王都ロンデニール。
だが、出迎えたのは歓迎のファンファーレではなかった。
正門を抜けた瞬間、そこには重武装した王都守備隊と、抜身の剣を構えた騎士団が、幾重にも連なって彼らを包囲していた。
「……はぁ。ため息しか出ないな」
シンは、突きつけられた数多の槍先を眺め、独りごちた。
やはり、こうなる。
このねじれ果てた国の招待状は、最初から最後まで、血と鉄の味が染み付いているようだ。
シンは、腰の剣に手をかけたまま好戦的な笑みを浮かべるガーブを制し、ゆっくりと一歩前へ踏み出した。
戦いの幕は、いま最悪の形で上がろうとしていた。




