第3章:盤上の駒と貴種の流浪
1. 霧の夜の対価
「なるほどな……」
シンは、女が語ったブリタニアの歪な構造を頭の中で急速に整理していた。
スカイウェールという国家は、異民族が共生する理想郷の皮を被りながらも、過去の搾取という消えない傷跡と、現在のエンガードによる圧迫という、爆発寸前の信管を抱えている。
この「嵐の前」の静寂。エンガードを統べる若き女王イライザは、膠着した国内情勢を打破するために、あえて外部の異分子――すなわち「緋色の傭兵団」という一撃を招き入れたのではないか。
「最後に聞きたい。エンガードの女王イライザは、本気でスカイウェールを潰すつもりか? それと……もし俺たちがスカイウェール側に接触を試みるなら、誰を頼るのが正解だ?」
女は誘うように意味ありげな笑みを浮かべ、琥珀色の液体を喉に滑り込ませた。
「エンガードのイライザ女王は凡庸ではないわ。国内で無益な争いを続ければ、国力が疲弊することを知り抜いている。彼女の瞳が向いているのは国内ではなく、海の向こう……国外よ。ブリタニアを武力ではなく、商いと経済によって世界の頂点へと押し上げようとしている。その志は商業組合の利害と一致しており、多くの貿易商たちが彼女を支持しているわ」
だが、と女は言葉を継ぐ。
「一方で、国政を握る一部の大臣や軍部は違う。彼らは軍務卿の反対を押し切ってでも、武力による強硬な統一を優先すべきだと考えている。今のエンガードは、経済重視の『海外・宥和派』と、武力統一を叫ぶ『国内・主戦派』に真っ二つに分かれているのよ」
シンは頷く。組織が巨大になれば必ず生じる亀裂だ。
「では、スカイウェール側はどうだ?」
「統治の実務を担う一人に、『ムッサーシ(Mussasix)男爵』という男がいるわ。彼の出自には奇妙な噂が絶えない。このブリタニアでは極めて珍しい、黒目、黒髪の容姿。彼の邸宅には、この地の誰にも読めない文字で綴られた古文書が眠っているとも言われている。『八百万の神々』という思想も、元を辿ればムッサーシの祖先が持ち込んだものだという説があるわね」
女の声が、一段と低くなる。
「ムッサーシの一族は不思議な連中よ。黒鉄期一四〇〇年代、どこからともなく現れて住み着き、荒くれ者だったナタ・ヴォルの末裔たちを叩き伏せた。かと思えば、彼らと意気投合して独自の武術を教え込んだ。それが後の『ハイランダー』の原型になった。祖先は“存在しない国から追放された”と語っていたそうよ。もし、あなたたちの言葉に耳を貸す者がいるとすれば、その男爵だけでしょうね。……会える機会があれば、の話だけど」
女は卓上の金貨をさらに三枚、その白い指先で回収した。
からりと、グラスの中の氷が涼やかな音を立てる。
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2. 古い金貨と過去の影
ジジ、ジジジ……。
壁のランプが不規則に明滅を始めた。カウンターの奥からマスターが黙って歩み出て、芯を調整すると、灯りは再び安定したオレンジ色の輝きを取り戻す。
「なるほど。実に勉強になったよ」
シンは、隣で彫像のように沈黙を守っていたハンスに視線を送った。情報の確度は、これから特務隊を動かして裏取りをさせる必要がある。だが、彼女の語る「深度」は、単なる噂話の域を遥かに超えていた。
シンは最後に、胸のポケットから一枚の硬貨を取り出した。
それは、彼が肌身離さず持っている、意匠の擦り切れた古い金貨だった。
「この金貨……どういうものか分かるか?」
女の目が、一瞬で鋭利な刃物に変わった。
彼女は金貨を注視し、数秒の沈黙の後、吐息を漏らすように答えた。
「……それは古代ロマヌス帝国のものね。まだ現物が残っていたなんて。古い血脈を持つ王侯貴族の宝物庫に、極少数だけ秘蔵されていると言われているわ。それを持つあなたが何者なのか……少し興味が湧いてきたわ。調べさせてもらっても?」
「いや、断る」
シンは即座に金貨を仕舞い、席を立った。ハンスもまた、音もなく立ち上がる。
「そう言えば……」
背後から女の声が追いかけてくる。
「どこかの国で、政変に巻き込まれた貴族が、逃がした跡取りを探しているという話を聞いたわ。その子供には、目印として古いコインを持たせたとか。――もしかして、あなた?」
シンは足を止め、振り返らずに鼻で笑った。
「そんな訳ないだろ。第一、なんだその陳腐な貴種流浪譚は。今時、そんな使い古された物語は三流の芝居小屋でも売れないぞ」
「あら、残念。いい小遣い稼ぎになると思ったのに」
女は肩をすくめて笑った。
「礼を言うよ。おかげでこの国の輪郭が見えてきた。有効に活用させてもらう」
「どういたしまして。またどこかで『印』を見つけたら尋ねて。残りの金貨三枚分、とっておきの情報を仕入れておくから」
シンの背中に、彼女の最後の忠告が飛ぶ。
「道中は気をつけて。今や誰もがあなたたちに注目しているわよ。――『緋色の傭兵団』さん?」
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3. 港町の平常運転
酒場を出ると、ドルベスの夜風は海水の匂いを孕んで冷たく、湿っていた。
表通りへ向かって歩き出す二人の影に、闇に紛れていた特務隊の団員が一人、また一人と接触しては、囁くように報告を残して消えていく。
「ハンス、何かあったか?」
「特に。酒場で船員と揉めて力比べをした者が数名、クリスは女性四人を連れて宿へ、ヤミルは飲み比べで十人を潰し、ガーブは絡んできた非番の騎士団員六人を叩きのめした……と。至って平常運転です」
「……あいつら、上陸早々やりたい放題だな」
シンは頭を抱えたが、それが彼らのリラックス方法であることも知っている。
「それともう一つ、軍部についてですが」
ハンスの声に、戦士としての冷徹な響きが混じる。
「彼らは百年前の戦争以降、実戦から遠ざかっています。演習は盛んですが、命のやり取りを熟知している者は少ない」
「ほう? つまり」
「――弱いです」
「ははは! そいつはいい。頼もしい評価だ」
シンは笑い飛ばした。最前線で死線を潜り抜けてきたハンスが言うのだ。ブリタニア正規軍の実力など、推して知るべしだった。
「ところで、オットーさんは?」
「歓楽街の中心広場、屋台で一人飲んでいるとのことです」
二人は合流すべく、喧騒の広場へと向かった。
湯気の上がる屋台の隅で、ふくよかな体を揺らして杯を傾けているオットーを見つけるのは容易だった。
「おやっさん、こっちにも酒とつまみを見繕ってくれ」
シンの注文に応じ、屋台の主が琥珀色の酒と、塩気の効いた魚の燻製を出してくれた。
「オットーさん、組合の方は?」
「ああ。いろいろ聞いてきたよ。主に『金の流れ』についてだがね」
オットーは満足そうに目を細めた。
「ここでは目立つ。静かな場所で話そう」
シンの提案に、ハンスが頷く。
「なら、特務隊が確保した根城があります。支援隊の拠点として借り上げた物件です」
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4. 商人の理論、軍の理論
案内されたのは、歓楽街と商人街の境界に位置する、目立たない二階建ての建物だった。
一階では特務隊の面々が、各地で集めた情報を羊皮紙に書き起こしている。
「お帰りなさい。食事、どうしますか?」
給食隊の女性団員が、温かな湯気を纏って現れた。
「ご苦労さん。食料は足りているか?」
「はい。日の入り前に市場で買い出しを済ませました。子供たちも荷運びを頑張ってくれましたよ」
彼女が差し出したのは、エマ直伝の具だくさんのシチューだった。
「おお、これは美味そうだ!」
オットーが嬉しそうにスプーンを取る。ひと時の安らぎ。シチューの温かさが、長旅の疲れを解きほぐしていく。
食後、シンは女性団員に「明日は早い、もう休んでくれ」と伝え、彼女を二階へと促した。
建物に静寂が訪れた頃。
シンは、オットーに向き直った。
「オットーさん、聞かせてくれ」
「分かった。……ブリタニアには、大きく分けて三種類の商人がいる」
オットーの分析は明快だった。
小商店主(全体の七割):庶民の生活を支える層。政治には無関心。
国内物流商人(約二割):四国間の物資輸送を担う。平和を望む者と、紛争で武器を売りたい者に分かれる。
貿易商人・船主(一割未満):莫大な富を持つ特権階級。国外進出のため、女王による「国内の安定」を強く望んでいる。
「国内の武器商人は軍部と癒着し、スカイウェールとの戦争が長引くことを望んでいる。一方で貿易商人は政府の官僚と結びつき、財政負担になる戦争を回避したがっている。そして――イライザ女王は、今のところどちらにも加担せず、沈黙を守っている」
シンの脳内で、酒場の女から得た情報とオットーの情報が合致した。
官僚・貿易商グループは「融和」を望み、軍部・武器商人グループは「戦争」と「混乱」を望んでいる。
「オットーさん、ありがとう。しかし、短時間でよくこれだけ……」
「なに、フランク王国から来た大商人の代理人を名乗ったら、皆喜んで教えてくれたよ」
オットーは平然と言ってのける。その温和な顔と口調に騙され、どれほどの人間が秘密を漏らしたことか。
「……シン君。今、失礼なことを考えなかったかい?」
「いや、顔に出てたか?」
シンは自分の頬を撫でて誤魔化した。
「さて。現状の駒の配置は見えた。問題は、俺たちがどう動くかだ――」
窓の外ではドルベスの深い霧が街を包み込んでいた。
緋色の傭兵団が進むべき道。その策を練る話し合いは、東の空が白み始めるまで続けられた。




