第2章:歴史の深淵と三色の民族
1. 深淵の眼差し
薄暗い酒場の奥、琥珀色のグラスを傾ける女性が、艶然とした笑みを浮かべて告げた。その瞳は、まるでこちらの魂の重さを量る天秤のようだ。
「“深淵を覗く時、深淵もまたあなたを覗いている”……それは真理よ、シン副団長。あなたたちもまた、この世界の『興味』の対象になっているわ。緋色の傭兵団――今やあなたたちは西方地域世界の“台風の目”であり、注目の的なのよ。曰く、あなた方を雇い入れれば国を手に入れることすら容易い、とね」
「それはそれは。たった百五十人の小さな傭兵団に対して、いささか過分な評価ですね」
シンは努めて平然を装い、冷めた声で応じた。だが、内心では冷たい汗が背中を伝うのを禁じ得なかった。自分たちがフランク王国を追われ、ゲルマニアで再起し、公国成立の立役者となった経緯――それらは公式には徹底して秘匿されているはずだ。それをこれほど正確に把握し、分析まで終えている。この『Z』の印を掲げる裏の情報網の底深さは、想像を絶していた。
「謙遜しなくていいわ。たった六人の生き残りから始まり、わずか二、三年でそこまでの規模になった。ゲルマニア公国を立ち上げるにあたり、アレク大公は相当にあなた方の力に期待した。そしてあなた方は、それ以上の成果を上げたのだから」
女性は楽しげに目を細めると、しなやかな指先でカウンターを叩いた。
(……侮れないな。真実に近い情報を入手した上で、その背景まで読み解いている)
シンは背筋が寒くなるのを覚えながら、思考を切り替えた。自分たちの情報が漏れていることを嘆いても始まらない。今は対価を払った「商品」を回収する時だ。
「……俺たちのことはいい。そろそろ対価に見合う情報をくれないか」
「あら、失礼」
彼女は楽しそうに肩を揺らし、語り始めた。その声は、歴史の闇を紐解く語り部のように、低く、滑らかに店内に響き渡る。
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2. 略奪と入植のクロニクル
「それではまず、この国の成り立ち、歴史からね」
彼女が語るブリタニアの歴史は、略奪と混血の血生臭い記録だった。
「“顧みられなかった土地”と呼ばれる二つの島大陸――大島と小島に人族が入植したのは、黒鉄期三〇〇年頃と言われているわ。始まりは、今の北方諸国地域から到来した北外海の暴れ者……鬼人族の末裔である『ナタ・ヴォル(Nata-Vol)』。彼らが、捕虜として奴隷化していた『テイル・ゴラン(Tir-Golan)』族をこの地へ入植させたのが、現在のブリタニアの原型よ」
テイル・ウィドラは驚くほど実り豊かな土地だった。ナタ・ヴォルは従順なテイル・ゴランを農奴として入植させ、自分たちのために麦を生産させた。この支配関係は六百年も続いたが、やがて本国ナタ・ヴォルが衰退すると、テイル・ゴランは自由を勝ち取り、独自の平和的な文化を形成し始めた。彼らは争いを好まず、円環を尊ぶ穏やかな民として過ごしていたという。
「へえ。ブリタニアは元々彼らの土地だったのか」
「ええ。けれど、やがて西方大陸の為政者たちがこの豊かな島に目をつけた。黒鉄期一一〇〇年頃から大陸からの入植の波が押し寄せ、二〇〇年後には国家としての形を成し始めたの。初期は中小の国家が乱立していたけれど、黒鉄期一五〇〇年頃には四つの国に集約されていった。そして連合国家として『ブリタニア』の名が付けられたのよ。“光り輝く文明の地”……先住民の記憶であるテイル・ウィドラを覆い隠し、塗り替えるように発展してきた歴史ね」
特に最有力国家であるエンガードは、大陸との関係性を重視した。フランク王国や北方諸国との姻戚関係を結び、ついには海峡の対岸であるフランク王国のドバール地域を『ブリッツ・ドバル領』として領有するに至った。
「この地の支配を巡って、ブリタニアとフランクの百年にわたる戦争が起きたことは知っているわね? 黒鉄期一五一二年からの約百年。絶えず戦っていたわけではなく、数年に一度、散発的な戦闘行為がダラダラと続いた……。面白いのはね、当事国同士の商人たちが、ドルベス海峡を挟んで平然と貿易を続けていたことよ。国家が剣を交えている横で、民は握手をしていたのね」
この戦争は、一六〇二年にフランク王国がドバール地域を奪還したことで、フランク側の勝利として終結した。
「ブリタニアが手を引いたのは、貿易を通じて得た農業や手工業技術で国内が潤い、消耗戦を続ける意味を失ったから。対するフランクも、海を挟んだ島国より、広大な平原の先にあるゲルマニア侵攻へと方針転換したのが本当の理由よ。百年間で双方十数万人の死傷者を出しながらね。……その後のフランクについては、あなたたちもよく知っているでしょう?」
「ああ。よく知っているよ。嫌というほどな」
シンの脳裏に、自分たちを「捨て石」にしたオルレアン伯爵の冷酷な顔がよぎる。あの合理の怪物は、この歴史の延長線上に立っているのだ。
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3. 四国連合の歪み
「戦争が終わると、ブリタニアは四カ国の膠着状態に陥った。元々対フランク戦はエンガードが主体となって他三国に協力を求めていたのだけれど、海峡に接しない他の三国家は消極的だった。エンガードが国外に目を向けている隙に、三カ国は内部の基盤固めに力を注いだ……というわけね」
彼女の説明は、連合国家という名の仮面の裏側を暴いていく。
・|エンガード:王都ロンデニールを擁し、女王陛下が君臨する。純粋な西方系人族の国家であり、神聖十字教を奉ずる厳格な軍事国家。
・ガレシア:テイル・ゴランの民と融合し、混血種が多い。かつては大島で領土拡大を狙ったが、エンガードに追われ、現在は小島に拠点を置く農業国家。
・ウルステア:東の小国ながら、手工業に特化。武器生産で繁栄し、現在はエンガードにのみ物資を提供している。
・スカイウェール:ほぼテイル・ゴランとナタ・ヴォルの末裔で構成される。ナタ・ヴォルの武威を重んじ、古くから西方系人族と敵対傾向にある。
「現在、ガレシアという緩衝地帯を呑み込んだエンガードは、北のスカイウェールと直接対峙しているわ。女王は、政治的に敵対するスカイウェールを下そうと画策しているの」
女性の説明は、宗教、文化、習慣など多岐にわたって行われた。シンは、ブリタニアという国が抱える巨大な「ねじれ」を感じ取っていた。ここは歴史の歪みが結晶化した、世界の縮図のような場所だ。
民族闘争。西方系、北方系、鬼人の末裔。
文化闘争。西方文化と、円環を尊ぶテイル・ゴラン文化。
宗教闘争。多神教的な「地母神と円環」や「血の盟約と祖霊崇拝」に対し、一神教である神聖十字教が徹底的な弾圧を加えている。
「……未開な民に唯一神の救いを与える、か。そういう聖職者がうようよしているんだろうな」
シンは苦々しく呟いた。
「歴史は大体わかった。エンガードの性質も……理解できる。スカイウェールについてもう少し詳しく教えてくれ。それと、ハイランダーについても」
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4. 孤独を排する連帯
「スカイウェールは面白い国よ」
女性は金貨を四枚、指先で弄びながら続けた。
「宗教も文化も民族も混在しているけれど、そこでは不思議な融合が起きている。ナタ・ヴォル、テイル・ゴラン、そして西方系。三つの民族が互いの習慣を尊重し、役割を分担して共生しているわ。政治・経済は西方系、農耕はテイル・ゴラン、そして武力はナタ・ヴォル、といった具合にね」
彼女の表情に、微かな警戒の色が混じる。
「どこの起源か分からないけれど、彼らには『八百万の神々と共に、清明心で生きる』という考えが浸透しているの。“孤独を排する連帯感と、曇りなき魂の武勇”。この精神的支柱が、異質な民族同士を一つにまとめている。バラバラでありながら、有事には強固な一塊となる……エンガードにとっては恐ろしい存在でしょうね」
そして、話題はシンが最も注視していた存在へと移る。
「ハイランダー(Highlander)は、ナタ・ヴォルの純粋な末裔だと言われているわ。北部の厳しい自然環境の中に居を構え、剣の冴えのみを価値基準とする集団。数は決して多くはないけれど、一人ひとりが一騎当千。彼らは独自の体術と剣術を継承している。それは大陸のどの流派とも異なる、異質の武よ」
シンは、ガーブがこの話を聞いたら興奮で暴れ出すだろうな、と場違いな想像をした。だが、女性の次の言葉がその思考を打ち消した。
「ただ、一つ危うい点があるわ。テイル・ゴランの末裔の中には、エンガードに土地や文化を奪われた『過去』を忘れない、怨念に凝り固まった一団がいる。最近のエンガードとの衝突は、彼らが扇動したという噂よ。スカイウェールの穏健な為政者たちも、この内部の火種には困惑しているようね」
語り終えた女は、静かな動作で、残っていた金貨二枚を手に取った。
テーブルの上には、冷え切った夜の空気と、この国の重苦しい構造だけが残された。




