第1章:霧の港の「Z」
第十一部:女王の見積書 〜帝王学と地均しの序曲〜
霧の港で接触した情報組織『Z』の深淵。王都ロンデニールで対峙した孤独な女王イライザに対し、軍師シンは「未来の見積書」を突きつける。平和のコストを誰が払うのか? 稀代の交渉人オットーが説く「損切り」の帝王学。新国家建設のための残酷な「地均し」を密命され、傭兵団は女王の直属執行官として、ブリタニアの闇へと潜入する。
1. 喧騒と潮騒のドルベス
ブリタニア連合王権国と大陸のフランク王国。その両者を分かつのは、わずか三十キロメートルの幅を持つドルベス海峡である。
その荒ぶる海を越えた先に待ち受けていたのは、切り立った断崖と、それを受け止めるように築かれた巨大な石造りの港湾都市――ドルベス港であった。
緋色の傭兵団を乗せた三隻の船団が、夕刻の柔らかな陽光を浴びながら入港する。
ドルベスは大陸貿易の要衝であり、日々、無数の貨物船や客船が往来する熱狂の拠点だ。港湾施設の周囲には、巨大なクレーンが唸りを上げ、迷宮のように広がる倉庫街、旅人を誘う宿泊施設、そして安酒と香料の匂いが混じり合う歓楽街が軒を連ねている。
「はーっ! これがブリタニアかぁ! 潮の匂いがゲルマニアとは全然違うな!」
船縁から身を乗り出し、子供のように目を輝かせているのは団長のガーブだ。
「ガーブ、身を乗り出しすぎるな。海に落ちるぞ。少しは落ち着け」
「わかってるって、シン! ほら見ろよ、あの建物! 全部石造りだぜ!」
はしゃぐ彼女をたしなめながらも、シン自身、その活気には圧倒されていた。大陸の動乱を忘れさせるほどの、重厚で暴力的なまでの「豊かさ」がそこにはあった。
港の責任者と何やら話し込んでいたトーマス・ヴェイン海軍少佐が、こちらを振り返って声を張り上げた。
「おーい、ご一行様! 下船の許可が下りたぞ! 荷物をまとめて降りてくれ!」
その言葉が終わるか終わらぬうちに、ガーブがタラップを駆け下りた。
彼女は途中で手摺りを飛び越えると、野生の獣のようなしなやかさで桟橋に着地し、力強く大地を踏みしめた。
「到着! ――よっしゃ、腕が鳴るぜ!」
「やれやれ、相変わらずのガキだな……。よし、野郎ども、後に続け!」
シンの合図で、残りの団員たちも次々と下船を開始する。
他の二隻からも歩兵隊や後方支援組が降り、続いて軍馬や荷馬車がタラップを鳴らして現れた。
武装した百五十名の集団と、その異様な威圧感。港で働く沖仲仕や作業員たちは、思わず手を止めてその光景を注視した。大陸からやってきた「緋色」の軍勢は、平和な港町において、それほどまでに異質な存在だった。
________________________________________
2. 傭兵の流儀と騎士団の失策
桟橋の広場に集合した傭兵団の前に、蹄の音を響かせて二十騎ほどの騎馬集団が近づいてきた。
ブリタニアの紋章を刻んだ胸当てを付けた軍人たち。その先頭に立つ男が下馬し、ヴェインに向かって威勢よく敬礼した。
「ヴェイン海軍少佐殿! 遠路、お疲れ様です! 私はドルベス開門騎士団の小隊長、ベン・テレンスであります! 我ら騎士団は、少佐とご一行様を心より歓迎いたします!」
テレンスと名乗った男は、シンたちを一瞥すると、いかにも事務的な笑顔を浮かべた。
「これより宿舎へご案内いたします。今夜は軍の宿舎にて逗留いただき、明朝、王都ロンデニールに向けて出発いたします。さあ、こちらへ!」
「いや、お断りだ」
シンの冷ややかな声が、テレンスの威勢を断ち切った。
「……はい?」
「軍の宿舎には行かないと言ったんだ。せっかく賑やかな街に着いたんだ。狭い船室で窮屈な思いをしてきた団員たちを、そのまま味気ない兵舎に放り込むような真似はさせん」
ガーブをはじめ、団員たちの目はすでに港の歓楽街の方へ向いている。
「ヴェイン殿。俺たちはここ、ドルベスの街に留まる。明日の朝、日の出とともにこの広場に集まる。それでいいな?」
「な、何を言っている!」テレンスが絶句する。「貴殿らは招待された身だぞ! 勝手な行動は許されん!」
「俺たちは軍人じゃない、民間人だ。長旅で疲れているし、無理な移動は士気を下げる。……第一、もう何人かは街に消えてるぞ」
シンの言葉通り、好奇心旺盛な遊撃隊の数名は、すでに裏路地へと姿を消していた。
「ヴェイン殿! 規律が乱れますぞ!」
テレンスがヴェインに詰め寄るが、ヴェインは苦笑しながら手でそれを制した。
「シン殿。あまり私を困らせないでくれ。彼らも準備をしているんだ。……なあ、テレンス小隊長。宿舎の食事も用意させているんだろう?」
「ええ……まあ、それは……」
テレンスの返答に詰まった様子を見て、シンは確信した。
(準備などしていないな。船がいつ着くかも、本当に俺たちが来るかも疑っていた証拠だ)
「ヴェイン殿。あんたもテレンス殿も、傭兵という生き物を分かっていない。俺たちは明日をも知れぬ存在だ。楽しめる時に楽しむのが流儀なんでね。軍隊のような堅苦しい過ごし方は御免だ。それに――」
シンは不敵な笑みを浮かべた。
「うちの奴らは、あんたの私掠船の船員たちとすっかり仲良くなってね。今夜はあいつらと呑みたいと言っている。……許可してくれるだろう?」
「むむ……。仕方ない。俺も堅苦しいのは嫌いだ。……わかった! では、明日の日の出とともにここを出発する。それまでに全員この広場に集結させろ。いいな!」
「物分かりが良くて助かるよ、ヴェイン殿」
シンは軽く礼を言うと、後ろを振り返って怒鳴った。
「聞いた通りだ! 明日の日の出まで自由行動! 支払いはすべてヴェイン海軍少佐持ちだ! ――解散ッ!」
「「「うぉぉぉぉぉぉーーー!」」」
地鳴りのような歓声が上がり、団員たちは雪崩を打ってドルベスの街へ消えていった。ヴェインが「俺の財布が……」と青い顔をしているのを横目に、シンは冷静に次の指示を出す。
「オットーさん、商業組合への挨拶と情報収集を頼む」
「分かっているよ。多少の『先行投資』は覚悟している。では明朝に」
オットーは事務的な足取りで街の中心部へ向かった。
「ハンス。特務隊には悪いが、裏のネタ探しだ。この国の本当の空気を探ってくれ」
「心得た」
ハンスの合図で、影のように気配を消した特務隊員たちが、倉庫街や安宿街へと散っていく。
最後に残されたテレンス小隊長が、地団駄を踏んでヴェインに詰め寄った。
「少佐! あんな連中で本当によいのですか!?」
「いいんだよ。……それよりテレンス、正直に言え。宿舎の手配、本当はできていなかったんだろう?」
「! ……そ、それは……」
「見透かされたんだよ、馬鹿者が。彼らは戦場のプロだ。……明日、王都へ向かう道中での手配は万全だろうな?」
「は、はっ! ロンデニールまでの三日間、中継地点の二箇所に先触れを出します!」
「今からか?」
「申し訳ありません! すぐに出します!」
騎士団の一行が慌てて馬を走らせるのを見送り、ヴェインもまた「さて、俺も一杯やるか」と街へ繰り出していった。
________________________________________
3. 禁忌の刻印「Z」
一方、シンとハンスは、あえて賑やかな表通りを避け、湿った潮風の吹き抜ける裏道へと足を踏み入れていた。
迷路のような小道を進むにつれ、喧騒は遠のき、代わりに重苦しい沈黙が周囲を支配し始める。
「……シン、見ろ」
ハンスが足を止め、ある一点を指差した。
そこは、薄暗い路地の突き当たりにある、古びた石造りの建物だった。入口に吊るされた古びたランプ。その木製の扉の隅に、ナイフで刻まれたような小さな紋章があった。
『Z』
シンは息を呑んだ。
(へぇ……。こんな辺境の島国にも、奴らの手足が伸びているのか)
ハンスの瞳にも緊張が走る。「シン、ここは……」
「ああ。まさかとは思うが、確かめる価値はある。入ってみるか」
シンは扉のノブを握ったが、内側から固く閉ざされている。彼は記憶の底からある「合図」を呼び起こし、扉を叩いた。
――一回。三回。三回。二回。
不規則なリズムが静寂に響く。
「カチャリ」と、内部で金属が噛み合う音がした。
扉を押し開けると、そこは光を拒絶するような薄暗い空間だった。壁に掛けられた数個のランプが、ようやく人の顔を見分けられる程度の光を投げかけている。
「早く入って。扉を閉めて」
低く、鋭い声が飛ぶ。二人が中に入ると、背後で再び鍵が閉まる音が響いた。
店内は狭い。四人掛けのテーブルが二つ。そして、煤けたカウンター。
そこには二人の人物がいた。カウンターの奥で黙々とグラスを磨く男。そして、カウンターの端に座り、琥珀色の液体を見つめる一人の女性。
シンは迷わずカウンターまで進み、マスターに声をかけた。
「まさか『Z』の印を掲げる店が、このドルベスにあるとは思わなかったな」
「……どこの『Z』と勘違いしているのか知りませんが、うちはここ一軒きりですよ」
マスターは顔を上げず、淡々と答える。
「ここは静かに世間の『鍵』を忘れて酒を呑む場所だ。何にする?」
シンは、カウンターの表面に指先でゆっくりと『Z』の文字をなぞるように描き、合言葉を口にした。
「天球の円環を閉ざす『十二番目の鍵』は、どこにある?」
沈黙が流れた。
カウンターの女性が、ゆっくりとこちらを振り向いた。その瞳は、深淵のような冷たさを湛えている。
「……その鍵なら、持ち主の寿命を十二年分、一回回すごとに削り取るわ。それだけの『前払い』は済ませてきたの?」
シンは何も言わず、懐から十二枚の金貨を取り出し、カウンターに一列に並べた。鈍い金の輝きが、薄暗い店内に不気味に浮かび上がる。
「……いいわ。いらっしゃい」
女性は立ち上がり、奥のテーブル席へと移動した。シンとハンスも、吸い寄せられるようにその後を追う。
マスターが、彼女の前に琥珀色の酒が入ったグラスを置く。彼女は一口それを喉に流し込むと、射抜くような視線をシンに向けた。
「で、何が知りたいの?」
シンは、裏社会の隠語を繋ぎ合わせ、問いを投げかけた。
「星図が書き換えられようとしている。北に嵐が吹き荒れているが、中央の古い天球儀を壊すのは、どの星座の手だ?」
女性の口元が、わずかに歪んだ。
「……よくご存知ね。今日、ブリタニアに上陸したばかりだというのに」
彼女の眼光が、シンの魂の奥底までを見透かすように鋭くなる。
「――緋色の傭兵団、副団長シン」
(……身元が割れている?)
シンの背筋に、戦慄にも似た高揚感が走り抜けた。
このブリタニアという島国。そこは単なる内乱の地ではない。
大陸の常識を超えた「情報の網」が張り巡らされた、巨大な陥穽だった。
本物の「闇」に触れたことを確信し、シンは深く椅子に腰を下ろした。
交渉のテーブルは、すでに用意されていたのだ。




