第8章:辺境の矜持、あるいは獅子の咆哮
1. 狩人の知恵、野獣の足枷
時計の針を、前日の夜へと巻き戻す。
蝋燭の火が揺れるゼン・ムッサーシ男爵の執務室では、重苦しい軍議が続いていた。
「――これだけの策を講じても、彼ら鉄理の規矩騎士団の騎馬を、一時的に足止めできるに過ぎません」
ノインが、自身の無力さを噛み締めるように悔しげな声を漏らす。その言葉を受け、ゼン・ムッサーシ男爵は静かに、しかし岩のように揺るぎない眼差しをノインに向けた。
「……それで十分だ。仕掛けが崩されたその時は、俺と二百人の義勇兵が前に出る」
その声には、自らの領地と民を護り抜くという、男爵の決死の覚悟が宿っていた。
「これは、俺たちグラス・ガレスとスカイウェールの問題なのだ。余人にすべてを背負わせるわけにはいかん」
「その意気込みは買うがよ……男爵、具体的にどうするつもりだ?」
ヤミルが呆れたように、あるいは試すように問いかける。
「正面から受け止める。この街の兵と、集まった志願兵二百名で、なんとか食い止める。それだけだ」
「はぁ? 男爵、あんた馬鹿か? 重装騎兵の突撃を正面から受けるなんて、ただの犬死にだぜ」
「手厳しいな。……確かに、我々には正式な騎馬隊と戦った経験はない。圧倒的に不利なのは認めよう。だがな、我々は『圧倒的に不利な強者』と戦った経験が皆無なわけではないのだ」
ヤミルが怪訝そうに眉を寄せる。
「……どういうことだ?」
「ここはスカイウェール。エンガードの中央からは『不毛の辺境』と蔑まれてきた土地だ。そこには、文明の法など通用しない、理不尽な脅威が常に存在する」
「魔獣……。そうか、魔獣狩りか!」
ノインが弾かれたように顔を上げた。ゼンは深く頷く。
「左様。魔獣だ。人族よりも圧倒的に大きく、速く、そして強い。我々はこの地で何百年もの間、そんな絶望的な暴力と戦い、生き延びてきた。……いや、『狩り続けてきた』のだよ」
それを聞いたヤミルは、一瞬呆然とした後、腹を抱えて爆笑した。
「ぷっ……はははは! あっはははは! なるほどなぁ! そうか、そうかよ! 騎士様連中を『野獣』に見立てるってわけか! 『狩り』ならお手の物ってか! いいねぇ、最高にイカしてるぜ!」
ゼンもまた、不敵な笑みを浮かべる。
「相手を『無敵の騎士団』と思うから、心まで屈服するのだ。『魔獣狩り』をすると触れ回れば、この辺りの連中は皆、手慣れた獲物を担いで馳せ参じるさ。幸い、対魔獣用の“得物”なら掃いて捨てるほどある」
「ちなみに、その得物ってのは?」
「ああ、あれだよ」
ゼンが壁に掛けられた武骨な道具を指差すと、ヤミルはニヤリと口角を上げた。
「“あれ”か……。何丁揃えられる?」
「手元に百二十。街中を捜索すれば、さらに倍は見込める。それに、参集した兵の半数は、自前のそれを担いで来ているからな」
「さすが辺境! 逞しすぎて笑えてくるぜ」
ヤミルが愉快そうに手を叩く。
「それとな、ヤミル殿」
「ん? まだ何かあるのか?」
「野獣狩りにおいて最も重要なのは、まず敵の足を止めることだ。我々はこの地で、こういうものをよく使うのだよ」
提示されたその「道具」を見たヤミルの目が、嗜虐的な光を帯びて細まった。
「……ふっふっふ、こいつはいい。プライドの高い騎士様たちの怒りを、さぞかし買うだろうなぁ……」
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2. スリングの雨、投網の檻
そして、戦場は今。
土壁の突破口を潜り抜けた鉄理の規矩騎士団の騎馬群が、勝利を確信してグラス・ガレスの街へと突っ込んでくる。あと十数歩。大盾の列を整える時間はない。騎兵は四列の横隊に広がり、怒涛の勢いで押し寄せる。
激突まで、あと数歩。
その瞬間、左右の大盾の陰から、騎馬隊に向かって無数の「影」が飛来した。
それは矢でも槍でもない。空中で不気味に広がる、紐状の物体。
「なんだ、これは……ぐわぁっ!?」
それは、魔獣の脚を絡め取るための“スリング”だった。
絶妙なタイミングで放たれた紐が、疾走する軍馬の脚を複雑に縛り上げる。物理法則に従い、馬の脚が劇的にロックされ、巨体が前方にのめり込むように転倒した。
「止まれッ! 引けぇッ!!」
後続の騎馬が、転倒した前列の馬に激突。騎士たちが馬上から無様に放り出される。かろうじて五騎ほどが踏みとどまったが、そこへ容赦ない号令が響く。
「射てッ!!」
壁の向こう側に潜んでいた弓兵が一斉に立ち上がり、制止した騎馬に向けて至近距離から矢を放つ。立ち往生した騎士たちは、動く標的ですらない。鎧の隙間を次々と射抜かれ、落馬していく。
グラス・ガレスの兵たちが投げつけたのは、単なるスリングだけではなかった。
落馬し、泥を噛んで這い上がる騎士たち。そして、後方から支援にやってきた歩兵騎士たち。彼らの頭上から、今度は重りの付いた巨大な“投網”が降り注いだ。
それはスカイウェールの狩人たちが、狂暴な魔獣の動きを封じるために練り上げてきた、執念の「得物」である。
「な、なんだこの網は! 離せ! 貴様らぁっ!」
「網だと!? 騎士を魚のように扱うかぁっ!」
絡みつく網に剣を封じられ、無様に悶える騎士たち。そこへ、グラス・ガレスの義勇兵たちが怒号を上げて殺到した。
「魔獣を仕留める要領でやれ! 突けぇッ!!」
網に絡まり、身動きの取れなくなった騎士に対し、長い槍が四方八方から突き出される。誇り高き騎士の正装を纏った彼らは、なすすべもなく泥の中で槍に貫かれていった。
その凄惨な光景を見ていた騎士団の小隊長が、戦慄に顔を白くしてライル団長に振り返る。
「だ、団長! このままでは……っ!」
だが、小隊長は言葉を失った。ライル団長の顔は、これまで見たこともないような、怒りと屈辱でどす黒く変色していたからだ。
「何を……何を、遊んでいるのだ貴様らはぁぁぁッ!!」
ライルは狂ったように腕を振り、残存部隊に合図を送る。
「続けて突撃しろ! 蹴散らせ! あんなもの、百も二百も用意できるはずがない! 臆するな、行けぇぇえええッ!!」
団長の咆哮に背を押され、騎士たちが再び馬を進める。ライルを守る二十騎の親衛隊を除く、全戦力が戦場へと投入された。
もはや、最大加速での突入は不可能だ。騎士たちはバリスタや矢を警戒し、速足程度の速度で慎重に間合いを詰めていく。それでも彼らは、馬上からの攻撃の優位性と、自分たちが培ってきた剣技の差を信じて疑わなかった。
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3. 辺境の戦法、混迷の殺戮
「……全体が動き出したな。ここからが本当の地獄だ」
近づいてくる騎馬の地響きを正面に聞きながら、ゼン・ムッサーシが低く呟いた。
彼は愛用のハルバートを強く握り締め、最前線へと走り出す。
「皆ッ! 聞けぇッ! こいつらはただの魔獣だ! いつもの通りにやればいい! 街を、家族を、俺たちの平穏を守り抜くぞぉッ!!」
「「「「おぉぉぉーーーッ!!」」」」
スカイウェールの魔獣狩り。
それは単なる娯楽ではない。今でこそ個体数は減ったものの、飢えた狼型や凶悪な猪型、熊型の魔獣による被害は絶えない。そのため、どんなに小さな村であっても、男たちは若いうちから魔獣との戦い方を叩き込まれる。
圧倒的な暴力に対し、人族はいかにして立ち向かうか。罠を張り、地形を利用し、野獣の突撃力を逆手に取る。足を止め、力を奪い、確実に急所を穿つ。この戦場に集った者の多くは、そうした実戦的な「生存の技術」を持つ経験者たちであった。
ゼンが放った「騎兵は魔獣と同じ」という言葉は、義勇兵たちの心から「騎士団への畏怖」を消し去った。彼らにとって、目の前の騎士たちは、高潔な戦士などではない。自分たちの村を壊し、家族を食い殺し、財産を奪う野獣と何ら変わらない存在へと定義されたのだ。
戦場は、凄まじい混戦へと突入した。
スリングや投網の数は限られている。馬上に踏み止まった騎士は、対峙する兵の槍を払い、その高い位置から剣を叩きつける。歩兵騎士たちは大盾で槍の穂先を弾き飛ばし、一歩踏み込んで死の接吻を剣で刻む。
物量と練度で勝る騎士団が、徐々にグラス・ガレス側を圧倒し始めた。
防衛部隊は一箇所に固まり、その周囲を騎馬と歩兵が厚く包囲していく。
「皆殺しだ! 一人も生かして帰すなッ!!」
ライル団長が歓喜の声を上げる。混戦となれば、街からのバリスタや矢は味方を射抜く恐れがあり、容易には放てない。
「そうだ……それでいい。殺せ、殺し尽くせぇッ!!」
血走った目で戦況を凝視するライル。もはや勝敗は決したかに見えた。
その時だった。
「――行くぞぉぉぉぉぉぉッ!!」
グラス・ガレスの街の側面に待機していた伏兵が、解き放たれた。
緋色の傭兵団、ヤミル率いる歩兵部隊。そしてアインスら遊撃部隊だ。ヤミルの咆哮が空気を裂き、騎士団の薄くなった横腹に、猛烈な一撃を穿つ。
ヤミルの振るうグレイヴは、もはや武器ではなく暴風そのものだった。一振りごとに、三人の騎士の首が空を舞う。
アインス、フィーア、フェンらも後に続く。彼女たちの剣閃は冷酷かつ正確で、騎士団の装甲の隙間を確実に捉え、鮮血の花を咲かせていく。
「楔を穿て! 崩せッ!!」
ヤミルに従う歩兵たちが、手ぐすねを引いていた槍を突き出し、戦列を無理やりこじ開けていく。
さらに、時間差でイエーガーの狩人部隊が、騎士団の後方へと回り込んだ。彼らは馬を走らせながら、正確無比な騎射で団長の親衛隊を攪乱する。
「ぬ、伏兵だと……!? どこまでも姑息な……蹴散らせッ!」
ライルの周囲を固めていた二十騎の親衛隊が、イエーガーの相手をするために団長の元を離れていく。
傭兵団の突撃によって戦況は一時的に盛り返したが、依然として騎士団側の数的優位は揺るがない。徐々に、ヤミルたちの楔も厚い壁に押し返され始めた。
「……ふん、所詮は最後っ屁か。勝ったな」
ライル団長が、勝利の美酒を想起してほくそ笑んだ、その瞬間。
「――貴様らぁぁぁッ!! 何してくれとるんじゃぁぁぁあああッッ!!!!」
天を衝くような咆哮が、戦場を支配した。




