第6章:闇に溶ける蹄、あるいは剥奪された機動力
1. 杭に繋がれた忠義、歪む王冠
野営地に、罪人を収容するための強固な牢獄など存在しない。
ライル団長の天幕から引きずり出された四番隊隊長エドワードは、野営地の中心部、兵糧が積み上げられた一角へと連行された。騎士たちは沈痛な面持ちで地面に太い杭を打ち込み、エドワードの手足を無慈悲な縄で縛り付ける。一人の歩哨が、かつての上官を監視するために、剣を杖代わりにしてその傍らに立った。
遠くから、ライル団長の狂気を孕んだ演説が風に乗って聞こえてくる。
冷たい土の上に腰を下ろしたエドワードは、縛られた手首の痛みも忘れ、ただ一点を見つめて思考を巡らせていた。
(……団長、貴方は一体どこへ行こうとしているのか)
このまま、無謀な消耗戦をグラス・ガレスに対して続けるつもりなのか。なぜだ。なぜ、これ以上の犠牲が出るのを厭わない? かつての冷静沈漫な名将を、ここまで突き動かしているものは何だ。先ほどの会話の、一体何が彼の逆鱗に触れたというのか。
エドワードの脳裏に、ライルが漏らした一言が呪詛のように蘇る。
『俺の王国』。
まさか、主君への忠誠を捨て、この地に己の覇を唱えるつもりなのか。もしそうだとすれば、この騎士団はもはや正義の軍などではない。ただの野心家の手駒に過ぎない。
その時、闇の中から三人の騎士が音もなく近づいてきた。
彼らは見張りの歩哨に二、三の言葉を交わすと、杭に繋がれたエドワードの前に跪いた。四番隊の部下たちだった。
「隊長! 一体何があったのですか!」
悲痛な叫びに、エドワードはふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……団長の逆鱗に触れたようだ。どうやら、俺の進言がよほどお気に召さなかったらしい」
「団長は、貴殿が密偵だなどと言っています! そんなはずはない! 我々は信じません!」
「そうです。我々も隊長を弁護します。今からでも、皆で団長に再考を具申しましょう!」
「……ありがとう。だが、もういい。止めておけ」
エドワードは静かに首を振った。
「団長とは、もはや見ている景色が違う。今の彼の耳には、誰の言葉も届かないだろう。これ以上、お前たちまで巻き込まれる必要はない」
「そんな……諦めないでください!」
「……隊のことは頼む。もう行け」
エドワードは毅然とした瞳で、若き騎士たちを見据えた。
「いいか、これは命令だ。できるだけ多くの者を生き残らせろ。こんな……こんな虚無な場所で命を捨てるな」
「隊長……ッ!」
「隊長……!」
名残惜しげに、そして溢れる涙を拭いながら、三人は闇の中へと去っていった。
一人残されたエドワードは、深い夜の天を仰いだ。
「いい天気だな……。そういえば、ゆっくりと空を見上げたのは、いつ以来だったか……」
彼の呟きは、不気味なほど静まり返った野営地の闇に吸い込まれていった。
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2. 深夜の「祭り」、静寂の潜入者
その夜の闇は、ことさらに深かった。
鉄理の規矩騎士団の野営地では、周囲を警戒するように幾つもの篝火が焚かれていた。特に前夜の不審火の教訓から、中央の兵糧置き場には死角を消すために灯火が増設され、歩哨の数も倍以上に増やされている。
だが、軍事の鉄則がある。――どこかを厚くすれば、必ずどこかが薄くなる。
光が強まれば強まるほど、その背後の闇はより深く、より濃くなる。
野営地の外周を監視する歩哨は、本来ならば互いの姿を視認できる距離に配置されるべきだった。しかし、この夜は内部の警戒に人員を割いたため、外周の間隔は広げられていた。さらに、背後の篝火を背に受けている歩哨たちは、その眩しさゆえに逆に前方の暗闇を見通す力を失っている。彼らは不安を紛らわすように、時折声を掛け合うことで互いの生存を確認している有様だった。
その闇の淵を、背を低くして這い寄る影があった。
(……どうだ。潜り込めそうか?)
(なんとか。だが、一瞬でいい。どこかで注意を逸らせないか)
(了解した)
しばらくして、歩哨たちの視界の外、わずかに離れた茂みで「ペキッ」という乾いた枝の折れる音が響いた。
「誰だッ!」
一人の歩哨が声を上げ、剣を抜いて音のした方角へゆっくりと近づいていく。その背後、隣の歩哨との間に生まれたわずかな「隙」を突いて、黒装束の男たちが音もなく野営地の中へと滑り込んでいった。
「どうした、何かいたのか!」
隣の持ち場にいた騎士が駆け寄る。注意を削がれた男は目を凝らして周囲を改めたが、そこにあるのは風に揺れる草むらだけだった。
「……なんでもない。小動物か何かだろう。問題ない」
そう言って元の位置に戻る歩哨。だが、その数秒の間に、招かれざる客は既に野営地の懐深くへと達していた。
今夜、大きな「祭り」が始まる。
騎士団にとっての最大の強みは何か。それは馬である。
では、騎士団にとっての最大の弱みは何か。それもまた、馬であった。
馬は騎士にとって、戦場を駆けるための貴重な「足」であり、魂の片割れでもある。機動性と突進力を生命線とする騎士団において、馬を失うことは四肢をもがれるト同義だ。過去の戦史には、「兵よりも馬が大事だ」と豪語し、馬だけを連れて戦場を脱出した将さえいた。
だが、馬という生き物は、その強靭な体躯に反して極めて臆病で神経質な動物である。立ったまま睡眠を取り、一日の休息はわずか三、四時間。夜間に人工的な光や騒音に晒されれば、睡眠を阻害され、精神的な負荷が蓄積する。そうなれば、従順さを欠き、いざという時の走りに支障をきたす。
ゆえに、この騎士団の馬の放牧地は、動物たちの休息を優先し、篝火の設置を最小限に留めていた。
結果として、放牧地は野営地の中でも最も暗く、静かだった。
その闇の中へ、足音もなく男たちが入り込む。暗闇に目が利く馬たちは、その不穏な気配を察知した。眠りを邪魔するなと、不機嫌そうに「ブルルッ」と鼻を鳴らす。
(用意はいいか)
(いつでもいける)
(方向を違えるなよ。グラス・ガレスとは逆、北西だ)
(承知!)
馬群、およそ七百頭余。
通常、馬の世話は主である騎士自身が行う。そのため、馬たちが休息する深夜に放牧地を見守るのは、わずか十人ほどの歩哨のみであった。広大な放牧地を隅々まで監視するのは不可能に近く、彼らは外周に点在する篝火の管理を兼ねて、定期的に巡回するに留まっていた。馬たちは火を嫌い、中央の暗がりに固まって身を寄せ合っている。
夜半。巡回中の歩哨の一人が、ふと足を止めた。
いつもより馬たちの鼻鳴らしが多い。苛立っているのか、あるいは何かに怯えているのか。
「……はて。小動物でも紛れ込んだか?」
中に入って確認すべきか。そう考え、一歩踏み出した瞬間。
「――ヒヒィィィンッ!」
闇を切り裂く嘶きが聞こえた。
「どうしたッ!?」
目を細めて音のした方角を凝視するが、闇が視界を遮る。さらによく見ようと歩み寄ろうとした瞬間、彼の意識は唐突に刈り取られた。
項に強烈な打撃を受けた歩哨は、声もなくその場に崩れ落ちる。その傍らには、抜き身の短剣を握る黒装束の男が立っていた。
(よし、穴が開いたぞ)
(……よし。始めるぞ)
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3. 暴走の奔流、失われた機動力
休憩室で仮眠を取っていた残りの歩哨たちは、夜中にはあり得ない「地鳴り」を聞いて飛び起きた。
――ド ド ド ド ドッ!
心臓を揺さぶるような蹄の音が、闇の中から押し寄せてくる。
「な、なんだ!? 何が起きた!」
外へ飛び出した歩哨の目の前を、巨大な馬群が疾風となって駆け抜けていく。なぜだ。なぜ繋がれていたはずの馬たちが放たれている?
疑問を呈する間もなく、馬群は篝火の隙間を縫うようにして、放牧地の外へ、荒野の彼方へと走り去っていく。
「た、大変だぁーッ! 馬が! 馬が暴れているッ!」
狂ったように叫び、事態を知らせようとした歩哨の頭部に、闇から飛来した「何か」が命中した。
「ガッ……!?」
男が崩れ落ちると同時に、さらに巨大な馬の群れが彼の横を通り過ぎていく。
(……すまんね。だが、こっちも仕事なんだ)
一頭の馬の首に縋り付いていた黒装束の男の囁きは、狂乱の蹄音にかき消された。
ほどなくして、野営地は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
「馬が逃げた!」「どっちだ! どこへ行った!」
「残っている馬を確保しろ! 早くしろッ!」
「追いかけろ! 歩きで馬に追いつけるわけがないだろう! とにかく足跡を追え!」
怒号と悲鳴が飛び交う中、ライル団長もその騒ぎに叩き起こされた。
「何事だッ! 説明しろ!」
「そ、それが……馬たちが突如として暴走し、野営地の外へ……」
「馬鹿者ぉぉぉぉぉぉッッ!!!!」
裂ぱんの気合が夜空を震わせる。
「見張りは何をしていたッ! 予備の馬も、主力も全てか!? すぐに探し出せ! 一頭残らず連れ戻してこいッ!」
夜明けまでの三時間、騎士たちは松明を手に、右往左往しながら荒野を彷徨った。
しかし、暗闇の中での捜索は困難を極め、ようやく朝の光が大地を照らし始めた頃、判明したのは馬の蹄跡が「北西」の方向へ向かっているという事実だけだった。
完全に寝不足の顔をしたライル団長が、報告に来た騎士を睨みつける。
「……一頭も、見つからんのか」
「はっ……。誠に、誠に申し訳ございません……!」
「謝って済むことかぁぁッ!!」
盛大な雷が野営地に落ちる。
「飛び出した馬を一頭も捕らえられんとは、貴様ら、日頃から何を見ていたのだ! 『馬と意思疎通ができる』などと豪語していたあの自信はどこへ行った! 貴様らが愛情を注がないから、馬に見捨てられるのだ! 戻ってこないのだ!」
黙って叱責を受ける騎士たちの拳には、怒りと屈辱で血が滲んでいた。
「もういい。……で、残った馬の数は」
「はっ……。四百頭に、少し足りない程度であります……」
ライルは顔を覆った。全軍の半分近く、主力となる機動力を、一晩のうちに、しかも戦わずして失ったのだ。
「……半分近くを失っただと?」
「……申し訳、ございません」
「お前たち……見張り番ともども、覚悟しておけ。……下がれッ! 出陣の準備をしろ! 行け!」
ライルは力任せに地を踏み鳴らした。
そして、全軍の準備が整いかけた頃。
ライルは、自分自身の愛馬すらも行方不明になったという絶望の報告を受け、ついに理性を失って叫び声を上げた。
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4. 収穫の宴、将を射る術
一方、北西に向かって走り出した馬群。
三つの大きな塊となった彼らは、途中でイエーガー率いる狩人部隊によって巧みに誘導されていた。馬の習性を知り尽くした狩人たちは、戦場を大きく迂回させ、グラス・ガレス後方の平穏な草原地帯へと馬たちを導いていく。
そこには、待機していた避難民やグラス・ガレスの住人、そして牧場で働く酪農家たちが手ぐすねを引いて待っていた。
「よし、来たぞ!」「こっちだ、怖くないぞ!」
集まった人々は、怯える馬たちの汗を丁寧に拭い、新鮮な水と上質な飼料を与えて、一頭一頭を落ち着かせていく。彼らにとって、これら一流の軍馬は、戦後の復興を支える貴重な財産となるのだ。
その光景を遠目に見届けると、イエーガーの部隊と特務隊の男たちは、誇らしげにムッサーシの屋敷へと引き返した。
その途上、彼らは漆と合流する。
「どうー? 上手くいったぁー?」
「ああ、完璧だ。流石は特務隊、鮮やかな手際だったよ」
「漆殿の策のおかげだ。あんなに呆気なく馬が逃げ出すとはな」
談笑しながら、一行は屋敷の門を潜る。
そこには、一睡もせずに彼らの帰りを待っていたゼン・ムッサーシ男爵が立っていた。
「首尾は……首尾はどうだ!」
「上々です、男爵。計三百三十頭ほどを、完全に確保しました」
ゼンはその報告を聞いた瞬間、思わず拳を強く握りしめた。
「……よしッ! 敵の戦力を、実質的に半減させたも同義だ!」
歓喜に震える領主に、漆が楽しげに声をかける。
「言ったでしょう、男爵様ぁ? 『騎士を殺すにゃ刃物はいらぬ、走りの要を外せばいい』ってぇー」
「ははは! まさにその通りだ! 『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』……いや、この場合は『奪え』だな! これで今日の戦いは、だいぶ楽になる!」
だが、その喜びの輪の中で、ヤミルが冷静に釘を刺した。
「……いえ、それほど楽観はできません。馬を失ったとはいえ、騎士の数はいまだ我々とほぼ同数。むしろ馬を失ったことで、彼らは必死になります。狭い場所や障害物の多い戦場では、馬に乗っていない騎士の方が、その剣技の練度ゆえに厄介な敵となることもあります」
「……かもしれん。だが、それでも大きな一歩だ。頼む、皆。あと一日……あと一日だけ、この街を持たせてくれ!」
「そのつもりで、次の作戦を練っています。……厳しい戦いになりますが、必ず生き残りますよ」
朝日が昇り、平原が照らされる。
機動力を奪われた「飛べない鳥」となった騎士団と、地の利と策を尽くす混成軍。
グラス・ガレスの命運を懸けた、決戦の二日目が始まろうとしていた。




