第2章:見えざる拒絶、あるいは騎士の蹉跌
1. 影の火種と砂の静寂
深夜。鉄理の規矩騎士団が陣を敷く野営地は、数人の歩哨を除いて深い眠りに沈んでいた。
ライル団長と隊長格による「打ち合わせ」という名の酒宴もようやく幕を閉じ、千鳥足で自身のテントへ戻る隊長たちを追い出すと、ライルは自分がブリタニアの王として戴冠する傲慢な夢を見ながら、泥のように眠りについた。
夜の闇は、どこまでも深い。
野営地のあちこちで爆ぜる焚き火が、かえって周囲の闇を濃くし、巨大な怪物の影のように蠢かせている。
その昏い影に完全に同化し、音もなく動き出す者たちがいた。
(……あったか?)
(……あれだ。間違いない)
潜入した影たちは、示し合わせたように視線で合図を交わす。彼らが辿り着いたのは、野営地の中心部にうず高く積まれた兵糧の山だった。
(どうする? 運び出せる量じゃないぞ)
(……燃やす。それしかない)
(油を使うか?)
(いや、不自然な燃え方は警戒を招く。不審火……管理不行き届きによる失火に見せかけるんだ。これは夜襲じゃない。奴らの慢心への仕置きだ)
闇の中で、男たちが声もなくニヤリと笑う。
火種が乾いた布に置かれ、小さな、しかし確実な熱源が穀物の袋へと移っていった。
深夜半。突如として鉄理の規矩の野営地から、パチパチという不穏な音が響き始めた。
野営地の外側に目を向けていた歩哨が、ふと背後の異様な明るさに気づき、振り返る。そこには、赤黒い炎を上げながら夜空を焦がす兵糧の山があった。
「火事だ!」「火事だぁぁッ!」
静寂を切り裂く悲鳴のような叫びに、周囲のテントで眠りこけていた騎士たちが飛び起きる。鎧も着けず、寝巻き同然の姿で外へ転がり出た彼らが見たのは、命の綱である食糧がめらめらと舐り尽くされる光景だった。
「消せ! 早く水を運べ!」
だが、ここは広大な平原のただ中。水源など近くにありはしない。明朝の決戦に備えて用意した僅かな飲料水など、この大火を前にしては焼け石に水だ。手立てを失った騎士たちが右往左往する間にも、火勢は夜風に煽られて強まっていく。
「砂だ! 砂をかけろッ!」
誰かが烈火のごとく怒鳴った。その声に弾かれたように、男たちは腰の騎士剣を抜いた。栄誉ある身分を象徴するその刃で無造作に地面を削り、土と砂を火の粉の舞う中へと投げつける。
「わあわあ」と罵声と悲鳴が入り混じる狂乱の中、削っては投げ、投げては削る。泥まみれになりながらの必死の作業の末、ようやく火の勢いが収まったのは、夜が白み始める頃だった。
鎮火。誰もが泥を啜ったような顔でへたり込む中、一人の騎士がふと呟いた。
「……ところで、誰が『砂をかけろ』と言ったんだ?」
隊員たちは互いに顔を見合わせた。誰もが「隣の誰か」だと思っていた。結局、その声の主が誰であったのか、知る者はついぞ現れなかった。
(俺だぜ、俺!)
潜入していた特務隊の一人が、闇の中でそう呟いたとか、いないとか。
そして男たちは、もう一つの異常に気づく。
「……そういえば、隊長たちは?」
「まさか、まだ起きてこないのか?」
部下たちが泥塗れになって戦っていた間、指揮官たちのテントは沈黙を守ったままだった。騎士たちの視線が、主君のテントへと向けられる。そこには、忠誠心とは程遠い、深い落胆と呆れの色が混じっていた。
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2. 栄光の出陣と、見えない「罠」
翌朝。ライル団長と各小隊長たちは、昨夜の失態――「小火」の報告を受ける場にいた。
「「「「申し訳ございませんでしたッ!!」」」」
居並ぶ騎士たちが一斉に頭を下げる。だが、昨晩ワインを浴びるほど飲み、部下の危機に気づかず眠りこけていた隊長たちは、怒鳴りつけることもできず、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙するしかない。
ライルは、こめかみの血管を浮かせながら問うた。
「……それで、被害の程は」
隊員たちは互いに目配せをする。お前が話せ、いやお前が――。
「分からんのか! 答えろ!」
ライルの怒声に、一人の騎士が震えながら答えた。
「はっ……。火の回りは早くありませんでした。焼失した兵糧そのものは、多くはありません。ですが……」
「続きを言え」
「はい。消火のために大量の砂と土を浴びせてしまい、かなりの量が土塗れになりました。……結果、三分の一近くが食料として使い物になりません」
「……つまり、二日分の兵糧を失ったということか」
ライルの顔が仏頂面から一転、青ざめていく。
「で、原因は。失火か、あるいは何者かの侵入か」
「ふ、不明です。火元を確認した時には、すでに燃え広がっており……」
叱責が飛ぶかと身構えた騎士たちだったが、ライルはただ黙って、忌々しげに顔を歪めるだけだった。
「……気を緩めすぎたようだな。兵糧の周りにも歩哨を立たせろ。以後、火元には厳重に注意せよ。以上だ」
「「「「はっ!」」」」
騎士たちが散っていくと、ライルは部隊に命じた。
「気を取り直せ。狙うはグラス・ガレスのみ。出陣を急がせろ!」
ライルは心の中で、自分を納得させるように呟いた。
(多少のケチは付いたが、予備の兵糧は十二分にある。道中の村々から略奪……いや、徴収してきた蓄えは周到だ。こういう事態もあろうかと用意しておいて正解だったな)
彼は自画自賛しながら、前方に見えるグラス・ガレスの防壁を睨み据えた。
(落とすのに三日もかからん。あそこを獲れば、兵糧の心配など無用になるのだからな)
テントから出て兜を被ると、整列した八百の騎兵が彼を待っていた。
「傾聴ッ! ライル団長よりお言葉をいただく! 傾聴せよ!」
ライルは団員たちを冷徹に睥睨し、声を張り上げた。
「諸君、ついにこの時が来た。目的のグラス・ガレスを叩く。奴らには防壁こそあれど、兵数は我々の足元にも及ばぬ烏合の衆よ! 一気呵成に踏み潰し、ブリタニアに我らの名を轟かせよ! 出陣ッ!」
「「「「「おおぉぉぉぉーーーッ!!」」」」」
地鳴りのような咆哮。騎士たちが一斉に馬に跨り、鉄の蹄が大地を揺らし始める。
鉄理の規矩騎士団にとっての、そしてスカイウェールの運命を決める『グラス・ガレスの戦い』が幕を開けた。
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3. 襲歩の断絶
鉄理の規矩騎士団は、グラス・ガレスの正面、およそ八百歩の距離で進軍を止めた。
八百騎の重装騎兵が四つの集団に分かれ、横に展開する。一団あたり二十五騎、四列。計二百騎が連なる巨大な鉄の塊だ。これを順次投入し、絶え間なく圧力をかけ続ける「波状攻撃」。彼らが大陸の平原で磨き上げてきた、得意の必勝戦法である。
対するグラス・ガレスの防備は、あまりにも貧弱に見えた。
街の防壁の前には、馬除けの柵が急造された程度。そして大型の木盾のようなものが、等間隔に五つほど並んでいるだけだ。その周囲を、兵装すらバラバラな男たちが三百人ほど、所在なげにうろついている。
(ふん、碌な訓練も受けておらぬか。一度当てれば、蜘蛛の子を散らすように崩れるだろうな)
ライルは込み上げる嘲笑を抑え、右手を高く掲げた。
「一番隊! 突撃ィッ!」
振り下ろされた手と共に、第一陣の二百騎が動き出す。
初めはゆっくりとした常歩から、やがて軽快な速歩へ。グラス・ガレスの守備隊が慌ただしく動き出すのが見える。
距離、二百歩。
「全速! 蹂躙せよッ!」
馬たちが地を蹴る速度を上げ、大地を揺るがす鉄の激流となった。その時だった。
「――っ!?」
先頭を駆けていた馬が、何の前触れもなく、前足からガクンと折れるように転倒した。
猛スピードで突っ込んでいた後続の二列目、三列目の騎士たちは異常に気づき、必死に手綱を引く。だが、時すでに遅い。
後ろから迫る四列目、五列目の騎馬が、停止しようとした先行の馬に次々と追突。襲歩に移った八百キログラムを超える鉄の塊は、そう簡単に止まることはできない。
馬が横転し、騎士たちが虚空へ放り出される。地面に叩きつけられた衝撃で首の骨を折る者、重い鎧が仇となり動けないまま、後続の蹄に踏み潰される者。
戦端が開かれた、わずか数秒の出来事だった。悲鳴と、馬のいななき、骨の砕ける音が平原に響き渡る。一瞬にして数十名の騎士が命を落とし、あるいは再起不能の重傷を負った。
「何が起きたッ!? 何が!」
ライルが叫ぶ。目を凝らすと、転倒した馬たちの脚に、細く長い「何か」が絡みついているのが見えた。
地面に這わされ、騎士の視点からは死角になる位置に張られた、極細かつ強靭な「ワイヤー」だ。
「……卑劣な! 姑息な真似をォッ!」
ライルが吠える。騎士道に基づく「正面突破」と「蹂躙」しか知らない彼にとって、こうした妨害工作は理解の範疇を超えていた。だが、歩兵が騎兵を相手にする際、これほど理にかなった戦法はない。
混乱し、折り重なる人馬。一番隊の突撃は完全に霧散した。
「一番隊を戻せ! 一旦引けッ!」
這々の体で戻ってきた一番隊の損害は、ライルの想像を絶していた。
「ライル団長、帰還したのは七十八騎。そのうち、即座に継戦可能なのは五十九騎に過ぎません……」
報告する兵の声が震えている。
「一番隊長はどうした!」
「はっ……。先頭で突撃したまま、戻っておりません。おそらく、落馬した際に後続に……」
「猪突猛進の愚か者めが!」
ライルはグラス・ガレスの陣営を憎々しげに睨み据えた。戦場に横たわる自軍の騎士たちの骸には、目もくれない。
「二番隊、三番隊!」
「はっ!」
「左右に分散、大きく迂回して揺さぶりをかけろ。だが、決して猪突するな! あれは伏兵……いや、罠の類だ。強襲偵察を行い、少しでも危険を感じれば即座に離脱せよ!」
初動において、鉄理の規矩は一方的な損害を被った。だが、戦いはまだ始まったばかりだと、この時のライルは信じていた。
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3. 巨矢、空を裂く
鉄理の規矩、第二陣。
二番隊と三番隊は、今度は真っ直ぐ突っ込まず、大きく左右へ弧を描くように展開した。相手陣地の両端へ近づき、様子を窺う。
先頭を行く二人の隊長は、血走った目で地面を注視していた。
「……あったぞ、これだ! 綱が張ってある!」
地面に縫い付けられた、先程の騎士たちを転倒させた罠を発見する。これさえ分かれば脅威ではない。彼らは大きく迂回し、罠を回避した。
「行くぞ! 今度こそあの泥棒猫どもを血祭りに上げてくれる! 突撃ィィッ!!」
針路をグラス・ガレス陣営へと変え、加速する。
前方には、木製の巨大な盾が二つ並んでいる。
「その程度の板切れ、騎兵の衝撃で粉砕してくれるわッ!」
隊長は確信を持って突っ込んでいった。だが、突撃の直前。目の前の盾が、まるで挨拶をするかのように、ゆっくりと手前へ向かって倒れ込んだ。
その後ろに姿を現したのは、盾でも柵でもなかった。
「な……ッ!? 弩砲だとぉっ!!?」
驚愕の声が、発射音にかき消される。
「――ブォンッ!!」
空気を引き裂く重低音が響き、一本の巨大な矢が放たれた。
反射的に馬首を返そうとした隊長の判断が、かえって最悪の結果を招く。矢は馬の首を僅かに逸れ、隊長の腹部へ直撃した。
重装鎧を紙のように引き裂き、隊長の胴体を真っ二つに分断。矢は勢いを殺さぬまま、後続の騎士の胸を貫き、さらにその後ろの男の頭部を粉砕した。
「ブォォォォォン……!」
血飛沫を撒き散らしながら放たれた巨矢は、そのまま三百メートルほど飛び続け、背後の平原に深く突き刺さった。
同じ惨劇が、左右同時に発生した。
速足で駆けていた騎士たちは、一瞬にして消し飛んだ上官のなれの果てを呆然と見つめるしかなかった。
そして、彼らが前を向き直すと、もう一つの盾が倒れ、三基目のバリスタがその凶悪な顎を開いていた。
「ひっ……退避! 退避だぁぁぁッ!!」
副隊長らしき騎士の絶叫と共に、二番隊・三番隊は蜘蛛の子を散らすように反転。我先にと本陣へ逃げ帰っていった。
鉄理の規矩騎士団、団長ライルは、二度の突撃がいとも容易く阻止された事実に、奥歯をギリリと噛み締めた。
「弩砲……だと!? 莫迦な! 何故、大陸の最新の攻城兵器が、このような辺境の田舎にあるのだ!」
その問いに答えられる者はいない。出撃を控えていた四番隊の隊長が、沈痛な面持ちでライルに進言した。
「団長……。詮索は後です。今は団の統率を。全軍が浮き足立っています。このままでは全軍崩壊しかねません」
「……ぬぅぅぅッ! ええい、一旦退却だ! 四番隊、殿を任せる!」
「はっ!」
ライルは苦渋の決断を下し、馬を返した。
一番、二番、三番隊の生き残りを収容し、命からがら本陣へと退却を開始する。
グラス・ガレスを巡る初日の攻防。
それは、朝日が完全に昇りきる前に、一時間もかからずして決着した。
だが、これが騎士団にとって地獄の始まりであることを、彼らはまだ知らなかった。




