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『緋色の傭兵団の物語』「ブリタニア編」  作者: 嵗(sai)
第十四部:硝煙のグラス・ガレス

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第1章:嵐の前夜、あるいは軍師の不在

1. 迫り来る暴力の足音


ゼン・ムッサーシ男爵は、執務室の窓から暮れゆく街並みを眺め、深く、重い溜息をついた。


その胸中に渦巻くのは、形にならない焦燥感だ。


あの日、王都エディン・バーグでの代表者会議。エンガードの一部軍閥による暴挙を「侵略」と定義し、グラス・ガレスに防衛兵力を集結させる決議を勝ち取った。意気揚々と領地へ取って返した彼を待っていたのは、理想とは程遠い過酷な現実だった。


「……あの日から十日、か」


指折り数えるまでもない。鉄理の規矩てつりのきくという名の暴力の嵐が、このグラス・ガレスに到達するまで、残された時間はあと七日。


だが、懸念事項は積み上がる一方だった。


第一の誤算は、南部からの避難民の数だ。


ゼンは当初、戦火を恐れて逃げ出す者は全体の三分の一程度だと踏んでいた。残りの民は村や町に留まり、嵐が過ぎ去るのを待つだろうと。だが、実情は予想を遥かに超えていた。


ある村は全住民が家財を放り出して避難し、ある町では衛士と世話役を除いた全員が路頭に迷いながら北を目指した。彼らの判断は「英断」と言えたが、受け入れ先であるグラス・ガレスの許容能力は、瞬く間に限界を突破した。


「……すまない。今はここを離れてくれ」


痛ましげな表情で、近隣の村落へと再避難を促すゼンの言葉に従い、力なく去っていく民の背中を見送るしかなかった。


第二の懸念、そして最大の誤算は、肝心の「兵」が集まらないことだ。


現在、グラス・ガレスに参集したのは、わずか二百名と少し。


エディン・バーグからの援軍はいまだ影も形も見えず、王や代表たちの「必ず兵を送る」という誓約は、虚空に消えたかのように思われた。


さらに深刻なのはその質だ。集まった兵の半数は隠居間際のご老人か、武器すら持たぬ若者。中には手ぶらで現れ、避難民と見分けのつかない者すらいた。


「これではいくさにすらならん……」


ゼンは執務机に突っ伏し、こめかみを指で押さえた。


頼みの綱は、北のハイランダー。そして、一縷の望みを託して送り出したシンの一行だ。彼らの交渉はうまくいっているのか。間に合うのか。


考えれば考えるほど、胃の奥が焼けるような不安に苛まれる。


ふと、ムッサーシ家に伝わる初代の語録を思い出した。


『下手な考え休むに似たり』。そして添えられた一言、『はげるぞ』。


(……うるさいッ!)


何か逆転の秘策はないかと家伝の書簡を漁った末に、最初に出てきたのがこれだ。ゼンは思わずその貴重な書を床に投げ飛ばした。


だが、すぐに思い直して書を拾い上げる。貴重な先祖の遺産に当たっても事態は好転しない。


拾い上げた頁に、別の言葉が目に留まった。


『人事を尽くして天命を待つ』。


その横には、さらにこう記されていた。


『考えられること、やれること、すべてやり切ったか? 一人より二人。余人の知恵を借りろ』


ゼンはその一節をじっと見つめ、静かに本を閉じた。


(……やり切っただろうか。まだ、できることはないか。エディン・バーグ以外に、協力の道は本当になかったか?)


部屋の中を歩き回り、思考を加速させる。


『現場百遍。兆しは現場で見つかる。部屋の中で分かったら、お前は天才だ』


(……そうだ。ここにいても何も変わらん。それこそ、初代の言う通り髪が薄くなるだけだ)


立ち上がり、外套を羽織って部屋を出ようとした、その時だった。


控えめだが確かなノックの音が響く。


また悪い知らせか。ゼンは覚悟を決め、低く応じた。


「入れ」


扉が開くと、そこに立っていたのは一人の女性だった。


シンたちと共にグラス・ガレスへやってきた、「なな」という名の謎めいた美女だ。


2. 最悪の報告と、緋色の援軍


「あらー、男爵様ー。これからお出かけー?」


外套を着込んだゼンを見て、漆が独特のスローテンポな口調で問いかけてきた。


「あ、いや、そうだが……。どうした、シンから何か連絡が?」


「いえー。シンさんからは何もー。私はー南方のことで少ーしお知らせがー」


「話してくれ」


ゼンは椅子に座り直し、漆の言葉を待った。


漆が執務机の前まで歩み寄る。その瞬間、彼女の纏う空気が一変した。眠たげだった瞳が、冷徹な情報員のそれへと変貌する。


「現在、賊軍『鉄理の規矩』は二日前にカー・ライルを出立。一日後にはアンヴィル・ソーに到着の予定です。その数、精鋭騎兵八百。徴用兵の帯同はなし」


「騎兵だけで、速駆け(はやがけ)をしているというのか!」


ゼンは椅子を蹴倒すようにして立ち上がった。


「そのようですねー。アンヴィル・ソーから馬で二日。早ければ――三日後にはグラス・ガレスの城門に到来しますー」


(予測より四日も早い!)


ゼンは激しい眩暈を覚え、部屋を歩き回った。


三日。防備を固めるにも、罠を仕掛けるにも、あまりにも時間が足りない。兵もいない。


どうする。どう動く。最善、いや次善の策を絞り出せ。


頭を抱えて苦悩するゼンに、漆がのんびりと声をかけた。


「男爵ー。『下手な考え休むに似たり』ーですよー?」


ゼンはぱっと顔を上げた。何故その言葉を……。いや、今はそんなことはどうでもいい。


「……そうだな。ここにいても兵は増えん。集まった者たちのところへ行ってくる」


「その前にー、もう一つー」


「……まだ悪い知らせがあるのか?」


「どちらかといえばー、よい知らせー?」


漆は人差し指を唇に当て、首を傾げて小悪魔的に告げた。


「緋色の傭兵団のー、ヤミルさんたちが来ていますー。『助力は必要か』ーと聞いてきていますがー」


「! ――それを先に言え! どこにいる!」


ゼンは弾かれたように執務室を飛び出した。


騒然とするムッサーシ邸の一階広間。避難民や伝令たちが走り回る喧騒の中、その一団だけが異質な静寂を纏って立っていた。


ヤミル、クリス、イエーガー、ノイン、ゲルド。


シン不在の「緋色の傭兵団」を支える幹部たちが勢揃いしていた。


「よく、よく来てくれた……!」


ゼンは駆け寄り、一人ひとりと力強く握手を交わした。ヤミルたちは少々辟易とした様子で苦笑している。


「あー、いいか、男爵。落ち着け」


ヤミルがゼンを制して本題に入った。


「シンたちはまだ来ていないようだな」


「……ああ、まだだ。予定ではあと七日の猶予があるはずだった。だが、敵は三日後にここに来る」


「間に合わないのかー。あのシンが計算違いをするなんて珍しいこともあるもんだ」


ヤミルは天を仰ぎ、短く吐き捨てた。


「……となると、シンが戻るまで、俺たちだけで鉄理の規矩を何とかしなきゃならねえな」


「できるのか……? 相手は八百の重装騎兵だぞ」


「撃退は無理だ。……だが、せいぜい『足止め』くらいなら、やりようはある」


「頼む、助けてくれ……! 各地の兵もまだ集まりきっていない。グラス・ガレスに敵を迎え入れるわけにはいかないんだ」


ゼンが深々と頭を下げると、ヤミルは隣の細身の青年に視線を投げた。


「……そういうことだ。ノイン、案を出せ。俺たちはお前の考えた通りに動く」


「うえぇー!? 私、軍師でも何でもないですよ?」


ノインが情けない声を上げて後ずさりするが、ヤミルの目は笑っていなかった。


「案を出せ。さもなきゃ、シンが帰ってきた時に全滅した俺たちの死体を見せることになるぞ」


ノインは、首だけになった自分という物騒な想像をしたのか、ぶるりと身震いした。


「わ、分かりましたよー……もうっ!」


「地図を。……見せてください」


ノインが促すと、ゼンは即座に卓上に周辺地図を広げた。


しばらくの間、ノインはぶつぶつと独り言を呟きながら、地図上の等高線や街道を指でなぞっていた。やがて、彼は鋭い光を宿した瞳を上げた。


「男爵。……それでは、こういうのはどうですか?」


ノインの口から語られ始めたのは、地形と少数の兵力を最大限に活かした、狂気とも取れる奇策だった。


「ゲルドさん。少し力仕事を手伝ってもらえますかー?」


「ああ。任せておけ」


地図を囲む彼らの背中を眺めていた漆は、「また来まーす」とゼンに声をかけ、軽やかな足取りで屋敷を後にした。


屋敷の外には、傭兵団の特務隊員が数名待機していた。漆が彼らに短い指示を与えると、彼らは夜の闇へと散っていく。


「あー……超過勤務だわー。シルカ様には後で報酬をたっぷり上乗せしてもらわないとー……」


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