第4章:赤き瞳の門跡、あるいは拳の対話
1. 誤算の果てのアヴィ・モア
シン、ガーブ、ハンス、そしてオットーの四行が、インヴァ・ネスへの足掛かりとなる港町アヴィ・モアに辿り着いたのは、グラス・ガレスを発ってから三日が経過した夕刻のことだった。
当初の強行軍では二日で駆け抜ける予定だったが、現実は非情だ。マンプトン近郊の野営地からグラス・ガレス、そしてそこから北へ。六百キロメートルに及ぶ道程を、ほとんど休息なしに馬を走らせ続ければ、いかに選りすぐりの名馬といえど限界がある。途中の宿場での継馬の手配に手間取り、貴重な時間が砂時計から零れ落ちるように失われていった。
「……すまない、シン。私を置いて、先に行ってくれ」
アヴィ・モアの入り口で、オットーが青白い顔で途切れ途切れに呟いた。百戦錬磨の傭兵とはいえ、寄る年波には勝てぬ。激しい乗馬による疲労困憊は明らかだった。だが、この北の地で、恩人であり仲間である彼を一人残していく選択肢など、シンの辞書にはない。
「計算の修正には慣れていますよ、オットーさん。所詮、計算は計算だ。鉄理の規矩の暴走もそうですが、世の中すべてが予定通りに行くはずがない」
シンの脳裏に、かつて「憂国の騎士団」の団長であった親父の言葉が蘇る。
『状況は常に変化する。すべてがお前の思い通りになると思うな、シン。その時どうするか、どうすべきか。最善が潰えたなら、次善の策を瞬時に計算しろ』
シンは即座に決断した。このまま無理を重ねてインヴァ・ネスに乗り込んでも、交渉の席で失態を演じるだけだ。
「今日はここで宿を取ります。全員、そして馬も一晩休ませる。明日、万全の体調でインヴァ・ネスへ殴り込み――いや、話し合いに行く。いいですね?」
宿の一階にある騒がしい食堂。早めの夕食を終えたオットーは、「先に休ませてもらうよ」と力なく笑って二階へと上がっていった。
「オットーさんも、やっぱりお歳かなぁ。労わってあげなきゃね」
ガーブがニヤニヤと笑いながら、琥珀色のエールを豪快に喉に流し込む。
「ガーブ、飲むのはほどほどにしておけよ」
「んー、問題ない。ほら」
ガーブが自慢の力こぶを披露する。この「体力お化け」に関しては心配など無用だろう。
「……移動が続いた。さすがに、少しきついな」
珍しくハンスが肩を回しながら零した。隠密として鍛え抜かれた彼が音を上げるほどなのだ、強行軍の過酷さが知れる。だが、その無理が「甲斐あった」と言えるようにしなければならない。
「で、明日だ。どう出る、シン」
ハンスが低い声で尋ねる。
「相手の出方次第、かな。色々調べてはきたが、俺たちは本当の意味での『ハイランダー』を知らない」
「ヴィークはハイランダーだろう?」
「確かに血はそうだが、あいつは街の垢に染まっている。ここで誇り高く生きている連中とは、人種が違うと思ったほうがいい」
「えっ、ヴィークってハイランダーだったの!?」
ガーブが目を丸くして驚愕の声を上げた。シンは思わず天を仰ぐ。あの特徴的な赤髪と赤目を見て気づかないのは、世界広しといえどこの女団長くらいだろう。彼女にとって人間とは「戦える奴」「戦えない奴」「殺す奴」「守る奴」の四種類でしか分類されていないのだ。
「そうだ。ヴィークは一族の末裔だが、『風読みの鴉』での生活を経て、街の考え方や価値観に染まった。純粋なハイランダーとはもう呼べない。……だからこそ、あいつは戦う前に『考える』ようになったんだ」
「ふーん。だから弱くなったのか」
ガーブの言葉は残酷なまでに本質を突いていた。
「弱くなった……か。そうかもしれないな。ハイランダーの真髄は、言葉よりも武威にある。白黒つけるのは常に剣だ。俺は、明日その『儀式』が行われることに期待しているよ。ガーブ、頼んだぜ」
「強い奴、いるかなぁ?」
ガーブの瞳が、獲物を狙う獣のようにギラリと輝いた。やはりこの女、根っからの戦闘狂である。
食堂が混み始める前に、三人は席を立った。明日の「対話」に向け、深く静かな眠りにつくために。
________________________________________
2. 通称・ハイランダー屋敷
翌朝。たっぷりと睡眠をとったオットーの顔色は、劇的に改善されていた。
「よし、行こう」
一行はアヴィ・モアの港街を抜け、中心部から外れた高台へと向かった。
そこはマルー湾を一望できる絶好のロケーション。漁業と交易で栄える街の喧騒から隔絶された一角に、その邸宅はあった。地元民が畏敬と忌避を込めて呼ぶ、“ハイランダー屋敷”である。
邸宅の門は重厚な石造りで、ブリタニアの一般的な建築様式とは一線を画す威圧感を放っている。シンは門前に立ち、腹の底から声を張り上げた。
「我ら、緋色の傭兵団! 故あってハイランダーと誼を結びたく、参上仕った! 首長との面会を所望する!」
刹那。門の小さな覗き窓が開き、冷徹な声が響いた。
「帰れ」
「……即断かよ」
「我らが傭兵と友誼を結ぶ理由はない。必要も感じぬ。失せろ」
取り付く島もない。無慈悲な拒絶と共に、覗き窓がピシャリと閉じられた。
シンが「さて、どうしたものか」と顎を擦った瞬間、隣にいたガーブがふいっと前に出た。
「シン、間違ってる」
「え? 何が――」
問う暇もなかった。ガーブは肺一杯に空気を吸い込み、全身を震わせて吠えた。
「頼もぉぉぉぉぉぉうっ!!!!!」
衝撃波のような咆哮。シンは思わず耳を塞ぎ、のけぞった。近くの梢で休んでいた鳥たちがパニックを起こして一斉に飛び立ち、空を黒く染める。
しばらくして、扉の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
乱暴に扉が開き、顔を真っ赤にした男が飛び出してくる。
「なんだ貴様らは! 静かにせんか!」
「一手所望ぉぉぉぉぉぉっ!!!!!」
至近距離で二度目の咆哮。応対した男はあまりの声圧に耳を抑えて悶絶した。
「……やかましい! 狂人か! 帰れと言っている!」
ガーブの細い目が、冷酷なまでに鋭く細められた。
「……臆した?」
「なんだと貴様!」
男がガーブに詰め寄る。身長はガーブより二回りは大きく、厚い胸板は鉄板のようだ。だが、ガーブの表情に揺らぎはない。
「臆してないなら、ごめんなさいして。それか、遊んで」
「この小娘が……言わせておけばッ!」
男が太い腕を伸ばし、ガーブの肩を掴もうとした。短気な相手で助かった、とシンは心中で苦笑する。
ガーブはその大きな手首を、まるで蛇が獲物を捕らえるかのような速さで掴み取った。
ぎりっ、と骨が軋む音が周囲に響く。
「ぐっ……!? 離せ!」
男が必死に腕を引こうとするが、ガーブの手は万力のように微動だにしない。そのまま、彼女は踏み込みと同時に、男のガラ空きになった顎へ向けて、下から拳を叩きつけた。
ごっ、と重鈍な音が響く。
男の頭が大きくのけぞり、視線が宙を泳いだ。次の瞬間には膝から崩れ落ち、その場に蹲る。一撃。完璧な意識の断絶。
手首を離したガーブは、倒れた巨体を気にする様子もなく、開かれた門を悠然とくぐり抜けて敷地内へ入っていく。シン、ハンス、そして唖然とするオットーもその後に続いた。
「頼もぉぉぉぉぉぉうっ!!!」
庭園の中央で、三度目の咆哮。
今度は建物の中から、抜剣した男たちが数人、血相を変えて飛び出してきた。
「何事だ!」「襲撃か!? 賊か!」
「一手所望ぉぉぉぉぉぉっ!!!」
「もういいよガーブ、十分聞こえてるから」
シンの制止も耳に入らぬ様子で、ガーブは集まってきた男たちを品定めするように見回した。
「うーん……。強いの、いない。がっかり」
「何だと、この女……!」
「舐めるな! 叩き出せ!」
男たちが剣に手をかけ、一触即発の空気が流れたその時。
「……待ちた。控えよ」
静かだが、驚くほどよく通る声が建物の奥から響いた。
ガーブが、獲物を見つけた野獣のようにぶるりと身震いした。
目の前の男たちが一斉に道を開け、左右に退く。
現れたのは、一人の壮年の男だった。
特徴的な赤髪と、燃えるような赤目。鍛え抜かれたその肉体には、年齢による衰えなど微塵も感じられない。ガーブと同じくらいの背丈の彼は、無言のままガーブを凝視した。それからゆっくりと視線を巡らせ、シン、そしてハンスを鑑定するように見つめる。
「……騒がしいな。近所迷惑だとは思わんのか」
壮年の男の声には、有無を言わせぬ重みがあった。
「ふむ。……客人だ。奥へ通しなさい」
踵を返し、建物へと戻っていく男。
案内役を命じられた若い男が「……ついてこい」と忌々しげに吐き捨て、中へと促した。
シンはハンスと顔を見合わせ、ニヤリと笑って後に続いた。
建物内部には、貴族の館にあるような華美な装飾は一切なかった。あるのは質実剛健な木の質感と、張り詰めた武の気配のみだ。
だが、シンはある違和感を覚えていた。
(ここがハイランダーの拠点……? なぜ港街なんだ?)
彼らのルーツを考えれば、高地や峻厳な山岳地帯に居を構えるのが自然だ。なぜ海風の吹くこの街なのか。その疑問を抱えたまま、一行はある一室へと案内された。
________________________________________
3. 儀礼と抜身の殺気
「ここだ。入れ」
若い男が案内したのは、応対室でも客間でもなかった。
扉を開けた先にあったのは、床板が磨き抜かれた、だだっ広い道場のような空間だった。
(……なるほどな)
シンは得心した。ガーブが「一手所望」と吠え続けたのだ。ならば案内される場所は、言葉を交わすテーブルではなく、拳を交わすこの板間になるのは当然の帰結だ。
部屋の中央には、先ほどの壮年の男を含め、十名ほどの男たちが並んで座っていた。その最後尾、中央に座る男の威厳は際立っている。
彼らの腰、あるいは傍らには、ブリタニアでは見かけない「反りのある片刃の剣」が置かれていた。
男たちは全員、床に跪き、両手を前について深く頭を下げた。
スカイウェールでも見かけない、独特の儀礼。シンたちもそれに倣うように、慣れない姿勢ながら床に座した。
「……座りたまえ」
壮年の男が静かに告げた。シンは跪くような格好で彼と向き合う。
「対話の時間を作っていただいたこと、感謝します」
「待て」
男が手を上げ、シンの発言を遮った。
「その女は、一手所望したいと言っていたな。……それは間違いか?」
「失礼ですが、あなたは……?」
「俺は、このインヴァ・ネス屋敷を預かる守護役、サク・マク・ドウンだ。……傭兵よ」
「守護役」……。シンは内心で舌打ちした。ここが拠点そのものではなく、あくまで「屋敷」に過ぎないのだとしたら、これもまた計算違いだ。だが、今は目の前の相手を納得させるしかない。
「申し遅れました。緋色の傭兵団、団長のガーブ。副団長のオットー、ハンス、そして俺がシンです。……俺たちは、ハイランダーの力を借りにここまで来た」
「力を借りる?」
サクは怪訝そうに眉を寄せた。
「……試す、の間違いではないのか? 先ほど、そちらの女性ははっきりと“一手所望”と吠えていた。……虚言か?」
空気が一気に凍り付く。
「我らは、虚言を何よりも嫌う。不実な者に貸す耳はない。……用が『借りる』だけなら、改めて正式な手続きを踏んで来い。相手はせぬ」
「……失礼した。言葉が足りなかったようだ」
シンは居住まいを正し、隣で今にも飛びかかりそうなガーブを制しながら、サクの赤目を見据えた。
「改めて願おう。――お相手願いたい。高名なハイランダーの武術、我ら緋色の傭兵団が、謹んで試させていただく」
サクの唇が、微かに弧を描いた。
「……よろしい。ならば、抜きたまえ」
言葉による交渉は終わった。
これより始まるのは、魂を削り合う、血と鉄の対話である。




