第3章:清明の誓い、あるいは女王の真筆
1. 国是の重み
「エンガード国の『執政官』、ヨーク子爵をこの場に招き入れたい。彼から直接、女王の真意を聞いていただきたいのです」
ゼンのその一言が、再び会議室に激しい議論の嵐を巻き起こした。代表たちの怒号が飛び交う。侵攻は一刻一秒と迫っており、猶予はない。だが、ここで感情に任せてスカイウェール側も暴走すれば、それは真の意味での泥沼の「全面戦争」の幕開けを意味する。
ゼン・ムッサーシは、互いの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで言い合う代表たちを冷徹な眼差しで見据え、静かに、しかし腹の底に響く声で「言葉」を放った。
「『八百万の神々と共に清明心で生きる』」
その瞬間、会議室は水を打ったように静まり返った。代表たちは一様にハッとした表情を浮かべ、言葉を飲み込む。
「……スカイウェールの国是です。諸公、この精神に照らし合わせて、自らの発言を今一度顧みていただきたい。国是をないがしろにして、民を導く為政者たる資格があなた方にあるとお思いか」
「ムッサーシ男爵……」一人の代表が苦渋に満ちた声を出す。「攻められようとしているのは、他ならぬ貴殿の領地グラス・ガレスだ。万が一、交渉が決裂し、無防備なまま蹂躙されれば、貴殿はどう責任を取るつもりだ?」
ゼンの瞳に、鋭い光が宿る。
「……勢いに任せて暴挙に走れば、たとえ勝っても負けても、我らの清明なる精神は汚される。勝てば傲慢さが暴走し、負ければ怨嗟が民の心に澱のように沈む。私は、それを望まない。……たとえ、グラス・ガレスを一時的に失うことになってもだ」
「貴様、正気か! 我が国第二の都市を見捨てると言うのか!」
「正気なわけがあるか!!」
ゼンが叫んだ。それは喉を裂かんばかりの、魂の咆哮だった。
「犠牲など、一人たりとも出したくはない! 誰も死なせたくはない! だが、ブリタニア全土に怨嗟の嵐を吹き荒れさせることだけは、絶対に避けねばならんのだ! 諸公、目を向けよ! 世界は、このブリタニアという島だけではない。大陸のフランク王国、新興のゲルマニア公国、東ロマヌス帝国に北方諸国……! 奴らはブリタニアが内輪揉めで力を失う時を、今か今かと狙っている。今、エンガードがスカイウェールに行っている蛮行を、いずれ他国がこの島全体に行う未来……そんな絶望を招いてはならないのだ!」
静寂が部屋を支配した。もはや誰も、男爵の言葉を遮ることはできなかった。
「だからこそ提案する。まずは女王の真意を聞き、そこから対応を判断すべきだ」
沈黙の中、マルカム王がゆっくりと口を開いた。
「……会おう。中に入ってもらえ」
「王!」「しかし……!」
「決まらぬのじゃろう? 皆、決めかねているのじゃ。ならば、決断という名の『花』を咲かせるための『種』を、まずは招いてみようではないか。どうじゃ、皆の衆」
王の言葉に、代表たちは渋々ながらも、一様に首を縦に振った。
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2. 女王の「歪な文字」
「エンガード国、イライザ女王陛下全権大使、『執政官』ヨーク子爵殿、入来!」
従者の先導により、武器を持たない、いかにも文官然としたひょろりとした男が会議室に入ってきた。ヨーク子爵は十三名の代表と王の視線が突き刺さる中、王の前で深々と一礼した。
「イライザ陛下の執政官を拝命しております、ヨークでございます。スカイウェールの王、マルカム陛下。並びに代表の方々、お目文字叶い光栄に存じます」
「よく参られた。緊急時ゆえ儀礼は省かせてもらう。早速本題に入りたい」
マルカム王が促し、ヨークは勧められた席に腰を下ろした。
「此度、我が国の軍の一部が貴国の領土を侵犯しておりますこと、まずは深くお詫び申し上げます。これは『鉄理の規矩』と称する騎士団が独断で行っている暴挙であり、貴国のみならず、我が国への明白な反逆行為であります」
「……反逆だと?」代表の一人が鼻で笑う。
「本来ならば、我が国がこの賊軍を処罰すべきところ。しかし、既に彼らは貴国深くまで侵攻しております。今から制圧部隊を派遣すれば、貴国にさらなる混乱と戦禍をもたらすことになりかねない。そう懸念された女王陛下は、私を直使として派遣なされました」
「白々しい……」
誰かの呟きが漏れた。スカイウェールのこれまでの苦難を思えば、ヨークの言葉を鵜呑みにできる者はいない。だが、ヨークもまた、ここで退けばブリタニアの未来が潰えることを理解していた。彼はうやうやしく、一枚の書類を取り出した。
「この書類は、イライザ女王陛下自らが認められた書状です。本来は陛下ご自身が宣言された後に周知されるべきものですが、事態の緊急性を鑑み、皆様に開示いたします」
マルカム王の前に広げられたその書類を見て、王は息を呑んだ。
それは原本だった。あの四阿で、イライザ女王がつっかえつっかえ、迷いながら書き起こした書。
流麗な宮廷文字ではない。四阿の低いテーブルで書いたせいか、文字はあちこちで歪み、インクの滲みや激しい訂正の跡が生々しく残っている。だが、そこには虚飾を剥ぎ取った、一人の少女の、そして一人の王としての「素の覚悟」が宿っていた。
王はその書類を、回し読むよう代表たちに促した。
書状の名は――『ブリタニア四国連合王権国憲章』。
外交の窓口こそエンガードが担うとあるが、それ以外の項目では、エンガードの既得権益をほぼすべて放棄し、他三国と対等な条件まで譲歩する内容だった。
風習、文化、宗教の自由。移動の自由。各軍の放棄と連合国軍の創設。そして、四国の代表による合議制への移行……。
「……エンガードの女王は、正気なのか?」
「おい、失礼だぞ!」
「だが、こんなものを発表すれば、エンガード国内が荒れるぞ。貴族どもが黙っていないはずだ」
その声を聞き、ムッサーシ男爵が小さく苦笑した。さっきまで女王を疑っていた者が、今はその身を案じている。
「女王は本気なのでしょう。国が荒れる? いえ、騒ぐのは富と権力にしがみつく極一部の特権階級だけです。大多数の民は、これを歓迎するのではないですか? ……陛下、あなたはどう思われますか?」
「それは……確かにそうだ。これが実現できれば、儂も嬉しい」
マルカム王が、どこか遠くを見るような目で頷いた。
ヨークが言葉を継ぐ。
「女王陛下は、自らの言葉でこれを民の前に発表したいと考えておられます。他国の誰からも強制されることなく、エンガードの王として」
「……なるほど。発表の前にスカイウェール側が過大な要求を出し、女王に汚名を着せてはならぬ、ということか」
マルカム王がヨークの意図を汲み取った。
「つまり、現状の脅威――鉄理の規矩騎士団の侵攻を、あくまで一部の軍人による『局所的な暴挙』として収めてほしい。その代償が、この未来の憲章である……ということだな?」
ゼンの問いに、ヨークは首を横に振った。
「代償ではありません。陛下は憲章を認めるにあたり、秘密裏に騎士団の黒幕である貴族や武器商人たちを粛清しておられた。兵站を断てば騎士団は沈黙すると、そうお考えだったのです」
「だが、奴らは北上した」
「……その通りです。心苦しい限りですが、大きな計算違いでした。皆様に多大なる被害を与えてしまう結果となり、心よりお詫び申し上げます」
ヨークは深く、深く頭を下げた。
沈黙が流れる中、マルカム王が重く、確かな声で告げた。
「……理解した。イライザ女王の志と、その行動力。儂にはないもの、儂には到底考えつかぬことを、かの女王は行おうとしている。未来のブリタニアのため、民のために。……儂は、この憲章に同意する」
「マルカム王!」
「ヨーク子爵、一旦席を外してくれ。これより、我々だけで最終的な討議を行いたい」
「承知いたしました」
ヨークが退室し、扉が閉まる。ゼン・ムッサーシが最初に口を開いた。
「改めて問う。エンガード賊軍による侵攻への対処、いかにすべきか!」
もはや、代表たちの顔に迷いはなかった。
「討つべし」「殲滅あるのみ」「撃て」「同意する」
決議は一瞬だった。
「八百万の神々の下に生きる我らの安寧のため。我々は今、一つの結論に達した。……『賊』を討つべし!」
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3. 檄文とハイランダーの影
その後、合議は深夜まで続いた。具体的な防衛戦略を練るため、伝令や配下の者が絶え間なく出入りし、静かだった王宮は戦時下の司令部へと変貌した。
ただちにスカイウェール全土へ向けて、激越な檄文が飛ばされた。
『武器を持って参集せよ! グラス・ガレスに集え!』
しかし、現実は非情だった。
「全土に檄を飛ばしたところで、集められる兵はせいぜい四百から五百。敵軍には到底及ばない」
「敵は南方の街を落としながら進撃している。徴用兵を街の守備に残したとしても、精鋭の騎士団八百騎は健在だ。我らが集めた急造の兵では、力の差は歴然としている……」
重苦しい空気の中、誰かが呟いた。
「……一騎当千と謳われる『ハイランダー』。彼らを何とか頼れないものか」
「難しいだろう。彼らは我らとは違う理で生きている。何より、我々は過去、彼らとの約束を違え、裏切った。彼らはそれを忘れていないはずだ」
「……それに、彼らも年々数を減らしている。今や戦える者は数十名もいないはず。果たして、何人来てくれるか……」
「だが、何もしないわけにはいかぬ。使者を出そう。エンガード軍が我が国を蹂躙すれば、いずれハイランダーの聖域とも衝突する。その前に、手を貸してもらえないか……とな」
「そうであるな。儂が書を認めよう」
マルカム王が筆を執り、魂を込めて書状を記し始めた。
一昼夜に及ぶ討議が終わり、代表会議はついに一つにまとまった。鉄理の規矩と戦う。その結論は出た。だが、状況は依然として絶望に近い。最高の手札であるハイランダーの助力を得られるかどうか、すべてはそこにかかっている。
ゼン・ムッサーシ男爵は、グラス・ガレスへの帰還準備を急ぎながら、遥か北へと向かった緋色の傭兵団、シンたちに思いを馳せた。
(……シン。種は蒔いた。あとは、貴殿らにすべてを託すぞ)
窓の外では、冷たい北風が吹き荒れていた。
鉄理の規矩騎士団がグラス・ガレスに襲来するまで、あと十七日。




