第8章:清明の理、あるいは黒髪の男爵の決断
1. 猛禽の眼差し
「ムッサーシ男爵。既に後ろの『風読みの鴉』の二人……ガストさんとヴィークさんから聞き及んでいるとは思うが、改めて言わせてもらう」
シンは居住まいを正し、黒髪の若き男爵の瞳を真っ向から射抜いた。
「俺たちは、このブリタニアで起きている泥沼の抗争を止めるために来た。大義もなく、終わらせる意思もなく、ただ既得権益と自己満足のために費やされているこの不毛な戦争をだ。――エンガード王権国、イライザ女王の密命に従ってな」
その言葉を聞いた瞬間、ゼン・ムッサーシ男爵は、ふっと冬の陽だまりのような笑みを浮かべた。だが、その眼光は少しも緩んでいない。
「それは素晴らしい。実に見事な理想だ。……だが、口にするだけなら誰にでもできる。そこらへんの夢見がちな少女でも、酔いどれの詩人でもね」
男爵は細長い指を組み、その上に顎を乗せた。
「私が知りたいのは『実務』だ。実行力を伴わない言葉は、この北国では“絵に描いた餅”……失礼、“紙の虎”に過ぎない。貴殿らがロンデニールで種を撒き、収穫を始めたことは聞き及んでいるが、その真意を改めて説明願いたい」
慎重、というよりは隙がない。シンは直感した。この男は、ロンデニールで見かけた肥え太った武器商人や、虚栄心にまみれた貴族たちとは根本的にモノが違う。
高い空から獲物の一挙手一投足を観察し、最善の一撃を狙う猛禽類。その視線はエンガードのみならず、さらに先の西方諸国……世界の潮流までも捉えている。
「二人から聞いているはずだ。輜重隊の消失と、主戦派の侯爵二人の失脚については」
「ああ、聞いた。だが、それはあくまで『短期決戦が頓挫した』というだけに過ぎない。エンガードという巨大な隣国からの脅威が消えたわけではないのだ」
ゼンは冷徹に事実を突きつける。
「むしろ、奴らはより慎重に、時間をかけて攻めてくるだろう。いわゆる“茹でガエル”かな? 真綿で首を絞めるように、スカイウェールの国力をじわじわと削り取る持久戦に移行する。それに対する回答は?」
シンは喉の奥が乾くのを感じた。この男、こちらの思考の先を読んでいる。
「……その通りだ。ブリタニア内戦が数年続けば、スカイウェールは干上がる。領土を削られ、民は疲弊し、経済は破綻する。最後にはエンガードに膝を屈するしかなくなるだろう。……だが、男爵。あんたは大陸の情勢をどこまで把握している?」
「……このような北の果てに隠居している身でね。田舎者ゆえ、大陸の情報には疎いと自覚しているよ」
「とぼけないでくれ。……西方は、この数年で劇的に変わりつつある」
シンは指を一本ずつ立てながら、大陸の情勢を語り始めた。
「フランク王国では強硬派の貴族が国論を統一し、再編を急いでいる。中小領主が乱立していたゲルマニアも、先日アレク大公によって統一された。ゲルマニアは東へ、フランクは西と南へと触手を伸ばしている。そして、その先にあるのは『海』だ」
ゼンの表情が、わずかに微動だにした。
「今はブリタニア海軍が北外海の制海権を握っているが、いずれ列強がそれを奪いに来る。積年の恨みを持つフランクか、新進気鋭のゲルマニアか、は大西洋に面したヒスパニアか。……ブリタニアが内輪揉めで泥沼に沈んでいる間に、世界は変わる。数年後、ドルベス海峡を越えて外敵が攻めてきた時、今のブリタニアに抗う力があると思うか?」
「なるほど、勉強になる。だがね、シン君。それは北外海を支配し、対外的な窓口を僭称しているエンガードの問題ではないか?」
ゼンの声に苦々しさが混じる。
「我らスカイウェールは、外交も交易も一切の口を封じられている。エディン・バーグの港から外海へ船を出す技術はあっても、実際にはドルベスまでの内海航路しか許可されていない。ガレシアの農作物も、ウルステアの工業製品も、すべてはエンガードの検閲と制限の下にある」
「……じり貧、というわけか」
「そうだ。王都では既に『逆侵攻すべし』という過激な声すら上がり始めている。エンガードの貴族どもは、同じ国の民という発想を欠き、交易の利を独占して悦に浸っている。……だから、私は言ってやったのだ。『待てばよい』とな」
「待つ……?」
「待っていれば、大陸の列強がエンガードを滅ぼしてくれる。我々にとって、南に居座る主がエンガードから他国に代わるだけだ。何も変わらん」
その、あまりにも虚無的で、国家の自死を受け入れるような言葉に、シンの理性が弾けた。
「あんた……! 自分の国を滅ぼす気か!!」
シンは激昂し、拳で机を激しく叩いた。男爵を見据えるシンの目は怒りに燃えていたが、対するゼンの目は、底なしの沼のように冷たかった。
「……シン君。何をそんなに熱くなっている? 君たちにとってブリタニアは所詮、異国だろう。この国が属国になろうが滅びようが、君らの懐が痛むわけではない。これは、私たちの問題だ」
「ちっ……」
シンの肩を、横からオットーが優しく叩いた。
分かっている。冷静さを失えば相手の思う壺だ。だが、この男の冷徹な諦観が、どうしても許せなかった。
シンは大きく深呼吸をし、高ぶる感情を強引に鎮める。オットーがもう一度トントンと肩を叩き、片目を瞑ってみせた。……全く可愛くない目配せだったが、おかげで毒気が抜けた。
シンは短く頷き、ここからの采配を年長者のオットーに委ねることにした。
________________________________________
2. 八百万の理念
「ムッサーシ男爵殿。浅学な私から一言、よろしいでしょうか」
オットーが静かに、しかし確かな存在感を伴って発言した。
男爵は笑みを崩さない。「オットー殿を浅学と言っては、この世に学問を修めた者はいなくなってしまう。……伺いましょう」
「男爵のお言葉、理にかなっている部分も多い。力弱き国の為政者として、第三国の介入を待ち、その混乱に乗じて自国の待遇を改善させるというのは、一つの戦術でしょう」
オットーは穏やかに肯定する。ゼンの目が、次の言葉を警戒するように細められた。
「ですが――その先に、この国の『魂』は維持できるでしょうか?」
「……どういう意味かな?」
「スカイウェールは稀有な土地です。多種多様な文化、古の風習、いくつもの信仰が混然一体となり、対立ではなく『融合』を体現している。政治や経済の数値では測れない、精神的な豊かさがここにはあります」
オットーの言葉に、ゼンの口が固く結ばれる。
「『八百万の神々と共に清明心で生きる』……この言葉。ムッサーシ家のご先祖が残された教えと聞き及んでいます。その理念があるからこそ、この地の民は安寧を保てている。私はそう確信しております」
「…………」
「これからエンガードとの戦いが泥沼化し、土地を奪われ、迫害を受ける民はどうなるか。一方、他国の侵略を利用してエンガードを滅ぼしたとして、その『復讐と裏切り』の歴史の上に、清らかな心など残るでしょうか? 向き合うべき者から目を逸らし、滅びを待つ。その選択が、スカイウェールの民の心にどれほどの影を落とすか」
オットーは一歩も引かずに続けた。
「理念を失えば、それはもはや別の民族です。文化を、誇りを滅ぼすことは、物理的な死よりも残酷な“民族の滅亡”に他ならない。……男爵殿。貴公は、その責任から逃れられるとお思いか?」
沈黙が部屋を支配した。
ゼン・ムッサーシは、どこか遠くを見るような、寂しげな笑いを漏らした。
「……何を大げさな、と一蹴したいところですが。確かにその通りだ。……自力では、もはやどうしようもない状況にある。ハイランダーの力を借りれば戦況を覆すことは可能でしょう。だが、彼らの力は強すぎる。正当な理由なき破壊のために、彼らは動かない。『滅ぼされる前に滅ぼしてくれ』という泣き言ではね」
「なぜ、一人ですべてを背負おうとするのですか?」
オットーが静かに問う。
「なぜ、手を取り合おうと考えないのですか。それこそが『八百万』の真髄ではないのですか?」
ゼンが、射抜くような視線を返した。
「手を取り合う? ――宿敵であるエンガードと、か。それは……果たして可能なのか?」
「彼、シンの言葉を、もう一度聞いていただけますか?」
オットーが流れるような動作でシンに話を振った。
________________________________________
3. 創世の憲章
(おいおい、えらいところでバトンが回ってきたな!)
シンは内心で冷や汗をかいたが、オットーが作ったこの絶好の機会を逃す手はない。
ムッサーシ男爵の頑なな心は、今、確実に揺らいでいる。
「……男爵。俺は最初に、エンガード女王の密命で動いていると言った。彼女は短い期間に、多くの血と涙を見て、それを咀嚼し、一つの結論を出したんだ」
シンは懐から、一通の重みのある書状を取り出した。
「その結論が、この『憲章』に刻まれている。これを見て、あんたの真の意見を聞かせてくれ」
シンは、イライザ女王が起草した『ブリタニア四国連合』創立のための条件を記した『憲章』の写しを、机の上に広げた。
ゼン・ムッサーシの視線が、紙面の上を踊るように走る。
一分、五分、十分……。
沈黙は長く続いた。男爵の瞳は、時に驚愕に見開かれ、時に鋭く細められ、紙のあちこちを何度も往復している。
(……一筋縄ではいかないな)
シンは、男爵の脳内で凄まじい速度の計算が行われているのを肌で感じていた。
自分も初めてこれを目にした時は、予備知識があったにもかかわらず、その実現可能性を一晩中シミュレーションした。どの利権を、いつ、どの順番で解放し、各国の反発をどう抑え込むか。その膨大なプロセスを、ゼンは今、この短時間で追体験しているのだ。
スカイウェールの内情に精通している彼なら、その思考の深度はシンの比ではないはずだ。
隣では、団長のガーブが退屈そうにあくびを噛み殺し、今にも船を漕ぎ出しそうな様子だが、今は待つしかない。
エンガードと、イライザ女王と、そしてこの黒髪の男爵が“協調”できれば――この絵空事は、現実の歴史へと変貌する。
やがて。
ゼン・ムッサーシが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは先ほどの氷のような冷徹さが消え、代わりに奇妙な熱を帯びた光が宿っていた。
「……理解した」
男爵は、震える声で一言、告げた。
「――緋色の傭兵団、ならびにエンガード女王イライザ。……私は、君たちと手を組もう」
その瞬間、部屋の空気が劇的に変化した。
不可能と思われた歯車が、初めて、力強く噛み合った瞬間だった。




