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『緋色の傭兵団の物語』「ブリタニア編」  作者: 嵗(sai)
第十二部:見えない牙と傭兵の地均し

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第5章:死神の契約、あるいは断頭台への招待状

1. 逃れられぬ取引


シルカは、まるで塵でも払うかのように優雅に一礼し、音もなく部屋を去ろうとした。その背中に、ガンツ侯爵の悲鳴に近い声が突き刺さる。


「い、いや、待て! 少し待てと言っている!」


足を止めたシルカは、ゆっくりと首を巡らせた。その瞳には、獲物の断末魔を楽しむような冷酷な愉悦が宿っている。


「……侯爵、何か? 価格が折り合わなかったのであれば、これ以上お話しすることはございませんけれど」


「いや、飲む! 言い値でいい、その条件で契約だ! だから……今すぐ、今すぐ武器を揃えてくれ!」


ガンツの形相は凄まじかった。脂汗が額を伝い、充血した目が狂ったように泳いでいる。


「……よろしいのですか? 今の侯爵にとっては、いささか……いえ、相当に厳しい金額になりますが」


「構わん! 足りない分は……おい、ラングフォード侯爵! 貴殿も助けてくれ、貸しがあるはずだ!」


縋るような視線を向けられたラングフォードだったが、彼は苦虫を噛み潰したような顔で視線を逸らし、力なく首を振った。


「いや、儂は……今は……」


「無駄ですよ、ガンツ侯爵。ラングフォード侯爵には、貴方を助ける力など残されていません」


シルカの鈴を転がすような声が、冷たく割って入った。


「ラングフォード侯爵は、既に私共の商会に多額の借財がございます。返済期限はとうに過ぎ、今この方に自由にできる金など一銭もございません。他を当たることですね。……もし、このロンデニールに、貴方に手を貸す物好きがいればの話ですが」


シルカはクスリと小さく、しかし残酷に笑った。その視線がラングフォードを捉える。


「次は貴方の番ですよ」


その瞳は、口にするまでもなくそう雄弁に物語っていた。


「ラングフォード侯爵。貴方は自ら戦場に立つ勇気もなく、ただ裏で糸を引き、他人の血で肥え太ることを選んだ『先導者』。実利だけを掠め取ろうとした結果、今、貴方は前線の信頼を完全に失った。その挽回の方法を死に物狂いで探しているのでしょうが……当てはあるのですか?」


ラングフォードは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。シルカの言葉は、彼の虚飾を一枚ずつ剥ぎ取っていく。


「商務省大臣という地位に胡坐をかき、三つの武器商人に便宜を図って贅を尽くした。賭博に溺れ、借金を重ね、そして今、その金の源泉であった商会をすべて失った。……返済の方法を失った貴方に、残された道は何かしら?」


ガンツ侯爵は、その光景を呆然と見つめながら悟った。


目の前のシルカという女は、自分たちの窮状を隅々まで把握した上で、この「毒餌」をちらつかせている。喰らって死ぬか、飢えて死ぬか――その二択を迫る、美しき死神なのだと。


「今ここで引導を渡されるか。それとも、わずかな望みに賭けて『これ』を掴むか。……選ぶのは貴方ですわ」


シルカの傍らで、エドマンドと名乗った男がガチガチと歯を鳴らして震え上がっている。


「……あ、悪魔め」


ガンツの掠れた呟きに、シルカは妖艶な微笑みを返した。


「悪魔? ほほ。貴方方のような方々に、そんな高潔な存在に例えられるのは心外ですわ。……で、どうされますか、ガンツ侯爵?」


ガンツ侯爵の理性が、音を立てて崩れ落ちた。


________________________________________


2. 強制執行のカウントダウン


契約は、シルカの主導で電光石火のうちに行われた。


提示された「言い値」は、平時であれば狂気の沙汰とも言える暴利だった。ガンツ侯爵が手元に持っていた金は、代金の三分の二に過ぎない。残りの三分の一については、シルカが定めた法外な利息と共に、侯爵家の名において借用書が作成された。


「……これで契約は無事締結されました。さて、お買い上げいただいた品は、どちらに納品いたしましょうか」


魂を抜かれたように椅子に沈み込んだガンツは、もはや応える力も残っていない。


「……ふふ、分かりました。『鉄理の規矩てつりのきく』騎士団のロンデニール駐屯地へお届けしておきますわ」


シルカは、最後に追い打ちをかけるように付け加えた。


「忠告しておきますが、借用書の返済期限は『十日』です。それを一刻でも過ぎれば、侯爵の所有財産はすべて私共の抵当に入ります。早めのご返済をお勧めしますわ」


茫然自失のガンツを背に、シルカは怯えるラングフォードにも声をかけた。


「ラングフォード侯爵」


「ひっ……! 儂を……儂をどうするつもりだ、この守銭奴め!」


「あら、何もしませんわ。……『私は』、ね」


その不気味な言い回しに、ラングフォードは震える唇を噛んだ。


「どういう……意味だ」


「貴方方は、自分が今どういう状況に立たされているか、まだお気づきではないの? これだけの『事』をしでかして、エンガードという国が動かないはずがないでしょう?」


「何……?」


「すぐに分かりますわよ。さようなら」


シルカはエドマンドを従え、優雅な足取りで部屋を去った。


ラングフォードは扉が閉まるまでその背中を見つめていた。逃げるべきか、あるいは……。


逡巡する彼の思考を遮るように、再び扉がノックされる。


部屋の主であるガンツは微動だにしない。仕方なくラングフォードが入室を許可した。


だが、入ってきた者の姿を見た瞬間、彼は己の終わりを確信した。


重厚な鎧の音。厳格な表情。それは自分たちを捕らえに来た騎士と、法を司る執行官たちだった。


「ガンツ侯爵、ならびにラングフォード侯爵。貴公らには収賄、軍との癒着、および大規模な取引詐欺の容疑で逮捕状が出ている。このまま身柄を拘束させてもらう」


ラングフォードは椅子の背に深く沈み込み、力なく笑った。


「……遅きに失したか」


________________________________________


3. 闇の連絡網


城を出たシルカとエドマンド。エドマンドは額の汗を拭いながら、主へ問いかけた。


「シルカ様、ご苦労様でした。……ですが、兵器と糧食を駐屯地に運んで、本当にいいのですか? あの二人、もう捕まりましたが」


「エドマンド。それは違うわ。契約した以上、履行しなければならない。対価を受け取っておきながら納品しないのは『詐欺』。それは商売ではなく、ただの野盗よ」


「はぁ、分かりました……。すぐに手配します」


シルカの決定が絶対であることを理解しているエドマンドは、早速準備のために駆け出していった。


それを見送ったシルカは、人通りのない路地の影に向かって囁いた。


「“なな”。いるのでしょう?」


「はい、ここに」


音もなく、建物の影から漆が姿を現した。


「緋色の傭兵団、シン副団長に伝えて。――こちらはすべて終わった、と」


「承知しました」


「後は前線で、皆様方の手腕を期待しています……ともね」


漆は深く頷くと、影に溶けるようにして消え去った。


シルカは手元の契約書と借用書の束を見つめ、少しだけ困ったように眉を寄せた。


「……純然たる赤字ね。さて、これからどうやってこれを補填ほてんしようかしら」


そう呟きながらも、その足取りはどこまでも軽やかだった。


________________________________________


4. 鴉たちの来訪


シルカが王城に向かう前まで時を遡る。緋色の傭兵団の野営地。


シン、ハンス、オットーの三人は、緊迫した空気の中で「客」を待っていた。


「シン様、ハンス様、オットー様。お願いされていました『風読みの鴉』の方々をお連れしましたわ」


シルカの案内で天幕に入ってきたのは、対照的な二人の男だった。


シンは心の中で(俺は情報を回せと言ったが、本人を連れてこいとは言ってない!)と毒づいたが、それを顔に出すほど青二才ではない。


「シルカさん。ロンデニールからわざわざご苦労様。……して、そちらが?」


「ええ。オズリック・ガスト様。そして、ジグルド・ヴィーク様です」


オズリック・ガスト。四十代半ば。短く刈り込まれた黒髪に、どこか血の色を思わせる鋭い赤い瞳。一見すると特徴のない顔立ちだが、服の上からでも分かるほど強靭に鍛え上げられた、鋼のような肉体を持っている。


ジグルド・ヴィーク。二十代後半。肩まで伸びた燃えるような赤髪に、同じく赤い瞳。こちらは繊細な美形だが、その身のこなしには獲物を狙う猛禽類のような俊敏さが秘められている。


知的な印象を受ける二人だが、オズリックは実戦のプロ、ジグルドは怜悧な知略家であるとシンは直感した。


シルカは黙って一枚のメモをシンに手渡した。一読したシンは、それを懐にしまい込む。


「……助かる」


「いえいえ。それでは、後は当事者同士で。私はロンデニールの『始末』に戻りますわ」


シルカはそう言い残すと、外で待機していた漆を捕まえ、嵐のように去っていった。


天幕の中には、傭兵団の首脳陣と、スカイウェールの影、二人の鴉が残された。


シンは、あえて無言を貫く二人に右手を差し出した。


「ようこそ。俺は緋色の傭兵団のシン。こちらは兵站担当のオットー、斥候のハンスだ。歓迎する。何もないところだがな」


だが、鴉たちはその手を見ることもなく、ただ氷のような視線をシンに向けていた。


シンはゆっくりと手を下ろし、不敵な笑みを浮かべた。


「……挨拶は抜き、というわけか。いいだろう。なら、さっさと始めようじゃないか」


スカイウェールとエンガード。二つの国の運命を揺るがす、真の戦いが今、ここから始まろうとしていた。


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