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『緋色の傭兵団の物語』「ブリタニア編」  作者: 嵗(sai)
第十部:消えた緋色の行方

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第2章:北外海の私掠船

1. 凪と嘔吐の船路


ゲルマニア公国、北部の要衝ゲルニーハーヘン。


かつてのガウス自治領が誇ったこの港湾都市の石造りの桟橋を蹴り、緋色の傭兵団を乗せた商船「北方乙女号ノーザン・メイデン」が進水したのは四日前のことだった。


目的地のフランク王国北部、港湾都市ダンクまでは、順調にいけば四日間の船旅である。


乗船しているのは、団長ガーブ、副団長シン、歩兵隊長ヤミルを含む精鋭七十五名。内訳は歩兵四十、クリス率いる弓隊二十、ハンスの特務隊十、そしてアインス、フィーア、フェンら遊撃隊の面々だ。


この航海、表向きはゲルマニア海運商会の会頭パウル・アルトマンからの護衛依頼という形をとっていた。しかし、実情はゲルマニア動乱においてアレク大公を支え、商会の危機を救った緋色の傭兵団に対する、アルトマンなりの「粋な報礼」であった。


「四日間、ただ船に揺られていれば依頼料が転がり込む。戦い続きだった俺たちには、これ以上ない急速になるはずだったんだがな……」


甲板の隅で、シンは手元の羊皮紙を丸め、小さく溜息をついた。


シンの目論見では、この航海は連日の激務で摩耗した神経を休める絶好の機会になるはずだった。実際、多くの団員たちは潮風に吹かれながら博打に興じたり、故郷の家族へ手紙を書いたりと、束の間の休息を享受している。


だが、例外は常に存在する。しかも、それが組織の要であればあるほど、指揮官の頭痛の種は尽きない。


「……う、ぐっ。おのれ……魔那の……揺らぎか……それとも、世界が、俺を、拒絶して……」


船縁ふなべりから身を乗り出し、胃の中身を北外海の冷たい波間に捧げているのは、陸上では一騎当千の剛勇を誇るヤミルである。


彼の船酔いは絶望的だった。乗船して一時間後には顔面が土色に染まり、二日目には幽霊のような青白さへと変貌を遂げた。昼も夜も、狭い船室に籠もっては呻き、数時間おきに甲板へ這い出しては「えずく」という無惨なサイクルを繰り返している。重厚な甲冑を脱ぎ捨て、ただの布切れのような服を纏って震えるその姿に、かつての威厳は微塵もない。


そしてもう一人、別の意味でシンを悩ませているのが、団長ガーブだった。


「おい、シン! 誰か動ける奴はいないのか! このままじゃ腕が錆びついて折れちまうぞ!」


ガーブは狭い船上という環境に、文字通り「爆発」しかけていた。


野生の獣のごとき生命力を誇る彼女にとって、何の変化もない水平線を眺め続ける四日間は、監獄での服役も同然だった。


最初は大人しく船室にいたものの、一時間も経たぬうちに「壁が迫ってくる!」と叫んで飛び出し、今では甲板を所狭しと動き回っている。目についた団員を片っ端から捕まえては、無理やり木剣を握らせて模擬戦闘を仕掛け、ついには「航海の邪魔だ!」と船長から烈火のごとく怒鳴られる始末。


それでも彼女の熱量は収まらず、船室に戻れば戻ったで、床の上で狂ったように腕立て伏せやスクワットを繰り返し、階下の船員たちから「天井が抜ける」と苦情が殺到していた。


「……済まんな、二人とも。俺にはどうすることもできん」


シンは、えずき続けるヤミルと、シャドーボクシングに興じるガーブを見捨て、冷徹に「放置」を決め込んだ。合理主義者の彼が出した結論は、エネルギーの無駄遣いを避けることだった。


________________________________________


2. 地平線の「影」


風向きが変わったのは、航海二日目の夕刻だった。


空が濃い橙色に染まり、海面が鉛色へと沈み始めた頃、マストの影からクリスが音もなくシンの隣に現れた。


「シン、右手に船影。一つ。距離はあるが、こちらの進路と交差するコースだ」


エルフの血を引く彼女の視力は、並の監視員を遥かに凌駕する。


シンは即座に船長の元へ向かった。


「船長、右手に船影が見えるそうだ。この海域で、他の船と交差することはよくあるのか?」


船長は、自慢の監視員よりも先に異常を察知したシンの言葉に驚愕し、慌ててマストの上の船員に確認を命じた。


「……報告! 確かに右舷前方に一点、帆影あり! 中型船です!」


報告を聞いた船長の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼は震える手で海図を広げ、声を絞り出す。


「……あり得ません。この航路、この時間に他船と行き交うなど、滅多に起こることではない。……もしや、本当に護衛をお願いしなければならない事態かもしれませんな」


シンの瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められた。


「……襲ってくるのか?」


「恐らくは。真っ当な商船なら、この時間帯に他船の進路を塞ぐような真似はしません」


「接触までの時間は」


「……風を読めば、三時間ほどかと」


「分かった。臨戦態勢に入ろう」


シンは甲板の中央へと進み出ると、腹の底から声を張り上げた。


「傾聴! 緋色の傭兵団! 全員臨戦態勢バトル・ステーション! 武器を取れ!」


しかし、団員たちの反応は鈍い。無理もない。ここ数日間の平和な空気が、彼らの神経を弛緩させていた。


「聴け! 海賊船接近の恐れありだ! お前ら、給料分の仕事をしてもらうぞ! ほら、そこ! 吐いてるヤミルを叩き起こしてこい!」


シンの叱咤に、ようやく団員たちが弾かれたように動き出す。


その瞬間、船室へ続く重い扉が「ばん!」という凄まじい音と共に蹴り開けられた。


「シン! 敵はどこだ! どいつを斬ればいい!」


そこには、飢えた狼のような笑みを浮かべたガーブが立っていた。退屈という名の拷問から解放された喜びが、その全身から溢れ出している。


シンは溜息混じりに、クリスが指し示していた方向を指す。


「あそこだ。三時間後に接敵する」


ガーブの動きが、ぴたりと止まった。


「え」


「ん?」


「……まだ、三時間もあるのか?」


「ああ。相対速度を考えれば妥当な時間だ」


「遅い! 遅すぎるだろうが!」


「いや、俺に言われても困る」


ガーブはあからさまに肩を落とし、つまらなそうに鼻を鳴らした。


「寝る。接敵十分前に起こせ。……それまでは起こすなよ、絶対にだ」


そう言い捨てると、彼女は嵐のような足取りで再び船室へと戻っていった。


一方、無理やり引きずり出されてきたヤミルは、船縁を掴んだまま死人のような顔で佇んでいた。


「ヤミル……。……戦えるか?」


「う、うぐ……。……たぶん、大丈夫だ……。甲板の上を、……走って、来る……」


そう言って、彼は再び「おえっ」と喉を鳴らしながら、ふらふらと戦場(甲板)の持ち場へと消えていった。


「……はあ。この二人を抱えて海戦か」


シンは深く溜息をつき、アインスを呼んで遊撃隊と歩兵隊の配置を指示した。


________________________________________


3. 海上の法と、届かぬ保険


シンは、かつてオットーから聞かされた北外海の地政学的な特性を思い出していた。


「シン殿。北外海というのは、基本的にはどの国の法も及ばない『公海』です。ゲルマニア、フランク、ブリタニア……どの国もここでの主権を完全には主張できません。だからこそ、自由であり、同時に無法地帯なのです」


オットーは、商人の視点からこの海の危険性を語っていた。


北外海は年間を通じて荒れることが多く、風は常に冷たく強い。嵐が発生すれば、並の船舶は木の葉のように弄ばれ、座礁や沈没は日常茶飯事だ。そのため、多くの商船は沿岸部を伝うように航行し、悪天候の予兆があれば、ブリタニアの「ドルベス」やヒスパニアの「ビーガ」、あるいは北方諸国の各港へ逃げ込む。


「海難事故に備えて、ブリタニアの『ロアーズ保険商会(Roars Insurance & Co.)』が提供する『海難保険マリン・インシュアランス』というものもあります。これに入っていれば、沈没しても損害が補填される。もっとも、保険料は目玉が飛び出るほど高いですがね」


だが、最大の問題は自然災害ではない。


人の手による略奪――海賊だ。


「ロアーズの保険も、海賊による被害は基本的に『免責』です。つまり、略奪されても一銭も出ない。オプションで海賊被害をカバーすることもできますが、その掛け金はもはや商売の利益を食いつぶすほどになる。だからこそ、商人は保険に入る代わりに、あなた方のような『傭兵』を雇うのですよ」


アルトマンが今回、緋色の傭兵団に乗船料を求めず、さらに依頼料まで満額支払うと言った理由が、シンには改めて理解できた。それは単なる感謝ではなく、「北外海の海賊」という極めて現実的なリスクに対する、最も確実な「保険」だったのだ。


「……何が『快適な船旅』だ。船長もアルトマンも、食えない連中だ」


シンが毒付いていると、船長が顔を引き攣らせて近寄ってきた。


「シン殿……! あの船、中型船です。乗っている海賊はざっと六十といったところでしょう。……どうか、この船と積み荷を守ってください!」


「わかっている。契約は遂行する。……おい、クリス、アインス! 準備はいいか」


シンは思考を切り替えた。


海の上では、得意の陸戦戦術は通用しない。揺れる足場、限られた空間。何より、重装歩兵であるヤミルの隊が使い物にならないのは明白だった。


「今回は弓隊による先制攻撃と、遊撃隊による斬り込みで対処する。ガーブには……」


シンが指示を飛ばそうとした、その時。


望遠鏡を覗いていた船長の指先が、目に見えて震え始めた。


「……し、シン殿。これは、まずい。非常に困ったことになりますぞ……」


「どうした。海賊の数が想定より多いのか?」


「違います。あの旗……。あれはただの海賊ではありません。『私掠船しりゃくせん』です」


シンの眉がぴくりと動いた。


私掠船。それは、どこかの国家から「敵対国の船を襲撃し、略奪してもよい」という公的な許可証――私掠免状――を与えられた、合法的な海賊のことだ。


「……どこの国の免状か、判るか?」


船長は、恐怖に顔を歪めながら答えた。


「帆の紋章、船体の形状……間違いありません。ブリタニア王権国です」


「……へえ。ブリタニア、か」


シンの唇が、不敵な弧を描いた。


これからの目的地であるブリタニア。その玄関口で、最初に出会うのが「国家公認の強盗」だというわけだ。


「面白い。……クリス、予定変更だ。殺しすぎない程度に、だが徹底的に教育してやれ。ブリタニアの流儀とやらを、まずは向こうから教えてもらおうじゃないか」


北外海の冷たい風が、シンの外套を激しく翻した。


水平線の向こうから、ブリタニアの「法」を背負った影が、確実に、そして傲慢に近づいてくる。


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