第2章:見えない牙と、沈む黄金
1. 消失の街道
ブリタニア王権国の心臓部へと続く大動脈。工業都市カー・ディヴから首都ロンデニールへと至る全長240kmの街道は、本来ならば鉄の匂いと荷馬車の喧騒が絶えないはずの場所だった。
だが、その日を境に、街道は音もなく獲物を飲み込む「顎」へと変貌した。
事の始まりは、国内三大武器商人の一角、『セイゲル・アーセナル商会』の下部組織である鏨商会が放った商隊だった。
最新の鋳造技術で仕上げられた剣や槍、一軍を武装させるに十分な武器を満載した二十両の重荷馬車。港湾都市ブリスト・ハーバーを出発した彼らは、中継地点のスウィンダムへ向かう途上、忽然と姿を消した。
予定日を過ぎても現れない商隊に、鏨商会は焦燥に駆られ、私兵や傭兵を動員して大規模な捜索を開始した。
「……何もありません。荷物一つ、折れた矢一本すら落ちていない」
報告を受けた責任者は耳を疑った。百人近い護衛と二十両の馬車が、魔法のごとく消え去るはずがない。捜索隊の一員が、スウィンダムまで残り12kmの地点で、路面の石が不自然に削れ、草木がなぎ倒された「争いの痕跡」らしきものを見つけてはいた。だが、血痕も遺体も、そして肝心の積み荷もそこにはなかった。彼はそれが商隊のものだという確証を持てず、叱責を恐れて上への報告を握りつぶした。
それが、連鎖する悪夢の号砲となった。
五日後。スウィンダムとレッディントン・ハーストを結ぶ街道で、『ヴァナキー・アンド・スティール商会』傘下、アントン通商の商隊十両が消失。 十二日後。マンプトンを出発したエンガード国軍直轄の輜重隊、十二車両が行方不明。
その三日後。ヨルムヴィックを出た『ルナ・アヴェンリー商会』の車両十八台。
さらに二日後。ノット・ヒルに到着するはずだった二十三台――。
街道は死んでいた。物流という名の血液が凝固し、巨大な利権のネットワークが悲鳴を上げ始めたのである。
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2. 武器商人たちの断末魔
「一体全体、何が起きていると言っているのだッ!」
セイゲル・アーセナル商会会長、トム・セイゲルの怒号が、豪華絢爛な執務室に響き渡った。五十年以上の歴史を誇る商会の主としての威厳は、今や余裕のない剥き出しの焦燥に取って代わられている。
「街道を……街道を隈なく調べさせましたが、未だに手掛かりは得られず。幽霊にでも攫われたかのようで……」
「貴様、何をやっている! あれから一ヶ月だぞ! 一ヶ月、我らの資産が虚空に消え続けているのだぞ!」
セイゲルは激昂のあまり、机上の重厚な文鎮を部下へと投げつけた。
「ひっ……!」
部下は情けない悲鳴を上げて腰を抜かしたが、それが幸いして文鎮は頭上を掠め、背後の飾り棚を粉砕した。「そ、捜索を続けさせますッ!」這うようにして部屋を逃げ出す部下の背中に、セイゲルの荒い呼吸が叩きつけられる。
室内には、彼と同じく顔を土色に染めた二人の男がいた。
「セイゲル殿。あんたのところの被害は、とりわけ甚大なようだな」
皮肉げに口を開いたのは、ヴァナキー・アンド・スティールの代表、ヴァナキーだ。
「うるさいわ! 他人事のように言うな!」
「……私の方は、既に軍への引き渡しを終えた後の消失だった。直接的な損失はない。だが、これほど組織的に、かつ一箇所の死体も残さず消えるなど、普通ではない。意図的に我々が狙われている」
ルナ・アヴェンリー商会の支配人、レックスが冷徹に分析する。
「どこのどいつだ! スカイウェールの間諜か? それとも野盗の分際で我らに牙を剥く愚か者がいるというのか!」
「落ち着かれよ、セイゲル殿」
「落ち着いていられるか! 積み荷が消え、軍への納期が完全に破綻したのだ! 巨額の違和金を請求された挙句、あのロアーズ保険商会の寄生虫どもめ……『損害の原因が不明な場合は支払い対象外』だとぬかしおった! 奴ら、金を受け取る時だけは殊勝な顔をしおって!」
「奴らもまた、死体の匂いがしない場所には金を出さん。我ら以上の守銭奴だ」
ヴァナキーが忌々しげに吐き捨てた。
「我が傘下の商会など、損害を補填させようとした矢先に夜逃げしおった。責任を押し付ける相手すらおらん」
「それはこちらも同じだ」レックスが頭を抱える。「軍に引き渡したはずの物資が、受領部隊に届いていないからと『契約不履行』を突きつけられている。軍内部の不手際だろうと抗議したが、握りつぶされた。ラングフォード侯爵はどうされたのだ?」
「……断られたよ」
ヴァナキーの呟きに、室内に凍りつくような沈黙が流れた。
「何だと?」
「行方不明が発覚した直後、仲裁を頼みに侯爵の元へ馳せ参じたが、門前払いだ。『自分の不始末は自分で何とかしろ』とな。今までさんざん金を毟り取っておきながら、この仕打ちだ」
セイゲルの拳が、ドォンと机を叩いた。
「あの狐め……! 我らを利を生むだけの『金の卵を産む鶏』としか見ていなかったということか!」
「万策尽きた、か。軍からは『金ではなく現物を寄こせ』と催促が来ている。今からカー・ディヴに追加注文しても、納期には到底間に合わん。数も揃わん。……破産だ。このままでは我ら三社、共倒れになるぞ」
絶望の淵に立たされた三人の老人の前に、レックスが最後の一手を提示した。
「……『銅貨』を呼ぼう。あ奴らに融資させる以外に、道はあるまい」
「……業腹だが、背に腹は代えられんか」
「借金で首が回らなくなる前に、当座の資金を確保する。……それしかないな」
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3. 守銭奴の強制執行
重苦しい沈黙の中、扉が控えめにノックされた。
「なんだ!」
主であるセイゲルが苛立ちをぶつける。
「はい。……『銅貨の天秤』の代表、シルカ様がお見えです」
「通せ! すぐにだ!」
扉が開かれ、一人の女性が室内へと歩を進めた。
コツ、コツ、と硬質な靴音が、静まり返った部屋に規則正しく響く。それはまるで、処刑人が壇上に上がる足音のようでもあった。
「ご機嫌よう、皆様方」
シルカは優雅な一礼を捧げた。その美貌には、商売人特有の計算高さと、底の知れない冷徹さが同居している。
「おお、シルカ殿! お待ちしておりましたぞ。実は、火急の融資をお願いしたく……」
セイゲルが縋るような声を上げるが、シルカは静かに手を挙げ、その言葉を遮った。
「お話をお聞きする前に。私共の方から、ご報告がございます」
怪訝な顔を見せる三人を余所に、シルカは懐から厚い書類の束を取り出した。
「セイゲル・アーセナル商会会長、セイゲル様。ヴァナキー・アンド・スティール代表、ヴァナキー様。そしてルナ・アヴェンリー商会支配人、レックス様。……本日は、『これまでの貸付金の全額返済』をお願いしたく参上いたしました」
一瞬、部屋の中の時間が止まった。
「……なっ?」
「なんだと……? 何を言っているのだ、貴様!」
男たちの困惑は、即座に激昂へと変わった。だがシルカは、氷のような微笑を崩さない。
「私共『銅貨の天秤』は、皆様の経営手腕を担保として、多額の出資を行ってまいりました。ですが、この一ヶ月の皆様の実績は、あまりに芳しくない。……これ以上の融資継続は回収不能のリスクが高いと判断いたしました。こちらが証文の写しです」
バサリッ、と机の上に投げ出されたのは、数十枚に及ぶ証文の束だった。各商会が事業拡張や贅沢、そして軍への根回しのために積み重ねてきた、血の匂いのする負債の記録。
「それぞれの元本と、本日までの利息を合わせた全額。今この場でお支払いいただけますでしょうか」
「馬鹿なことを言うな! 今まで一度も返済を急かしたことなどなかったではないか! 急に言われて払えるわけがなかろう!」
「そうだ! さんざん我らから利息を稼いでおきながら、この窮地で掌を返すか!」
「この守銭奴め! 貴様、恩を仇で返すつもりか!」
罵詈雑言を浴びせられながら、シルカは静かに書類を整理した。
「掌を返した? 心外ですね。皆様は『事業拡張のため』と称して追加融資を繰り返してこられました。私共はただ、現状の皆様が『極めて危険な債務者』であると、客観的に判断したまでです」
シルカの言葉が、鋭い刃となって三人を突き刺す。
「軍への納品不履行。物流の完全停止。売掛金の未回収。そして何より、王権国における信用の喪失。……これ以上のリスクを背負い込めるほど、私はお人好しではありません。稼がせてやった? それは賭場のお話でしょう。皆様、随分と良い思いをされてきたではありませんか」
「貴様……!」
「ええ。仰る通り、私は守銭奴です。否定はしません。リスクに対する正当なリターンを求めているだけです。……ですが、それが何か? 死の商売で肥え太ってきた皆様と、何が違うというのでしょうか?」
三人の老人は、言葉を失って口を噤んだ。鏡を見せつけられたかのような、残酷な真実。
シルカは冷徹に最後通牒を突きつけた。
「現金でお支払いいただけない場合は、現物でも構いませんわ。お屋敷、商会の建物、鉱山の採掘権、あるいは他国への販売権利証……。それぞれ、私共の方で『適正』に評価させていただきます」
「ま、待て……三日だ。せめて三日待て!」
「ええ、よろしいでしょう。三日。三日だけお待ちします。三日後の同時刻、全額の回収に伺います。それまでに、すべての資産を整理しておいていただけますよう」
シルカは、射抜くような視線で三人を見渡した。
「返済いただけない場合は、即座に強制執行に移らせていただきます。……それでは、ご機嫌よう」
彼女は机の上に、パチリと一枚の「磨き抜かれた銅貨」を置いた。それは『銅貨の天秤』がその場を領有したことを示す、不吉な刻印。
シルカが静かに部屋を去った後、そこには頭を抱えて震える三人の老人の姿しかなかった。
「守銭奴め……。あのような女に、我らのすべてを奪われるというのか……」
絶望の呻きが、豪華な執務室に虚しく響く。
外では、彼らの築き上げた帝国を飲み込むための「嵐」が、着実にその勢いを増していた。




