第9章:損切りという名の帝王学
1. 戦争という名の不渡り
白亜の城、陽光が穏やかに降り注ぐ中庭。しかし、その四阿に流れる空気は、鉄火場のそれよりも鋭く研ぎ澄まされていた。緋色の傭兵団の「財布と知恵」を司るオットーが、ティーカップを置き、静かに、だが残酷なまでの正論を紡ぎ出す。
「陛下、見ているだけ、手をこまねいているだけでは平和は手に入りません。それは莫大な対価を払ってこそ、ようやく指にかかる『極めて高価な商品』なのです」
女王イライザは、その言葉を飲み込むように喉を震わせた。オットーの講義は、彼女が今まで教わってきた騎士道の精神論とは真逆の、泥臭い商売の論理に基づいていた。
「エンガードでは軍部やラングフォード侯爵、そして武器商人たちは『戦争』という巨大な事業に投資し、そこから莫大な利潤を得ています。陛下、彼らの利益の源泉が何であるか、お判りになりますか?」
「……武器、でしょうか」
「左様です。武器、そして糧食、何より『人』……兵そのものです。武器がなければ戦えず、糧食がなければ兵は動かず、人がいなければ軍は成立しません」
オットーは指を三本立て、一つずつ折ってみせた。
「これらはすべて『消耗品』です。使えば減り、供給し続けなければ事業(戦争)は破綻する。そしてこれこそが、戦争という事業に致命的な打撃を与える『楔』となります」
「人を消耗品扱いするのは、聞き捨てなりません」
イライザが眉をひそめた。その純粋な反発に対し、オットーは深々と頭を下げる。
「失礼いたしました。……ですが、この三つの楔のうち、どれか一つでも断てば、彼らの目論見は崩れます。戦争を継続したい軍人、武器商人、そして利権に群がる官僚。彼らのうち、誰か一人の動きを止めるのです。彼らに『平和』という名の、巨大な損失を押し付ける。もっと端的に言えば、彼らに『不渡り』を掴ませるのです」
「む……」
傍らで聞いていたグレヴィル軍務卿が、苦渋に満ちた表情で唸った。
「その不渡りは、このエンガードという国にとっても一時的に大きな被害をもたらすでしょう。しかし、それを理由に『損切り』を行うのです。不渡りを起こした責任を、推進派に問う。彼らの特権を剥奪し、組織から切り捨てる。当然、陛下は彼らの恨みを買い、政治的な後ろ盾を一部失うことになるでしょう。それが、陛下が最初に支払うべき、第一の『損切り』です」
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2. 外交という名の診断書
オットーの言葉は、さらに深い領域へと踏み込んでいく。
「次に、『和解しましょう』と口にするのは簡単ですが、具体的な譲歩案のない和解など、為政者としては失格です。商売の場では一文の価値もありません。なぜスカイウェールが『不屈』の姿勢を崩さないのか。それを考えねばなりません。陛下、よろしいですか。軍人はすぐに戦争、戦争と喚きますが――」
オットーは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「“戦争とは、外交の一手段”に過ぎません。そして“戦争とは政治の一手段”です」
「ほう!」
それまで沈黙していたヨーク子爵が、膝を打って身を乗り出した。
「戦争とは、政治や外交の延長線上にある数多の手段の内、最も効率が悪く、最低の選択肢です。政治は医療のようなもの。己の病を治そうとするなら、まず自らの症状を客観的に把握せねば治療はできません。そして外交は診察です。相手を知らなければ、適切な処置は行えない。『敵を知り、己を顧みて、互いの損失と利益を計る』。これこそが、商売の、そして統治の極意です」
「損失を計り……利益を計る……」
イライザはその言葉を、呪文のように繰り返した。彼女の中にあった「平和」という名の抽象的な概念が、生々しい数値と利害の天秤へと置き換わっていく。
「話を戻しましょう。スカイウェールがなぜ敵対するのか。それは、エンガードに奪われた資源、土地、そして文化という名の『資産』の回収を諦めていないからです。陛下。和解とは、エンガードが奪ってきた彼らの資産を返却することです。他国との通商利益、あるいはウルステアの工業製品など、目に見える利益を彼らに譲渡せねばなりません」
オットーの声が一段と低くなる。
「共に手を取り合うために、エンガードの取り分をどれだけ減らす(損をする)覚悟がおありですか? 軍部や官僚は、エンガードが頂点に君臨する支配構造を望んでいる。しかし、『ブリタニアという一つの国』を真に望むのであれば、四国は対等でなければならない。陛下、貴女は自らの『四国連合の代表』という絶対的な権威すら、自ら切り落とさねばならないかもしれない。……国の安定のために、王権の誇りという資産を『損金処理』できますか?」
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3. 見積書と覚悟の重み
講義を終えたオットーが、ふう、と一息ついて紅茶を啜った。
シンは、その場にいる者たちの顔を見渡した。
(ガーブ! 寝るな……全く、こいつは最後に出てきて誰かをぶっ飛ばす瞬間しか興味がないんだろうな。まあいい、出番はまだ先だ。……それにしても)
イライザ女王とグレヴィル卿の顔は、苦悩に歪んでいた。唇を噛み締め、震える指先を隠そうともしない女王の姿は、直視すべき現実の重さに押し潰されそうに見える。
「損切り、か……」
グレヴィル卿の呟きは重い。彼は武人として軍部を抑えることばかりを考えていた己の視野狭窄を、今、痛烈に恥じているようだった。
意外だったのはヨーク子爵だ。彼は驚くべき速さでペンを走らせ、手元の資料に書き込みを続けている。
(己と相手の損得勘定か……面白い、と。計算高い野郎だ。だが、実務者のあんたが最初からこれくらい考えておけよな。平和ボケした島国の悪い癖だ)
シンは椅子を鳴らして立ち上がり、場をまとめるべく声をかけた。
「……ま、そういうことだ。女王陛下」
「あんたが自分の『王権』、その冠の重みをどれだけ削れるか。スカイウェールにどれだけの利益を譲れるか。その『見積書』を俺たちに見せてくれ。それが和解の成否、そのすべてだ」
シンの黒い瞳が、逃げ場を塞ぐようにイライザを捉える。
「あんたの覚悟を見せてくれ。それによって、俺たち『緋色の傭兵団』は動きを決める。和解を邪魔する連中、損切りを拒んで私腹を肥やす軍部やクソ商人どもを、力ずくで叩き潰す『執行者』になってやる」
沈黙が支配する四阿に、ヨーク子爵が動かすペンのカリカリという音だけが響く。
シンは冷ややかな目で子爵を見た。
(こいつ、自分の取り分まで計算に入れてやがるな? 他人事のような顔をして、安全圏から盤面を眺めてるつもりか。……よし、決めた。こいつをスカイウェールとの交渉の矢面に放り込んでやろう)
やがて、イライザがゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの迷いとは違う、冷徹な理性の光が宿り始めていた。
「シン……見積書は、早ければ早いほどいいのだな?」
「早いに越したことはない」
「……明日、同じ時間に。この場所で」
「軍務卿。防諜体制はどうなっている」
今まで沈黙を守っていたハンスが、鋭い指摘を投げかけた。
「防諜? 間諜のことか?」
「はっきり言って、ザルだぞ。この城、執務室、会議場……人の出入りのチェックはどうなっている? 女王が傭兵と会談するなどという異例の事態、注目されないわけがない。不用心すぎる」
グレヴィル卿が顔を赤らめる。「む、むう……正直、そこまでは考えていなかった」
「女王の身の安全をもっと考えろ。……それと、ヨーク子爵だったか。今書いているそのメモは、ここで破棄して行け」
ヨーク子爵が驚愕の表情をハンスに向けた。「なんと! 無体な!」
「あんたほどの頭脳があれば、すべて記憶できるはずだ。第三者の手に渡って不利になる証拠を残すな。女王もだ、見積書を練る際はメモを残すな。すべて頭の中で完結させろ」
「厳しいな……」
グレヴィル卿の囁きに、ハンスは容赦なく続けた。
「それが嫌なら、情報管理を徹底しろ。不穏分子を遠ざけ、確かな防諜網を築くことだ。……次の会合場所も変える。城は目立ちすぎる。街中の適当な場所を指定する。女王はお忍びで来い」
「……分かった。手配しよう。陛下、ご理解を」
「分かりました。場所が決まり次第、連絡を」
第二回会合、別名「オットー先生の帝王学商売講座」は、こうして幕を閉じた。
帰り際、シンは去ろうとするヨーク子爵の肩を叩き、耳元で囁いた。
「あんたのことは覚えたぜ、子爵。その冴えた頭、存分に使い倒させてもらう。……逃げたり傍観者面するのは許さねえ。楽しみにしてな」
ヨーク子爵は目を剥き、絶句していた。
シンはそれを見向きもせず、草原のキャンプへと歩き出した。
ここにいる全員が、もう当事者だ。誰一人として、無傷でこの嵐を通り抜けることはできない。相応の「対価」を払ってもらう時が、刻一刻と近づいていた。




