第8章:裏路地の掃除と女王の天秤
1. 闇に潜む「蝿」の正体
翌朝。ロンデニールを包む朝霧はまだ濃く、湿った空気が肌を刺す。シンはハンスに促され、昨夜のうちに捕縛した「密偵」たちが転がされている宿営地の一角へと向かった。
「昨晩の収穫はどうなっている?」
歩きながら問いかけるシンの横で、ハンスが感情を排した声で報告を始める。
「周囲に潜んでいたのは総勢六十五名。内訳は、政府軍の密偵が四、ラングフォード侯爵の手の者が二、その他貴族関係の刺客が七名」
「早速お出ましというわけか。残りは?」
「裏社会の住人が五十二名。内、単なるチンピラや野良犬の類が二十八名。残る二十四名は組織に属する手練れ。尋問のために生かしたのは、四つの組織から五名。二つは暴力組織、一つは過激派、そして最後の一つは……スカイウェールの密偵組織」
シンの足が止まった。
「……今、なんて? スカイウェールの密偵だぁ?」
「はい」
「はは、傑作だな。エンガードの防諜網はザルどころか、底が抜けているらしい。まあいい、それぞれの組織の特徴を教えろ」
ハンスは懐から手帳を取り出し、淡々と読み上げた。
『鉄くずの掟』:貧民層に根を張る荒くれ者の集団。違法行為と暴力で裏通りを支配する、典型的な暴力組織。
『銅貨の天秤』:高利貸しと賭博を本業とする者たち。借金のかたに人身売買も辞さない金の亡者。
『血の帳簿』:戦争で財産や家族を失った者たちの過激派。絶望を糧に暗殺を請け負う。
『風読みの鴉』:スカイウェールから派遣された、本物のプロの潜入工作員。
「なるほど。まずは『鉄くずの掟』と『銅貨の天秤』に挨拶に行こうか。……ヤミル、準備しろ」
シンが声をかけると、背後で気配が動いた。ハンスが困ったように視線を向ける先には、にこにこと無邪気な、しかし獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべるガーブが立っていた。
「シン? 私も行くよ。退屈で死にそうだったんだ」
「……はあ、仕方ないな。暴れすぎるなよ」
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2. 暴力と交渉の「出入り」
最初に向かったのは、悪臭漂うスラム街の奥に構えられた『鉄くずの掟』のアジトだった。
だが、そこはもはや「交渉の場」ではなかった。
「おりゃあ! あはははは!」
「ふん、鈍いな。死ね!」
ガーブの旋風のような蹴りと、ヤミルの容赦ない刃が、組織の構成員たちを次々と薙ぎ倒していく。阿鼻叫喚の図。その惨状の真ん中で、シンは組織のトップである五十代の男とテーブルを挟んで向かい合っていた。
「すまないな。まるで『出入り』のようになってしまったが、俺は静かに話し合いたかっただけなんだ」
「ふ、ふざけるな……ッ! 貴様ら、何者だ!」
「先に手を出したのはあんたらだ。……さて、選ばせてやる。俺たちの傘下に入るか、ここを更地(墓場)にするか。どっちだ?」
背後で鉈剣を振りかざした男が迫る。シンは見向きもせず、指先で弄んでいた投げナイフを無造作に背後へ放った。ナイフは男の肩に深く突き刺さり、悲鳴と共に男が倒れ伏す。
「傘下に入るなら、時々情報を流し、俺の言う通りに動けばいい。後のシノギは好きにしろ。……いずれ更生してもらうがな」
トップの男は、目の前の「若造」が放つ、血よりも冷たい合理性に圧倒され、がっくりと項垂れた。
「……分かった。もうやめてくれ。あんたらに下る」
シンは満足げに微笑んだ。
「聞き分けが良くて助かる。今日からあんたは『陸』と名乗れ。連絡員を一人付ける。……おい、ガーブ! ヤミル! 終わりだ、次に行くぞ」
「えー、もう終わりかよ?」「次はもっと歯応えのあるやつを頼むぜ」
不満げな二人を引き連れ、一行は次の目的地へと向かった。
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3. 『銅貨の天秤』と不吉な予言
次に向かったのは、街の中心部に堂々と建つ三階建ての立派な商館――『銅貨の天秤』の本拠地だ。
「今度はまず話し合いからだ。いいな、絶対に静かにしてろよ」
ガーブとヤミルに念を押し、シンは商館長への取次ぎを求めた。
応接室で待っていたのは、四十代ほどの、洗練された美しさを纏う女性だった。
「これはこれは、緋色の傭兵団の皆様。ようこそおいでくださいましたわ」
「つまらない男を使いに出してくれたな。俺たちに何の用だ?」
「あら? 使いなど出した覚えはございませんことよ」
「そうか。なら、今預かっているあんたのところの刺客は、こちらで処分していいな?」
「存じ上げない者ですわ。お好きになさって結構です」
女の瞳は笑っているが、その奥には獲物を逃さない商人の強欲さが潜んでいた。
「緋色の傭兵団さん。これも何かの縁、ぜひお近づきになりたいものですわ。……どうです? 上の階の『特等席』へいらっしゃいませんか?」
「賭場か。興味ないな。俺たちはいかさま混じりの博打じゃ、心拍数一つ上がらないんでね」
シンの冷淡な拒絶に、女の眉が微かに動く。シンは立ち上がり、扉へ向かいながら振り返った。
「……それより、あんた。このままだと大損するぞ」
「大損? 何のことでしょう。わたくし、そのような危ない橋は叩いても渡りませんわ」
「この組織、武器商人に大規模な投資をしているだろう? 近い将来、彼らは破産する。……もし『絶対に安全な賭け』だと思っているなら、早めに降りることだ」
女の顔から余裕が消え、真顔になる。
「……何をご存知なのですか?」
「危ない賭けはしないんだろう? 自分の勘を信じろ」
それだけを残し、シンは商館を後にした。
帰り道、ガーブが不満そうに尋ねる。
「シン、もう終わり? 何か物足りないんだけど」
「ここは終わりだ。……まあ、帰り道に少しは『お楽しみ』があるかもしれないがな」
その「お楽しみ」がどれほど賑やかだったかは、ガーブとヤミルの服に飛び散った返り血の量が物語っていた。
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4. 殲滅の『血の帳簿』
そして、最後の一つ。暗殺者集団『血の帳簿』。
正直に言えば、シンは彼らとやり合いたくはなかった。彼らは戦争というシステムの犠牲者だ。家族を失い、財産を奪われ、絶望の果てに暴力へ身を投じた者たち。
ガーブも、ヤミルも、クリスも、そしてシン自身も。皆、同じ境遇の孤児だった。
だが、彼らはその怒りを「憎しみの再生産」へと転嫁した。金で雇われ、新たな悲劇を生む暗殺者へと成り下がった。もはや被害者ではなく、憎しみを循環させる装置の一部だ。
(……だから、根こそぎ断つことにした)
シンは夜、誰にも告げず一人でアジトへ向かった。
これ以上、彼らが悲劇を生まないために。そして、彼らのような存在を生み出した「上の連中」に、それ相応の対価を払わせるために。
翌朝、そのアジトから生きて出た者はいなかった。
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5. 女王の決断
それから二日間。シンはテントの中で静かに時を待った。
ハンスと特務隊が街中に散り、網の目のように情報を集めてくる。
「……『Z』の印は見つかりませんでした。それと、『銅貨の天秤』の女が、慌てて資産を引き揚げ始めたようです」
ハンスの報告を聞き、シンは小さく頷いた。
三日目の朝、アルバ・ロンダ城から使いの侍従がやってきた。女王陛下からの、非公式な呼び出しだ。
「……さて。氷の女王がどんな答えを出したのか、聞きに行こうか」
シン、ガーブ、オットー、そしてハンスの四人は、再びあの白亜の城の、陽光溢れる中庭へと案内された。
そこにはイライザ女王、グレヴィル軍務卿に加え、見知らぬ文官が座っていた。
「外交と海外交易を担う、ヨーク子爵だ。座ってくれ」
女官が淹れる紅茶の香りが漂う中、シンは単刀直入に切り出した。
「で、女王陛下。ご用件は?」
イライザ女王は、まっすぐにシンを見つめ、震える声で、しかしはっきりと言い放った。
「シン殿。……どうすれば、スカイウェールと和解できる。彼らと手を取り合い、この不毛な争いを終わせることができるだろうか」
傍らのグレヴィル卿とヨーク子爵は黙って聞いている。
シンは、にやりと口角を上げた。
「――できますよ。案外、簡単にね」
「どうやって! 教えてくれ!」
身を乗り出す女王。シンは彼女を宥めるように手を挙げた。
「その前に、女王の考えを聞きたい。どうしてその結論に至ったのか」
イライザは語り始めた。
百年戦争以来、破綻し続けている財政。軍部が主張する「武力による統一こそが唯一の救い」という欺瞞。シンに「損得勘定」を指摘され、誰がこの状況で最も得をしているのかを考え抜いたこと。
戦争を継続することで肥え太る軍部と一部の商人。そして、自分がいかに「中立」という名の下に無責任な傍観者であったか。
「私は……平和で繁栄する国を、民が皆、笑顔でいられる国を造りたい。スカイウェールも、ガレシアも、ウルステアも。すべてが手を取り合う『ブリタニア』という一つの意志を確立したい。……そのためには、まず和解が必要だ。だが、その具体的な方法が分からない。だから……シン、貴殿の知恵を貸してほしい」
(……まだ青いな。だが、嫌いじゃない)
展望は定まった。次は目標だ。どういう状態を「ゴール」とするか、一段階ずつ決めていく必要がある。
そこで、隣にいたオットーが静かに咳払いをした。
「陛下。僭越ながら、この私めから一つ、問いかけをさせていただいても?」
「……なんだ、オットー殿」
「陛下は、どれほどの『損切り』を覚悟されますか?」
「そんぎり……?」
女王が首を傾げる。
「おや?」
シンは背もたれに体を預けた。どうやら、稀代の交渉人による「帝王学の講義」が始まるらしい。シンは楽しげに、オットーの言葉に耳を傾けることにした。




