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『緋色の傭兵団の物語』「ブリタニア編」  作者: 嵗(sai)
第十一部:君主の見積書

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第7章:女王の鏡、あるいは損得の天秤

1. 聖域の断絶


「――この地は、常に戦場だった」


午後の柔らかな陽光が降り注ぐ中庭。色とりどりの花々に囲まれた四阿あずまやの静寂を、シンの低く、徹徹とした声が切り裂いた。


女王イライザは、手にしていた白磁のカップを止めたまま、凍りついたような眼差しをシンに向けている。


「……お芝居の『歴史』と銘打たれた、綺麗に飾り立てられた表紙の絵物語のことを言っているのではない。俺が聞いているのは、百年戦争のようなちまちまとした形ばかりの儀礼的な戦いなどではない。泥を啜り、臓物をぶちまけ、互いの尊厳を完膚なきまでに破壊し尽くす、本物の地獄のことだ」


シンの言葉は、止まらない。隣でオットーが「シン君、それ以上は……」と制止しようとしたが、彼はその手制を黙殺した。熱くなっているわけではない。むしろ、その思考は氷点下の合理に達していた。


「数千、数万の若者を徴兵し、大地を耕す手を奪う。戦費を捻出するために、庶民の骨の髄まで搾りかすが出るほどしゃぶり尽くす。……スカイウェールとの全面戦争が始まれば、この美しい中庭も、平和を謳歌しているはずのロンデニールの街も、すべてはその戦火を維持するための『燃料』へと変貌する。陛下。あなたに、その火を点ける覚悟があるのか、と聞いているんだ」


「無礼な……ッ! 控えなさい!」


背後に控えていた女官が、鋭い声でシンの不敬を咎めた。だが、イライザは震える手でそれを制した。彼女のアイスブルーの瞳は、逃げることなくシンの眼光を受け止めている。


「……覚悟がないから、沈黙しているわけではないわ、シン。軍部は武力による統一という幻想を叫び、官僚は財政の破綻を恐れて現状維持という緩やかな死を説く。その板挟みの中で、私が軽率に動けば、それこそが内乱の引き金になる。私が『中立』を保ち、静止していることは、この国がバラバラに弾け飛ばないための、唯一のくさびなのよ」


「それは中立じゃない。単なる『意思決定の放棄』だ」


シンは一歩も引かなかった。


「女王陛下。戦争は感情や理想で起きるものじゃない。そこにあるのは、常に冷徹な損得勘定だ。……オットーさん、専門家の見解を」


指名されたオットーは、眼鏡の奥の瞳を和らげ、しかし逃げ場のない穏やかな声で引き継いだ。


「……はい。陛下、戦争とは国家における莫大な『投資』なのです。軍務卿たち軍部、そして彼らと結託する武器商人にとって、戦争は莫大な利益を生む成長事業に他ならない。一方で、多くの貿易商たちは物流の停滞を恐れ、平和という名の『安定した市場』を切望している。陛下がどちらの陣営にも組しないことは、双方に『いつか自分の望みが叶うかもしれない』という淡い期待を持たせ続けている。……しかし、その宙吊りの期待こそが、今のブリタニアに、爆発寸前の澱んだ熱を溜め込んでいるのです」


「私が……決断を先延ばしにしていると?」


イライザの白い指先が、膝の上でわずかに震えた。


「そうだ。女王個人が平和を願うのは勝手だが、君主の『願い』だけで平和が買えるほど、世の中の帳簿は甘くない。女王は、この損得勘定の表の中に、自ら《・・》を書き込むべきだ。どちらの陣営に付き、どの程度の損失を許容し、最終的にどんな『利益』を回収するのか。その基本方針も展望もないまま、ただ場当たり的に俺たちを呼んだのなら……それはあまりに稚拙な博打だ」


シンは椅子を引く鋭い音を立てて立ち上がった。


「女王は『誰もが笑って過ごせる国』と言った。だが、その平和を維持するためのコストを、一体誰が払うのか? 侵略を食い止める兵士の血か、あるいは敵を沈黙させる圧倒的な経済力か。……中途半端な慈悲は、常に最悪の結果を招く。陛下が『盤上の主役』として覚悟を決めない限り、時間は残酷に過ぎ去るだけだ」


「待ちなさい、シン……!」


背後から届くイライザの呼びかけを、シンは冷たく受け流した。


「失礼する。……次に会う時は、単なる『肉壁』への依頼書ではなく、ブリタニアの未来を買い取るための『見積書』を用意しておいてほしいもんだ」


中庭を去るシンの背中に、午後の陽光が冷たく突き刺さっていた。


________________________________________


2. 草原の軍議


王城を辞した三人は、街道の喧騒を抜けてロンデニール外縁の広大な原っぱへと戻った。


追ってきた侍従に、グレヴィル卿への伝言として「当面はここで宿営する」と伝えさせたシンは、団員たちに街への外出許可を与えると、吐き出すような溜息と共に自らのテントへ引っ込んだ。


(……言ってしまったな)


アレク大公のような「支配の権化」とは対極にある、繊細すぎる女王。彼女の甘い物言いに苛立ちを覚えたのは事実だが、あそこまで踏み込めば「不敬罪」で即刻処刑されても文句は言えない。


だが、あれがこの国の頂点なのだとしたら、あまりに危うい。官僚、文人、武人、そして他三国の代表――肥大化した下部組織の調整に追われ、自らの意志を喪失している。百年戦争がダラダラと続いた元凶も、そのあたりにあるのだろう。


「……いいかい?」


テントの幕が開き、オットーとハンスが入ってきた。


三人は無言でどっかと座り込み、オットーが持参した酒瓶から杯に酒精を注ぐ。


「……シン君。正論だが、あれは少しばかり女王陛下が不憫だったよ」


オットーが苦笑交じりに杯を差し出す。


「分かっている。反省はしているが、後悔はしていない」


シンは一気に酒を煽り、視線をハンスに向けた。


「それよりハンス。王城の『裏』はどうなっている?」


ハンスは杯を置き、淡々と報告を始めた。


「イライザ女王が王位を継いだのは七年前。彼女がまだ十四歳の時です。先王の急死により、帝王学を修める間もなく玉座に据えられた。当初は右も左もわからぬ彼女を利用し、文官や武官が好き勝手に権力を貪っていた。それが今の腐敗の根源です」


「つまり、彼女は今、その歪みを正そうともがいているが、足場が全く固まっていないということか」


「その通りです。巷の評判も『理想は高いが実行力に欠ける』という評価で一致している」


オットーが言葉を添える。


「だがね、シン君。軍務卿グレヴィル伯爵と、宰相バトラー。この二人は先王の代から彼女を支え、戦争と政治のイロハを教え続けてきた。ここ一、二年の女王の言動には、ようやく自立の兆しが見え始めていたようなんだ」


「だが、それを面白くないと思う輩がいるわけだ」


「ええ。対立の極は二つ。一つは商務省大臣のラングフォード侯爵。国内の商業組合、特に武器商人たちの拡声器のような男だ。そしてもう一人は、開戦派の急先鋒、ガンツ侯」


ハンスが地図を指差した。


「ガンツ侯は軍部の過半数を掌握している。特に彼が擁する騎士団『鉄理の規矩アイアン・レギュレーターズ』八百騎は、エンガード随一の精鋭を自称し、虎視眈々と手柄を狙っている。この二つの勢力が、スカイウェールとの戦端を開くために女王を突き上げている……というのが王都の現状です」


「庶民の反応は?」


「『いい加減にしてくれ』の一言だ。百年戦争から続く絶え間ない軍役と重税に、民の疲弊は限界に達している」


シンは、空になった杯を見つめた。


「……絶好の機会なんだがな。女王が真に実権を握り、この国を再編するための。結局のところ、彼女がどこと組み、何を切り捨てるか。その決断次第で、彼女の資質が決まる。……そして、俺たちの進む道もな」


イライザ女王は、ある意味で俺自身の「写し鏡」のような存在だ。


「彼女の答えが出るまで、我々は待機だ。……それと、周りの『蝿』の処理だが、ハンス、頼めるか?」


「心得ています。すでに数組、こちらの様子を窺っている者がいます」


ハンスが音もなく立ち上がる。


「使えそうな組織の者は残しておけ。それ以外は……任せる」


「承知」


ハンスが闇に溶けるようにテントを去った後、シンは再び深く腰掛けた。


遠くでロンデニールの街の灯りが揺れている。


この「停滞」を打ち破るのが、女王の覚悟か、あるいは俺たちの引き金か。


運命の帳簿は、まだどちらにも傾いていなかった。


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