第9話「壁が消えた夜に」
悲鳴で目が覚めた。
獣の咆哮ではない。人の叫び声だった。屋敷の外から、何重にも重なって押し寄せてくる。
寝台から飛び起き、カーテンを引いた。
夜空が暗い。いつもの暗さではない。光がない。あの金色の膜が一片もない、ただの闇。そしてその闇の底、領地の北の方角に、松明の火がいくつも揺れていた。動いている。走っている。逃げている。
「若様!」
ギルベルトが扉を叩いた。開けると、老執事が白い寝間着の上に執事服の上着だけを羽織って立っていた。顔が蒼い。六十年の奉公で培った冷静さの上に、隠しきれない焦りが載っている。
「北の外縁から魔獣が侵入しております。数は不明。領軍が迎撃に出ましたが、報告によれば群れです」
「群れだと?」
「はい。複数の種が混在した、統制のない群れかと。結界が消えたことで、北の森に溜まっていた魔獣が一斉に流れ込んだものと思われます」
俺は靴を履き、上着を掴んだ。廊下に出ると、使用人たちが右往左往していた。給仕の少女が泣いている。料理番の老人が窓から外を見て動かない。
「領軍は何をしている!」
「迎撃に出ております。しかし、結界なしでの夜間戦闘は――」
「結界がなくても対処できると言っただろう! やれ!」
自分の声が甲高くなっているのが分かった。ギルベルトが一瞬だけ目を伏せたのも。
玄関ホールに下りると、副官が駆け込んできた。鎧の肩当てに血がついている。自分のものか他人のものか、暗くて分からない。
「閣下。北の集落二つが避難を開始しております。魔獣は中型の群れ、少なくとも三十頭以上。領軍で防衛線を張っておりますが、東からも回り込んでくる個体が確認されました」
「東からも?」
「結界がありませんので、全方位から侵入が可能です」
全方位。
その言葉が、腹の底に落ちた。結界があったときは、北の森からの侵入だけを警戒すればよかった。壁があったからだ。四方を覆う壁が。
あの女が張っていた壁が。
「なぜ結界がない! アネリーゼはどうした!」
叫んだ。自分でも何を言っているのか分かっていた。アネリーゼに結界が張れないことは、もう知っている。知っていて、認めていなかっただけだ。
「アネリーゼ様は、お部屋から出てこられません」
副官の声が平坦だった。報告する義務を果たしているだけの声。そこに同情も怒りもなかった。
「閣下。避難命令の発令をお願いいたします」
ギルベルトが傍らに立っていた。いつの間に来たのか。老執事の目が、暗い玄関ホールの中で妙にはっきりとこちらを見ている。
「避難命令は領主の権限です。若様がお出しにならなければ、わたくしが代行いたします」
「勝手にするな! 俺が領主だ!」
「では、お出しください。今すぐに」
ギルベルトの声に、初めて刃があった。
俺は唾を飲み込み、副官に向かって叫んだ。
「……避難命令を出せ。全領民、領都の中央広場に集合。領軍は防衛線を維持しつつ、避難を優先しろ」
副官が敬礼して駆け出した。靴音が石畳に響き、闇の中に消える。
外から、また咆哮が聞こえた。近い。さっきより近い。
夜明け前。
領都の中央広場に、領民たちが集まっていた。毛布を抱えた老人、泣く子供を背負った母親、家畜を引いた農夫。松明の明かりの下で、顔が一様に強張っている。
村長のハンスが、広場の端で腰を下ろしていた。孫を膝に抱いている。俺が近づくと、老人は立ち上がりもせずにこちらを見た。
「ハンス。被害状況は」
「北の二集落の家屋に被害が出ております。死者はまだ出ておりませんが、家畜の損害は甚大です」
声に敬意がなかった。村長が領主に報告するときの声ではない。隣人に事実を伝える声だった。
「結界師様がいなくなってから、こうなることは分かっておりました」
ハンスの目が、松明の炎を映してゆらゆらと揺れている。
「あの光がある間は、わしらは何も心配せずに眠れた。五十年間。あの光の意味を、ここにいる誰もが知っておる」
反論しようとした。だが言葉が出なかった。何を言えばいい。結界は必要なかった、と? 領軍で対処できる、と? 目の前に毛布にくるまった領民が何百人もいるのに?
「あの女を連れ戻す。王宮に訴えてでも、必ず連れ戻す」
声を絞り出した。それしか言えなかった。
ギルベルトが俺の後ろに立っていた。振り返ると、老執事の白い手袋が拳を作っているのが見えた。
「若様」
「何だ」
「あの方を"置物"と呼んだのは、あなたです」
息が詰まった。
ギルベルトの声は静かだった。六十年の奉公の重みが、その静けさに詰まっていた。怒りではない。もっと深い何か。失望とも悲嘆とも違う、諦めに似た響き。
「結界師を"立ってるだけ"と笑い、引継ぎ文書をお読みにならず、核石を"たかが石"とおっしゃった。あの方がお残しになった百二十六頁の手順書を、一頁もご覧にならなかった」
「ギルベルト、今はそんな話を――」
「今だからこそ申し上げます」
老執事の目が、初めてまっすぐに俺を射た。
「あの方を追い出したのではありません。あの方が去る理由を、若様がお作りになったのです」
松明の火が風に揺れた。影が広場の石畳を這う。周囲の領民たちが、こちらを見ていた。聞こえている。全員に聞こえている。
俺は何も言えなかった。
*
王都に報告が届いたのは、翌朝だった。
騎士団の早馬が別邸の前に止まり、伝令がマルタに書状を渡した。封蝋は騎士団の紋章。わたくし宛ではなく、レオンハルト様からの転送だった。
内容は短い。
『エルヴェスト公爵領にて結界完全崩壊。魔獣の群れが侵入し、領民に避難命令が発令された。死者は現時点で確認されていないが、家屋および家畜に甚大な被害。詳細は追って報告する。』
紙を置いた。指先が冷えている。
死者は出ていない。引継ぎ文書の最終章に、結界崩壊時の避難手順を書いておいた。集合場所、避難経路、領軍への連絡体制。ギルベルトがあの文書を読んでいたなら、手順通りに動いてくれたはずだ。
――読んでいてくれたのだ。ギルベルトは。
マルタが茶を持ってきた。手をつけなかった。
「お嬢様」
「大丈夫よ」
「大丈夫ではないお顔です」
マルタの目が、公爵領を去る朝の馬車の中と同じ色をしている。
「……領民の方々が心配なの。わたくしが十年間守ってきた人たちだから」
声が少しだけ揺れた。少しだけ。
午後、騎士団本部に向かった。
レオンハルトの執務室は、いつもと変わらない簡素さだった。けれど机の上の書類が倍に増えていて、壁の地図にいくつもの印が付けられている。赤い印がエルヴェスト公爵領の位置を示していた。
「救援部隊を出す」
レオンハルトは椅子に座ったまま言った。顔を上げ、わたくしを見る。
「あなたが行く必要はない」
「レオンハルト様」
「あなたは王都の結界管理者だ。公爵領の問題は、騎士団と王家が対処する」
正論だった。わたくしはもう公爵家の人間ではない。あの領地の結界を張る義務もない。法的にも、立場的にも、行く必要はない。
「お言葉ですが」
レオンハルトの灰色の目を見た。
「引継ぎ文書を残したのは、わたくしです。避難手順もわたくしが書きました。手順通りに避難が進んでいるか確認させてください。わたくしの文書が正しく機能しているかどうかは、わたくしにしか判断できません」
嘘ではなかった。けれど全部でもなかった。あの領地の人々の顔が浮かんでいた。村長のハンスと、ギルベルトと、給仕の少女と、料理番の老人。十年間、わたくしの光の下で眠っていた人たち。
レオンハルトは長い間こちらを見ていた。何かを探るような目ではなかった。すでに分かっている答えを確認するような目だった。
「……あなたは本当に、守ることをやめられない人だ」
呟くような声だった。非難ではない。諦めでもない。何と呼べばいいのか分からない、静かな声。
「救援部隊に同行することを許可する。ただし、結界の再展開は求めない。現地の確認と、避難の補助のみ。あなたの安全は騎士団が保障する」
「ありがとうございます」
「それと」
レオンハルトが立ち上がった。机の上から一通の書類を取り、わたくしに差し出した。
「宰相閣下が動いた。公爵領の結界崩壊について、王宮査問会を開くことが決定した」
書類を受け取った。宰相の署名と王家の紋章。日付は三日後。
「エルヴェスト公爵家の統治能力に対する査問だ。あなたにも、証人として出席が求められている」
証人。
十年間、結界を張り続けた証人。引継ぎ文書を残した証人。核石を正当に持ち出した証人。
「……出席いたします」
レオンハルトが頷いた。それだけの動作だったが、その中に「一人にはしない」という意味が含まれているように見えた。見えただけかもしれない。けれど、灰色の目がほんの一瞬だけ和らいだのは、見間違いではなかった。
執務室を出て、廊下を歩いた。窓の外に王都の午後の空が広がっている。穏やかな青。どこかで鳥が鳴いている。
この空の遥か向こうで、わたくしが守ってきた場所が壊れている。
核石が胸元で脈打った。温かい。けれどその温かさの奥に、微かに震えるものがあった。母の形見が、何かを感じ取っているのかもしれない。
王宮査問会。
それは、守る人を間違えた者が、最後に立たされる場所だった。




