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守る人を間違えた  作者: 九葉(くずは)


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第8話「あなたの結界の下で」

 結界が、広がっていく。


 王都の北区画に設けられた試験塔の上で、わたくしは核石を掲げた。掌から光が溢れ、薄い膜となって塔を中心に広がる。三層構造。外殻、検知層、治癒層。公爵領で十年間磨いてきた設計に、先日レオンハルト様と議論した魔力脈の中継点を加えた改良版。


 膜が北区画の屋根を越え、街路を覆い、城壁の内側に沿って伸びていく。途中で途切れることなく、均一な厚みを保っている。谷間の問題は、地脈の中継点が解決してくれた。


 試験塔の下で、騎士団の幹部たちが見上げていた。


 結界が安定した瞬間、誰かが小さく息を吐いた。それから沈黙。長い沈黙。


「……成功だ」


 レオンハルトの声が、塔の下から上がった。抑えた声だが、よく通る。


 結界を維持したまま、塔を下りた。階段を降りきると、幹部たちの顔が見えた。口を半分開けたままの者、腕を組んだまま動かない者、隣の同僚と顔を見合わせている者。


「これほどの結界を一人で。しかもこの範囲を」


 副官らしき男性が呟いた。


「公爵領で十年間張っていた結界の縮小版です。範囲は公爵領の方が広い」


「……これが縮小版?」


 別の幹部が隣に向かって何か耳打ちした。聞こえるつもりはなかったのだろうが、塔の壁が声を拾った。


「これほどの結界師が、公爵家で"置物"と呼ばれていたとは」


 夜会での話は、ここまで伝わっているらしい。わたくしは聞こえなかったふりをした。聞こえたところで、今さらどうということもない。


 レオンハルトが幹部たちの方を一度だけ見た。それだけで、囁きが止まった。



 午後、レオンハルトの執務室に呼ばれた。


 机の上に、一通の書状が置かれていた。王家の紋章が押された正式な推薦書の用紙。すでにレオンハルトの署名が入っている。


「王家への推薦書だ。あなたを国家結界師として正式に推挙する」


「国家結界師」


「王都の防衛結界管理者として、王家に直接仕える役職だ。爵位ではないが、王家直属の技術官として身分が保障される」


 羊皮紙の手触りが、指先に伝わる。厚い。公爵家で扱っていた日常の書類とは紙の質が違う。


「今朝の試験展開の結果を添えて提出する。異論が出ることはないだろう」


 レオンハルトの声は、いつもと同じ温度だった。淡々として、余分な感情を載せない。けれどペンを取って最後の一行を書き足す指先に、わずかな力が入っているのが見えた。


「レオンハルト様。なぜ、ここまでしてくださるのですか」


「国防に必要だからだ」


 即答だった。迷いのない声。


「あなたの技術は、一貴族家の婚約条件に縛られるべきものではない。先日もそう言った」


「ええ。覚えております」


「同じことを二度言わせるな」


 不器用な人だ、と思った。けれどその不器用さが、社交辞令のない本音だと伝えてくれる。


 推薦書をそっと机に戻した。指先が少しだけ震えた。



 その日の夕刻、来客があった。


 マルタが応対に出て、険しい顔で戻ってきた。


「お嬢様。エルヴェスト公爵家からの使者が参っております」


 身体のどこかが、かすかに冷えた。


「用件は」


「書状を預かっております」


 封蝋はエルヴェスト家の紋章。見覚えのある蝋の色。開いた。


『結界師リーゼロッテを直ちに公爵領に返還されたし。当人は公爵家の婚約者であり、核石および結界管理の権限は公爵家に帰属する。速やかに対応せよ。――ヴィクトール・フォン・エルヴェスト』


 返還。


 物のように。備品のように。核石と一緒に、結界の付属品として。


 書状を畳んだ。手は震えなかった。この程度の言葉で震える段階は、もう過ぎている。


「マルタ、紙とペンを」


「はい」


 返信を書いた。


『婚約の解消は、ヴィクトール様が夜会の席で事実上宣言されたものと認識しております。わたくしは引継ぎ文書を残し、正当な手続きのもと退去いたしました。核石はクラーレンス伯爵家からの個人相続品であり、エルヴェスト家の資産には該当いたしません。相続証明書の写しを同封いたします。――リーゼロッテ・フォン・クラーレンス』


 相続証明書の写しを添え、封をした。使者に手渡す。使者の顔が強張っていたが、わたくしの知るところではない。


「それと、この件について騎士団総帥にも報告が必要でしょう。レオンハルト様にお伝えください」


 マルタが頷いた。



 翌日、レオンハルトから公式の書状が発行された。


 宛先はエルヴェスト公爵家。騎士団総帥の署名と、騎士団の紋章入り。


 マルタが内容を読み上げてくれた。


「『リーゼロッテ・フォン・クラーレンスは、現在、王都防衛結界の管理者として王家への推薦手続き中である。本件は王家の安全保障に関わるため、一貴族家の私事により配置を変更することは認められない。なお、当人の退去は正当な手続きに基づくものであり、返還要求には法的根拠がないことを確認した。――王国騎士団総帥 レオンハルト・フォン・ヴァイスリッター』」


 マルタが書状を置き、長い息を吐いた。


「お嬢様。騎士団総帥様は、なかなかの方ですね」


「……ええ」


 一貴族家の私事。


 ヴィクトール様の連れ戻し要求を、レオンハルト様はその一語で片付けた。公爵家の命令が、国家の安全保障の前では「私事」になる。法的根拠がない、とも明記してある。逃げ道を、一行ごとに塞いでいる。


 けれどこの書状は、わたくしのために書かれたものではないのだろう。国防のために書かれたものだ。レオンハルト様はそういう人だ。感情ではなく、事実で動く。


 ――それでも。


 「返還要求には法的根拠がない」という一文が、わたくしの背骨をまっすぐにしてくれた。



 その夜、試験塔に行った。


 明日から正式な結界管理の準備に入るため、塔の設備を確認しておきたかった。マルタに断り、一人で夜道を歩いた。王都の夜は明るい。街灯の魔石が等間隔に並び、石畳を淡い光で照らしている。公爵領の暗い夜道とは違う。ここでは、わたくしが光を灯さなくても道が見える。


 試験塔の階段を上った。最上階に出ると、夜風が髪を攫った。冷たい。けれど結界台の夜風とは質が違う。あの風には、いつも魔獣の気配が混じっていた。ここにはただ、石畳と屋根瓦の匂いだけがある。


 手すりにもたれて、王都の夜景を見下ろした。灯りが散らばっている。人の営みの光。わたくしの結界ではない、誰かの暮らしの光。


 足音がした。


 振り返ると、レオンハルトが階段を上がってくるところだった。軍服ではなく、濃紺の上着に革のブーツ。私服のレオンハルト様を見るのは初めてだった。


「夜間の塔は立入制限がある。だが、あなたなら構わない」


「すみません、確認がしたくて」


「謝る必要はない。俺も同じだ」


 レオンハルトが手すりの反対側に立った。二人分の距離を空けて。近すぎず、遠すぎず。この方はいつも、距離の取り方が正確だった。


 しばらく、どちらも話さなかった。夜風が塔の間を吹き抜ける音だけが聞こえる。


「レオンハルト様」


「何だ」


「今日の書状、ありがとうございました」


「礼を言われることではない。法的に当然の回答を書いただけだ」


「ええ。分かっております」


 分かっている。この方は国防のために書いた。わたくし個人のためではない。けれど。


「わたくしの結界を"立ってるだけ"ではないと言ってくださったのは、あなたが初めてです」


 言葉が、思ったよりも真っ直ぐに出た。夜の空気のせいかもしれない。暗さが、少しだけ正直にさせる。


 レオンハルトが振り向いた。灰色の目が、街灯の光を拾って銀色に見えた。


「あの夜会で、あの言葉を聞いたとき……正直、腹が立った」


 レオンハルトの声が、いつもより低い。感情を押さえている声だった。


「三年前に見た結界は、国内のどこよりも精緻だった。あれを一人で張っている術者がいると聞いて、報告書に書いた。赤線を引いた。忘れたことはなかった」


 夜風が止んだ。


「それを、"立ってるだけ"と」


 レオンハルトの手が、手すりを握っていた。指が白い。力が入っている。


「……立っていてくれるだけで、どれほどの命が守られているか。それが分からない人間は、守られる資格がない」


 静かな声だった。怒鳴っているのではない。この方の怒りは、声を下げる方へ向かう。


 わたくしは何も言えなかった。


 言えなかったのは、言葉が見つからなかったからではない。目の奥が、熱くなったからだ。


 十年間、泣かなかった。夜会で「置物」と呼ばれても。核石を「たかが石」と言われても。婚約者の前で愛人を紹介されても。一度も泣かなかった。結界師は立っているものだから。泣いたら、膜が揺れる。


 けれど今夜は、結界を張っていない。


 涙が一筋、頬を伝った。


 慌てて顔を背けた。けれどレオンハルトは何も言わなかった。視線を外してもくれなかった。ただ黙って、わたくしが泣いているのを見ていた。


 泣くな、とも、大丈夫か、とも言わなかった。


 代わりに、自分の上着の袖で手すりの夜露を拭いた。わたくしが手を置いていた場所の、すぐ隣を。手を置いていいぞ、とでも言うように。


 わたくしは手すりに手を戻した。冷えた金属が、拭かれた部分だけ乾いていた。


 その温度が、今夜はとても遠い場所にある温かさのように思えた。



 涙は長くは続かなかった。


 拭って、息を整えて、夜景を見た。もう何も滲んでいない。


「……失礼いたしました」


「謝るな」


「泣いたのは、悲しかったからではありません」


「分かっている」


 短い答え。けれどたった一言が、ほかの誰の長い慰めよりも正確だった。


 塔の上で、二人は黙って夜を見た。風がまた吹き始めた。公爵領の風とは違う、乾いた都会の風。


 核石が胸元で温かい。母の手の温度。そしてもうひとつ、別の温度がある。拭かれた手すりの、夜露のない乾いた場所。


 立っていてくれるだけで、とこの方は言った。


 同じ言葉なのに、こんなにも違う。

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